第九話 緊迫の酒宴
――レジス視点――
夜が明けて、俺たちはディン領に戻る支度を整えた。
原因は海から撤去した。
海に蔓延した魔素も減り、海獣の気配も消え去った。
これで船乗りたちも安心だろう。
ロギーの見立てでは、あと数日もすれば海の調子は元に戻るらしい。
ちなみに彼女は港町に残り、引き続き監督役を務めることになった。
とても心強い人と出会えたものだ。
海のことで困ったら、ロギーに相談するようにしよう。
色々と国際問題も起きたが、被害が大きくならずに済んでよかった。
船乗りたちの生活を守るという目標は達成されたことになる。
あとは二度と海が汚染されないことを祈るのみだ。
しかし、シャディベルガは妙に浮かない顔をしていたな。
昨夜に国王へ向けて使者を送ったと聞くが。
他のことで何かあったのだろうか。
屋敷に転送された桃色本を気にしているのかと思ったけど。
どうも様子が違う。
そのうち俺を頼ってくることがあるかも知れないな。
もっとも、その時は全力でもって応えるだけだ。
シャディベルガのためなら労力は厭わん。
屋敷行きの馬車に乗り、揺られに揺られて屋敷に到着。
馬車から出た時、俺はグロッキー状態になっていた。
途中でウォーキンスが魔法を使おうと申し出たが、丁重にお断りしたのだ。
身体に害はないらしいけど、幻覚魔法で酔いを吹き飛ばすのは気が引ける。
多少調子を崩すとしても、俺は自然体を貫くよ。
ちなみに、颯爽と屋敷に着いたシャディベルガだが。
中へ入るやいなや、数秒の後には絶望の叫びを響かせていた。
お嫁さんに愛されて、本望ですね……。
◆◆◆
近海で起きた不漁事件の解決から一週間が過ぎた。
つい先日、ウォーキンスは再び王都に足を運んでいた。
ドラグーンの歴史を説明してくれた時に使った資料を、借りた場所へ返却に行ったらしい。
なお、ウォーキンスとアレクの仲は未だに悪い。
いや、悪いというよりは『徹底的な無視』と言ったほうが良いか。
両者は意図的に顔を合わせないようにしており、
鉢合わせした時には相手がいないように扱っていた。
海の異変やドラグーンの襲来などの外患はもちろんとして。
親しい二人が疎遠状態にあるという内憂も深刻になっていた。
俺としては胃が痛くて仕方がない。
なんとかして、現状を変えるべきだ。
そう思っていた俺は、ウォーキンスが王都に行くと聞いて、あることを考えついた。
この修羅場を和らげるための緩衝材になる策である。
思い立ったら即座に行動。
俺はウォーキンスに感付かれないように、王都で一つの買い物を頼んだ。
同時に、俺はシャディベルガの許可を取り、倉庫の中を物色し始めた。
勝算はあった。
セフィーナに相談して協力を仰いでおいたのだ。
彼女もピリピリとした人間関係を見るのは嫌いなはず。
ウォーキンスが不在の間に、着々と内堀を埋めていった。
そして、数日が経過した後。
俺の頼んだものを手に、
ウォーキンスが王都から帰ってきた。
彼女は言う通りに指定したものを買ってきてくれたが、
『なぜこんなものを……?』と怪訝な表情をしていた。
しかし、俺の狙いには気づいていないみたいなので良しとしよう。
ウォーキンスが屋敷に帰ってきた翌日。
ついに作戦決行の時が来た。
俺はまず、ウォーキンスに声をかける。
「ウォーキンス、花見に行かないか?」
「花見……ですか?」
彼女はキョトンとした顔になる。
あれ……即答で『良いよ』と言ってくれると思ってたのに。
数秒の沈黙の後、彼女は不思議そうに聞き返してきた。
「花を見て何をするのでしょう」
「いや……それは……」
衝撃の事実が発覚。
なんとウォーキンス、花見を知らない。
俺は愕然とした。
――と、言うより。
この世界では、どうやら花見の文化が根付いていないようだ。
いや、もしかするとこの大陸だけなのかもしれない。
海を渡った外洋では、盛大な花見イベントをやっている可能性もある。
知らんけど。
「景観を楽しんだり、飲食したりするんだよ。
むしろ周りと一緒に楽しむのが主だな」
「……なるほど、そんな余興が。
このウォーキンス、浅学でした」
いやいや。
この分だと、他の人も全員知らないはずだ。
別に無知を恥じることはない。
