第八話 父の想いと漂着物
港町に到着した後。
ようやく復調したシャディベルガは、
引き揚げられた巨竜を見て卒倒しそうになっていた。
毛根にダメージが行ってないことを祈りたい。
仕事が増えて意気消沈していたシャディベルガだが、
きっちりとやるべきことの算段をつけていたようだ。
引っ張ってきた巨竜は船着場の広場に安置している。
そして俺達は、酒場の2階で休憩がてらの会議を開いていた。
俺はシャディベルガに端的に尋ねる。
「で、あの竜はどうするんだ?」
「ひとまず、何か手がかりがないか探ってみるよ」
黄金色をした竜の体内を精査するらしい。
解体作業にはならないと思うが、グロテスクなのは苦手だな。
せっかく船酔いから脱したのに、違う要因で吐きたくない。
ひとまず、他の所からアプローチをしてみるか。
幸いにして、ウォーキンスはあの竜に心当たりがあるみたいだし。
そう、あるみたいなんだが――
「……ウォーキンスはどこに行った?」
港に戻ってきてから、彼女を見かけていない。
たまに姿を消すことはあるが、その時は必ず事前に予告をするのだ。
疑問に思っていると、シャディベルガが返事をしてくる。
「ああ、彼女なら転移魔法で王都に飛んでいったよ。
大急ぎで頼む――と念を押したからね。
レジスに声を掛ける暇もなかったんだと思う」
なるほど、急ぎなら仕方ないな。
ただ、わざわざそんな遠方に出かけるなんて。
「なんで王都に?」
「あの竜に関連する文献や書物を借りてきて欲しくてね。
見つけたらすぐに戻ってくるって――」
と、その瞬間。
密閉された部屋に旋風が巻き起こった。
魔法陣が地面に現れ、魔力の波動が吹き荒れる。
これは、前に見たことがある。
転移魔法に伴う魔素の嵐だ。
俺とロギーは踏ん張ったが、シャディベルガが波動に巻き込まれた。
彼の身体がふわりと宙に浮く。
いかん、このままでは壁に激突してしまう。
俺はとっさにシャディベルガに手を伸ばした。
「うぉおおおおおおおおおお!」
遠ざかっていく彼の身体を、渾身の力で追う。
届け、俺の右手――ッ!
次の瞬間、掌に硬い感触を感じた。
俺は歓声の声を上げる。
「よし、つかんだ!」
――シャディベルガの右脚を。
……正直、すまんかった。
当然のごとく、シャディベルガは悲鳴を上げる。
「あだだだだだだだ! 関節がッ、関節が痛い!」
悪いなシャディベルガ。
無意識に最短距離でつかめたのが脚だったんだ。
今さら持ち変えるのは不可能。
このまま力を込めて、突風の如き波動に耐えようとする。
しかし、シャディベルガは痛みと酔いの嵐に襲われているようだ。
「れ、レジス! もう少し他の場所を持ってくれ!」
無茶を言ってくれるな。
そんな器用な真似はできない。
あと掴める部位と言ったら、髪くらいしかないぞ。
そこなら手が届くが、思い切りつかむのは色んな意味で気が引ける。
吹っ飛んでいきそうなシャディベルガの身体。
しかし、押しとどめている内に、吹き荒れる波動が収まってきた。
魔法陣が消滅するのと同時。
シャディベルガの背後に、一人の少女が現れた。
「――ウォーキンス、ただいま戻りました」
やはりお前か。
シャディベルガが吹っ飛びそうな方向に現れたということは、
万が一の場合、受け止めようとしていたのかもしれない。
しかし、そんな配慮ができるなら、もう少し穏便に現れて欲しかった。
ウォーキンスは、脇に何冊かの本を抱えている。
それが竜の正体につながる資料なのだろうか。
書物に目線をやる俺の横で、シャディベルガがヨロヨロと立ち上がる。
九死に一生を得た彼は、荒い息を吐いてウォーキンスに文句を言う。
「危ないよ! もう少しで大惨事になるところだったじゃないか!」
「申し訳ありません。
しかし私は、『迅速第一』で書物を取りに行くよう命じられたわけでして。
使命を忠実に遂行したにも関わらず叱責されるのは、少し心外です」
「……う」
シャディベルガは声を詰まらせる。
