第三話 旅は道連れ
「遅いのじゃ」
「遅くねえよ」
アレクの文句を切り捨て、俺たちは牛車に乗り込む。
しばらくして、アレクが鎖を引いて暴れ狂牛を走らせ始めた。
次の中継地点に向かって疾駆していく。
イザベルとアレクの間には相変わらず会話がない。
誰も喋らない空間というのは、非常に息が詰まるな。
仕方ない。ここは俺が場をつなごう。
「そういえば、アレク」
「ん、なんじゃ?」
「暇な時でいいから、重点的に水魔法を教えてくれないか?」
「急な話じゃのぉ。何故そこに思い至った?」
「超重量の敵を倒すには、足元から崩すのが有効だろ。下が土なら尚更だ。
だけど俺は、大量の水を降り注がせる水魔法を一つも知らない」
炎鋼車を相手取った時のことを思い出す。
エリックの助けもあって、なんとか地面を泥沼状態に出来たが。
あれは俺一人の力では無理だった。
一人で地形を変えられるくらいの力が欲しい。
前に使ったしょぼい水魔法じゃダメなのだ。
しかし、アレクは俺の言葉を聞いて眉根をひそめた。
「嫌じゃ。汝にはまだ他に優先すべきことがあるじゃろう。
まずは土と風に対する抵抗をつけよ。話はそれからじゃ」
「だから、同時並行で頼むって言ってるんだよ。
エルフだからさ、水魔法も得意中の得意だろ?」
エルフは基本的に、風魔法と水魔法に絶対の才能を有している。
エルフ随一の魔法師であるアレクのことだ。
神に匹敵する程の力を秘めていると睨んでいる。
だが、アレクは俺の言葉に耳を貸さない。
「ふん、我輩は水魔法が嫌いじゃ。何よりも嫌いじゃ。
水魔法以外は教えてやるが、それだけは絶対に教えんからの」
「何でそんな意地悪を言うんだよ」
「どうしても学びたければ、イザベルに教えを請え。
奴は恐らく、現役エルフの中では我輩に次ぐ程の腕じゃぞ」
どうしても俺に水魔法を教えたくないらしい。
ここまで邪険にされるのも珍しい。
背景に何か事情があるのか。
今までは俺に何でも教えてくれていたのに。
火魔法であろうと、土魔法であろうとも。
しかし今、アレクは水魔法の教示を拒否した。
なんだ、なぜそんなことをする。
可能性を考察するが、安易な答えしか出ない。
ん、待てよ。
まさか……水魔法を使えないのか?
いや、それはないな。
邪神と激闘を繰り広げた伝記にも、
アレクが水魔法を使用していた記述がある。
使えないというのはあり得ない。
まあいい、他に頼める人がいるのだ。
イザベルという素晴らしきエルフの少女がな。
そっちに師事を乞うとしよう。
「じゃあイザベル、頼めるか?」
「いいよ。水魔法は使えば使うほどに適性が上がる、素直な属性だからね。
きっとレジスも、すぐに実戦で使えるくらいの腕にはなるよ」
「そりゃありがたい」
水魔法は残念ながら、土砂降りの雨を数秒降らせることしか出来ないんだ。
地面を歩行不可能にするくらい、地形変動させてみたい。
アレクの研究所を、床上浸水させることが可能なくらいの魔法がいいな。
そんなことをしたら、浸水した水が俺の血で赤く染まりそうだけど。
「じゃあ、次の中継地点に着いたら早速開始するね」
「ああ、頼む」
よし、これで更に戦略の幅が広がるな。
火魔法と雷魔法に加えて、水魔法も使えるとなれば心強い。
ジャンケン勝負というわけではないが、魔法にも相性が存在する。
