エピローグ
光の刺激で目を覚ます。
ぼんやりと、焦点が霞んでよく見えない。
だが、肌に感じるこの感触で、今俺がいる場所を特定した。
間違いない。
ベッドの上だ。
瞼を開けると、一人の少女の姿が見えた。
イザベルだろうか。
そう思ったが、どうも輪郭が違った。
随分長い間寝ていた気がする。
そのせいか、視力がまだ本調子ではないみたいだ。
「……ぁ」
声を出そうと思ったが、なぜか息が漏れるだけ。
身体が異常に重い。
まるで、気道を圧迫されているかのようだ。
不審に思って注意深く焦点を合わせてみる。
すると、なんと俺の腹の上にアレクが座っていた。
息苦しく感じたのはこいつのせいか。
手ひどく傷を追った部位になんてことをするんだ。
文句を言おうにも声が出ないので、その頭を小突いてやろうとした。
すると、アレクはひょいと俺の腹の上から身体をどかした。
その上で、俺の腹部を思い切り踏みつけてくる。
「ぐぼぇはッ」
何の前兆もなく、いきなりだ。
グリグリと内臓付近を指で突いてくる。
アレクの顔を見上げると、彼女は憮然とした表情をしていた。
「この野郎……何してるんだ」
「それはこっちのセリフじゃ」
「どういうことだよ」
「言葉の通りじゃ。
我輩が汝にどれだけ迷惑をかけられたと思っておる。
ああ、今思い出すだけでも忌々しい!」
ぎゅうぅ、と更に傷口を圧迫してくる。
どうやらひどく怒っている様子だ。
「い、意味がわからないって。何があったのか説明してくれ」
「……はぁ、良かろう。
その振れば音がしそうな空の頭で、よーく理解するのじゃ」
そう言って、アレクは説明を始めた。
昨夜あったことを、丁寧にじっくりと。
どうやらドワーフが立ち去った後、俺は気絶してしまったらしい。
当然、魔素供給所は見る影もないほどに壊れきっていた。
建屋に傷が付いていないのが、唯一の救いだったとか。
俺が借り受けた魔力を開放したことにより、アレクは目を覚ましたらしい。
その時、彼女はかなり腹が立ったそうだ。
「せっかく待望の研究が成功した夢を見ておったのに。
そして全人間が我輩を崇拝する夢を見ておったのに。
汝が我輩の魔力で暴れたおかげで、全て台無しじゃ」
「台無しなのはお前の印象だと思うんだ。
たとえ皆がお前に膝を屈しようと、俺だけはアレクを見下ろしてやるからな」
「なにか言ったか?」
「いいや、何も」
ミシミシと、先ほどの比でない重量をかけられた。
刺激したらやばいな。
大人しく小言を聞いておくか。
アレクの魔力に頼らざるをえないほど、事態は逼迫していた。
そう判断して、彼女は魔素研究所に来てくれたのだろう。
そしてそこに広がっていたのは、工事現場かと見紛うほどの掘削土壌。
さらに満身創痍の俺たち。
まあ、唖然としただろうな。
「心臓が止まるかと思ったのじゃ。
我輩が修復魔法と土魔法で元通りにしなかったら、どうなっていたことか。
汝らは間違いなく断頭台の露と消えとったぞ」
「アレクが後始末をしてくれたのか。悪いな」
「……悪いと思っておるなら、二度と無茶はせぬことじゃ」
ジト目で俺を責めてくる。
悪かったよ、と素直に謝った。
それにしても、こいつ。
あの荒れきった場所を、完全に元通りにしたのか。
しかも修復魔法なんて覚えてんのか。
と思ったが、そう言えばアレクはこの学院の卒業者だったな。
大陸の四賢としての実力を、本領発揮させてしまったわけだ。
表舞台に出たくないと常々言っているアレクのことだ。
俺の無茶に怒るのも当然といえる。
アレクは不機嫌そうに、しきりに踵落としを決めてきた。
「……おい、折れてる場所になんてことをするんだ」
「ん? どこが折れておるのじゃ? 言ってみよ」
「どこってそりゃお前。拳とか肋骨とか――」
そう思って利き手を握り締めてみる。
すると、何の問題もなく機能した。
怪訝に思って見てみると、傷がほぼ完璧にふさがっていた。
多少の傷跡が痛々しく残っているだけだ。
関節を曲げたりして動かさなければ、痛みもほとんどない。
