第十三話 張り詰めた想い
連合国は大陸で最も商業が発達した国である。
当然、一日で名所を回りきれるはずもなく――
その後も数日に渡って首都ミリアンポートを見て回った。
ちなみに、俺たちが無権特区に赴いていた初日、
バドとソニアも色々と動いていたようだ。
俺とウォーキンスが帰館した時、既にバドは商館に戻っていた。
何かをやり遂げたような様子をしていたのが記憶に残っている。
しかし、なぜか彼のパーカーコートに新しい血が付着していたのだ。
それを指摘してみたが、
バドは「ちょっと激しくやり過ぎたわな」と下種な笑みを浮かべるだけだった。
何を激しくやったのかは聞くに聞けず。
まあ、恐らくはお楽しみだったのだろう。
ちなみにあの日、
ソニアは他商王との折衝に必要な手紙を書いていたらしい。
その後、無権特区で例の爆破事件が発生し、対応に追われていたそうな。
ソニアが動いてる時点で、
無権特区は連合国と関係ありまくりじゃないですかやだー、
と突っ込みたくなった。
しかし、戸惑いながらも頑張って商務に臨むソニアを見ては何も言えない。
波乱に満ちた初日だったが、それ以降は安泰に過ごすことができた――
そして今日。
ついに商王議の開催まで10日を切った。
参加予定の商王が続々と首都に集まってきている。
商王議の当日に俺がするのは、書状と石版を渡すだけという非常に単純な仕事。
しかし、お偉方の列席する場所というのはどうしても緊張する。
本心を隠さずに言えば、苦手だ。
多分、前世で経験した面接を思い出してしまうからだろう。
追想するだけで感情が仄暗く濁る。
何もできなかったから、何も言い返せなかった。
「――けど、今は違う」
その言葉とともに、俺は身体を起こした。
現在は早朝の4時。
町内のお年寄りと、互角の戦いを演じられる早起きっぷりだ。
他の部屋の前を通ったが、ウォーキンスとバドはまだ眠っているらしい。
ふと、装飾の華やかな館長室が目に入る。
ソニアが仕事をしている部屋だ。
ほんのりと明かりが廊下に漏れてきていた。
特にどうというわけではないが、中を覗き込む。
すると、ソニアは机に突っ伏して寝ていた。
「……まさかとは思うが」
死んではいるまいな。
就寝中に暗殺されていたら洒落にならん。
ゆっくり近寄ると、小さな寝息が聞こえてきた。
よかった、単に入眠しているだけだ。
だが――
「……風邪引くぞ」
ソニアは修道服のまま書類に顔を埋めていた。
そこまで薄い生地の服ではないだろうが、この時間はさすがに冷え込む。
俺は部屋の中にあるブランケットを手に取り、彼女の肩に掛けた。
すると、ソニアの身体がピクリと動いた。
「だ、誰――ッ!?」
怯えたようにガタンと立ち上がる。
しかし急な動きだったためか、バランスを崩して転倒しそうになった。
「……き、きゃあッ!」
「――っと」
俺は机に片手をつき、ソニアの背中を支える。
彼女は驚いた顔をしていたが、
俺を見ると、途端に安堵の息を吐いた。
「……れ、レジスさんでしたか。
ごめんなさい、お見苦しいところを……」
「いえいえ。風邪を引きそうだったので、ついおせっかいを」
しかし、異常な怯え方だったな。
まるで何かから追われているかのような挙動だった。
ソニアの顔色を窺っていると、彼女は俺の右手を指さしてきた。
「レジスさん、その手……」
言われて己の手に視線を注ぐ。
手の平に横線が走り、血が滲み出していた。
ああ、さっき手をついた時にペーパーナイフで切ったのか。
ずいぶんと血が苦手のようで、ソニアは凄まじく動揺している。
「あ、あぁあああ……わたしが片付けもせず手紙を書いていたばっかりに」
「かすり傷ですよ。平気です――」
見ていて痛々しいので、右手を懐に突っ込もうとする。
後で消毒しておけば問題ない。
しかし、ソニアは俺の手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「……え?」
若い女性に手を握られ、ドキッとしてしまう。
なんだ、握手会の予約はしていないぞ。
俺が錯乱していると、ソニアが魔力を込めて呟いた。
「勇邁の戦士に神の祝福を。
誉れの戦傷に癒しの息吹あれ――『カームブレス』」