多くの属性魔法を使えると、それだけで有利になるのだ。
静かに有用性を脳内で論じておく。
しかしその時――正面のイザベルの様子がおかしくなった。
何だか、少しソワソワしているような様子だ。
頬を赤らめて、急に辺りを見渡し始めた。
「どうした? イザベル」
「い、いや……? なんでもないよ。あはは……」
いや、明らかに大丈夫じゃないだろう。
身体をもじもじさせて何かに耐えている。
明言するのは憚られるが、明らかにアレに耐えているようにしか見えん。
それを察したアレクは、意地悪げに嘲笑した。
「ククク、どうしたエルフの姫様よ。
言っておくが、途中で止まることはできんからの。
まさか、尿意を催したとは言わんじゃろうな?」
「……う、うぅう」
言い返す気力もないのか、イザベルは身体をよじらせている。
おかしいな。先ほど十分に時間があったというのに。
用を足してしていないというのは不自然だ。
それも、まだ出発したばかりだぞ。
暴れ狂牛は途中でストップできないと予め説明があったのだし。
十分かつ十全に注意していたはずだ。
「やーれやれ。レジスの前で失態を犯すことになるのかの。
楽しそうじゃから、我輩はここで眺めておいてやろう」
「お、おかしい……よ。さっき、ちゃんと行ったはずだもん」
みるみるイザベルの顔色が悪くなる。
いつもの屹然とした口調が、今はとても弱よわしい。
しかし、アレクは冷めた目で見るだけだ。
「水の飲み過ぎじゃろう。我慢の利かぬ若造はこれじゃから……」
「ちゃんとその辺りの調節もしていたはずだよ! あ、ぅう……」
とっさに言い返そうとしているが、やっぱり苦しそうだ。
涙目になって、何か手立てはないか辺りを探っている。
ここは、俺が目を瞑っておくのが、一番彼女のダメージが少ないのではないだろうか。
そうとなれば即実行。
瞼を下ろして視界を塞ぐ。
その上で、耳に指を突っ込んで木枠に寄りかかっておいた。
これで俺を意識することはあるまい。
今の俺は牛車と同化した、ただの窓枠に過ぎん。
瞼を開けたくなるような邪心が湧いてくるが、なんとかねじ伏せる。
悪の心に負けるな。
目を開くんじゃない。
悟りを開くのだ。
……心頭滅却、色即是空、欣求浄土、厭離穢土。
……羞月閉花、純真可憐、被虐性癖、尿意不耐。
……開眼願望、開眼実行、涙目少女、羞恥最高、再度閉眼――
いかん。俺の脳内は腐っているようだ。
しかもいつの間にか目を開いてしまっていた。
すると自然、イザベルと目が合ってしまう。
震える彼女の目には、涙が溜まっていた。
失敗した。傷心させてしまってはいかんだろう。
確固たる信念で視界を封じる必要があるな。
そう思って気合を入れ直した途端――俺の身体に異変が現れた。
下腹部の辺りに違和感が走る。
内側から、じわじわと衝動がこみ上げてくる感覚。
これは……まずい。
間違いない、尿意だ。
しかも、今までに類を見ないほど強烈。
思わず体が跳ねてしまう。
「……ぐ、ぉ、あ」
あかん、これはあかんやつや……。
関西人でもないのにエセ関西弁が出てくる時点で、相当な焦りが自認できる。
俺の豹変を見て、アレクが鬱陶しそうな表情で聞いてきた。
「まさか、汝もか?」
「ちょ、ちょっと今話しかけるな。今の俺はまさに爆弾。
丁寧に扱わないと、たちどころに破裂して――」
「ここでされると迷惑じゃ。我輩から離れよ」
