第十三話 反乱の幕開け
――王都・ラジアス家本拠
前世時刻にすると、早朝の5:40
クロードはカップを叩き割った。
肩を震わせながら、次に椅子を蹴飛ばす。
端から見れば、異常にしか見えないその行動。
しかし、彼の心情を察すれば、仕方なく感じてしまう。
従者から入った一報によって、クロードは目の前が真っ暗になった。
「……あの、人格破綻者めが」
憤怒で心が燃え上がる。
普段なら抱きもしない憎悪を、今クロードは息子に対して向けていた。
別に、計画が破綻したわけではない。
一回の失敗で崩れるような策など練っていないのだ。
だが、あまりにも余計なことを息子がしてくれた。
野望の決行を翌日に控えた今朝。
何故か早めに起きてしまい、身体が妙に汗ばんでいた。
正直、嫌な予感はしていたのだ。
これは今日、不穏なことが起きてしまうのではないかと。
そしてその懸念は、嫌な形で現実になってしまった。
「……いつもいつも、私の邪魔をしてくれる」
砕けたカップを更に殴りつけた。
そうでもしないと、どうにも怒りが収まらない。
クロードが怒気を発していると、廊下から足音が聞こえてきた。
軽快で、まるでステップのような音響。
つくづく癪に障る。
人の気配が扉の前で感じられた時、外から声が聞こえてきた。
「父上、お呼びでしょうか」
声の主を、聞き間違えるはずがない。
ジークだ。しれっと、まるで何でもない普段通りであるかのように。
息子はクロードの部屋を訪ねてきた。
自分が何をしでかしたか、分かっていないのか。
舌打ちをして、クロードは声を荒げた。
「入って来い!」
父の怒声を受けて、ジークは静かに入ってくる。
その表情は、絵に描いたような無表情。
今から朝食を摂ります、とでも言い出しそうな平穏さだ。
その無神経な所が、なおさらクロードの逆鱗に触れる。
「お前、なぜあんなことをした?」
「あんなこと、と聞かれましても」
「ふざけるなッ!」
クロードが拳を繰り出した。
それはジークの頬に直撃する。
思わず倒れこむジークを見下ろし、クロードは吐き捨てた。
「本当に、お前さえいなければと心から思ったよ」
「心外ですね。僕が何かしたでしょうか」
「なぜ……なぜ予定を繰り上げて炎鋼車を帰還させた!」
そう、クロードが怒っているのはその点である。
王国と帝国の国境地帯。
そこには領土を分断するように、激流の大河が流れている。
そして、帝都から王都に最も攻めこみやすい位置に、昔に建造された大きな橋がある。
停戦協定があった時は、その付近にも大きな街があった。
しかし、次第に帝国の攻撃が熾烈になっていく。
いつからか、その辺りは大橋を境にして空白地帯になってしまった。
通称、『境界線上の大橋』である。
今回、50輌もの炎鋼車を大橋に向かわせた。
そして、王国の見張りの目を欺いたことも確認済み。
手はずは整い、あとは王家からの命令に従って――
つまりは『予定通り』に帰還すれば、万全の体勢で挑めたのだ。
そして、決行は明日の早朝の予定だった。
しかし、炎鋼車が帰還したのは何故か昨日。
しかも、クロードの知らない所で、妙な動きが追加されていた。
それは、今日の朝から凱旋パレードをするという謎の予定。
正直、馬鹿かとクロードは思った。
なんという愚策。
なんという自殺行為。
今まで積み上げてきたものを、崩すような行いである。
勝手な指令が混入したことにより、一気に状況が苦しくなってしまった。
そして、聞く所によれば、それらを指示したのはジークだという話だ。
一応、妙な動きをしないように見張りをつけていたはず。
だが、さっき起きた時点で、何故か見張りに連絡がつかなかった。
明らかに、ジークが何かを企んでいる。
己の一世一代の賭けに便乗して、何かとんでもないことをしでかそうとしている。
あまりにも愚かな行為だ。