どうやら指示の出し方を誤っていたようだな。
相手は茶目っ気と悪戯心の塊、ウォーキンスだぞ。
裏をかかれるような頼みをしてはならん。
「魔法陣を外に設置しておくとか、やりようはあっただろう?」
「そうすると、市井の民が巻き込まれる可能性があります。
私の魔力は断罪の鉄槌――罪なき人に浴びせるわけにはいきません」
ウォーキンスは微笑と共にそう言った。
しかし、波動の余波とはいえ、
シャディベルガに魔力を飛ばすのは初めて見たな。
不可抗力だったのかもしれないが、少し引っかかる。
「そうか……なら仕方ないね。
でも、その言い方だと、まるで僕に罪があるみたいに聞こえるんだけど」
シャディベルガは心外といった様子だ。
しかし、ウォーキンスは全く逆の反応。
吐息と共に残念そうな顔をする。
「そうですか……心当りはありませんか」
「な、何でため息を吐くんだ?」
シャディベルガは不安そうに尋ねる。
しかし、ウォーキンスは頭を下げるだけだった。
「いえ、この話は終わりにしましょう。
この通り謝らせて頂きます。
領主に向けてのご無礼……申し訳ありませんでした」
「いや、別に気にしてないよ。
だけど、自覚がないってどういう意味なんだ?」
しおらしく謝るウォーキンスに、違和感を覚えたのだろう。
シャディベルガは恐る恐る訊いた。
すると一転、ウォーキンスは晴れやかな笑顔で答える。
「いえいえ。書物を取りに行くついでに、
ある方が取り置いてもらっていた物を受け取っただけです」
そう言って彼女が取り出したのは、桃色の装丁をした本。
お馴染みのピンク書物――今回はお嬢様特集らしい。
妖艶な女性の写し絵が、見事に表紙を飾っていた。
それを見てシャディベルガは絶句する。
「そ、それは……!」
「それは?」
「……ッ。な、なんでもないよ」
今、誘導尋問に引っかかりそうになったな。
ただ、意図に気づいたようで、シャディベルガは首を振った。
どうやら水面下で、生死を懸けた心理戦が始まったようだ。
俺は事の成り行きを見守る。
「そうですよね。
こういった書物は二度と買わないと誓ったシャディベルガ様が、
新たに購入を検討しているはずがありませんからね。
「あ、当たり前じゃないか……はは」
まあ、俺は分かっていたけどな。
禁止令や禁止の誓いを出したところで、その欲求は止められない。
我々収集家というのは、悲しき人間である。
収集欲のままに、つい集めてしまうのだ。
それを責めることは俺にはできんよ。
もちろん、助けることもできないけどな。
ウォーキンスは本の包装紙を見て、
さらなる追撃の言葉を繰り出した。
「しかし、妙ですね。受取人がディン家になっています」
「ディン家の名を騙るなんて許せないな。
後でゆっくり調べるから、ひとまず僕が預かっておくよ」
おお、シャディベルガが反撃に出た。
ウォーキンスの動きを読んでいたようだ。
少し苦しいが、これで本を手中に収める大義名分ができた。
あとは彼女がどう反応するかだが――
「そうですか? では、お任せします」
ウォーキンスは特に何も言うことなく、シャディベルガに本を差し出した。
シャディベルガは怪訝な顔をしながらも、安堵して手を伸ばす。
いざ譲渡されんとする、その瞬間――
ウォーキンスの手から本が消えた。
「え……」
シャディベルガが呆けた声を出す。
何が起きたか理解できないようだ。
俺は一瞬マジックかと思ったが、魔力の残存を感知して全てを悟った。
ウォーキンスは無邪気に微笑み、恭しく謝った。
「あ、申し訳ございません。転移魔法で転送してしまいました」
「ど、どこに……?」
シャディベルガの顔が蒼白になる。
そんな彼にトドメを刺すかのように、ウォーキンスは宣告した。
「ディン家の屋敷――セフィーナ様のお部屋ですね。ついうっかり」
「うっかりじゃねぇえええええええええええ!」
シャディベルガはテーブルに倒れ伏した。
魔法陣の波動を交えた出現は、
この一撃へつなげるための布石だったというのか。
汚い、さすが策士汚い。
