第一話 始まりの鼓動
目を覚ました時、思うように動けなかった。
なんとか手先や足を動かすことはできる。
だが何というか、身体が未発達のような――そんな錯覚がした。
もしや両手両足に重大な怪我を負ったのか。
どうしよう、誰が医療費出すんだ。
親父……は無理だな。
奴はむしろ、寝込んでる俺に花瓶で止めを刺しそうだ。
そして妹も除外。
あいつに人の面倒を見る金なんてないはずだ。
請求書の引き受け先で首をひねっていると、頭上から声が聞こえてきた。
「……本当に、問題はないのかな」
男の声。
不安を感じているのか、トーンが低かった。
そんな彼に、誰かが声をかける。
「大丈夫ですよ。
生誕されて一ヶ月になりますが、この通り元気そのものです」
優しげで落ち着きのある声。
声をかけたのは女性のようだった。
なだめられて、男は深い息を吐く。
「ふむ……全然泣かないから心配になってね」
「我慢強さの証明ですよ。
この方であれば、ディン家を再興してくださるかもしれません」
ディン家。
なんだそれは。
うまく状況が飲み込めない。
男は力なく笑うと、俺に手を伸ばしてきた。
「僕の息子だけど、セフィーナの息子でもあるからね。
没落しちゃったとはいえ、彼女は剣と魔法で身を立てた貴族。
最初から身分の低い僕とは違うよ」
自嘲しながら、男は俺の頭を撫でてくる。
あやすような手つきで、心が少し逆立った。
俺には男に触られて喜ぶ趣味はない。
「お顔を拝見するに、奥様に似ていらっしゃる気がします」
「そこは僕も同感だけど、この黒い髪は一体誰に似たのかな……」
男が顔を近づけて、俺の髪に触れた。
なんか、妙にこの男の手が大きく感じるな。
気のせいか。
視力が弱く、先ほどまでは何も見えなかった。
しかし男が接近してきたため、
その容貌を把握することができた。
一言で言うならば、
気の弱そうな好青年――だろうか。
金色の髪に蒼い瞳が印象的だ。
演劇とかでよく見る――変に時代がかった西洋の服を着ていた。
ある程度歳は取っているみたいだが、そこまで衰えは感じない。
難しい顔をしている男の後ろで、
女性が思い出したように指を立てた。
「そういえば以前、こんな話を聞いたことがあります」
「なに?」
男は嫌そうな顔で振り向いた。
女性の言わんとする事を察したのかもしれない。
「優秀な人間と、劣等な人間。
両者の間に誕生した稚児は、髪が黒色になる――と」
「その場合、確実に僕が劣等だよね……」
男はため息を吐いた。
当然のことをわざわざ説明するな、と言いたげだ。
落ち込む男を気遣ってか、
はたまた追撃を加えるためか、
女性は首を傾げた。
「なぜ諦めるのです?
シャディベルガ様も今から優れた英傑になれば良いではないですか」
「無理だよ。僕はもう若くないからね」
この会話を聞いて、男の名前が分かった。
下の名はシャディベルガ。
名字は恐らく――ディン。
つまり『シャディベルガ・ディン』。
なかなか格好いい名前だな。
違法ホスト店を摘発した時に出てきそうなネーミングセンスだ。
調書を取る時も、是非その名を本名と言い張って欲しい。
偽名じゃないんだろうけどさ。
しかし、このシャディベルガという男。
ずいぶんと気弱な風貌をしているな。
名前負けしてる感が半端じゃない。
パシられそうなオーラを放ってるもの。
俺の高校時代を思い出してしまう。
シャディベルガは表情を引き締め、女性へ告げた。
「この子の名前は、セフィーナと一緒に決めたんだ。
自分の思うままに、人生を駆け抜けてもらいたいから。
セフィーナの故郷で『怒涛』の意味を持つ名前をつけたんだ」
シャディベルガは浅く息を吸い、
意を決したように言い放った。
「――レジス。この子の名前はレジス・ディンだ」
「素敵ですね」
女性は素直に褒める。
すると、シャディベルガは照れたように頬をかいた。
「だろう?