クロードは冷たく息子を見据えた。
だが、ジークはそれを意に介さない。
まるで何事もなかったかのように立ち上がった。
「昨日の内に帰らせておかないと、できそうになかったのですよ」
「……何がだ?」
「凱旋パレードですよ。本日は父上の生誕日でしょう。
この積み上げてきた炎鋼車で持って、王都でラジアス家の威光を示すのです」
「冗談はやめろ。ジーク、一体何を企んでいる」
「おや、冗談ではないですよ。
このラジアス家の子息として、父上の生誕を祝うのが企みに入るのですか?」
「お前――まさか、正気で言ってるのか」
「もちろん。僕はいつも正気ですよ?」
悪魔のように微笑むジーク。
狂っている。
言い訳のしようがなく、狂ってしまっている。
クロードは思わず、息を喉でつまらせた。
自分が一番血気盛んだった時でも、ここまでの動きはしなかった。
当然だ。
昔からクロードは利のために動き、害あるために他を排除してきた。
こんな、こんなふざけた理由で予定を狂わせることなど、一回もなかったのだ。
ジークは、一体このラジアス家をなんだと思っているのか。
下手を打てば、今回で一族もろとも処刑される恐れがある。
だというのに、そんな軽率な行動をとってしまった。
それを認識するだけで、ふつふつと怒りが湧いてくる。
「なぜ私に許可を取らなかった」
「生誕祭は本人に内緒で企画するものです」
「……無駄口は叩くな」
今度は、ジークに向かって蹴りを打ち込んだ。
あまり運動神経はいい方ではないが、昔の勘は鈍っていない。
ジークは腹に足の一撃を受ける。
だが、それでも痛そうな素振りすら見せない。
クロードの頬に汗が伝う。
ジークは恐らく、本気で言っているのだ。
刹那的な人間だとは知っていたが。
まさか、これ程までに常軌を逸しているとは。
手綱を取りきれなかったのは、己の失態。
クロードは内心で恥じた。
「私のしようとしていることを、知った上でやったのか?」
「さて。僕は機を見るに敏ではないですからね。
ただ父上が帝国の動きに呼応して、
王国を乗っ取るつもりであったことくらいは知っていましたが」
やはり、見抜いていたか。
クロードは唾を飲み込んだ。
基本的に、ジークは頭が悪いわけではない。
むしろ、ずば抜けていい方に入るだろう。
だが、理知的な思考を完全に打ち消してしまう性質を秘めている。
狂気だ。
狂気以外に、言い様がない。
そのせいで、クロードは今苦境に立たされているのだ。
「お前が一日帰還を早めたせいで、一体どれだけの損失が出ると思っている」
「損失……ですか。さて、僕にはわかりませんね」
「戯言を。炎鋼車に付いている王家の見張りは厳しい。
何とか国境付近では魔法師を動員して誤魔化せたが、この王都では派手に動けん。
その上、見張りも帰りを一日早めたことで警戒を強めただろう」
「ふむ。それが父上にとって都合が悪い、と」
「ここまで言っても、お前は反省の色すら見せないのだな」
今まで募り募ってきた苛立ちが、爆発しそうになる。
綿密に計画を練り、周囲に漏れないように慎重を期してきた。
それを、完膚なきまでに壊そうとするジーク。
このラジアス家にとって、害悪にしかなり得ない存在。
今までそういう輩には、どのような処遇を与えてきたか。
クロードはゆっくりとつぶやいた。
諦めたように、ジークを見据える。
「お前を廃嫡することにする。絶縁だ。
跡継ぎは我が一族で直系に近いものから選ぶ」
「おや、そうですか」
「いい加減、愛想が尽きた。
たった今をもって、貴様はラジアス家の者ではない。
ただの――狂人だッ!」
「……狂、人?」
ピクリ、とジークが反応した。
今父親が何を言ったのか。
それを反芻するようにして声に出す。
そして、顔に影を作り、喉から哄笑を漏らした。
「はは、はははッ、ハハハハハハハハハハハハハハハ!