「ふん、我輩の治癒魔法を受けられたことを誇りに思うがよい」
「お前が治してくれたのか」
「本当は汝だけにしようと思ったのじゃが。
シャディから頼まれておるのは汝の世話だけじゃしな。
じゃが、件を明るみに出さぬために、外の魔法師と小娘小僧も回復させてやった」
「……ありがとう」
「む?」
俺がボソリと呟くと、アレクは訝しむような顔になった。
聞こえてないのだろうか。
もう一度、はっきり言う。
「ごめんな。手を煩わせて」
「別に。この程度の無茶、最初から想定しておったのじゃ」
「その割りには怒ってるみたいだけど」
「我輩が怒ったらこの学院が塵になるぞ?」
「よし、怒るな。いや怒らないでください」
どうやら、アレクが間に入ってくれたおかげで、
昨夜の一件は明るみに出なかったようだ。
気絶させた魔法師をどうしようとも思ったが、
そっちもアレクが何とかしてくれたらしい。
まったく、大陸の四賢の力におんぶに抱っこだなんてな。
情けない。
もう少し、スマートに事を運べるようになりたいものだ。
でも、仕方ないか。
昨夜は昨夜なりに、俺は全力でやったんだ。
アレクには感謝の念こそあれ、負い目を感じることはない。
とは言え、一つ気になることがある。
「アレク。俺たちが王都に来た時、地面にドワーフが潜伏してたみたいなんだけど。
気づいてなかったんだよな」
「いや、気づいておったぞ?」
「なんだと?」
「なぜ我輩が、あんな土から出てこれぬ臆病者ごときに注意を払わなければならんのじゃ」
「だったら、せめて教えといてくれよ……」
あんな刺客がいると知ってたら、俺だって他の対策が立てられたのに。
アレクを非難がましく見ていると、刺すような視線を返されてしまった。
正直、少し背筋が震えた。
「汝に手を出せぬよう、しっかり魔力で牽制していたんじゃぞ?
それなのに、まさか自分から死地に突っ込むバカがどこにいると思う」
「いや、死地に突っ込んだのは俺じゃなくてエリック――」
「それを追いかけたのは誰じゃ?」
「……俺です」
そうか。
そういえばあのドワーフも言ってたな。
変な幼女のせいで手が出せなかった、と。
アレクはしっかり俺を守るために気を払っていてくれたんだ。
つまり、俺が台無しにしただけか。
つくづく悪いことをしたな。
「じゃがまあ、友を助ける行動を非難するつもりはない。
本当に呆れておったら、放置しとったぞ」
「……そう言えばエリックとイザベルは?」
「汝より先に回復した。
汝だけじゃぞ。いつまでもぐーすか寝ておるのは」
「そうかい」
よかった。
特にエリックは俺までとは行かないまでも、相当の深手を負ってたからな。
全快してくれたのは素直に嬉しい。
だけど、今回は結局、ジークの手の上で踊らされていた感じが拭えないな。
もちろん、何とか最悪の事態になるのは防いだのだが。
元を断たないと、根本的な解決にはならない。
となると、やはりやるべきことは1つか。
「なあ、アレク」
「む、なんじゃ?」
無愛想に首を傾げる彼女に、俺は重々しく告げた。
「俺は――ジークを、ラジアス家を倒したい」
「ほう。汝は無用な争いを好まぬタチじゃと思っておったが」
確かにな。
だが、ラジアス家は是が非でも叩き潰しておかねばならない。
エリックに助力してやるために。
そして、他ならぬ竜神の匙を入手するためにも。
「匙を手に入れるには、あいつを失脚させるのが絶対条件なんだよ。
学院の雰囲気を見て、正攻法で主席を取るのは難しいとわかったしな」
「ふん、今頃か。
王都貴族の息がかかった学院で、地方貴族が頂点に立つのは無理じゃ」
入学試験の段階で何となく察してたよ。
でも、いざ学院の内部を見て、より確実性が増した。
ここはラジアス家を筆頭とする王都貴族の庭なのだと。
買収された教員が多い中で、主席を取りに掛かるのは不可能に近い。
だから、ここで目的を果たすためには、邪道を歩むしかないんだ。
「いつか、俺とジークが公の場で衝突することがあるかもしれない。
その時は、力を貸してくれるか?」
「嫌じゃ」
