第十一話 因縁の融解
ミレィ・ハルバレス・シャルクインは、正義を志す少女である。
彼女は常に公平でありたいと思っていた。
王国を守護する『王都本軍』の指揮官を、代々担ってきたシャルクイン家。
当主は皆、女の身でありながら奮闘してきた。
王都本軍は、基本的にエリートを選抜して兵を集めている。
単なる王国の一軍隊ではなく、それらを統括する中枢として動いているのだ。
もちろん、いざとなれば王家の盾となる。
ゆえに人員構成は、王都魔法学院を卒業した人間が多い。
王国黎明の時は、それで問題なく機能していた。
だが、時を経るにつれ――
腐敗した人間が混じり込んでくるようになった。
中にはラジアス家の息がかかっていると思われる者もいる。
このままでは、王国を守る軍として機能しない。
そこでミレィは、少し前に一つの方策を打ち出した。
それは、ミレィを若造と舐めきった高位貴族にとって、脅威となるもの。
古株の貴族から反感を買うものだった。
そう。
ミレィは王都本軍の重要な地位を、ほぼ全て国王の側近で固めたのだ。
清廉潔白、良き名君として知られる現在の王――
彼はミレィの考えに同調した。
王都本軍を平時に率いるのは、リムリスという大臣である。
ミレィは形式上、軍の頂点に立っているが、基本は君臨すれども統治せず。
ほとんどの仕事はリムリスに任せている。
その人事を決めて以降、王都本軍は正常に運営されるようになった。
反対者も多く出たが、そこはホルトロス家と組んで黙らせた。
ラジアス家当主は顔をしかめたが、表立っての対立はなかった。
シャルクイン家とホルトロス家。
共に国王を敬愛する忠義の家であるが、互いに争うことは多い。
特に、傭兵と騎士の雇用問題で、両者はよく衝突する。
ただ、『ラジアス家は毒となりうる存在である』という共通認識と、
『王国を守るには協調も必要』という忠義の心。
その二つが噛み合った時、両家は手を組むことがある。
ただ、それだけのことだ。
レジスとの模擬決闘に敗れた翌日。
まだ日の登らぬ内に、ミレィは学院外のシャルクイン家の邸宅に来ていた。
学院の外に出る時は、兄と叔父が護衛でついてくる。
もちろんミレィは、そこらの暗殺者に負けたりはしない。
だが、万が一のことを考え、常に従者をつけている。
ミレィは邸宅に入り、歩きつつ二人に挨拶をした。
「ご苦労さまです、兄上、叔父上」
「なに、ミレィのためなら気にしないさ」
「うむ。お前ために努力を惜しむと思うか」
この二人は、いつもミレィのことを第一に考えている。
民の面倒見もいいし、根も優しい。
しかし、問題にミレィが絡んでくると話は別だ。
そうなった時、彼らは豹変したように敵意を燃やす。
その例が、レジスと初対面の際の一件だ。
あの時。
兄がレジスに吐き捨てた言葉を、ミレィははっきり耳で捉えていた。
それは、シャルクイン家にあるまじき言葉。
身分で人の価値を決めるなど、許されることではない。
叔父も聞いていたのなら、その場で制止して欲しかった。
だが、そこで動かなかったのだから、自分も含めて同罪だろう。
あの時のことを思い出すと、思わずため息が出てしまう。
「……はぁ」
もちろん、ミレィは後で二人に注意を促した。
シャルクイン家の人間たるもの、常に公平と博愛の心を持てと。
初代当主が唱えた言葉は、いつもミレィに味方してくれる。
だが、二人はバツの悪そうな顔をするものの、堪えた様子はなかった。
とは言え、あれだけキツく言ったのだ。
二度とレジスに対しても失言はしないだろう。
ミレィが二人の労をねぎらうと、両者は謙遜するように微笑んだ。
そう。彼女のことが絡まなければ、二人は基本的に誠実な人なのだ。
ミレィの中に燃える正義の心にも理解を示してくれる。
そういう面においては、彼女は二人を信頼していた。