傷口に魔力が注ぎ込まれる。
たまにアレクが放つ魔素の波動に似ている。
とても柔らかく、全身を弛緩させてくれるような心地良さ。
気づけば、手に負った傷が塞がりかけようとしていた。
「まさか、治癒魔法……?」
「はい。わたしが唯一使える魔法です」
驚いた。
才能によって左右される貴重な魔法だというのに。
熟練の魔法師を抽出しても、治癒魔法を扱えるのは1%もいないだろう。
知り合いの中でも、アレク程度のものだ。
俺は感嘆の声を上げる。
「すごい才能だ……」
「そ、そんなことありません。
魔法師の方みたいに、火や雷を出すことができないのです」
ソニアはしゅんと落ち込んでしまう。
確かに五行魔法への適正はなさそうだが……。
魔法師が喉から手が出るほど欲しがる治癒魔法を扱えるのだ。
もっと自信を持ってほしい。
「多少、魔法を学んでいたので断言しますが――
これは誇るべきことですよ、ソニアさん」
俺は彼女の手を握り返す。
すると、彼女は頬を染めてコクリと頷いた。
「そ、そうなのですか……。
商人には必要のないことなので、一度も誇らしいとは思いませんでした」
そんなこと言ったら、五行魔法も商人には必要ないだろうに。
まあ、日常生活が便利になることは確かだけど。
あとは実力行使になった時に五行魔法は強い。
しかし、治癒魔法というレアなものを使える以上、何も気負うことはないのだ。
「しかし……大変そうですね」
俺はソニアが突っ伏していた机の上を見る。
書き損じてくしゃくしゃに丸めた書状。
下敷きに飛び散ったインク。
そして血が付着したペーパーナイフ。
最後のものを除き、ソニアの気苦労が窺える机上だった。
「すごい量だ……手紙を書くのも骨が折れるんじゃないですか?」
「そんなことはありません。
わたしはただ、父様が整えてくれていたお仕事を、引き継いでいるだけですから……」
そう言って、ソニアは再び椅子に座る。
まだ作業の途中だったのだろうか。
俺はソニアの横に腰を下ろして尋ねる。
「まだ終わらない感じですか?」
「あ、いえ……あとは片付けをするだけです」
ソニアはあちこちに散らばった紙くずを一箇所に集める。
そして布を手に飛び散ったインクを拭き取ろうとしていた。
しかし、こびり着いたインクは非常に強固なようだ。
「手伝いますよ」
「そ、そんな……悪いです」
「こういうのは慣れているので、任せて下さい」
そう言うと、ソニアは恐る恐る俺に布を手渡してきた。
こういった清掃は得意中の得意である。
いやぁ、前世で自分の部屋に墨汁をぶちまけた時を思い出すな。
ふかふかの羽毛布団が黒く染まったのを親父に見られて、
『クク……我は漆黒の翼に抱かれて眠りし妄執の獣』とか言い訳してたら蹴り倒された。
あの時は泣きながら3日がかりで拭き取ったものだ。
トラウマ発掘作業はさておき。
薬剤に頼るのもいいが、擦り方一つでまったく落ち方が違う。
俺は布を強く握り、ゴシゴシと拭い始めた。
と、その時――書き損じの紙が目に入った。
そして、あることに気づく。
筆跡が二種類あるのだ。
少し丸く柔らかいタッチのものが、ソニアの文字であるらしい。
とすると、もう片方の筆跡は先代の――
無言なのも気まずいので、俺は丸まった紙を見て告げる。
「先代のナッシュさんは、持病で亡くなったんでしたっけ」
「はい……父様は、数年前から肺を病んでいました。
原因不明で、決して治らない死病のようでした」
病状は深刻だったらしく、過労になると喀血していたそうだ。
少しでも負担を避けるため、先代ナッシュは急激な動きなどは避けていた。
そんな父親の助けになるべく、ソニアは学業の傍ら、仕事を手伝っていたらしい。
「わたし、つい先月までは首都の学院に通っていたのです。
少しでも商売のことを学ぼうと、微力ながら必死で取り組んでいました」
コツコツと勉学を重ねながら、父親の商務を支える。
少女らしい生活などできず、ひたすら商売に心血を注いでいたようだ。
「代行の甲斐あってか、ここ一、二年は小康状態が続いていたのです」
ソニアの成長に伴い、先代ナッシュの喀血回数も減ったようだ。
一時期は普通の健康体にまで回復し、
もしかすると病が治るのではないかとも期待した。