「……え」
即答で返された。
しかも否定だ。
俺は慌ててアレクに食って掛かる。
「な、何でそんなこと言うんだよ」
「今回の件は、そこまでの影響が出ないと踏んだから動いただけじゃ
我輩には500年前の約束があってな。
大陸の四賢は極力、俗世のことに関与せんのじゃ」
「……そうなのか」
融通の効かない奴だ。
そう言えば、何かの書物で読んだことがある気がする。
大陸の四賢は邪神を封印した後、
そのあまりにも強大な力を利用されないように固く誓ったと。
通称・『四賢の血判』。
その誓いが行われた神殿が、確かディン領に程近い所にあったっけ。
しかし、こいつがそんな誓約を律儀に守るとは。
むしろ普段から暴れたそうでウズウズしてそうなのに。
いったいどんな約束を結んだんだか。
俺が思案していると、アレクは暗い表情をして言った。
「それに、魔力を使うと……我輩が我輩でなくなるのじゃ」
「どういう意味だ?」
「ふん、教えぬ。
とりあえず、我輩の力をアテにするのは無駄ということじゃ」
「……分かったよ」
本人が嫌がるなら仕方がない。
今回は手を貸してくれて、次はダメだなんて。
猫みたいなやつだな。
いや、むしろ天邪鬼か。
しかし、怪我を治してくれたのは素直に嬉しい。
その点に関しては感謝の至りだ。
一つ頷き、俺は思い切り伸びをした。
「確か、今日が入学式だったよな。行かないと」
「はぁ? 何を言っておるのじゃ汝は」
「なにか変なことを言ったか」
「入学式は昨日あったのじゃぞ」
「……………………はい?」
ちょっと待とうか。
未だにゲシゲシ蹴ってくるアレクをベッドから下ろして、長考に入る。
昨夜に魔素供給所に忍び込み、俺は気絶した。
その時点では入学式の前日だったはずだ。
だというのに、この幼女エルフ殿は入学式は昨日と言った。
となれば答えは一つ。
俺は喉が引きつるような思いでアレクに訊いた。
「ひょっとして俺、2日寝てた?」
「うむ。他の二人はちゃんと昨日の入学式に行っておったぞ」
「つまり、今まで寝てたのは俺だけということか」
「初日から欠席するなぞ信じられんのじゃ。神経を疑う」
「気絶してたら出席も欠席もないだろうが」
なんという事だ。
てっきり半日寝込んじゃったかなー、ってくらいの感覚だったのに。
まさか2日も寝てたなんて。
48時間睡眠なんて、ニート時代でも経験したこと無いぞ。
まさか入学式をブッチしてしまうとは。
「不良だなぁ、俺」
「もともと目を付けられておるんじゃから、そう変わらんじゃろ」
「そうだけどさ……ってことは今日から普通に授業か?」
「我輩に日程を訊かれても困るのじゃ。
とはいえ、今日は普通に休みじゃったはずじゃぞ」
「そうか。よかった」
これで2日連続サボりはなくなったな。
最初は皆勤賞を取る所存だったのに。
いきなり躓くとは思わなかった。
まあ、あれだけのことがあって何も失わなかったのだ。
何にも勝る二日間だったと言っておこう。
「さて、それじゃあちょっと外に出てくる」
「……構わんが、いいのじゃな?」
「なんだよ」
「……いやいや、何とか治癒には成功したのじゃが――」
言葉を濁すアレク。
なかなか続きを言おうとしない。
じれったいので、俺はベッドから身体を起こした。
同時に、腹が泣くように鳴り響く。
2日何も食ってないんだもんな。
二人を誘って、食堂でメシでも食うとしようか。
そうと決まれば俺の行動は早い。
仮面をかぶった超人ヒーローのごとく、ベッドから飛び降りる。
華麗に着地を決め、そこから走りだそうとして――
足首と脇腹がグキリと音を立てた。
「どぅわああああああああ!」
「だから言ったじゃろう。骨がまだ完璧に繋がっておらんのじゃと」
「言ってねえ! 俺の全存在を賭けてお前は言ってねえ!」
「バレたか」
「お前、俺が苦しむのを知っててダンマリ決め込んでやがったな」
「楽しかったぞ。我輩はな」
「こんの性悪エルフぅぅううううう!」
酷い。あんまりだ。
痛む足首を押さえ、慎重に歩く。