アレクが俺と距離をとるために、素足で軽く蹴ってくる。
その弾みで、決壊までの時間が更に早まってしまう。
俺は般若の如き面持ちでアレクを叱責した。
「人の話を聞いてたかお前は!」
「聞いとる聞いとる。しかし、二人同時に尿意を催すとなると……。
これは他の可能性を疑わねばならなんぞ。例えば、毒とか」
「ど、毒……?」
俺は朦朧とした意識状態で聞き返した。
そんな怪しげなものは摂取してないぞ。
アレクは少し逡巡した後、イザベルの身体を無造作に触り始めた。
額に手を当てたりしている。
「……な、何をしているのかな」
「黙っておれ。少し心当たりがあるのでな」
イザベルの抵抗を無視して、ベタベタと触りまくっていた。
しばらくして、アレクは一つ頷く。
「もしや、群生しておるキノコを食したか?」
「ああ。でも、イザベルが安心って言ってた物だぞ。ほら、そこに一つ持ってきてる」
俺は牛車の端に置いてあるキノコを指さした。
焼いて食ったら予想以上に美味かったので、アレクにも喰わせてやろうと持って帰ったのだ。
彼女はキノコの全容を見渡し、匂いを嗅ぐ。
そして、イザベルに叱責するような視線を向けた。
「イザベルよ。これはエルフの峡谷付近に生えた食用キノコ――に酷似した毒持ちキノコじゃ。
名を『アルギゴスダケ』と言う」
「……なっ!?」
「カサの開きが少ないのが特徴じゃな。
食べれば時間差で発汗・興奮作用・激しい尿意を促進する」
恐ろしい症状を羅列してくる。
そんな危険なキノコが、どうしてその辺にホイホイ生えてるんだ。
イザベルが安全だと言っていたキノコの名前が、ゴルギアスダケ。
そして、実際に俺たちが食べたキノコの名前が、アルギゴスダケ。
名前が似過ぎてて笑えてくる。
いや、全然シャレにならないんだけど。
それを最初に発見した学者を呼んでこい。タコ殴りにしてやる。
見た目も似てるのに、名前まで似せてどうするんだよ。
「まあ、これらは副作用じゃな。
本来アルギゴスダケは、強力な治癒効果を持っておる。
傷を一発で塞ぎ、失った血液を回復させるという。
副作用が強烈じゃから、どうしても欠点に目が移ってしまいがちじゃな」
アレク大先生の素晴らしい解説だな。
どこにも救いがなくて泣けてくる。
「げ、解毒は出来ないのか?」
俺は幽鬼のようにアレクへ詰め寄った。
このままだと間に合わん。
俺の問いかけに、アレクは胸を張って返してきた。
「一本持ち帰ったのは幸運じゃったの。
これから成分を抽出して、解毒剤を作ってやるのじゃ」
「ど、どれくらい掛かりそうだ?」
「まあ、軽く1時間くらい?」
「間に合わんわぁあああああああああああ!」
思い切り叫び散らした。もう我慢ならん。
アレクの冗談も尿意も我慢ならん。
怒声を飛ばしたせいで、決壊が更に近くなる。
イザベルに至っては、最小限の動きを保ってギリギリ耐えている状態だ。
俺はあまり尿意への耐性はない。
下手をすれば、俺の方が先に限界を迎えるかもしれん。
「冗談じゃ。可能な限り迅速に調合してやろう。
静かにその辺で固まっておるのじゃ」
アレクの指示を受けて、俺は牛車の角にもたれかかった。
心を無にして耐えるしかない。
しかし、時折聞こえてくるアレクの声が、的確に絶望を届けてくれる。
「……む、おかしいの。
調合比は確か……1と3?
