第十三話 復讐の狼煙
――エリック視点――
血の匂いが取れない。
レジスを追い出してからもう一時間近く経つ。
ローブを水で洗い、何度も引用魔法の力で乾かしている。
だが、この不快な匂いだけが全く落ちてくれない。
くそ。
汚れてもいい服で、事に挑むつもりだったってのに。
レジスから逃げるように離れたせいで、完全に失念していた。
汚い血がこびりついて、なかなか取れない。
これは大切な物なのに。
親父と母さんが貧しいながら、オレのために買ってくれたものなのに。
畜生。
何であんな研究者の血で、ローブを汚さなくてはならない。
それに、オレは替えを一着も持っていないってのに。
ここでレジスが帰ってきたらどうなる。
あいつの澄ました顔を見るに、恐らくオレの行動に何らかの不信を感じているはず。
血の匂いだって、嗅がれてしまったはずだ。
こういう時、目的を達成するのならば、オレはどうするべきなのか。
すぐに答えは出る。
レジスの口を塞いでしまえばいい。
それくらい、分かってる。
頭ではとっくに理解している。
だが、レジスを殺す景観を、どうしても頭に思い浮かべることができない。
無理やり脳裏に描こうと試みた。
しかしそうなると、今度は万魔の書を持つ手が震えてくる。
まるでそれは、オレが望んでいないことであるかのように。
――『レジス・ディン。俺の名前だ。覚えとけよ、エリック』
なんだ、これは。
今までオレは、躊躇せずに障害は叩き潰してきた。
復讐を果たすまで、あと少しの所まで来ているというのに。
なぜ思い切れない。なぜ殺意が湧かない。
――『よおエリック。一日ぶりだな』
不快だ。
離れてくれと、強く言い放った。
だというのに、試験会場で話しかけてくる始末。
あいつは――レジスは、しょせん貴族の一人に過ぎない。
貴族ってのは傲慢で、強欲で、
下の連中が苦しむことを意にも介さないで、他種族と見れば平気で迫害する。
だから、オレは一番スッキリする破壊方法を取ろうとしてるんだろう。
あいつらは、さんざんオレ達から奪ってきたんだ。
だから、下の奴に歯向かわれても、文句は言えないはず。
正当性はこっちにあるはずなんだ。
何度も自分を説得しようとした。
だけど、レジスを手にかけるのだけは、どうしても拒否反応を示してしまう。
――『エリックを悪く言うなよ』
ああ、分かってる。
根本では理解してるんだ。
レジスは、今まで目にしてきた貴族とは違うんだって。
スリから取り戻した財布を渡した時点で、何となく気づいてた。
今まで、あんな目でオレを見てくれた奴なんて、一人もいなかった。
レジスはオレを、人として扱ってくれていたんだ。
対等な、一人の知人として。
正直言って迷惑にも程がある。
オレはあいつと友達になったつもりなんてない。
でも、少しだけ思う。
この復讐が終わって。
もし生き延びていたならば、オレは変わることが出来るんじゃないだろうか。
オレがそう思っていると、部屋の扉を叩く音がした。
誰だ。いや、言うまでもない。
さっき叩きだしたはずなのに、もう戻ってきやがったのか。
「エリック。俺だ」
間違いない。
この声はレジスだ。
やばい、まだ血の痕跡を消しきれていないというのに。
「もう機嫌は直ったか?」
気楽な声で訊いてくる。
邪険に突き放したというのに。
まるで堪えていない。なんつう忍耐強さだ。
いや、違うな。
図々しさか。
あるいはしつこさか。
そこまでして、何でオレみたいなゴミを構おうとするんだか。
思考からして、理解できない。
「ああ、入ってきてい――」
「ん? じゃあ、入るぞ」
「や、やめろ! 入ってくるな!」
「ど、どっちだよ」
思わず、返事をしようとしてしまっていた。
馬鹿か、オレは。
何をしてるんだ。
ここでレジスに全てがバレたら、終わりだろうが。
今まで積み上げてきた土台が、崩れ落ちてしまう。
ダメだ、やっぱりこいつはダメだ。
レジスが近くにいると、決心が揺らぐ。
邪魔なんだ。
オレの目的を遂行するためには。
ここで甘い感情に惑わされるのは愚の骨頂。
思いだせ、オレが何のために生きてきたのかを。
真っ直ぐで憧れだった親父を、何の咎もなく殺したラジアス家。
何の罪もない母さんを、毒牙に掛けたラジアス家。
それを止めようとしなかった、周りの貴族。
そして、今でも俺たち異種族を虐げようとする、上流階級の人間共。
怒りがふつふつと湧いてくる。
そうだ、もう止められない所まで来ている。