この調子で、若かりし頃のシャディベルガも虐めてたんだろう。
だが甘い、俺に被虐属性は一切ない。
身体が完全回復したら、泣くまで仕返ししてやる。
よろよろと、俺は研究棟から出て行く。
「気をつけるのじゃぞー。外は危険じゃからの」
「お前から離れるのが一番安全だよ!」
くそ、いきなり足をくじいた。
すぐに痛みがなくなる辺り、永続的な治癒魔法をかけてくれてるのかもしれない。
だが、基本的に治癒魔法は不便利なものである。
上位魔法を掛けたからといって、一気にブワーッと回復するものではない。
ゆえに戦場では、魔法で治りかけの兵士が剣を交える光景を見ることが多いのだ。
どこまでも広がる学院内を、とぼとぼ歩いて行く。
俺は東研究棟に搬送されていたみたいだな。
寮方面に戻るには、かなり歩かなければならない。
数十分かけて移動し、購買ストリートへ。
翌日から授業が始まるということで、立ち並ぶ店はいそいそと開店準備を急いでいた。
その中で、ひときわ陳列を頑張っている商店がある。
早い、実に仕事が早いな。
俺は必死で商品を店に並べているエドガーに、声を掛けた。
「よおエドガー、おはよう」
「レ、レジス。もう起きて大丈夫なのか!?」
慌ててしまい、商品を落としそうになるエドガー。
地面に落ちようとする商品。
それを俊敏な動きで蹴り上げ、落下を防ごうとする。
その結果、商品がエドガーの額にスコーンと当たった。
見事な自滅である。
「……い、痛い」
「何をしているんだお前は」
「い、いや。昨日ずっとレジスの傍で起きるのを待ってたんだけど。
死人みたいに動かなかったから」
「ああ、見舞いに来てくれてたのか。ありがとう」
エドガーは俺を心配そうに見てくる。
怯えた子犬のような眼だ。
そう言えば、こいつに連絡を取るって言ってたのに。
ジークの動向の報告をしてくれたのを最後に、交信してなかったな。
「もう身体は大丈夫なのか? 痛くないか?」
「大丈夫だって。それと、ジークの動きを見張ってくれてありがとな。
おかげで炎鋼車を配置されてるってことを、把握できた」
「役に立てたなら嬉しいぞ。
それと、完全にその件は闇に葬られたみたいだけど」
ふむ。
どうやら、情報のシャットアウトは完璧みたいだな。
機を見るに敏なエドガーの耳にも届いてないのか。
さすがはアレクだ。
「ところで、友達というのは助けられたのか?」
「もちろんだ。俺だって頑張ったんだぜ。
ああ、それと。その件で何か礼をしたいんだが――」
俺が言い淀むと、エドガーがじーっと俺の顔を見てきた。
顔色はもう悪くないはずなんだが。
いや、金の無心でもするつもりか。
エドガーは突如、手をポンっと打って微笑んだ。
正直嫌な予感しかしない。
「礼はいらない。その代わり、ちょっと待っててくれ。
――お茶を一杯呑んでいくといい」
そう言って、エドガーは陽気なステップで店の奥に入っていった。
酒が出てきたら背を向けて逃げるとしよう。
もうこの店頭の時点で、酒の匂いが漂ってきてるんだけど。
ここは魔法商店だったよな。
いつから酒蔵になったんだ。
エドガーはトレイにコップを乗せて戻ってきた。
ふらふらと、どこか足取りが危なっかしい。
零されたら敵わん。
俺はエドガーの歩く対角線上からずれた。
それと時を同じくして、エドガーがいきなり高スピードで突っ込んできた。
「うわぁ! 全身が滑ったぁあああ!」
わざとらしい。わざとらしいですよエドガー先生。
甘いんだよ。根本的にその全てが。
俺が察知できないとでも思ったか。
エドガーが持つトレイから浮き上がるお茶入りコップ。
それが空中へ投げ出された。
だが悲しいかな。
その軌道はさっき俺がいた場所に向かってのもの。
しょせん邪な目論見は失敗する運命よ。
そう思っていると、エドガーが驚異の瞬発力を見せた。
空中でひっくり返ろうとするコップを裏拳で捉え、見事に軌道をねじ曲げる。
その上で、逃げようとする俺の姿を完全に補足してきた。
「逃がすかぁあああああ!」
「お前もう確実にわざとだよな!?」