だが、現実は非情だった。
「そんな折り――ドラグーンの襲撃で石版が持ちだされ、
父様が危篤に陥ったと聞いたのです」
ついこの間のことらしい。
学院で勉強をしている最中、この都市にドラグーンの軍勢が飛来した。
竜殺しや大海賊の奮戦あって敵に大打撃を与えたが、商王の命脈たる石版が盗まれた。
そして、石版の管理を任されていたのは、他ならぬアストライト家だった。
これでは他の商王に申し訳が立たない。
過多な心労を負った先代ナッシュの病が再発したのだ。
その時の喀血量は、
テーブルクロス一面を赤く染め上げるほどだったらしい。
「わたしが館に帰った時には既に……父様は息絶えていました」
ソニアは悲痛な顔をして俯いた。
胸が痛くなり、俺もインクを拭き取る手が止まる。
ソニアは修道服をギュッと握り、か細い声を出す。
「……声を掛けても、父様と呼んでも……返事を、してくれませんでした」
別れすら告げられず、父親が死んでしまった。
父に懐いていた少女にとって、残酷極まりない最期だろう。
俺は飛散したインクを拭い終える。
その瞬間、上目遣いのソニアと目が合った。
悲しいことを堪えている顔だ。
「これは、誰にも言えず、胸に仕舞っていたことなのですが……」
ソニアは俺から視線を切らないまま、胸元に手を当てた。
そして、見えない何かに耐えるように修道服を握りこんだ。
「わたし……怖かったんです」
ソニアはポツリと呟いた。
たった一言だが、感情のこもった言葉は重い。
彼女は窓の外を一瞥する。
「商会の私兵だって、最近までこんなに多くありませんでした」
元々はもっと少なかったんだろう。
しかし、増員する必要性が出てきてしまった、ということ。
ソニアは苦しげに昔のことを話してくれた。
「一昨年、父様が正体不明の悪漢に襲われたのです。
なんとか撃退できましたが、その一件でより病状がひどくなり――
暗殺なんて、今まで一回もされたことなかったのに……」
これは、バドが言っていた。
商王が友好を保って連携してきた連合国では、暗殺など皆無だったと。
しかし、帝国の息がかかった商王が増えるにつれ、襲撃や暗殺が激化し始めた。
しかし、先代ナッシュはその変化に対応。
私兵を増員し、他の商王にも自衛を呼びかけたのだ。
国王の言うとおり、本当に有能な人物だったのだろう。
「……早くに母様を亡くしたわたしは、父様だけが頼りだったのです」
ソニアの言葉からも、
先代ナッシュがどれだけ大きな存在だったかが分かる。
この都市を率いる商王として、
ソニアを大切に思ってくれる父として、
この家を支え続けていた人物だったのだ。
だからこそ、ソニアの苦しみはどこまでも大きくなる。
「しかし、父様がいなくなり、石版も失い、親帝国派に脅かされ……」
ソニアの声に絶望が混じり始める。
いや、違う。
取り繕っていた虚勢が剥がれ始めたのか。
彼女は少し自嘲気味に、不安を口に出した。
「わたし……思うんです。
家を継いだわたしも……父様や母さまみたいに、
何かの拍子に、死んでしまうのではないかと――」
「大丈夫です」
彼女の手を取る。
ソニアの陰鬱な予感を吹き飛ばすべく、
俺は確固たる口調で断言した。
「石版は俺たちが届けました。
商王議で中立派の商王を味方につければ、帝国派の商王も必ず沈黙します」
「でも、未熟なわたしについてきてくれる方がいるか……怖くて仕方がないのです」
なにを懸念することがあるのか。
一瞬そう思ったが、彼女の境遇を思えば理解できた。
ほんのすこし前まで、学院に通う一人の少女だったのだ。
しかし父の不幸により、急遽全ての命運を背負うことになってしまった。
たとえ有利な条件が揃っていても、不安なのだろう。
老獪にして辣腕な商王たちが自分に加勢してくれるのか。
そしてこの商王議が終わった後、国を治める要人の一員として認めてくれるのか。
目に見えない憂慮によって、ソニアは怯えているのだろう。
境遇は違えど、似たような想いをしたことがある。
あの時は結局、誰にも救ってもらえなかった。
しかし、いざ俺がそういった人を見かけたら――
あの時。
俺がして欲しかったことを。
その人にしてあげたいと思うのだ。
だから俺は――
「安心してください」
