第十二話 陰謀の始まり
母娘の抱擁が始まってから、どのくらいの時が過ぎただろうか。
いつの間にか、フランチェスカの嗚咽は消えていた。
どうやら、泣き疲れて寝てしまったようだ。
引退してからというもの、フランチェスカは見る影もなく痩せてしまった。
だがその姿は、今でも可憐な宝石と重なって見える。
ミレィは彼女を抱き上げ、ベッドに戻した。
シーツをかけて一礼する。
そして、スッキリしたような顔で部屋から出ようとする。
今まで溜まっていたドロドロが、一気に取り払われた気分だ。
あとは、このことをレジスに報告するだけだ。
まだ早朝なので、少し休むとしよう。
そう思って、ミレィは扉を開けた。
そこには、部屋の前で待機していてくれた家族。
具体的に言えば、叔父と兄が待っているはずで――
「……レィ。……に、げろ」
喉から絞り出したような、悲痛な声。
ミレィはとっさに辺りを見渡す。
廊下は惨状だった。おびただしい量の血液。
それらがバケツをひっくり返したかのように、撒き散らされている。
むせ返るような血の匂い。
そして、廊下には兄と叔父が倒れていた。
カーペットが血で汚れきっている。
変わり果てた肉親の姿を見て、ミレィは悲鳴を上げる。
「あ、兄上!? 叔父上!?」
とっさに呼びかけるが、叔父には既に意識がない。
剣を抜いた形跡すらもなく、奇襲で倒されたことを意味している。
兄は何とか剣を握っているが、柄から先の刃が砕け散っていた。
学院を高成績で卒業した兄に、あるまじき負けざま。
彼は遠のく意識の中で、妹に語りかけた。
「……はや、く。そこ、に……どわ、ふ、が――」
血を吐きながらも、必死で訴えようとする。
だが、その兄を蹴倒す者がいた。
体重の軽い兄は吹き飛び、そのまま壁にたたきつけられる。
最後に大量の血を吐いて、兄は失神した。
それと同時に、野太い声が響いてくる。
まるで、大地が震えるような声だ。
「うるせえ野郎だ。
手が汚れるから触ってねえだけで、殺してもいいんだぜ」
足をブラブラと振りながら、男が唾を吐きかける。
その姿を見て、ミレィは目を疑った。
2メートルを超える巨躯。
土のような褐色肌。
荒々しい風貌。
明らかに、ただの人間ではない。
「貴方、どこから入ってきたの!?」
ミレィがレイピアを抜いた。
兄を倒すとなると、相当の使い手だ。
この邸宅は、フランチェスカが静かに暮らすために、大仰な護衛も置いていない。
きっと雇っている者も、この男を見たら逃げ出してしまうだろう。
味方は期待できない。
何が目的か分からない以上、ここで倒してしまわないと。
ミレィが正体を問うと、男は哄笑する。
「おいおい、俺を人間だと思ってるのか?
俺はドワーフだ。そこに地面があれば、どうにでもなる。
――例えば、こういう風になァッ!」
男が床を思い切り踏みしめる。
すると、男を中心に地割れが発生していく。
同時に、魔力を腕に凝縮して高らかに叫んだ。
「――『ブラッシング・アース』ッ!」
詠唱を省略して、割れた床の素材を研磨していく。
すると、恐ろしい土の鉈が出来上がった。
触れただけで押し潰されそうな、鈍重武器。
男はそれを持つと、一気に間合いを詰めようとしてきた。
だが、既にそこにミレィの姿はない。
「……あ?」
男が怪訝に思った瞬間、その背中にレイピアが突き刺さる。
死角から、ミレィが鋭い一撃を入れたのだ。
肉をえぐった刃を、更に押し進める。
そして、ミレィは瞬時に雷魔法を唱えた。
「――『エレクトロン・ショッカー』!」
凄まじい閃光が爆ぜる。
雷に撃たれたような衝撃が、男の身体を駆け抜けた。
まず間違いなく、常人なら意識を失う一撃。
大男といえど、これを喰らってしまえば戦闘は続行できないだろう。
そう思い、ミレィはレイピアを抜こうとする。
だが、まるで引き抜けない。
まるで、筋肉の収縮に巻き込まれたかのように。
気づいた時には、既に遅かった。
「しゃらくせえッ!」
男が裏拳を放つ。
ミレィはなんとかガードするが、圧倒的な体重差には勝てない。
浮き上がるようにして吹き飛び、激しく壁に衝突した。
パラパラと、破片が床に落ちる。
――ッ、何て馬鹿力なの……!