逃がすかとか言ったよこの人。
少しは隠す努力をしたらどうなのか。
コップは超高速で俺の元に突っ込んでくる。
くそ、避けきれん。
俺の健闘虚しく、ズボン全体に水が掛かった。
「ぐぁ、冷てぇッ!」
「ふ、ふ、ふ。これはもう拭くしかないな。
これはもう、あたしが責任を持ってズボンの下を拭くしかないなッ!」
「させるか、この痴女めが!」
俺はバックステップで距離をとる。
下らんことで人の服を濡らそうとするんじゃない。
成功したことが嬉しいのか、捕食者のような動きでにじり寄ってくる。
だが甘い、甘いぞエドガー。
俺は静かに下位魔法を詠唱した。
「――『トーチ・ファイア』」
かすかな炎を手から発生させ、服を乾かしていく。
ついで、下位の風魔法でムラなく完璧に水気を飛ばした。
エドガーが止める間もない。
見たか、これこそ魔法の有効活用。
乾燥機いらずだ。
俺が不敵に笑ってみせると、エドガーが絶望的な表情になった。
「……な、なんてことをするんだ。もったいない」
「普通の行動を取ったに過ぎん」
「あ、諦めないからな」
「諦めてくれよ頼むから」
エドガーはメラメラと闘気の炎を燃やす。
ここに来る度に水をかぶってはたまらない。
乾かし残した場所がないか入念にチェックする。
すると、太ももの辺りに妙なものを見つけた。
ただの汚れかと思ったが、どうも違う。
変な文字が書かれているのだ。
アレクが落書きでもしたのかもしれない。
そう決めつけようと思った。
だが、書いてある記号に、とんでもなく問題があった。
俺は低い声で、エドガーに太ももを見せる。
「おいエドガー。これはお前の仕業か」
「……ぁ、消すのを忘れていたか」
エドガーはあっさりと情報を吐いた。
俺の肩が怒りで震える。
いくら友人でも、やっていいことと悪いことがあるだろう。
親しき者にも礼儀ありだ。
そして俺にしでかしたことは、明らかに度が過ぎている。
そう、俺の太ももに書かれていた文字は――
「『正、正、正、止』。これは一体どういう意味だ?」
「そ、それはだな。元気が出る魔法陣だ」
「んなわけがあるかぁ! 俺が寝てる間に何しやがった!?」
「お、落ち着いてくれレジス。
19本の内、18本は隣にいたエルフが書いたものだ」
「安心できるかぁあああああああああ!」
こいつら、この文字はアレだろ。
良い子が知らなくていいあの知識だよな。
どんだけ腐った文化がこの大陸にも根付いてるんだ。
そういうのはゲームで楽しむからいいのであって、
俺が――男の俺が書かれるのは心外にも程がある。
「で、実際の所。寝てる間に何かしたのか?」
「いや、暇だったから幼女エルフとボードゲームをしてたんだ。
その勝敗を書く紙がなかったから――」
ああ、そういう意味なのかこれ。
俺が寝てる間にボードゲームに洒落こんでわけだ。
そしてエドガーはアレクにボロ負けと。
19戦18勝ってどれだけ強いんだよあの四賢様は。
ボードゲームにおいても無敵か。
「俺に書いたわけだ。なるほどな、人を人と思わぬ仕打ち。
アレクが嬉々としてやりそうなことだ。
だけどエドガー、お前は隣にいて止めなかったのか?」
「そうだ。止めなかったぞ!」
「自信満々で言い切るだと……?」
どうやら寝ている間に、俺は相当なイタズラをされたらしい。
いかんな、油断していると何をされるかわからん。
収集がつかない状態に陥るのも嫌だし、今後はもっと警戒するとしよう。
二度とこいつらに寝顔を見せるものか。
固く決意を結び、俺はエドガー魔法商店を後にしたのだった。
◆◆◆
さて、俺としては早めに飯にありつきたい。
だが、エリックとイザベルに顔を合わせたいというのも本音だ。
あいつらめ、俺を置いて入学式に出席しやがって。
いつまでも寝込んでた俺も悪いけどさ。
寮に戻って。エリックに合流するというのも手か。
だが待て、あいつのことだ。
今は昼時。
前に見た旺盛な食欲から考えるに、もう食堂に向かっている可能性がある。
となれば、イザベルを誘ってレッツゴーするのが最善か。