可能な限り優しく、ソニアに語りかけた。
「こうして出会った以上、俺は力を貸します。
きっとバドも、ウォーキンスも、ソニアさんを助けてくれるはずです」
少女の悲痛な顔を見るのは、嫌だ。
その状況を前にして静観するのは、もっと嫌だ。
大切な肉親を泣かせてしまった昔を、どうしようもなく思い出してしまうから。
「これでもまだ、不安ですか?」
俺は過去を精算するかのように語りかけた。
最後に、穏やかに微笑みかける。
すると、ソニアは少し驚いたように目を丸くした。
しかし、目尻を袖で拭うと、恐る恐る頭を下げてくる。
「いいえ……ありがとう、ございます」
その顔は、どこか安堵に満ちていた。
少しは憂いを払拭できたようだ。
ソニアは俺と目が合うと、気恥ずかしげに逸してきた。
しかし、再びためらいがちに上目遣いで見つめてくる。
「レジス様は、少しお父様に似ています」
……え。
先日に「似ている」と言っていたのは、このことだったのか。
まさかそんなことを言われるとは思わず。
俺は苦笑いしか返せなかった。
「俺は年下ですよ」
歳もそうだし、功績だってそうだ。
国王と肩を並べるほどの威厳など備わっていない。
しかし、ソニアはそれでも否定しなかった。
食い下がるように呟いてくる。
「……その、雰囲気がです」
「雰囲気?」
俺が訊くと、ソニアは顔を上気させた。
そして予想もしていなかったことを告げてくる。
「はい、まるで――娘や妹を慰めているかのようでした」
「…………」
なぜか、胸が締め付けられる感覚に襲われた。
たった一言、声を掛けて元気づける。
それだけでソニアの心を動かした。
こんなにも簡単な事だったのに。
なぜ俺は……妹に……。
「――――」
いや、やめよう。
昔できなかったことが、今できるようになったのだ。
むしろ喜ぶべきことである。
後悔を糧に、前へ進んでいこう。
きっと俺は、情けない顔をしていたんだと思う。
しかし、ソニアはそのことを指摘してこなかった。
なぜなら、彼女は――
「本当に……似て、いるんです。
わたしが……泣きそうになっている時に、
親身になってくれるところが……本当に……」
彼女の声に涙が混じり始めた。
今までひた隠しにしていた感情が――
張り詰めていた心が――
表に出てこようとしているのだろう。
彼女は目を合わせないまま、俺の裾を握ってきた。
「……失礼を承知で、お願いが……あります」
「なんでしょう」
「……少しで、いいんです。どうか、胸を貸して頂けませんか」
服の端を握る彼女の手は、どうしようもなく震えていた。
精一杯の感情表現なのだろう。
しかし、俺は即答できない。
なぜなら、彼女が求めているのは俺ではなく、今は亡き――
「俺はお父様じゃありませんよ」
多分、残酷なことを言ってしまったんだと思う。
しかし、構わない。
俺は誰かの代わりになんてなれないのだから。
釘を刺したが、それでもソニアはコクリと頷いた。
「……存じています」
「それでも良ければ、どうぞ」
俺は両腕を下ろし、胸の前から手をどけた。
すると、彼女は今にも消え入りそうな声で体重を預けてくる。
「……ありがとう、ございます」
俺の胸に顔をうずめてくる。
大国を治める君主の一人とは思えないほど、少女は弱々しげだった。
ソニアは頬を押し当てたまま、何かを呟いた。
「…………ます」
聞こえない。
多分、俺に向けた言葉ではないんだと思う。
自分の中で整理がついてないことを、言葉にしているのだろう。
残酷な今を、頑張って認めるために――
「思い、出します。
こうやって、父様に甘えていた昔を……」
じわり、と俺の服に水滴が染み込んだ。
それは間違いなく、ソニアの涙だった。
「……友達も作れず、家に引きこもっていたわたしを、頭を……撫でてくれて」
本当に、先代ナッシュは立派な人だったのだろう。
こんなにも肉親から頼りにされていて、悲しんでもらえる。
かつての俺とは真逆だったんだな。
抑えきれなくなったのか、ソニアは嗚咽を漏らし始めた。
「でも、もう父様は…………う、ぅううう、ぐすっ……ひぐっ……」
別れも告げないままの急死。
向けられていた愛が大きいほど、それは際限のない悲しみへと変わる。