ウォーキンスの策略を見て、俺は戦慄していたのだった。
◆◆◆
「ドラグーンが信仰する二柱の竜王?」
「はい、その片方が黄金竜なのです」
俺の問いに、ウォーキンスが答える。
完全に脱力しているシャディベルガ。
反対にハツラツとしているウォーキンス。
そんな二人に挟まれて、引き揚げた竜の分析が始まっていた。
なお、そんな俺達から離れたところで、
ロギーは床に腰を下ろしていた。
今のところ、話に参加するつもりはないらしい。
まあ、彼女にも考えがあるんだろう。
ウォーキンスは書物の頁をめくり、要点を挙げていく。
その上で、ドラグーンの歴史と、竜の信仰についてを説明してくれた。
はるか古代の昔。
全てのドラグーンは、一つの山岳に居住していた。
その山の名は『竜神岳』。
ドラグーンの始祖が”始まりの白竜”と契約を結んだとされる場所だ。
肥沃と豊穣に満ちた山岳地帯の元、ドラグーンは隆盛を極めた。
人間による大国が生まれる遥か昔から、ドラグーンは集住していたのだ。
「ドラグーンが誇り高いのは、
長い歴史と聖地の存在があるからですね」
かの昔、ドラグーンの始祖は、竜の祖である白竜と契約した。
共に歩み、共に戦うことを誓ったのだ。
竜神岳の元で、始祖の一族が勢力を持ち始めた頃――白竜は子を為した。
それこそが、黄金竜と漆黒竜。
現在に至るまでドラグーンから信仰される、絶対的な存在である。
「この二柱の竜王を生み出した際、
白竜は衰弱して息絶えてしまったといいます。
ドラグーンの種族信仰では、
『魔力を次代に託した聖なる奇跡』と解釈しているようですね」
そして、白竜が没した後。
遥かな時が経過した。
その間、残された二柱の竜は正反対の方向で畏敬を集めていた。
漆黒竜は――竜神岳を守るため、奥底にて静かに眠り続けた。
黄金竜は――子孫に使命を渡し、ドラグーンを見守り続けた。
天命に没していく歴代の黄金竜と違い、漆黒竜の寿命は非常に長い。
何かの拍子に死んでいなければ、今現在も生きているかもしれないのだ。
まあ、その可能性は低いとウォーキンスは言っていたのだが。
「一代限りで竜神岳を守る竜と、代を重ねてドラグーンを守る竜。
この二柱を中心とした結束によって、
ドラグーンは非常に強い勢力を形作っていたのです」
――この大陸に邪悪なる影が迫る、500年前までは。
最後に、ウォーキンスはそう付け加えた。
邪神の襲来で、ドラグーンの栄華は崩れたのだ。
今から遡ること500年前。
大陸に侵入してきた邪神によって、有力な国が次々と滅ぼされた。
竜神岳の南にあった共和国は、戦う前から都市を放棄。
『火急の危機にあっては種族の垣根を超えるべきだ』
共和国の人々は声高に叫び、竜神岳へ逃げこんできた。
そして、ドラグーンの聖地は邪神の熾烈な襲撃を受けたのだ。
結果、豊かな連峰は焦土と化してしまった。
「この時、ドラグーンは人間への憎悪を募らせました。
500年経った今でも、聖地の破滅は人間のせいだと主張しています」
さらに、当代の黄金竜は邪神に討ち取られてしまう。
幸いにして、黄金竜は他の竜と繁殖していた。
子孫は残っていたのだ。
しかし、邪神の脅威はドラグーンを次々に圧迫していった。
「安全な地へと逃げるか、あくまでも聖地である竜神岳に留まるか。
この時、ドラグーンの間で大激論が起きたのです」
当然、故郷を捨てたくはない。
だが、邪神の攻勢ですり減ったドラグーンの心は、
もはや戦うことを拒否していた。
既にこの地は生物の住める場所ではない。
留まりたいと願う少数派は、押し切られることになった。
こうしてドラグーンたちは大河を渡り、南の平野へ移住したのだ。
「脅威から逃げるため、新しく住み着いた地。
それこそが、現在のドラグーンキャンプです」
この時、長きにわたって共にあった二柱の竜が離れてしまった。
黄金竜の子孫たちは、ドラグーンに寄り添い新天地へ。
漆黒竜は、魔境と化した竜神岳を守るため邪神に抵抗した。