そう思っていると、目の前から見覚えのある少女が歩いてきた。
側頭部をすっぽり隠すティアラ。
そして目がくらむ肩口までの金髪。
彼女は周囲を気にしながら慎重に歩を進めている。
相変わらず人間は苦手なんだな。
イザベルは正面から歩いてくる俺に気づくと、怒涛の勢いで走ってきた。
さすがエルフ。
こと速さにかけては全種族中最強か。
「レジス! もう起きて大丈夫なの!?」
「ああ、元気だよ。これから飯を食いに行くところだ。
そういうお前はどうしたんだ?」
「いや……今日もお見舞いに行こうかなって」
む。やっぱり見舞いに来てくれてたのか。
何というか、照れるな。
そして嬉しい。
でも、来てたんなら馬鹿二人の行動を止めて欲しかったな。
「イザベル、お前飯はもう食ったのか?」
「ううん。まだだよ」
「じゃあ食堂行こうぜ。エリックがいるといいんだけどな」
「そうだね。じゃあ行くかな」
そう言うと、イザベルは例によって俺の後ろにピタリとついた。
ああ、やっぱりこうなるのか。
食堂に向かって歩いて行く。
すると、途中で何人かの生徒とすれ違った。
そいつらは俺を唾棄するような視線で見てくる。
どうやら、そっち側の貴族らしい。
連中と行き交った瞬間、背中に儚げな力を感じた。
俺の服の裾を、イザベルが握っているみたいだ。
「気分が悪いのか?」
「だ、大丈夫だよ。でも、少しだけ。
少しだけでいいから、このままでいさせてくれるかな……」
心細げに呟いてくる。
やっぱり、貴族に虐げられてきた歴史が本能レベルで刻まれてるのか。
普段から人目をずいぶん気にしてるもんな。
「構わんが、そうやってまとわり付かれると――」
ぐらり、と俺の身体が揺れた。
全快でない足付近の筋力が、悲鳴を上げる。
何とかもう片方の足で踏ん張るが、今度は脇腹に激痛が走った。
「……ぐッ」
「ご、ごめんレジス。邪魔だったよね。
まだ治りきってないのに。すぐ離れるから」
「気にするな。お前一人の重みくらい、何の負担にもならない」
超やせ我慢だけどな。
足が震えて生まれたての子鹿状態だ。
さっきベッドから飛び降りた際の衝撃で、痛みやすくなってる。
俺が呻き声を上げると、イザベルは慌てたように肩を貸してくれた。
正直、面目ない。
「おお、悪いな」
「いいよ。さあ、早く行こうよ」
こうして俺たちは、食堂へと進んでいったのだった。
奇行を繰り返す没落貴族。
怯えまくって足元がおぼついていない少女。
その両者が、二人三脚じみた歩行法で闊歩する姿。
まあ、目を引いたに違いない。
指をさして笑った貴族を、いつか叩きのめしてやる。
不穏なことを思いつつ、食堂の中へ入った。
すると、屋内からあどよめきの声が漏れてくる。
基本的にこの学院の食堂は、利用するのに金はいらない。
料金は莫大な入学金に含まれている、と言い換えてもいいかもしれない。
とにかく好きなだけ食べられるのだ。
だが、この国の美徳は謙虚に控えめに。
そんな中で、テーブルの一角を占領して暴食に没頭する男が一人浮いていた。
言うまでもない。
エリックだ。
その光景に、周りの生徒が冷や汗を流している。
「……品のない奴だ」
「……推薦で入った輩だからな」
「……ジーク殿が処理すると息巻いていたというのに。健在ではないか」
しかも、何人かジークの取り巻きがいるみたいだな。
王都三名家のおこぼれを望んでる連中だ。
どれだけ落ちぶれようとも、面従腹背で誰かに媚びたくないもんだな。
俺とイザベルは定食を頼んで、エリックの隣りに座った。
「よお、おはようエリック」
「お前、もう治ったのか?」
「モチのロンよ。
こうやって犬食いをすれば飯が食える状態にまでは回復してる」
「……無茶すんなよ」
エリックが珍しく労いの言葉をかけてきた。
嬉しいことを言ってくれる。
別に俺は犬食いがマイナスな行為だとは思ってないぞ。
そりゃあ行儀は悪いのかもしれないけど、飯を食えないよりはマシだ。
「ところでエリック。お前は大丈夫なのか」
「あ?」
「身体だよ。かなり傷負ってたろ」