いや、5と1じゃったかの。
比を1でも間違えると毒ガスが発生したような気がするのじゃが……」
恐ろしいことを口走っている。
こっちは尿意で既に死にかけているというのに。
こんな欠陥極まりない移動方法を提案しやがって。
途中で止まれないなんて、安全面から考えてもダメだろうが。
「……むむむ、おかしいの。
上手くいかん。もう一回最初からじゃ」
「むむむ、じゃねぇえええええええええ!」
ダメだ、もうダメだ。
イザベルはまだ余裕があるみたいだが、俺はもう限界だ。
よく考えたら、俺キノコをイザベルの倍食ってたよな。
そりゃあ膀胱が悲鳴を上げるのも、俺の方が速いに決まってる。
当然の結果だよ。
俺は半狂乱で立ち上がると、アレクを押しのけて窓に駆け寄った。
もはや幾ばくの猶予もない。
「……く、ふぉああ、あかん。ほんまにあかん……」
来てる、今俺の膀胱にビッグウェーブが来てる。
この波に乗ったら俺の人生が終了してしまう。
エセ関西弁を発揮しつつ、窓を開けようと試みた。
だが――
「あかん、あかん……窓もあかん。あれ、これマジで?」
くだらない洒落を発揮してしまうだけだった。
結果から言って、はめ込み式の窓だった。
既にベルトを半分外してる状態なんだけど。
どうすんのこれ。
とっさに左右を確認。
すると、左の窓だけ規格が違うように見えた。
駆け寄って思い切り横にスライドさせる。
すると、音を立てて窓が開いた。
ここに限り、はめ込み式ではなかったようだ。
狭い牛車内で、何とかベルトを引き抜いていく。
そして、いざ外に半身を尽き出さんと――
した時、アレクが俺を羽交い絞めにしてきた。
とっさの固め技に、バランスを崩してしまう。
「こら、アレク! 何をしやがる!」
「我輩の牛車から何を投棄しようとしておるのじゃ!
変態の乗り物じゃと思われてしまうじゃろうがッ!」
「安心しろ! お前が誰にも勝る変態だから、風評被害はない!
ええい。離せ、離さんか!」
ベルトが半分抜けかけた状態で揺れている。
いかん、早く下着を下ろさねば。大変なことになってしまう。
ズボンを下ろそうとするが、その手をアレクに掴まれてしまう。
「阿呆! 神聖な我輩の領域で、そんな汚いモノを露出するでない!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!
そんなこと言ってたら八方ふさがりだろうが!
……くっ、もう駄目だ、本当に死ぬ。死んでまう。
し、し、死なばもろともぉおおおおおお!」
必死でアレクを振りほどきにかかる。
だが、力任せに引き剥がせない。
おのれ、そこまでして俺に恥をかかせたいか。
「とりあえず端で大人しくしておれ!
あと二段階くらいで調合は完了する!」
「俺の尿意はもう一段階の所まで来てんだよ!
お前の調合完了より俺の限界の方が100%速いッ!」
膀胱が堰を切って崩れ落ちようとしている。
だが、アレクは俺が服を脱ぐのを許してくれない。
「早く離せ! それかアレだ、尿瓶だ! 尿瓶を持って来い!」
「そんなものがあるか! 我輩の空間に不浄なものは置いておらぬ!」
大魔法師を名乗るなら、尿瓶の一つくらい持っておけよ。
こいつまさか、俺に失禁させようとしているのではあるまいな。
もしそうだとしても、俺は絶対に屈さんぞ。
尿意なんかに負けたりしない!