その後、漆黒竜がどうなったかは知られていない。
「邪神大戦が終わった後、
ドラグーンたちは聖地へ戻ろうとしました。
しかし、そこにある国が立ちふさがったのです」
邪神大戦の直後。
建国ラッシュが相次いだ。
例えば、ディン家の所属する王国もこの時に創始された。
戦乱の終結によって、人間たちの間で新たな国を望む声が高まったのだ。
ドラグーンは建国の騒動によって、
聖地への帰還という夢を断たれた。
「商人たちが結束した新興の都市同盟――現在の連合国ですね。
その創始者たちが、ドラグーンの通行を断固として拒否したのです」
これこそが、ドラグーンと連合国の仲が最悪である原因。
聖地を人間の退却によって失い、帰る術すらも人間によって奪われた。
人間に対する憎悪は、この時に決定的なものとなったという。
「連合国は他種族を徹底排斥しますからね。
しばしば侵入を繰り返すドラグーンに対向するため、
竜殺しを雇ったほどです」
戦争する気満々だな。
現に今でも、ドラグーンキャンプと連合国はよく衝突している。
数百年にわたって、憎しみの戦いを続けているのだ。
「で、黄金竜についてですが。
今のドラグーンにとって、その存在は神に匹敵します」
まあ、そうだろうな。
ドラグーンたちにとっては最大の支えであることは言うまでもない。
しかし、だからこそ不安になった。
「あの竜が死んだから――もうドラグーンキャンプに黄金竜はいないのか?」
「いえ。黄金竜の子孫は複数います。
数は少ないでしょうが、あと2,3体はいるのではないでしょうか」
思ったよりも少なかった。
下手したら残り一体になっている可能性もあるのか。
ただ、絶滅しているなんてことはなさそうだ。
「当然ですが、黄金竜が死んだとなればドラグーンは黙っていません」
「……だよなぁ。理由はどうあれ、王国海域で絶命したわけだし」
「まず間違いなく、王国に兵を差し向けてくるでしょう」
まずいよまずいよ。
平穏に暮らしていたと思ったら、
いきなりキナ臭い話になってきやがった。
「ですが、これはまあ――場合によっては回避できます」
「なにか手があるのか?」
頼むぞ軍師ウォーキンス。
寝て起きたら竜騎士の大軍とご対面なんて事態は避けねばならない。
藁にもすがる思いでいると、ウォーキンスはさらりと言った。
「恐らくあの竜は連合国に撃墜され、
ここまで流されてきたのでしょう。
亡骸さえ見つからなければ、
ドラグーンキャンプは死の原因と怒りを全て連合国に向けるはずです」
なるほど。
しかし、連合国がやったとなぜ分かるんだ……と思ったが、
ドラグーンの竜を殺そうとするのは、せいぜい連合国くらいのものだ。
他の勢力は極力ノータッチを貫いているのだし。
まず間違いなく、連合国の竜殺しの仕業だろう。
「一応、責任をこっちに擦り付けられることはないんだな」
「とはいえ、このことは国王陛下の耳に入れたほうが良いかと思います――シャディベルガ様」
ここで、ウォーキンスがシャディベルガに声を掛けた。
彼はゆっくりと身体を起こし、力強く頷いた。
「ああ、分かっている。
書状を国王に送る準備をしておくよ」
次から次へと仕事が増えるな。
大丈夫かシャディベルガ。
ことが国際問題なだけに、取り扱い注意だ。
なにか困ったことがあれば、何でも相談するんだぞ。
話がまとまった所で、
シャディベルガが提案してきた。
「ひとまず、今日は休もうか。さすがに疲れただろう?」
「はい、少し」
「……そうだな」
俺とウォーキンスは頷いた。
正直、一回ぐっすりと寝ておきたい。
船に乗っていたせいか、未だに平衡感覚がおぼつかないのだ。
恐るべしは船酔いよ。
「我は監督役の宿直所で休む。
十字街の右端だ。何かあれば呼ぶがいい」
そう言って、ロギーはスタスタと酒場から出て行った。
シャディベルガはもう少し酒場で船乗りたちと話をするらしい。
俺とウォーキンスは、用意された宿泊所へ先に向かうとする。
さすがに不眠不休は辛い。