決行することは確定事項だ。
だからこそオレは、最初にあの研究者を排除したんだろう。
前の研究者の祭典で、親父がいなくなったことで最優秀者を獲得した男。
オレが本性を隠して実験体になると言ったら、二つ返事で了承しやがった。
ドラグーンの被験体だと聞いて、狂った目で喜んでやがった。
だが、もう奴は片付けた。
となれば、もうオレが出来る事はただ一つ。
オレは低い声で外にいるレジスに声を掛けた。
「なあ、レジス。茶化さずに答えてくれ」
「ん? どうした」
「何で、そこまでしてオレの相手をしようとする。
楽しいのか? 下民の行動を観察するのが」
「そんなのじゃないよ。
ただ、エリックは最初に会った時から、
なんか友達になれそうな奴だって思ったんだ」
「――うぜえよ、お前」
張り詰めた声で言った。
本当は、こんなことは言いたくない。
むしろ、こいつと少し話してみたかった。
でも、今は無理だ。
そして、未来ではオレとこいつは決裂するだろう。
今夜行うのは、そういうことだから。
「しつこいって言ってんだろ。オレはお前の顔も見たくねえ」
「…………」
向こうから帰ってきたのは沈黙。
くそ、何でオレがこんなことを言わないといけない。
悪態をついて、こんなに気分が悪いのは初めてだ。
でも、こいつだけは。
こいつだけは例外にしておかないと、オレの何かが壊れそうだった。
「絶対に中に入れさせねえからな。外で野宿でもしてろ」
「……おいおい、正気かよ。風邪引いたらどうする。
それなら、他の施設で泊まっちまうぞ」
「ダメだって言ってんだろ。外で寝てろってんだ。
建物の中に入らず、溝鼠みてえに道の脇で寝っ転がってろ」
言ってることが無茶苦茶すぎる。
オレは一体何を言いたいんだ。
でも、仕方がない。
オレの感情は、このことを告げておかないと壊れてしまいそうだ。
「庶民の生活を味わういい機会じゃねえか。
こんな横暴下民と同じ部屋になったことを怨むんだな。
分かったらさっさと出て行け」
「……エリック、お前――」
「出て行けッ!」
思い切り叫んだ。
部屋が声の波動で震える。
レジスはオレの罵倒を聞いて、残念そうな声を出した。
「……分かったよ」
そして、そのまま寮の外に出て行く。
急に叫んだからか。
息が荒くて、妙なものがこみ上げてくる。
顔に熱さを感じた。
手で確認する。
指に、何かの液体が触れた。
止めようと思ったが、全然止まってくれない。
「くそッ、くそっ!」
袖で拭っても効果がなかった。
今まで全く泣いたことがなかったのに。
淡々と、目的に向かって進んでこれたのに。
レジスが妙に近づいてくるから、感化されてしまったようだ。
だけど、この涙はそんなことで流れているわけじゃない。
単に、ここでレジスに会ってしまったことが悔しかった。
他の場所で、そしてもっと前に出会っていれば。
オレも愛想よく対応できたのかもしれない。
友達にだって――なれたのかもしれない。
でも、もうダメだ。
唯一の知人さえ、今の叫びで失ってしまった。
それを認識すると、余計に涙がこぼれ落ちてきた。
「……くそ。止まれよ、なんで止まらねえんだ」
もういい。
早く終わらせよう。
悪夢から解放されるには、10年前の呪縛から逃れるには、もうこれしかないんだ。
万魔の書を開き、使う予定のある引用文を慎重に確認していく。
相性がいい偉人の言葉でないと、全く効果がない。
今まで触れてきた思想や体術によって、引用魔法の威力は変動する。
そして一番最後から数項巻き戻った所に、最適な人物の名前を発見した。
『バルバロス・アポロナイザー』
通称・復讐鬼。
十六国時代の血塗られた狂人だ。
これを引用できるかぎり、絶対に負けることはない。
見張りがどうした。
一瞬で駆逐して、爆散させてやる。
生乾きのローブを再び着る。
どうせ生きて帰れる保証はないんだ。
今さら血の匂いなんて、考慮する意味もない。
夜になるまで待ったが、レジスは全く帰って来なかった。
案外、本当に野宿をしようとしてるのかもしれない。
悪いことをしたな。
きっと、オレを恨んでいるだろう。
でも、もういい。
元々オレは一人で生きてきたんだ。
一人に戻った所で、何も変わらない。
苛立ちと失望を募らせながら、オレは日が暮れるのを待っていた。
◆◆◆
すっかり日が暮れた。
寮を誰にも見つからずに出て、ある場所へ向かう。
人目を忍んで歩くこと数十分。
魔素供給所。
そこにオレは来ていた。