い、今さら。今さらそれを口に出されますか」
「……確かに、今さら過ぎたかも知れんな。だが、その気色の悪い笑いをやめろ」
「くく、ハハハハハ! やめろ? どうされました父上。
絶縁したのではなかったのですか。
他人に命令するなら、それ相応の態度というものがあるでしょう」
「……もういい。もはや貴様を息子とは思わん」
クロードは静かに息を吐いた。
積み上げてきた思惑が、傾きかけている。
何を考えているか不明な、狂った愚か者のせいで。
だが、この程度で策は揺るがない。
一日早めてしまったのなら、繰り上げて実行するまで。
『あの仕掛け』は、炎鋼車の特性によって隠蔽されている。
ならば、まだ王国の人間にバレてはいないはずだ。
凱旋が終わった後、見張りが消えた所で一斉蜂起だ。
警戒を解くためにも、操縦者の人数を戦闘ができないほどに減らしておく必要がある。
そうとなれば、早く通達しなければならない。
そう思ったクロードは、急いで階下の執務室へ向かおうとした。
だが、なぜかジークが立ちふさがった。
扉の前に立ち、ニヤニヤと笑みを浮かべて指を振る。
「どけ。小僧」
「断ります。他人の言うことを聞く義理はありませんね」
「ならば絶縁は取り消しだ。そこをどけ――ジーク」
「断ります。今よりラジアス家の当主はこの僕。
ジーク・ハルバレス・ラジアスです」
ふざけたことを口走る。
その瞬間、ついにクロードの怒りが臨界点に達した。
普段は声を荒げることも少ないというのに。
この少年を見ていると、無性に不愉快になる。
若かりし時の、暴れていたクロード。
それに、今は亡き妻の、危うい狂気が入り混じった実子。
その姿は、いつもクロードの気分を害した。
少し前に、ジークが言った言葉が脳裏をよぎる。
――『僕は貴方に限りなく近づいていっている。同族嫌悪とでも申しましょうか』
ああ、認めよう。
クロードは無言で頷いた。
確かに、未熟な自分をまざまざと見せられる気がして、ジークの本質を嫌っていた。
しかしそれでも耐えられたのは、妻の面影があったからだ。
もう顔を見ることができなくなってしまった愛妻。
ジークが彼女の面影を残していたからこそ、今まで我慢できた。
だが。
もはや、それすらも憤怒を引き止めてくれない。
害をなす者は、ただ駆逐するのみ。
今までの心情通り、クロードは淡々と信念を貫く。
彼は片手をすっと上げ、窓の方向に声をかけた。
「出番だ。ジークを捕らえて、地下牢に叩きこんでおけ。
抵抗するなら――殺せ」
今回の野望で、クロードは頂点に上り詰める。
だが、そのためには帝国の力を借りねばならない。
ゆえに、たとえ一人でいる時でも、帝国への信奉を見せてきた。
帝国がクロードに監視をつけているからだ。
騙し合いの中で生きてきたクロードを、向こうは完全に信用していない。
そのため、いつでも抹殺できるように刺客が張り付いている。
クロードもそれを了承し、帝国への忠義を示した。
言うなれば、この一件はクロードと帝国幹部の共同戦線。
クロードにとっての邪魔者は、帝国にとっての邪魔者。
だから、刺客は味方をしてくれるはずだ。
現に、帝国側から『身が危うくなれば、刺客を使え』と指示が出ている。
ゆえに、こうして敵を拘束しろといえば、すぐに動いてくれるはず。
クロードはそう思っていた。
だが突如、彼の腹部に強烈な一撃が見舞われた。
ミシミシ、と骨がひしゃげる音がする。
間違いない。蹴られたのだ。
「……ぐおッ」
今まで受けたことがないような衝撃。
本棚に身体がぶつかり、書物がパラパラと落ちる。
舞い散る紙片の隙間から、一人の『狂気』が透けて見えた。
ジークだ。
彼は今までに見たことがないような、凄絶な笑みを浮べている。
瞳孔は完全に開き、興奮して口元がつり上がっていた。
まずい、あれは、今まで見てきた人間とは違う。
本能で危機を察したクロードは、大声を上げて助けを求めた。
「何をしている! 早く、早くジークを止めろ!」
だが、その声虚しく、クロードはさらに蹴飛ばされる。
意識が一気に遠のき、口から血が漏れた。
――なぜだ、なぜだなぜだなぜだッ!