心の支柱を失ってなお、気丈に振舞おうとしていたソニア。
ウォーキンスの言った通り、
泣き出したい気持ちをずっと押さえ込んでいたのだろう。
「……長生き、するって。
わたしの、晴れ着を……見るまで……ぜったい……死なないって……」
果たされなかった約束。
孤独の中に一人残されたソニアは、誰にも悲しみを訴えられなかった。
その蓄積した情念が、今ここで決壊したのだろう。
「とう、さま……ぅ、ぅううう……うわぁああああああああああああん!」
最後には、ソニアは大声を上げて泣き出した。
誰にも憚らず、感情を爆発させる。
俺は何も言わず、彼女の頭を軽く撫でた。
父親の代わりになろうとしたのではない。
ただ、頼れる人がいることを示したかった。
結局、ソニアが泣き疲れるまで、俺は彼女の想いを受け止め続けたのだった。
頼れる肉親とは、どうあるべきだったのかを、考えながら――
◆◆◆
どれほどの時間が経っただろうか。
窓の外は徐々に明るくなり始めていた。
夜が完全に明けたのだ。
同時に、俺は背筋から腰が軋みを上げていることに気づく。
眠っていて、ずり落ちそうなソニアを支えているのが原因だ。
別に彼女が重いわけではないが、
長時間姿勢を硬直させ続けているとさすがにキツい。
「…………ん」
と、ここでソニアが顔を上げた。
ぼんやりとした状態で、俺を見上げてくる。
なぜもたれ掛かったまま寝ているのだろう。
きょとんとした顔からは、そんな思考が見て取れた。
しかし、すぐに直前のことを思い出したのか。
ソニアは頬を紅潮させたまま、慌てて俺から離れた。
「し、ししし……失礼しましたっ!」
ソニアが離れた瞬間、俺はあることに気づいた。
彼女の口元から俺の服まで、唾液が糸を引いていたのだ。
見なかったことにして、俺もゆっくりと立ち上がる。
すると、ソニアは舌を噛みそうな早口で、謝罪の言葉をまくしたててきた。
「し、私的なことで、使者様に無茶を頼んでしまって……!
会ったばかりの間柄だったのに……!
と、ととととんだご無礼を…………!」
「別に構いませんよ」
放置していたら窓から飛び降りんばかりの勢いだ。
落ち着かせるため、俺は対照的に声を返した。
しかし、ソニアの狼狽は収まらない。
自分が何を訴えていたのかを、芋づる式に思い出してしまったのだろう。
あわあわと、弁解するように頭を下げてくる。
「……あの、あれは、気が動転して……!
父様に、似ているとか……変なことを言ってしまって……!
も、申しわけありませんでした!」
どうやら相当に気恥ずかしく思っているらしい。
まあ、本心を吐露するのは、誰しも抵抗があるものだ。
「そろそろ二人も起きてくると思いますので、俺は下に降ります」
なおも頭を下げようとする彼女に対し、俺は階下を示す。
すると、ソニアは俺を追い越すような勢いで扉を開いた。
「あ、わたしも行きます! そろそろ朝食ですので」
心なしか、ソニアの表情から鬱屈とした強張りが消えたように見える。
悲しみを発散させて、少し落ち着いたのかもしれない。
厨房へ滑りこんでいくソニアを見て、そう思った。
と、部屋の端に大きな箱があることに気づいた。
別に隠しているわけでもなさそうなので、ちょっと覗いてみる。
そこに入っていたのは――
「…………」
大量の聖典だった。
驚きの分厚さ。
しかも一つ一つが手書きで著されている。
箱の寸法から考えて、多分200冊は入っているだろう。
山積みの上に置かれたメモには、薦めた相手の名簿が羅列されていた。
一番新しい所に俺とウォーキンスの名前があり、丸印が付けられている。
その真上にはバドの名前とともに、バツ印が書かれていた。
名簿をずらっと見ると、90%以上の確率で受け取りを拒否されている。
受け取ったのは5人もいないようだ。
断ろうとしたら泣きそうになった理由がわかった。
なんだか俺までも悲しくなってくる。
「本当……敬虔なんだな」
連敗だらけの布教活動は見なかったことにしよう。
十六夜神、この国でも流行るといいな。
俺は部屋の扉を閉め、ソニアの後を追ったのだった。
次話→11/7(明日)
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