知る必要を迫られて、
なお無知でいようとすることが恥なのだ。
嫌なことに直面するとすぐに目を塞いでいた、前世の俺のようにな。
ぺこりと頭を下げる彼女の姿を見て和んでいると、
ウォーキンスは微笑みながら告げてきた。
「しかし、レジス様からお誘いになるのは珍しいですね」
「嫌だったか?」
「とんでもありません。
嬉しい限りです。ぜひ同行させてください」
よかった。
『お前なんかと一緒に外を出歩けるか』なんて言われたらどうしようかと思ったよ。
安堵しつつ、俺はあることを切り出す。
「あ、そうそう。
この間買ってきてくれた物があるだろ。
あれもついでに持って行こうぜ」
書籍を王都へ返しに行くついでに、
ウォーキンスが購入してくれていたものだ。
あれがないと、今回の企画はドミノ倒しのごとく崩れてしまう。
というか、俺がある人物に怒りで襲われてしまう。
ウォーキンスは紙袋を抱えながら、困ったように眉をひそめた。
「少し袋を開けただけで、甘い匂いが……何が入っているんです?」
「人の嗅覚と味覚を楽しませる素敵な食べ物だよ」
間違ったこと言っていない。
少なくとも、それを食べて笑顔になる奴も存在するのだから。
しかし、さすがに彼女も袋の中にある物が普通の食べ物ではないと気づいたようだ。
俺の味覚を心配するように尋ねてきた。
「レジス様は……こういった菓子がお好きなのです?」
「まさか。俺は一口食べて戻したよ」
物理的にな。
それは人間の食べ物ではない。
同時に多くのエルフにとっても、食べ物とは認められないブツである。
「ちなみに、場所はどこで?」
「丘の上に樹がいっぱい植えてあるだろ。あそこにしよう」
誓いの神殿から少し南に行った所に丘陵がある。
見晴らしのいい丘で、勾配も大したことないので、眺望には持ってこいのはずだ。
俺の提案にウォーキンスも快く頷いた。
「丘の上の樹……”ケロンの樹”のことですね。
賛成です、今が満開の時期だと聞きますよ」
綺麗な花を咲かせる樹だとは思ってたけど。
そんな名前があったのか。
恐らくは古代の英雄の名前になぞらえているのだろう。
考察していると、俺達の話していた部屋の扉が開いた。
「……レジス。そろそろ?」
セフィーナが外出の準備を済ませて訊いてきた。
早い、まだ詳しい指示は出していなかったというのに。
彼女も乗り気ということか。
「そうだな。じゃあ向かおうか」
丘で落ち合う時間も決めてある。
余裕を持って出発しておいたほうがいいだろう。
と、ウォーキンスが心配するようにセフィーナへ声を掛けた。
「セフィーナ様もいらっしゃるのです?」
「……大丈夫。ケロンの樹を両断できるくらいには回復してるから」
例えが物騒だな。
あんな綺麗なものを伐採するなんて許しませんよ。
河川敷に生えた桜を全て伐採するようなものだ。
セフィーナが得意気に言うと、ウォーキンスも笑顔で答えた。
「そうですか。私も今日も今日とて調子がいいですよ。
今ならドワーフ鉱山の爆裂岩を切り裂いて、山脈を吹きとばせそうな気がします」
「……さすがウォン。すごい」
いや、すごいじゃねえから。
ウォーキンスも張り合おうとするんじゃない。
お前の力の片鱗を見てると、あながち冗談ではないように思えてしまう。
まだ少しぎこちない動きではあるが、
セフィーナは意気揚々と屋敷の外に出ようとする。
そんな彼女の姿を見て、思い出した。
「親父は無理そうなのか?」
「……急な視察が入って難しいみたい。
僕の分まで楽しんできてくれって」
「そっか、残念」
道理で朝から見ないと思ったよ。
また港町で何か起きたんじゃないだろうな。
しか懸念とは逆で、単に農耕地の視察に向かっただけらしい。
彼の精力的な仕事ぶりは、相変わらずだな。
隣に並んだウォーキンスを見て、セフィーナが首を傾げた。
「……ウォン。何持ってるの?」
「いえ、私もよくわからないのですが。甘味のようです」
「……いい匂い。ちょっと見せて」
「だ、ダメです。我が主に劇物を近づけるわけにはいきません」
劇物て。
いや、まあその通りなんだけど。
焦り顔のウォーキンスは初めて見たな。
これは貴重だ……セフィーナが無茶ぶりをした時にしか見れないご尊顔だ。