クロードは助けにこない刺客に苛立ちをぶつけた。
なぜこのジークを止めない。
自分がいなければ、この計画は成り立たないというのに。
懐にある『天嘆笛』を吹いて作戦の決行を指示するのは、このクロードだというのに。
ジークはクロードを踏みつけながら、狂った笑いを上げた。
「ハハハハハハハッ! 楽しいですよ父上ッ!
その理不尽に怯える顔! 僕に殺されるかもしれないという恐怖!
『なぜ助けに来てくれない』。そう思っているのが丸わかりですよ!
ねえ、なにか返事をしてください、よッ――!」
その言葉とともに、さらなる打擲が加わる。
込み上がってくる血が、穴という穴から吹き出す。
もう反撃が出来ない所まで、消耗してしまった。
それを見たジークは、狂気の笑みを浮かべながら蹴りを追加する。
だが、ピクリとも動かなくなった父を見て、蹴る足を止めた。
「可哀想な父上に教えてあげましょう。なぜ味方が来てくれないのか。
そもそもそれ以前に、なぜ僕につけていた見張りが戻ってこないのか。
父上、それを疑問に思わなかったのですか?」
それは、クロードも気になっていた。
だが、一昨日の時点ではまだ連絡が取れていたのだ。
昨日は私兵の調整で外に出ていて、見張りに接触することがなかった。
だが、今思えば確かにおかしい。
なぜジークが勝手に一日帰還を早めたことを、報告しに来なかったのか。
なぜ凱旋パレードなどという狂った行動を、見張りは伝えてくれなかったのか。
そこまで思い至った瞬間、ジークは目を細めて頷いた。
「――見張りなら、殺しましたよ」
「……ッ!」
やはり。
クロードは歯を軋ませて、己の不覚を嘆いた。
この少年の危うさを、見誤っていたのだ。
見張りを付けるだけでは足りなかった。
今になって、浅慮の自分が腹立たしくなる。
「僕を警戒するなら、戦闘向きの魔法師を付けるべきでしたね。
もっとも、学院卒業程度の者に、この僕が負けるはずもないですが」
そう言って、ジークはゆっくりとしゃがみこんだ。
その上で、クロードの髪を掴み、顔を上げさせた。
虚ろになりつつある父の瞳を覗きこみ、さらなるとどめを刺す。
「あと、父上に付いていた妙な見張りは、僕が排除しておきましたよ。
感謝してください。
ここ最近、父上は見張りを恐れるあまり、自室でも張り詰めていましたから。
僕がその呪縛から、解放してあげたのです」
「……ぁ、あ」
クロードの奥の手が、完全に封じられた。
帝国の刺客は、かなりの手練れだったはずだ。
それこそ、王都本軍の兵隊長クラスの力は持っていたはず。
その刺客を、ジークは打倒してしまったのか。
己の息子の力に、クロードは身震いする。
「心配しないでください。私とて貴族の端くれ。
このラジアス家を繁栄させようと思っております」
「……ならば。なぜッ――」
「父上のやり方は楽しくないのです。
上を目指すためには、周りを踏みつける必要がある。
私なら、もっと周辺の虫を踏み潰すやり方ができます」
「……貴様は。正真正銘の、狂人だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
うやうやしく、ジークは一礼する。
その姿を見て、クロードは諦観した。
この少年は、最初から手段と目的が入れ替わってしまっている。
上へ行くために、周りを踏み台にする。
これがクロードの目指す道だ。
だが、ジークは違う。
彼は、周りを踏み台にするために、上へ行こうとしているのだ。
何という破綻。
何という歪み。
もはや、目の前に居る少年が、己の息子だとは思えなくなった。
ジークは一つ息を吐くと、街の方を見てつぶやいた。
「父上は王国の兵を不用意に傷つけるのを恐れて、
一日帰還を早めたことに怒ったのでしょう。