ラジアス家の要人が宿泊する場所に、限りなく近い場所。
ここは性質上、非常に守りが堅くなっている。
事前に忍び込んで偵察をした時に驚いた。
貴族と学院に雇われた魔法師が、数人がかりで目を光らせていたのだ。
普通の賊では、徒党を組んでも返り討ちにされることだろう。
だが、こっちは普通の賊ではない。
こういう奴らを突破するために、
オレは今まで引用魔法を必死に強化してきたんだ。
しょせん、この学院出身の親衛隊クラスだろう。
貴族の次男坊か三男坊たちってとこか。
強いのは確かだ。
だが、ぬくぬくとした環境で育ち、何一つ不自由せず生きてきた連中だ。
生まれながらに死と隣合わせで生きてきたオレとは根本からして違う。
当然、容赦も手心も加えるつもりはない。
供給所の裏側へ回り、人数を確認する。
いた。
発光するローブを着て、辺りを巡回している。
その数4人。
裏側を守っているのは2人か。
挙動を見るに、探知魔法を使っているな。
勘違いしてはいけないが、魔法で勝負するならあいつらの方が当然上だ。
魔法というのは魔法師にとって財産に同じ。
貴重な魔法というのは国の宝。
それゆえ、魔法学院でしか修得できない魔法も多い。
学院が一般には公開していない魔法が、数多く存在する。
そんなものを引っさげて卒業した奴らは、基本的に他の魔法師を圧倒する。
だが、勝負は魔法だけで決まるわけではない。
愚かな貴族には、それが分からないらしい。
嘲笑で思わず喉が震える。
露払いをするのに、魔法を使うつもりは一切合切ない。
それに、万魔の書を開いた瞬間、嗅ぎつけられてしまうだろう。
ここは身体能力を生かさせてもらおう。
それこそ、人間には出来ない戦い方で。
探知魔法の範囲は狭い。
ここで暴れても、反対側の人間は気づくことは出来ないだろう。
となれば、取る行動は一つ。
オレは脱兎の如く駆け出した。
死角から急襲をかける。
まず一人目の魔法師。
奴の首元に、全力で飛び蹴りを繰り出した。
「ぎぁッ!?」
その場に倒れて、悶える。
だが、敵襲に気づいた瞬間、すぐに受け身を取ろうとする。
同時に腰元からレイピアを抜こうとしていた。
いい動きだ。
だが全て、ドラグーンの身体能力の前では赤子に同じ。
魔法師の行動より早く、オレの踵落としが鳩尾に決まっていた。
「……か、ハ」
気絶して、ピクリとも動かなくなる。
体術の訓練をしているようだが、温すぎるな。
今の音を聞いて、もう一人が駆けつけて来ようとしている。
どこかに一旦隠れるか。
左右。
壁に覆われている。
前方。
行き止まり。
背後、魔法師がやってきている。
仕方がない、種族の力を使うか。
オレは壁に手を当て、思い切り握りこんだ。
べキャリ、と言う音がして、壁に指が食い込む。
この程度の材質では、ドラグーンの怪力に耐えることは出来ない。
半分人間・半分ドラグーンのオレでも、この程度の無茶は可能。
壁に掴まりながら、上に登っていく。
すると、ちょうど魔法師が倒れた仲間に駆け寄ってきた。
失神しているのを見て、舌打ちをする。
「……くそ、侵入者か。どこぞの気狂いめが。
ちょっと待て、今テレパスで連絡を――」
男が詠唱開始しようとする。
その寸前で、オレは壁から手を離した。
眼下の男に向かって一直線に落下する。
重力の力を味方に付け、魔法師の肩を踏み砕いた。
「ぎ、ぐぁあああああ!」
闇夜に不快な声が響く。
この程度では反対側には聞こえない。
とはいえ、黙らせておくに限る。
男の側頭部にトドメの足刀を叩きこみ、沈黙させた。
反対側の制圧は完了。
これで忍び込めばいいのだが、やはり目撃者は消しておく必要があるか。
正門側の連中も片付けておこう。
ゆっくり正門側へ回る。
こっちにも二人いたはずだ。
特に、今倒した連中よりも熟練の魔法師がだ。
指をバキバキと鳴らしながら、供給所の正門へ。
すると、そこには予期せぬ光景が広がっていた。
「……これは。一体、誰が」
魔法師は、二人とも昏倒していた。
一切外傷はない。
ただ単に、疲れたから眠っているという様子だ。
その二人は無造作に路地に運ばれている。
そうとう深い眠りに入っているようで、少し蹴飛ばしただけでは起きない。
どうやら、何らかの魔法で眠らされているようだ。
これなら放置していてもいいだろう。
しかし、これは誰がやったんだ。
魔法師を戦闘不能にして、得になる奴なんていないはず。
まさか、同じくここを襲撃しようとしている輩でも?