「元々治癒力が高いからな。都合上」
そう言って、極厚の焼肉にかぶり付くエリック。
都合上、と言葉を濁したが要するにアレだろう。
どうやらドラグーンは、傷の治りも早いらしい。
俺は口の周りを拭いながら、気になっていたことを尋ねる。
「お前ら、入学式に出たんだろ?」
「出たよ」
「オレも出たが、ロクなもんじゃなかったぞ」
「そりゃまた何で」
「あのゴミ貴族がな。異常に長い演説をしやがったんだ」
エリックは不味そうに肉から手を離す。
ゴミ貴族、というのは要するにジークのことだろう。
今思い出しただけでも腹が立つ、とエリックは振り返る。
「酷いもんだ。まず『炎鋼車の素晴らしさ』について長々と喋り、
次に『どうやって主席で入学するに至ったか』を自慢気に語り、
最後に『底辺を切り捨てるのは上層の愛』っていう理論を延々聞かされたよ」
「……うわあ」
「学院関係者は無言だったけど、取り巻きの貴族たちは熱狂的なまでに騒いでたね。
さすがの私も、ちょっと鳥肌が立ったよ」
なるほどな。
二人は入学式に出たはいいもの、いやな経験をしたようだ。
案外、寝込んでいたのは正解だったかもしれん。
さて、ちょっと話は変わるのだが。
俺は今、飯を食っている。
言うまでもない。大絶賛犬食い中だ。
だがここで、最難関のメニューがやってきた。
パンは齧れた。
サラダも無論。
旨味のある肉の刺身も手を使わずいけた。
だが、この底の深い食器に入ったスープはどうしようか。
残すのははばかられる。
俺は前世で晩飯を残したことがあり、2日絶食を言い渡されたことがある。
それ以降、目の前の皿を空にしないと安心できなくなってしまった。
俺が思い悩んでいると、イザベルが俺の前からスプーンを取った。
「口開けて。私が運んであげる」
「いや、この歳でそれはさすがに……」
しかも今、イザベルがそう言った瞬間、周りの視線が異常に厳しくなったからな。
それを敏感に感じ取った彼女は、少し不安げに身を縮ませた。
俺は取り巻きを威嚇するように睨んで、イザベルを俺とエリックの間に隠す。
好奇の視線で見るのは構わんが、時と場合を考えろよ。
ふぅ、とイザベルは安心したように溜息をつく。
そしてスープをすくって、俺の口元に運んできた。
「はい、あーん」
「いや、よく考えたら俺、手は使える気がするな。はは……」
その瞬間、俺の隣にいるエリックが膝で俺の拳を小突いてきた。
全身に広がる鈍痛。
……こいつ、粉砕骨折した箇所になんてことをしやがる。
鬼か。
四十六の処刑法か。
俺は恨みがましくエリックを見る。
すると、イザベルがにこりと微笑んでスプーンを持つ手を近づけてきた。
「ほら、やっぱりまだ治りが悪いんだよ。
こういう時は安静にするのが一番。周りに任せてよ」
「ああ、じゃあ頼む」
大人しく口を開けておく。
すると、イザベルの細やかな手で運ばれたスプーンが、俺の口の中に入ってきた。
途端に広がる出汁の効いた旨味。
隠し味の香辛料がいい味を出していた。
それ以上に、こうやって摂取することにより、一層スープの味が上がった気がする。
俺は無言でエリックの方を見た。
すると、奴は俺の方も見てニヤリと笑った。
故意犯め。
イザベルは依然としてスープを近づけてくる。
だが、まだちょっと熱かったか。
火傷までは行かないが、少し舌がヒリヒリする。
これは任せて正解だったな。
例によって犬食いをしていたら、盛大に舌を焼くところだった。
俺の表情の歪みに気づいたのだろうか。
イザベルはふぅ、っと吐息を掛けてスープを適温にしてくれた。
むず痒さが3倍増しだ。
周りの視線がさらなる凄みを増す。
だが、角度的にイザベルからその様子は見えない。
「はい」
こうして、スープが空になるまでイザベルが食事を手伝ってくれた。
最後の一口が終わった後、イザベルはこっそり懐にスプーンを入れる。
そして懐から取り出した新品のスプーンをトレイに置いた。
一瞬の動きだったが、なんとか視認できた。
こいつ、スプーンを何に使うつもりだ?