目に焼き付けておこう。
セフィーナは食い下がったものの、
最終的にはウォーキンスに説得される形になった。
「……ウォンのいじわる」
「当然の務めと言ってください」
ウォーキンスは苦笑気味に言った。
実際、その食べ物に手を出さなくて正解だよ。
人間ポンプになる覚悟がないなら、匂いを嗅ぐのもやめた方がいい。
かつての経験者として、
俺は重々しく頷いたのだった。
◆◆◆
誓いの神殿の先。
緩やかなスロープを登った先に、集合場所はあった。
俺はウォーキンスとセフィーナ達を置いて、真っ先にこの丘へと登って来たのだ。
ある少女と、ここで落ち合うために。
薄水色の花びらが舞い散る幻想的な風景。
ケロンの樹は、まるで涙を流しているかのように花を散らすのだ。
そして、樹が立ち並ぶ空間の中央。
そこに目標の少女はいた。
「よ、アレク」
「待っておったぞ、来たのじゃな。はちみ……レジスよ」
今、こいつ何て言いかけた?
言い直してもごまかせると思うなよ。
『蜂蜜たっぷりの二倍巻きトースト』って名前が口を突きそうになったんだろう。
間違えるにしても、俺を食べ物と見なすとはどういう了見だ。
俺が指摘すると、アレクは咳払いをして話を変えた。
「……しかし、珍しいのぉ。
花を愛でる趣味など、汝にはないと思っておったのじゃが」
「ふっ。趣深い風流人は、自分からひけらかしたりしないものさ」
まあ、俺に風流の気質なんて皆無なのだけどな。
一時期、茶道に興味が湧いたこともあったけど、数日でやめたわけだし。
足のしびれには勝てなかったよ。
「で、我輩の好物を買ってきたというのは本当か?」
「ああ。そろそろ到着するはずだ」
目を輝かせるアレクに対し、俺は満面の笑みで頷いてやる。
しばらくすると、丘の向こうからウォーキンスが走ってきた。
置き去りにして先行したものだから、何事かと心配したのだろう。
「レジス様ー、待ってくださいー」
彼女は俺の元に走ってこようとする。
しかしその寸前で、彼女は急停止した。
無言のまま、俺の目の前に立つアレクを注視する。
「…………」
さすがに出くわすのは想定外だったようだな。
ウォーキンスは無反応を貫き損ねたようで、アレクに視線を注いでいた。
そんな彼女に対し、アレクも睨み返す。
「…………」
両者は視線をバッティングさせたまま、完全に硬直していた。
下手な真似をすれば動き出して消し飛ばす――そんな意思表示にも思えた。
剣呑な雰囲気になったところで、俺が間に入る。
「そこで黙りこむなって。
同じ領内に住んでるんだから。
仲良くしろとは言わないが、交流くらいしてもいいだろ」
ひとまず、この重苦しい空気を解消したい。
そう思っていると、アレクが嫌そうな顔で悪態をついた。
「ふん、こやつと花を見るくらいなら泥沼を鑑賞しておる方がマシじゃ」
「僭越ながら、私も同感です。
アレクサンディアとは席を同じくしたくありません」
ウォーキンスは涼しい顔で言った。
口調や声調はいつも通りだが、どこか相手を拒むような意志が感じられる。
それに対し、アレクはムッとした様子で反論する。
「なんじゃ、今呼び捨てにしおったか? 汝も化けの皮が剥がれてきたのぉ」
「私は敬愛する方か、職務上呼ばざるを得ない方にしか様はつけませんので」
そうだったのか。
俺には様付けしてくれているが、どっちの意味でなんだろう。
後者だったら泣くしかないな。
「と、いうわけでして。
どちらにも当てはまらない貴方を敬称でお呼びできない無礼をお許し下さい。
大陸の四賢――アレクサンディア」
その一言で、アレクの片眉が吊り上がった。
いかん、相性が悪いというか、完全に因縁を引きずっている。
しかし、そんなことは百も承知。
それを理解した上で、溝を埋めるために花見会を企画したのだ。
一触即発の空気になったが、ここで救世主が現れた。
いつの間にか登って来ていたセフィーナが、二人の間に割り込んでいたのだ。
ちょうど俺と向き合う形で、アレクとウォーキンスの決裂を取りなそうとする。
「と、とりあえず。俺に免じて、とりあえず今回は穏便にしてくれよ」
「……続けられるとまた、具合が悪くなりそう。落ち着いて」
俺とセフィーナ、必死の説得。