俺が敗北感漂う決意をした瞬間――
「あれ、成功した……かな?」
「え?」
「は?」
「いや、多分だけど。これ、解毒剤」
後ろの方から涼しげな声が聞こえて来た。
振り向いてみれば、イザベルが平常な表情でフラスコを振っていた。
すでに服用を終えたみたいで、晴れがましい顔をしている。
「薬剤を溶かしこんで、混ぜるだけでよかったんだね」
「な、何じゃと……我輩が迷いに迷った調合比率の壁を……」
「普通に混ぜたら成功したけどね」
「ふ、ふん。幸運な奴じゃの。我輩の手柄をかっさらいおって」
そう言って、アレクは俺の拘束を解いた。
すぐさま俺はイザベルから薬をもらって飲む。
すると、効果は抜群。すぐに強烈な尿意が収まった。
「危ない所だったね……」
「ああ、ギリギリで間に合った」
俺とアレクが仁義無き戦いをしている最中。
イザベルが最後の仕上げ部分を完遂してくれたらしい。
さすがイザベル大僧正。
しかし、アレクだけは不機嫌そうだ。彼女はため息をついている。
「まったく。汝らがアルギゴスダケなぞ食べなければ、
こんな事にはならなかったのじゃ」
「……それとこれとは話が別だろ。覚えとけよアレク。
もしお前が尿意を催したら、同じ事をしてやるからな」
一応アレクに釘を刺しておく。
ちなみにアルギゴスダケはまだ少し余っている。
今度またアレクが何かしでかした時に、罰として喰わせてやろうと思う。
交代制で眠りつつ、俺はイザベルと水魔法の修練に励んだ。
本格的な水魔法の修行となったわけであるが――
初日は見事に魔法が暴走して、辺りを水浸しにしただけだった。
イザベル師匠の服が透けていて非常に楽しかったことは、まあ伏せておこう。
理由は単純明快。
後からイザベルに涙目で見られ、
アレクからは白い目を向けられたことについても、
言及しないといけなくなるからな。
なにこれ死にたい。
気まずい雰囲気の中で、俺は眠りの世界に逃げたのだった。
◆◆◆
揺られ揺られし牛車の旅。
キノコ利尿事件から3日が過ぎた。
既に王国の東の果てに来ている。
そして今、うっすらとケプト霊峰が見えてきた。
荘厳な雰囲気が満ち溢れている。
頂上は霧に覆い隠されていて、全容を拝むことが出来ない。
目的地へ到着したので、暴れ狂牛が少しづつ速度を落とし始めた。
振動が徐々に収まるのを感じて、俺は一つ息を吐く。
「……ふぅ、やっと着いたか」
「歩いておったら、更に何倍も掛かっておったのじゃぞ」
「それを思うと、確かに早かったよね」
首の関節を鳴らしつつ、俺たちは牛車から降りた。
長いこと同じ姿勢を保っていると、怠くなるのが面倒だな。
「さて、レジスよ。我輩とイザベルから離れるでないぞ」
「ああ、分かってる」
霊峰は人間が乗り越えることが不可能な秘境だ。
エルフの先導がなかったら、間違いなく迷ってお陀仏になる。
魔物のエサにはなりたくないので、しっかりついていくとしよう。
どこにも整備された道がないので、足元が怖すぎる。
獣道みたいな場所を、俺達は進んでいた。
イザベルが先導し、後ろからはアレクが付いてきている。
アレクは歩くのが億劫なのか、浮遊魔法を使用していた。
おのれ、安易に魔力に頼りやがって。
俺は自力で大岩を登り、クライミングもかくやという壁を乗り越えた。
すると、切り立った崖に突き当たる。
「えっと……こっちかな。
驚くかもしれないけど、ちゃんと道はあるから。
私の歩く軌道に沿って追ってきてね」
「了解。……って、そんな所を進むのかよ」
なんと、イザベルは何もないように見える場所に足を踏み入れた。
俺の目からだと、彼女が宙に浮いているようにみえる。
なるほど、エルフの障壁で本当の道を隠してるってことか。
「ふむ、狭い吊り橋じゃの。
ここに道があると知っていても、簡単に落ちる作りになっておる」
「……悪い、アレク。どこに脚を出せばいいか教えてくれ」
足が震えて一歩も踏み出せそうにない。
吊り橋があるって……俺の目には断崖絶壁しか映ってないんだぞ。
まさにお前の胸のような状態なんだぞ。
とか言ったら締められるので黙っておこう。
「何を見ておったのじゃ。イザベルの足跡を追えばいいだけじゃろ」
「そ、そうはいってもだな……」
「はぁ……まどろっこしいのぉ。これでいいじゃろ」
そう言うと、アレクは俺に足払いをかけてくる。
崖付近でバランスを崩して、俺は絶叫しかけた。
このままだと、落ちる――!