「今日は執務と訓練の予定があったと聞きましたが」
「大丈夫。それより、ミレィが打ち負かされたと聞いた時は驚いたよ」
「お前は私や学院卒業生を、難なく倒すような女だからな」
「そう言うと、まるで私が戦うしか能がないように聞こえますが……」
「冗談に決まっているだろう」
くくく、と楽しそうに笑う叔父。
だが、それと対比して兄の表情は不愉快げだった。
彼は思い出したように伝聞を蒸し返す。
「しかし……ミレィを負かしたのはディン家の小僧だと聞くじゃないか。
あの男、どこまでミレィを貶める気だ」
「やめろ。模擬決闘に不正はなかったのだ。
そうやって負け犬のように敵を貶めても、私怨にしか見えんぞ」
「承知して……承知しておりますが。
ミレィの事を思うと、辛かっただろうなと」
「兄上、少し落ち着いてください。
私は別に、彼のことを憎んではいませんよ」
そう、言うなればこれは、因縁が招いてしまった戦いだ。
ミレィも、最初から乗り気ではなかった。
しかし、母の憎しみは凄まじかった。
復讐しなければ絶縁するとまで言い出しそうだったのだ。
その勢いに屈して、ミレィはレジスに挑んでしまった。
しかし、今では軽率だったと反省している。
自分の信条に反してしまったことが、限りなく悔しい。
ミレィが兄を諫めると、叔父は同調するようにうなずいた。
「ミレィの言う通りだ。それに、地方貴族を舐めてかかるな。
今では失墜したが、王都で暴虐を働いたホルゴス家も、元は有力な貴族だ」
「そして、それを打ち砕いたのがディン家……。
認めたくないが、芯の強い者がいるようだな」
歯ぎしりしながらも、ミレィの兄は不満を抑えた。
評価しようとする気持ちと、妹を倒したことへの苛立ちが、同居しているのだろう。
それを横目で見て、叔父は力なさげに笑った。
「まあ、これよりミレィは、もっと面倒くさい女を相手にしなきゃならんのだ。
少年一人に屈していてどうする」
「叔父上……母を――ご自分の姉を悪く言うのはどうかと」
「男が小さいことを気にするな。それに、いい機会だろう。
ミレィに叱責されれば、フランも目を覚ますかも知れん」
やれやれ、と叔父は肩をすくめる。
どこか奔放な所がある叔父を見て、兄もげんなりしていた。
二人の態度を見て、ミレィは素朴な疑問を口にする。
「叔父上、兄上。
そう言えば、お二人は私の説得に反対しないのですね」
「そりゃあ、なあ」
「僕はいつでもミレィの味方だよ」
二人はけろりと答える。
どうやら、ディン家を本当の意味で憎んでいるのは母だけだったようだ。
母の名前は、フランチェスカ。
彼女がディン家とジルギヌス家への復讐を唱えている。
今のシャルクイン家は、ラジアス家の増長を抑えることで必死なのに。
一人だけ昔のことを引きずって喚いてるのだ。
比較的フランチェスカに甘い兄ですら、今回は否定派のようである。
叔父は頭をポリポリと掻いて、ミレィの背中に話しかけた。
「私の言うことは頑として聞かなかったが。
あいつも母親だ。
自分が腹を痛めて産んだ子に反駁されれば、流石に止まるだろう」
「それを願っております。それでは――」
ミレィ一行は、フランチェスカの寝所に到着した。
シャルクイン家では基本的に、男性が女性の部屋を訪ねることを禁じている。
それはシャルクイン家が女流家系であることに起因していた。
数百年の時を経ても、家法は決して揺らがない。
それほどまでに、初代の定めた家内律法が重要な位置を占めているのだ。
叔父と兄は足を止め、壁に寄りかかるようにして待機した。
「気をつけろよ。フランは最近、特に落ち着きがないからな」
「僕も味方として入りたいのだが。
母上が相手だと余計ややこしくなってしまうだろう。
頑張ってくれ、ミレィ」
「では、行って参ります」
二人に敬礼して、ミレィは扉をノックした。