狭い土地でお互い疎遠なのも嫌だが、
化学反応のごとく反発するのもやめてほしい。
二人もさすがに、自我を押し通すのは諦めたようだ。
アレクは俺の顔を見て舌打ち。
ウォーキンスはセフィーナに対して困ったような表情。
しかし、最後に二人は頷いてくれた。
「よかろう。この場は我慢するのじゃ」
「使用人として、私情を抜いて客人をおもてなし致します」
うーむ、ピリピリさは拭えないな。
しかし、こうして同じ席に座らせただけでも上等と言えよう。
この酒宴で必ずや二人の間の溝を浅くしてやる。
俺は敷物を取り出し、草原の上に設置した。
セフィーナは興味ありげにちょこんと座り、周りの樹を見上げた。
「……こうして皆で花を見るのは初めて。しみじみ」
「やっぱり、大勢で花見をしたりしないのか?」
「……うん。花を愛でる時は、たいてい一人」
やっぱり、花見って概念自体がないんだな。
孤独に花を見つめることはあるけれど、
祭りや宴会の一環として複数人で見ることはまずないらしい。
「まあ、花を凝視して終わりなわけじゃないからさ。
こういうのも楽しいと思うぞ、きっと」
むしろ、花を見るというのは口実である。
大方の場合、楽しく騒ぐために利用されるイベントと言ってもいいだろう。
こういった拗れた人間関係の修復にはもってこいのはず。
誰しも酒が入ればチョロいのだよ。
「蔵にある酒を出してきたからな。どんどん飲んでくれ」
前日から何往復もして、この場所に酒瓶や酒樽を運んでいたのだ。
すると、まさかのセフィーナが真っ先に酒へ手を伸ばした。
俺は慌てて彼女に確認を取る。
「母さん、まだ病み上がりだし、酒は控えたほうが……」
そう思って、茶や果実ジュースを用意していたのだ。
しかし、セフィーナは落ち着きのある声で言った。
「……大丈夫、差し障るほどは飲まない」
「そうか? 一応気をつけてくれよ」
小声でウォーキンスに確認をとったが、彼女は酒を嗜む方だったらしい。
また、それなりに酒への耐久力もあったという。
ただ、ある理由から呑み過ぎは控えているらしいが――
セフィーナ、アレク、ついでウォーキンス。
彼女たちの杯に酒を注いでいく。
爽やかな芳香。
口当たり爽やかと名高い王国西部の銘酒である。
エドガーが褒めていた酒名のものを、倉庫の中で選別しておいたのだ。
まさかこんな時にあいつの酒知識が役に立とうとは。
複雑な気分だ。
「……おいしそう」
先陣を切るようにして、セフィーナがスッと呷った。
一気に飲んだようには見えなかったが、中身はもう消えていた。
嚥下するスピードが早いのかもしれない。
「……おいしい」
「そりゃ良かった」
エドガーの目利きは間違っていなかったか。
セフィーナが流れを作ってくれたので、二人も抵抗なく口にする。
ウォーキンスは遠慮気味に、少しずつ飲んでいく。
アレクは何やら警戒しているのか、
舌を出して酒を舐めている。
猫かお前は。
「まさか、酒飲んだことないのか?」
いや、むしろ逆か。
少女の身体だから飲んだらまずいのかもしれない。
しかし、アレクの強靭なミニマムボディーが、
今さらアルコールにやられるだろうか。
「……エルフは普通、酒は嗜まんぞ?」
「え、そうなのか?」
「最近の者は平気で飲むようじゃがな……我輩には理解できん」
エルフの峡谷で宴会をやった時は、醸造酒か何かを飲んでいた気がする。
あれはみんな若いエルフなのか。
言われてみれば――
年の行ってそうな奴は、水か果実のドリンクだけ飲んでたような。
エルフの間でも世代差があるんだな。
「数百年前、一部の種族の間では、酒は毒と信じられていたんですよ」
「なるほど……それでか」
「もっとも、未だに俗説を信じているのは、お年寄りの老エルフばかりですけどね」
その瞬間、アレクの眼が険しくなった。
そうだった。
こいつは歳の話を好まないんだっけ。
「いちいち突っかかってくるのぉ、汝は」
「事実を申し上げただけですが、お気に障りましたか?」
ウォーキンスは首を傾げる。
その態度に、アレクは不満を爆発させた。
「ふん……見ておれ、こんなもの楽勝じゃ!」
そう言って、彼女は酒を手にとった。
内容量2Lはあろうかという酒瓶。
まさか、一人で飲み切る気か?