本来ならば奇襲で王宮を襲い、無血に近い状態で簒奪を狙っていました。
そうですね?」
「……ああ。私が頂点に立った後、尖兵として使うつもりだったからな」
「――甘いですね。いや、実に甘い」
「……なんだと?」
ジークが一刀両断すると、クロードは目を見開いた。
もう視力があまり残っていない。
話すことすら苦しい状態に陥っている。
そんな彼に向かって、ジークは嬉しそうに話しかけた。
「潰せる時に潰しておいた方が楽しいでしょう。
たった今、炎鋼車50輌が凱旋準備のために、王都の中央街の辺りを通っています。
ここで作戦を決行すれば、楽しいことになると思いませんか?」
「……ば、馬鹿なッ! 一般民衆まで巻き込む気か!?」
クロードの背筋に冷たい電流が走った。
中央街には、庶民や騎士の詰所が多く点在している。
そんな所で炎鋼車を暴れさせたら、間違いなく大惨事になる。
これを狙って、ジークはパレードを予定していたのか。
「ふふ、ハハハハハハハハッ! 不条理な暴力に顔を歪める民ッ!
泣き叫ぶ童子ッ! 強者に蹂躙される騎士の絶望ッ!
思い浮かべただけで、強烈な快感が突き上がってきそうですよ。
それがわかりませんか、父上?」
父の身体を小突き、強制的に意識を保とうとする。
もはや途切れかけようとする意識状態の中で。
クロードは目の前に、悪魔を見た気がした。
「では、作戦の決行を告げましょうか。
多少早いことに驚くかも知れませんが、
向こうも慌てるような準備はしていないでしょう。
――安心して、父上は消えてください」
ふっ、と天使のような笑みを浮かべて、ジークはクロードの懐に手を入れた。
そこから一つの笛を取り出す。
それは音を遙か遠方まで届かせる道具。
その笛から出る音色は、天空へ慟哭を嘆く竜のようであるという。
この作戦を決行する合図として使うものだ。
慌ててクロードが止めようとする。
だが、もうジークを引き剥がせるだけの力が、身体に残っていなかった。
「……や、やめろッ!」
「拒否します。では、露払いとして虫を潰すとしましょうか」
そう言って、ジークは立ち上がった。
窓の方に足が向かおうとする。
だがその寸前で、無慈悲な詠唱が行われた。
「炎の槍は其が身を穿つ。
猛る火の粉は其が身を焦がす。――『フレイム・ジャベリング』」
ジークの頭上に、おぞましい槍が現れた。
燃え盛る火で形作られた炎槍。
それがクロードの胸元に突き立った。
「……が、ァッ――」
炎の槍が肉を焦がす。
身体を貫通し、奥にある本棚までをも塵と変えていく。
クロード・ハルバレス・ラジアス。
王都での権力争いに身を投じ、野望を果たそうとした男。
彼はここで、息子の手によって命を落とした。
ジークは魔法を解除し、父の亡骸を見つめる。
彼の口元から流れ出る血を指ですくう。
それを己の唇に塗って、赤い口紅のように引き伸ばす。
そして、ジークは沈黙のまま立ち上がった。
その口元は、まるで玩具を買ってもらえた童子のように、嬉々としてつり上がっている。
ただその喜びは、あまりにも邪悪な要因で形成されていた。
ジークは窓を開け、王都が見渡せるベランダに出る。
「さて、そろそろ当主を確保する頃でしょうか。
一度失敗した者を二度使ってやる。
無益ですが、それ故にたまらない愉悦がありますね。
ふふ、ふはッ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
身体を興奮で震わせる。
瞳孔が完全に開いたジークは、狂気の化身となっていた。
彼は、手に握った笛を口元に添える。
その上で、最高の快楽を得るため、大きく息を吹き込んだ。
日の登りきらぬ早朝の王都で。
一人の狂気によって、王国を歪める反乱が幕を開けた。