すると、中から返事があった。一つ息を吐いて、ミレィは中へ踏み入る。
後ろ手に扉を閉め、奥にいるフランチェスカに一礼をした。
「夜分遅く失礼致します、母上」
「……あら、何をしに来たのかしら」
フランチェスカは、不機嫌そうに娘を一瞥した。
ミレィと同じ空色の瞳と、黄金色の髪。
触れれば壊れてしまいそうな宝石、と形容できるだろうか。
年の割にとても若く見える、美しき貴婦人だった。
ただ、愛くるしい容貌と同時に、ヒステリックな気配が見て取れた。
何となく、ミレィがここに来た理由を察しているのだろう。
「前置きは抜きで申し上げます。
このミレィ、もはやディン家に報復をする気はございません」
「……はい?」
「ディン家に、報復をする気はございません」
「……ミレィ、急にどうしてしまったの?」
ゆらり、とフランチェスカは立ち上がった。
疑問形で尋ねているが、確実に状況を理解しているはず。
だが、それでも娘の一言が聞き捨てならなかったようだ。
「ディン家と敵対する理由が見当たりませんので」
「あるでしょう。この私が、あなたの母である私が辱められたのよ?」
「関係ないでしょう」
「あるわよ」
「ないです。微塵もありません」
ミレィはきっぱりと言い放った。
その上で、彼女はフランチェスカに問う。
「そこまで恨みが募っているのであれば、
ご自分で雪辱を果たせばどうでしょう」
「ミレィ――!」
肩を震わせて、フランチェスカは娘を叱責した。
だが、ミレィは毅然として怯まない。
母親の言うことなので、ミレィも今まで理不尽を通そうとしていた。
だが、今考えて見れば、それは失策だったのかもしれない。
ミレィは静かに唇を噛んだ。
最初から強く拒んでいれば、と純粋に思う。
そうしていれば、彼女に復讐という暗く淡い希望は抱かせなかったのに。
復讐に満ちた希望など、ただの絶望にしか過ぎない。
それを気づかせるため、ミレィはフランチェスカに正面から向き合った。
「何か、何かあったのね?
そう言えば、あなたその肘と膝の傷はどうしたの?」
「決闘でディン家の子息、レジス・ディンに敗北しました」
「……なんですって?」
「その時に、私は察しました。
こちらが敵意を持っていても、向こうは相手にする気がない。
このような中で復讐を果たしても、母上は満足なのでしょうか?」
「……なんで、なんで私の言うことが聞けないの?」
「騎士の道に反しているからです」
騎士の道に、反している。
それは、フランチェスカの心を強く揺さぶったように見えた。
わけあって彼女は戦えない体になったが、
フランチェスカも王国を守る騎士だった。
元々、彼女は夫とともに王都本軍を率いていたのだ。
だが、十七年前の『貴族内乱』で毒矢を受けて若くして引退した。
貴族内乱は、表向きは北の貴族街と南の貴族街の戦いということになっている。
だが、本当はもっと簡単な構図である。
シャルクイン家と、ホルトロス家の対立だ。
二十年近く前、王都の軍に傭兵が増え、騎士が蔑ろにされることが多くなった。
一部の騎士が軍から追い出され、街の治安を乱すまでになった。
それを見かねたフランチェスカは、傭兵の元締めであるホルトロス家を強く非難した。
そして、ホルトロス家が挑発を返し、北の貴族街を煽った。
同時に南の貴族街に傭兵を溢れさせて、北南対立の構図を作ったのだ。
双方は激しく激突したが、中身を見てみれば騎士と傭兵の対決だった。
結局、事態を重く見た国王が止めに入って終結。
両陣営は激しく消耗し、ラジアス家の一人勝ちとなったそうだ。
その一件で、騎士が不遇になることは少なくなった。
しかし、ミレィの父親である王都騎士団長は重体。
一時は回復の兆しを見せたものの、激しい戦傷が体を蝕んでいた。
結局、貴族内乱から数年後、息を引き取ることになる。
母であるフランチェスカも、矢傷を受けて引退。