「おいおい、無茶するなって……」
「――ならば汝が飲むか?」
「イイエ、遠慮シマス」
思わず声が裏返ってしまうほどの威圧感。
アレクは蓋を取ると、なんとそのままグビグビ飲み始めた。
杯なんてなかった。壮絶なラッパ飲みである。
「やっぱダメだ、やめとけ! それで死ぬ奴もいるんだぞ!」
ひったくろうとしたが、アレクはひらりと身を躱した。
なにお前、みかわしの服でも着てるの?
俺が止める間もなく、アレクは最後の一滴まで舐めとってしまった。
口元を拭いながら、ウォーキンスに挑発の笑みを向ける。
「……なんじゃ、大したことないではないか」
こいつも化け物だったか。
一口飲んだら顔が真っ赤になりそうな酒だというのに。
それを完飲して平然としている姿に、思わずドン引きする。
「しかし、レジスよ。いつの間に空間を歪める魔法を覚えたのじゃ。
我輩の視界を乗っ取るとは、なかなかの腕じゃぞ」
「安心しろ、それは魔法じゃなくてお前の自滅だ」
やっぱ酔ってたよ。
まあ、当然といえば当然か。
しかし、挙動や言動はいつもと変わってないな。
酔い潰れないだけ凄いな。
「で、我輩を挑発しておいて、汝は飲まんのか?」
アレクがウォーキンスに皮肉のこもった言葉を浴びせる。
「私はお酒が苦手なのですが……」
「いいや、別に飲まなくても良いのじゃぞ?
我輩は生まれてこの方、他者に強制などしたことはないのじゃからな。
特に、弱者をいじめるのは何よりも嫌いなわけじゃし」
嘘をつけと。
嬉々として人を動かしてただろうが。
普段はいかなる罵声にも動じないウォーキンスだが、
アレクに煽られるのは我慢ならないようだ。
「分かりました。では、少しだけ……」
ウォーキンスは杯に入った透明な酒を、舌の先で舐めとった。
チロリと舌を出す姿が非常にキュートである。
しかし、意を決した上であの慎重さ。
ひょっとして、本当にアルコールの類が無理なのか。
「何じゃそれは。我輩は酒を飲めと言ったのじゃぞ?