俺が心配していると、目の前からガチャンという音が聞こえた。
強い既視感。
エリックが椅子を蹴り飛ばす映像が、脳裏に再浮上した。
まずい。
変なことをしたから、またエリックがキレたか。
一瞬本気でそう思ったのだが、結果から言って杞憂だった。
単に飯を食べ終えて、食器を一斉に重ねただけだ。
「ふぅ……まあ腹八分目に抑えとくか」
どの口がそれを言う。
普通に常人の5食分はある飯を平らげておいて。
お前の胃袋は化け物か。
きっと不思議な世界につながっているに違いない。
エリックは水を飲み干すと、俺に小声で話しかけてきた。
「ところでレジス。飯を食った早々悪いが、気になる情報が入った」
「ん?」
「オレの推薦人が一昨日の夜、自殺したらしい」
「なんだと……?」
「いやまあ、元々酷いやつだったから心が痛みもしねえんだけどな。
さすがに時期ができ過ぎてる。オレが倒して放置してる間に、自殺するなんてな」
エリックは苦虫を噛み潰したような顔をする。
確かアレクの話だと、エリックの推薦人は親の仇に程近い奴だったか。
エリックの親が死んだ年の、研究における最優秀者だ。
エリックの親父を蹴落として、その称号に座ったんだ。
ラジアス家の息がかかった研究者みたいだったし。
確かに、同情するには色々とやりすぎた男だ。
「オレはそいつを、後で守衛に突き出して、法で裁いてやろうと思ってた。
だがどうやら、刺客に先を越されたらしい。
どう考えても自殺じゃねえ。
オレの推薦人は、口封じで殺されたんだよ」
「……そこまで手を回してたのか」
いや、むしろ周到さを考えれば当然と言える。
エリックはその研究者を動けなくして、魔素研究所に向かった。
その入れ替わりに、刺客が侵入したんだろう。
「まあ、推薦人に頼るのは入学までだ。
もう補助してくれる奴なんていらない。
いつかあの貴族を、同じ目に合わせてやるよ」
エリックは少し表情を暗くする。
彼は決意を固めるように拳を握り、苦々しく呟いた。
「……たとえ、味方が誰もいなくなってもな」
「いや、何言ってるんだ。俺がいるだろ」
すぐさま突っ込みを入れた。
なぜ孤軍奮闘することが前提になってるのか。
一人で抱え込んでても、鬱屈は加速するだけだぞ。
俺は少しだけ語調を真面目にして、エリックに告げた。
「頼れそうな奴がそばにいるなら、頼っていいんだ」
「…………」
自分にできないことを、思い悩んでいても仕方がないんだし。
そういう時くらい、隣にいる誰かに寄りかかってもいいだろう。
少なくとも俺は、大切な誰かに頼られても、迷惑だとは決して思わない。
俺の言葉に、イザベルも同調してくる。
「そうそう。私もいるしね。
どんなことがあっても、大概は大丈夫だよ。多分」
「イザベルの多分は、アテにならない気がするのは俺だけか」
「えー……レジスに言われたくないよ」
確かに。思わず苦笑してしまう。
でもな――たとえアテにならなくても。
いざとなったら、助けてやりたいと思う。
友人が困っていたら、手を差し伸べたくなると思う。
それが、友達の少ない俺なりの礼儀なのかもしれない。
大きく息を吐き、俺は窓の外を見た。
色々と敵は残ってるけど。
乗り越えなきゃいけない壁がそびえてるけど。
今はとりあえず、こいつらと一緒にいてもいいよな。
そうだ。
そういえば、実家に近況報告を全然してなかったな。
寮に帰ったら、シャディベルガ達に手紙を送るとしよう。
文面は、そうだな。
こんな感じでいいか。
そこにはただ、一言だけ簡潔に記そうと思う。
学院に来て、友達ができました、と――
第二章・完