まあ実は、僕の意見を一蹴して、
セフィーナが決めちゃったんだけどね」
どこが二人で決めた名前なのか。
完全独裁じゃないか。
苦笑するシャディベルガに、女性は爽やかな笑顔で答える。
「奥様は苛烈でいらっしゃいますから。
シャディベルガ様が夜に主導権を握る日は、永遠に来ないでしょうね」
「…………ッ」
見透かしたような発言に、シャディベルガは絶句する。
反面、女性は得意げだった。
シャディベルガは辟易したように肩をすくめる。
「まったく……セフィーナの使用人は癖のある人ばかりだ。
ウォーキンスはその最たる例だよ」
「不用意に私の名前を口にしたら、後で奥様に言われますよ?」
「……気をつけるさ」
どうやら、この女性の名前はウォーキンスと言うらしい。
声は透き通るように綺麗だった。
しかし妙にミステリアスで、底知れぬ雰囲気を漂わせている。
ウォーキンスが使用人で、
シャディベルガが雇用者の夫という関係か。
その割には、パワーバランスがおかしいことになってるな。
「僕はセフィーナの所に行ってくる。
レジスから目を離さないようにね」
シャディベルガは逃げるようにして歩き始めた。
これ以上何か言われる前に、立ち去ろうとしたのだろう。
しかしその瞬間――唐突に俺の視界が揺れた。
シャディベルガが、何かに身体を引っ掛けたのだ。
一瞬の浮遊感の後、俺は床へと落下していく。
目測一メートル。
結果から言って、顔面から着地余裕でした。
とんでもなく痛い。
「……ぅ」
この野郎。
俺が寝ている揺りかごを落としやがったな。
絶対に許さない。
当局は全力を持って、抵抗勢力を根絶やしにすることを表明し――
……………………。
ちょっと待て。
揺りかごだと?
何で俺はそんなものに入っているんだ。
なぜか立ち上がれないし。
首に力が入らん。
もしや首の骨がイッたのか。
しかし痛みは走っておらず、怪我をしたわけでもないらしい。
この時、俺の身体が初めて目に入った。
そして、強い疑問が湧いてくる。
俺の手って、こんなにすべすべしてたっけ。
これじゃまるで――
「……ご、ごめんレジス。大丈夫かい?」
シャディベルガは急いで俺を抱き上げる。
あやすように軽く揺さぶっているが、
痛みが響くのでやめてほしい。
と、その時。
今まで視認できなかった女性――ウォーキンスの姿が目に入った。
二十歳に届くか怪しいほどに若い。
しかし、不思議と年齢の特定ができない。
肩口くらいまでの銀髪は眩しく、耽美な宝石を思わせる。
黒と白を基調とした給仕服に身を包んでおり、
愛くるしい容貌と相まって非常に似合っていた。
そんなウォーキンスは、困ったように声を掛ける。
「ダメですよ、シャディベルガ様。
首が座っていない時は、こうやって身体に預けるようにして抱くんです」
彼女はシャディベルガから俺をひったくる。
バニラアイスのような甘い芳香が鼻をくすぐった。
弾力のある柔らかな胸に頬が押し当てられて、非常に心地いい。
普段の俺なら、槍を持つ蛮族のごとく狂喜乱舞しているはず。
しかし、今はまるで賢者タイムであるかのように邪念がない。
未発達だから、性欲とかも湧きにくいのだろうか。
知らんけど。
「これからのディン家の興隆は、
レジス様の双肩にかかっていますよ」
ウォーキンスが少し身体を揺らす。
微細な振動だが、不安で思わず声が出てしまう。
「……ぁう」
「おや、返事をされました。
言っている意味がわかっているのでしょうか」
「そんなはずないだろ。まだ基本的な言葉も知らないはずだよ」
全部わかっているとは言いづらいな。
まあ伏せたほうがいいだろうな。
自分から言っても利はなさそうだし、異端児と思われても困る。
まだ、把握できてないことも多いのだけれど。
とりあえず、一つだけ分かったことがある。
一応、願いは聞き届けられたらしい。
俺は無意識に、拳を強く握りしめていた。
――新しい人生を、歩むことができるのかもしれない。
もう、終わりだと思っていたから。
全部無駄だったと、諦めていたから。
今の状況を実感して、涙が出そうになった。
新しい人生。
なんと甘美な響きだろうか。
普段は神に祈らない主義だが、今なら礼をしてやってもいい気分だ。
というわけで、心して聞け神よ。
俺が恐らく人生で一回しか言わないことだ。
――転生に、圧倒的感謝……!