盃を舐めろとは言ってないはずじゃ」
「……分かっています」
ウォーキンスはふっと眼を閉じた。
精神を統一しているように見える。俺は彼女の傍に寄り、耳打ちした。
「おい、無理しなくていいぞ」
「……いえ、このウォーキンス。怨敵からの挑戦は拒みません」
怨敵て。
ウォーキンスからすると、アレクはそう映っているのか。
酒盃を口元に近づけて、彼女は覚悟を決めるように呟いた。
「……行きます」
ウォーキンスはなみなみ注がれた酒を嚥下していく。
苦しそうな表情だ。
俺が初めてビールを飲んだ時のような顔をしてるな。
美味しさというものが一欠片も感じ取れないのだろう。
「……ふぅ」
最後にコクリと音を立てて飲み干した。
すると、ウォーキンスの顔がほんのり赤くなる。
視点は虚ろで焦点が定まっていない。
酒に弱い人の、典型的な泥酔症状だ。
ふらつく手つきで杯を置くウォーキンスを見て、アレクが哄笑した。
「クククッ。なんじゃ、本当に下戸じゃったのか。
よくそれで我輩に茶々を入れられたものじゃな!」
「……何を」
ウォーキンスが眉をひそめる。怒っているのか。
これまた滅多に見られない表情だ。
心配したセフィーナが、彼女の背後に回ってささやいた。
「……ウォン。解毒魔法、使えたよね?」
それを聞いて、ウォーキンスはコクリと頷いた。
言わんとすることがわかったようだ。
彼女は魔力を解放して詠唱を行う。
「人身蝕む粗悪の毒を、打ち消せ聖たる魔の毒よ――『ポイズンクリア』」
解毒を魔法によって行うことは、本来ならば至難の業である。
毒に対しての薬を、魔法で作ることは不可能だからだ。
しかし、魔力の持つ毒性を異常なまでに高め、身を蝕む毒に対抗させることはできる。
要するに、中和だ。
毒で苦しめることができるということは、
同時に毒に毒をぶつけて無効化することもできるということ。
「……ふぅ、やっぱりお酒は苦手です。
毒魔法を覚えていなければ危ないところでした」
魔法の詠唱により、ウォーキンスの顔色が元に戻った。
一つ息を吐いて、彼女はしみじみと嘆息する。
――毒魔法。
大昔にこの大陸でも深く研究が行われたが、
ある魔法師が災害級の毒を各国に撒き散らす事件が起きた。
それ以降、この大陸では表立っての研究が禁止されている。
まあ、連合国や北方小国などはその限りではないようだが。
王国においては、”禁忌魔法”の第四例として固く研究や使用が禁じられている。
ちなみにエリックの引用魔法は、禁忌魔法の第七十二例に指定されていたはず。
黒い歴史でいっぱいな毒魔法だが、
ウォーキンスはなぜか習得しているのだ。
毒をもって毒を制したウォーキンスを見て、
アレクは忌々しげに呟く。
「ふん、相変わらず汚れた魔法ばかり使いおって」
「禁忌魔法の塊である古代魔法師に、
責められる謂れはないと思うのですが……」
軽口に対してささやかな反抗。
どうやらウォーキンスも完全に酔いから回復したようだな。
心なしか、どんどん両者の怨みが表に出てきている気がする。
とはいえ、アレクもいきなり魔法をぶちかましたりはしない。
イザベルとの激闘、そして俺の仲裁。
数えきれないほどのやり取りの果てに、
ようやく穏便な争いの仕方を覚えてくれたのかもしれない。
先生は嬉しいです。
目頭を抑えて感激していると、アレクが声をかけてきた。
「レジスよ、汝は飲まぬのか?」
「いや、俺はいいよ。下戸だし酒癖悪いから」
「なんじゃ、つまらんのぉ」
アレクは残念そうに肩を落とす。
酌に付き合えなくてすまんな。
ついでに下戸というのは嘘である。
ただ、もう酒で失敗はしたくないので、極力飲まないことにしている。
仕方ないね、クリスマスの悲劇を繰り返すのは嫌だからね。
「……私も、そろそろ満足」
「なんじゃセフィよ。まだ2杯じゃろ?」
「……酔うと我を忘れちゃうから」
酒に弱いわけではないようだが、セフィーナは自粛気味らしい。
まあ、まだ快復してから日も浅いことだし。
あまり飲み過ぎるのはよくない。
何事も適量が一番だよ。アレクはじっと酒瓶を見渡す。
「……ふむ、酒が余り気味じゃな」
「お一人で飲みきってみてはいかがでしょう」
ウォーキンスは爽やかにとんでもない提案をする。
樽に換算したら1樽は余裕であるぞ。
こんなものを一気に飲んで大丈夫なのだろうか。
エドガーなら平気で飲み干した後――