一瞬目の前が真っ暗になったが、すぐに俺の重力が空中で釣り合った。
どうやら、アレクに抱えられているらしい。
「どわぁあああああ、やめろ! 何をする、俺を落とす気か!?」
「汝がいつになっても進まぬからじゃ。
このままだと日が暮れてしまう。運搬するのが一番早いのじゃ」
そう言って、アレクは俺を抱えたまま跳躍した。
華麗な回転を加えた空中での動き。
一気に断崖を飛び越え、向こう岸へと着地する。
浮遊魔法と併用することで、とんでもない大ジャンプになったらしい。
アレクは俺を立たせると、何事もなかったかのように足を進めた。
「我輩とイザベルだけじゃったら、峡谷まですぐじゃというのに。
まったく、手のかかる奴じゃのぉ」
そう言う割に、口元が緩んでいるんだが。気のせいか。
俺を心理的に不安定にさせておいて、何だその上機嫌は。
俺が汗を拭っていると、イザベルが心配そうな顔で見つめてきた。
「大丈夫? レジス。辛いなら少し休むけど……」
「いや、必要ない。すまん、俺が足手まといになってるな」
「そんなことないよ。レジスが怯えてる姿も、それはそれで……」
それはそれで、なんだと言うんだ。
最後の言葉を濁している辺りが最高に恐ろしい。
いかん、ここはエルフのホームグラウンドだったな。
生殺与奪はアレクとイザベルに握られているわけだ。
恐ろしくて仕方がない。
「行くぞ、もう少しなんだろ」
「うん。昼ごろまでには着くと思うよ」
ならば安心。
少しづつ山道に慣れてきて、遅れを取ることも少なくなっていく。
相変わらず命の危険がある難所は、
後詰のアレクに手を貸してもらうことになったけども。
それにしても、本当にエルフの障壁が多いな。
親愛の体液がなかったら、間違いなく死んでいる。
偶然でも必然でも、エルフ以外が峡谷にたどり着くのは不可能というわけか。
納得しつつ、二人に従って追随していった。
すると、唐突にイザベルが右手で進路を遮った。
その上で、アレクと俺に後退するようジェスチャーしてくる。
(……どうした?)
(大きな声を出さないでね。……アレクサンディア、これは――)
(うむ、汝の予想で間違いない。相手にするのも面倒くさい。
しばらくここで待機じゃ。通り過ぎるのを待つぞ)
ヒソヒソと、二人は密談をしながら何かを警戒している。
良くないものでも接近しているのだろうか。
そう思った時、頭上からとてつもない轟音が聞こえてきた。
「――ガァアアアアアアアア、リィィィアアアアアアアアアアア!」
その咆哮は鼓膜にビリビリと響き、周囲の木々をざわめかせる。
間違いない。大陸でかなりの勢力圏を持つ『竜』だ。
前にラジアス家の炎鋼車訓練で見たことがある。
しかし、あの時の竜は調教されていた。
それに、爪や牙も折られ、翼の筋も断たれていたのだ。
言うなれば、竜としての強さを完全に奪われた状態。
しかし、今飛来しているアレは違う。
炎鋼車にやられた個体と比較すると、二回りほど大きい。
鋭利な鱗と荘厳な両翼が、見る者に威圧感を与える。
思わず見とれてしまう存在感。
意識して沈黙すると言うよりも、呆けていて反応できなかった。
しばらくして、竜が何処かへ飛び去っていく。
それを見て、イザベルが安堵の溜息を吐いた。
「……ふぅ、なぜ霊峰に竜が?」
「分からぬ。こんな場所まで来るなど、聞いたこともないのじゃ。
巣がある場所はドワーフ鉱山じゃろうに」
「確かに、ここは竜の生息には適してなさそうだ」
障壁だらけの森なので、獲物を狩るのにも苦労することだろう。
とにかく旅人殺しな入り組み方をしてるし。
ガイドがいないと命を落としかねない。
そう思うと俺は幸せものだ。
本当にこいつらがいてくれてよかった。
だがアレク、お前にお姫様抱っこをされた恥辱は忘れんからな。
け、決して悔しいわけではない。ないのだ。
内心で必死に否定しつつ、二人の背を追ったのだった。