後にミレィを産み、十五歳になった所で家督を引き継がせた。
これが、ミレィが早くして当主となった理由である。
いつか、ジルギヌス家に報復を。
そう誓って奮闘してきたフランチェスカは、引退後から歪みきってしまった。
もはや活躍が望めない自分の元に、次々と届いてくるジルギヌス家の報告。
後に勢力は衰えたようだが、ディン家と合併しても名声は一部で轟いていた。
私がこんなにも苦しんでいるというのに。
ジルギヌス家は、母体のディン家は順調に家を維持している。
フランチェスカの嫉妬と憎悪は、日に日に燃え上がっていった。
まだ若かったミレィは、そんな母親の指示を聞いてきた。
経験不足ながら、必死に当主を務めたのだ。
時折、明らかにフランチェスカから理不尽な要求をされることもあった。
しかし、恩を忠で返す騎士である以上、母の言葉には従いたい。
そう思い、多少不義に感じることでも、律儀に実行してきた。
だが、この一件でミレィも懲りた。
今まで放置しておいたことが、限りなく悔しい。
母を止められるのは自分だけである。止めなければ。
そして、これ以上フランチェスカの我儘を通してはダメなのだ。
ミレィはフランチェスカに、初めて皮肉を告げた。
「母上も騎士として鳴らされたそうですが。
過去のことを女々しく引きずるのが、正しき騎士の道なのでしょうか」
「だ、黙りなさい! あなたは私の言うことを聞いていればいいの!」
「却下します。今の当主はこの私です」
「……く、口ばかり達者になって」
「母上。目を覚ましてください。
恐れながら、今母上がすべきことは――
過去を振り向かず、己と向き合うことです」
ミレィはフランチェスカの手を取った。
すると、彼女はとっさにその手を払おうとする。
だが、ミレィはまっすぐ見つめてくる。
「シャルクイン家は厳粛と自愛に満ちた正義の家です。
怒りや憎しみに身を焼かれていては、初代も悲しむでしょう」
その言葉に、フランチェスカは戸惑ってしまった。
何とか反論しようとしているが、言葉が喉から声が出てこない。
真正面から反抗の芽を潰されてしまい、思考が混濁する。
「シャルクイン家当主として。
あなたの娘、ミレィとしてお願いします。
どうか、誰かを恨むことはしないでください。母上」
「み、ミレィ……」
フランチェスカは言葉を失った。
同時に、今までの自分に対する猜疑心が湧いてきた。
誰よりも近しい存在である娘に指摘され、ようやく気づいたのだ。
きっと、フランチェスカも心の根幹では理解していたのだろう。
自分は過去の呪いを、娘に背負わせているだけなのだと。
だが、高い矜持が傷つけられた記憶。
ライバルに打ち負かされて、二度と復讐が不可能になってしまった記憶。
それだけは、どれほど忘れようとしても忘れられない。
何でも言うことを聞いてくれていた娘の、唐突な反抗。
それに驚いて、そしてそれが正論で、茫然自失になってしまった。
「……私は、どうすればいいの」
「前を向いて行きましょう。
そうすれば、憎しみ以外の道も見えてくるのではないですか」
そう言って、ミレィはフランチェスカの手を強く握る。
それを境にして、フランチェスカの心の堤防が決壊した。
間違っていることは最初から分かっていた。
ただ、改心する機会を逃していた。
本当はもう、ジルギヌス家に対向するだけの気概も残っていないのに。
私怨だけで、娘を動かそうとしていた。
それを他ならぬミレィに指摘されて、ようやく彼女は気がついた。
フランチェスカは、目尻に涙を貯めている。
美しい空色の瞳が、悲しい涙で溢れる。
それを見て、ミレィは静かに母を抱きしめた。
そして、何十秒も、何分も、あるいは何十分も。
そのままフランチェスカの恨みを浄化していった。
彼女が泣き疲れるまで、傍で添い遂げたのだった。