『もうないのか。ちょっと酒場に買い出しに行ってくる』
とか言い出しそうだけど。
かたや酒が苦手な使用人と、かたや飲酒に慣れていない幼女だ。
この先には地獄が待ち受けている気がするな。
「まあ、それでも構わんぞ」
構わないのかよ。
胸を張って自信満々に返答しているが、
後でデロンデロンになっても知らんからな。
「しかし、素直に聞き入れるのも芸がない。
どうじゃ、ここは我輩と勝負してみるというのは」
「……勝負?」
ウォーキンスが怪訝な顔をする。
先日、いきなり襲いかかられたことを思い出したのかもしれない。
警戒する彼女に対し、アレクは小悪魔っぽく笑う。
「どうした、我輩が怖いか?」
「……いいでしょう、受けて立ちます」
ウォーキンスは覚悟を決めたように立ち上がった。
すると、アレクもゆっくりと直立する。
両者にらみ合い。
心なしか、ケロンの木に咲いた花がいっそう舞い散っているような。
案外、樹木も怯えているのかもしれない。
二人が火花を散らし掛けた寸前、俺とセフィーナが止めに入った。
「こらこら、花を見ろ花を。血なまぐさい決闘をするのは許さんぞ」
「……ぅ、気分が悪くなってきた、かも」
セフィーナはよろよろと体を揺らしてみせる。
すごくわざとらしいが、可愛いから良しとしよう。
俺たちの介入を受けて、アレクは肩をすくめる。
「なに、平和的な争いじゃ。暴力は一切行使せぬ。
しかし、たまには緊張感を持たねば腑抜けてしまうからの」
「そこに関しては同感です」
ウォーキンスも賛同してどうする。
こいつらの魔力やらを考えると、何の競技をやらせても死人が出そうだ。
確実にスポーツマンシップに則るどころか、俺ルールで乗っ取る勢いだよ。
戦々恐々としていると、ウォーキンスが案を出した。
「では、コイントスで勝負するのはどうでしょうか」
「……なんじゃと?」
アレクが過敏に反応する。
コイントス。
投げたコインをキャッチし、
表と裏のどちらが出ているかを当てることにより勝敗を決するゲーム。
ただの遊びにも思えるが、アレクに対して提案する場合、その意味合いは変わってくる。
「大陸の四賢のお家芸でしたよね?
ルール決めも面倒ですので、四賢英雄譚の伝記に則ったものにしましょうか」
そう。
かつて大陸の四賢は、頻繁に仲間内でコイントスをしていたのだ。
リーダー的な存在がいる時は彼女の指示に従っていたが、問題はそれ以外の時――
四賢同士で意見が割れた時には、まず徹底的に話し合い、両者の意見を交換する。
それでもなお対立するようであれば、コイントスで方針を決めていたという。
王国の英雄譚を取り扱った本では有名なエピソードである。
しかし、当の本人であるアレクは気分を害したようだ。
「……嫌味な奴め。
我輩がコイントスで四賢中最強じゃったことを知っての狼藉か?」
「いいえ、一切知りません」
「はっ、よかろう。汝に格の違いを叩き込んでくれる」
アレクはバキバキと拳を鳴らす。
本当に暴力なしの勝負になるのだろうか。
まさか相手の命を滅する競技とかじゃないだろうな。
「天地に誓って殴り合いはするなよ」
「……コイントス。奥が深そう」
釘を刺しておいたので、ひとまず安心だろう。
アレクは気合を入れた上で、ルールの確認をした。
「勝利条件は三本先取。
表裏は先に宣告した方が決める、ということでよいな?」
「いいでしょう」
宣告のタイミングは自由なのか。
まあ、何だかんだで宣告するのはキャッチした後だろう。
二人の駆け引きに期待しよう。
さあ、息を呑むような心理戦の結末やいかに――
「うぉりゃああああああああああああああああ!」
アレクが渾身の力でコインを弾いた。
銃弾のごとく吹き飛んでいく小さな影。
それは上空へ高々と舞い上がって行き、星のように消えた。
落ちて、来ない。
「……それはねーよ」
全員の非難の視線が、
アレクに集まった瞬間だった。
次話→多分7/26、可能なら7/25
ご意見ご感想、お待ちしております。
――以下、広報――
書籍版の発売日(7/25)まで、いよいよあと2日になりました。
なんと今日の時点で、既に購入された方もいらっしゃるとか……ゲフンゲフン。
書店で見かけた際には、手に取ってやって頂けると喜びます。
WEB版も書籍版も、両方楽しめるものにしていきますので、
これからもディンの紋章をよろしくお願いします。