思考しつつ、舌打ちをする。
しかし、追撃だけは回避しなければ。
ミレィはすぐに受け身をとった。
ドワーフは首をコキコキと鳴らし、不敵に微笑む。
「残念だな。ドワーフに雷系と土系はほとんど効かねえよ。
反動を無視して放つならまだしも。そんな魔法一発じゃ、ドワーフは止まらねえ」
「なら、他の属性に頼るまでよ!」
「健気だねえ。頼まれてなきゃあ、この場で陵辱して殺すんだが。
あいにく、まだ炎鋼車の素材にはなりたくないんでね」
「……炎鋼車? 何を」
「――ミレィ、今の音はなに?」
その時、ミレィにとって最悪の声が聞こえた。
フランチェスカが、今の音で起きてしまったのだろう。
ドワーフの耳がぴくりと動く。
マズい、男が母親の存在に気づいてしまった。
このままでは、フランチェスカにも危害が及んでしまう。
とっさに、ミレィは叫んでいた。
「来ないでください、母上!」
「おいおい、何よそ見してるんだよ」
ハッとして、ミレィは正面を向く。
だが、既に男の豪腕が首元に迫っていた。
とっさにいつもの癖で、レイピアで防ごうとする。
だが、レイピアは男の背に突き刺さっているのだ。
なすすべもなく、ミレィは壁に叩きつけられた。
肩を掴まれ、壁に押し付けられる。
「……うぐぅッ!」
だが、声は漏らさない。
これ以上騒げば、母が出てきてしまう。
痛みを堪えて、男の腹を蹴りつけた。
だが、毛程も効いていない。
無力な自分に、ミレィは歯ぎしりする。
しかし、ここで諦める訳にはいかない。
騎士として、この賊を討ち果たさなければ。
王国の騎士を預かる身として。
こんな男に負ける訳にはいかない。
ミレィは身体のバネを使って、強烈な蹴りを再び繰り出す。
だが、その寸前で男が腕に力を込めた。
バギギッ、と肩から嫌な音がこだまする。
ミレィの細い体が、その衝撃に耐えられるわけがなかった。
「……ぁ、ぁああああああああああああ!」
痛みで目から涙が溢れる。絶叫を抑えようとは思った。
だが、痛みに負けてそれどころではない。
痛い。痛い、痛い痛い。
骨を折った経験はあるが、こんなに無茶苦茶な粉砕はしたことがない。
神経が悲鳴を上げ、意識が遠のく。
もう一度、何とか蹴りを入れようとした。
だが、それよりも意識の限界のほうが早かった。
ミレィは肩を押さえながら失神した。
力なくうなだれる。
その瞬間、扉が開け放たれた。
「ミレィ……!? そ、それにあなた達っ!」
フランチェスカは、目の前の惨状に驚愕した。
血の池の中で倒れる弟と息子。
そして凶悪な大男に、痛めつけられている娘。
その光景を見たフランチェスカは、瞬時に理解した。
敵襲に遭っているのだ、と。
そして、手練の弟や息子、そしてミレィを戦闘不能に追い込んだ男。
このドワーフが相当な使い手であると、瞬時に見抜いた。
フランチェスカは男を睨みつける。
そして、ミレィの顔を見て覚悟を決めた。
彼女は服の下に忍ばせた細剣を抜き放った
「ミレィから、私の娘から離れなさい!」
「娘の危機に母親参上ーってか。泣けるねぇ、家族愛ってやつか。
そうやって剣を向けた以上、生かしてもらえると思うなよ?」
男が醜悪な笑みを浮かべる。一瞬フランチェスカも怯みを見せる。
だが、娘をこれ以上好きにはさせない。
昔の怪我で上手く動かない足を、必死に引きずっていく。
それを見た男は、盛大に嘲笑した。
殺すにも値しない。
そう言いたいのだろう。
「いいね、気に入ったぜ。
どうせこの王都は、そして王都貴族は、まとめて塵と化すんだ。
もう少し余生をくれてやるよ」
「ま、待ちなさい! 名を名乗りなさい、卑怯者!」
「……チッ、生まれた時から名前なんぞねえよ。
ただの、ラジアス家の捨て駒だ。おっと、これは口走ったらマズかったか。
まあ、関係ねえわな。全員、漏れなく、一人残らず、皆死ぬんだからなぁ!
ギャハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
愉快そうに大笑いする。
そして、男は床を見据えた。
先ほど掘ってきた穴を使ってもいいが、証拠隠滅のため途中で崩落させてしまった。
これよりは、まだ新しい穴を掘削した方がいい。
そう思ったのだろう。
男はミレィを抱えたまま、床に踵落としを決めた。
無機物がめくれ返り、辺りに破片がまき散る。
フランチェスカは何とか接近しようとするが、土切れで頬を大きく切ってしまう。
ドロリと血が流れ出るが、それでも前へ進もうとする。
しかし、ドワーフの能力のほうが上だった。
掘削スピードが尋常ではない。
あっという間に、地下までの開通ルートを作ってしまった。
それを見た瞬間。フランチェスカはとっさに魔法を詠唱した。
それは、己が持つ最高の魔法。
シャルクイン家に伝わる、秘匿された秘術だった。
「我に仕える悪戯好きの精霊よ。
記憶に眠る想いを引き出せ――『メモリアル・スティーラー』ッ!」
己の細剣に魔力を込める。
すると、剣は姿を変え、一つの弾丸のようになった。
それを一気に撃ち出し、穴に潜うとする男に直撃させる。
男は一瞬顔をしかめたが、すぐに睨んできた。
「テメェ、今何しやがった?
抵抗するなら、別に殺したっていいんだぜ? なァおいッ!」
「……ハァ、ハァ」
疲労困憊で、男の声も耳に入ってこない。
魔法自体を、久しぶりに使った。
そして、これは特殊な魔法であるため、魔力の消費量が大きい。
フランチェスカは地面にへたり込み、肩で息をしていた。
それを見て、男は不憫そうに鼻で笑った。
「無力だな。終わった騎士ってもんは」
男はそう言うと、開通させた穴を潜っていった。
「じゃあな――」
男の嘲笑がこだまする。
フランチェスカは追いかけて行こうとした。
だが、見れば穴は垂直に掘られている。
転落したら命がないかも知れない。
この道を選ぶよりは、まだ普通に追いかけていったほうがいい。
先ほど打ち込んだ魔法を、自分に浸透させる。
すると、男の直近の記憶がなだれ込んできた。
それらを咀嚼し、組み立て、何が起きているのかを知る。
その上で、フランチェスカが思うことは一つだった。
「ミレィが、危ない……!」
やはり、娘の身が心配だった。
彼女はテレパスで、雇っている魔法医師に連絡を取る。
弟と息子は、重傷だが生命は落としていない。
迅速に処置をすれば、助かってくれるはず。
フランチェスカは彼らを楽な所に寝かせ、止血だけしておいた。
あとは、治癒魔法を覚えている人に任せるしかない。
今自分ができるのは、娘を助けることだけだ。
だが、もうマトモに戦えそうにない。
足は走ることさえ難しく、戦闘行為なんてもっての外だ。
ならば、せめて誰かにこのことを伝えなければ。
その上で、ミレィを助けてもらわないと。
焦燥の中で、フランチェスカは駆け出したのだった。
その細く綺麗な脚は、土の破片で大きく裂けていた。
多量の血が出ているが、意に介さない。
脚が思うように動いてくれない。
しかし、それでも前へ進もうとする。
この状況下で、誰が娘を救ってくれるというのか。
王都本軍、王都警備隊、傭兵団、私兵団……。
候補が浮かんでは消え、絶望に変わっていく。
誰か、誰か助けてくれる人はいないのか。
「……誰でも。誰でもいいから――」
ミレィを、助けてあげて。
その悲痛な声は、結果から言って届くことになる。
誰かを救いたいと願い、誰かに愛されたいと望んだ、一人の少年へと。
だが、今の彼女にそれを知る由はない。
今はただひたすら、前へ。前へと進もうとする。
娘と――ミレィと、ついさっき約束したばかりなのだから。
フランチェスカは痛む脚を引きずり、ひたすら前進するのだった。