あり得ない。
学院を崩したい何て考えを持っている奴が、ゴロゴロいるとは思えん。
どちらにせよ、邪魔をするなら殺すだけだ。
「――開け、万魔の門」
万魔の書を取り出し、魔法を起動させる。
もうこれで、邪魔をする奴はいなくなった。
魔素供給所なんていう、魔法拡散が可能な場所の護衛がこの程度か。
いや、逆か。
親衛隊レベルの魔法師数人がなぎ倒される展開なんて、
誰も予想していなかったんだろう。
害虫が学院を食い荒らすことなんてない。
そう高をくくって、貴族どもは怠けていたんだろう。
オレが潰すまでもなく、いつか滅んでいたかも知れん。
だが、あの連中にとどめを刺すのはオレだ。
ぶちまけてやる。
積年の恨みを。親父達の無念を。
当然のごとく、正門には鍵がかかっていた。
物理的な鍵が二つ。そして土魔法で加護が張られている。
さすがに、鍵だけは厳重だな。
だが無意味だ。
オレは相性を高めるために、懐に手を忍ばせる。
木槌の木片に指を擦りつけ、血をなじませた。
その上で、引用魔法を発動する。
「――槌に壊せぬものはなし。
我が両腕にて、砕いた城門数知れず。
轟け大地の猛き豪腕――『ドルドルニア・ドワイフ』」
ドワーフの偉人の引用は難しい。
生きてきた環境や信念が、全く違うからだろう。
だが、こうやって遺物の力を借りれば、少しは相性も良くなる。
オレの腕から放たれた魔力が、一直線に門へと激突した。
激しい揺れとともに、土魔法の加護が弱くなる。
そこへもう一撃叩きこみ、完全に粉砕する。
鍵と加護を完全に破壊した後、門をゆっくりと開けた。
軋むような音と共に、奥へ開いていく。
造作も無い。
だが、少し反動で腹部が痛む。
くそ、普通なら反動なんて感じないのに。
限界を越える魔法を発動した時のみ、反動は牙を剥く。
それゆえに、魔法師が反動で転げまわるなんてことはあり得ない。
ちゃんと加減を知っているから。
とは言え、少し無茶をし過ぎたか。
呼吸を整え、中に入る。
魔素供給所の一番奥に、建屋らしきものがある。
そこで上位魔法を爆散させれば、貴族どもはひとたまりもない。
関係ない奴も死ぬだろうが、そこは諦めてくれ。
恨みは全て、上層貴族に向けるんだな。
万魔の書を握り締める。
もう少しだ、あと少しで復讐が終わる。
始まりは10年前の大惨事。
なんで俺がこんな目に遭わなければならない。
何度もそう思った。
親父を殺したラジアス一族を、この手で殺すため。
オレは陰謀に加担した研究者の実験体にまでなった。
あいつがオレを利用すると同時に、オレも奴を利用していた。
5年以上の人体実験。
オレはドラグーンの能力も相まって、異常な体術を持つようになった。
そして溜め込んだ魔力も、周囲の魔法師をはるかに凌ぐ。
十五という歳になって、やっと復讐する道が開けた。
オレたちを踏みにじって、高笑いをしたラジアス家。
特に――ジーク。
連中の面を思い出すだけで、震えが止まらなくなる。
長かった。
奴らに復讐するだけが、オレの存在意義だった。
だが、それも今夜終わる。
後はもう、どうにでもなれ。
オレが死んでも誰も悲しまない。
ただ土に還るだけ。
だから、一歩前に進んだ。
中の敷地を歩いて行く。
すると、オレの目に映る物があった。
人影だ。
朧に霞む月の光が、その人物を照らし出していた。
そいつはオレの進行方向に、立ちふさがるようにして立っている。
雲に隠れた月が、ようやく全ての光を解き放つ。
影がなくなっていき、そいつの全貌が明らかになる。
思わず万魔の書を取り落としそうになった。
だって、そいつが――レジス・ディンが。
こいつがここに来るなんて、想像もつかなかったからだ。
レジスはオレの姿を認めると、不敵に微笑む。
そして、まるで百年来の友人であるかのように、声をかけてきたのだった。
「よお、エリック。待ってたぜ」