「親父も無理するなよ」
「ああ。レジスもよく寝るようにね。
夜更かしばかりしてると、背が伸びないぞ」
「うるさい、すぐ抜かしてやるからな」
身長の話をしてくれるな、気にしてるんだから。
というか、まだ成長過程なだけだから。
これから足長おじさんへ変貌を遂げるわけだよ。
俺を見下ろせるのも今のうちだ。
酒場を出て、夜道を往く。
その時、隣にいるウォーキンスが悪戯っぽく微笑んできた。
「どうでしょう、一緒の部屋に泊まるというのは」
「却下だ」
「ふふ、冗談ですよ」
そう言って、ウォーキンスは軽いステップを踏む。
こいつはいつでも楽しそうだな。
見ているとつい和んでしまう。
灯台の光を受けて輝く彼女を見て、
俺は良い夢が見れそうだと確信したのだった。
◆◆◆
「……ふぅ」
酒場の2階で、シャディベルガはため息を吐く。
やることが山積しているため、優先度順に紙へ書き出していった。
これは当主を継ぐ前――
雑用係のような日々を過ごしていた時に身につけた習慣だ。
びっしりと文字で埋まる紙を見て、シャディベルガは嘆息した。
「まずは、手紙からかな」
国王に何と報告したものか。
自分の力で乗り越えられるものなのか、不安になってくる。
文面を考えていると、ふと昔のことを思い出してしまった。
無能なシャディベルガ――子供の頃、嫌というほど聞いた蔑称だ。
しかし、言い返せない。
それは紛うことなき事実なのだから。
才気に満ち溢れた兄達と比べると、
シャディベルガの力は暗澹たるものだった。
剣術は才能がないゆえに諦めざるを得なかった。
魔法は適性がなく、魔力量も話にならなかった。
手の届く所に大切なものがあっても、それを守るだけの力がないのだ。
「……結局、家督を継いでからも、変われなかったな」
正直、セフィーナやウォーキンスを羨ましいと思っていた。
二人は卓越した力を持っており、自分を何度も助けてくれた。
しかし、逆はどうだろう。
自分が彼女たちに何かをしてあげたことがあっただろうか。
領主としての仕事は当然として――
一家の主として、務めを果たせていたことがあっただろうか。
「……一つもないな」
必死に記憶を探れば探るほど、自信を喪失していく。
なぜなら、事実として何も成し遂げていなかったのだから。
他の貴族から、領地と立場を守るだけで精一杯だった。
しかしある日を境にして――
シャディベルガの心構えは少しずつ変わっていった。
全てはその一件から始まったと言える。
そう、レジスの生誕だ。
「…………」
レジス・ディン。
思えば、とても不思議な子だった。
とてつもなく早熟で、幼少ながら思考能力が卓越していた。
時折、理解できない突飛なことを言い出すこともある。
しかし、その裏では確固とした思惑が練られていた。
次々に問題を解決していくその姿は、
神童と称するにふさわしいものだった。
わずか七歳にして暗殺者を打ち倒し、ディン家の窮地を救ったのだ。
彼がいなかったら、この家はどうなっていただろう。
ウォーキンスはこの家に留まってくれていただろうか。
セフィーナは――生きていられただろうか。
シャディベルガは苦笑する。
頬を掻きながら、成長してきた彼の姿を思い浮かべる。
「レジスと話すようになってから、僕も変わったなぁ……」
少しながら、自信を持てるようになった。
なぜなのか、詳しい所はわからない。
しかし、レジスが大きな要因になっていることは一目瞭然。
彼は曇りなき眼で、心底感心したというように、自分を褒めてくるのだ。
当初は家督の相続さえ諦めていた、力のない人間だったというのに。
真摯に尊敬の眼差しを向けてくる彼の言葉は、
シャディベルガの胸に深く突き刺さった。
その上で、今日の一件だ。
――君を、レジスを、守る。
無意識に、レジスに告げていた言葉だ。
これを聞いて、彼はどう思っただろうか。
考えただけで胃が痛い。
正直、窮地はそれなりに経験してきているつもりだった。
しかし、いざ竜騎士の前に立った時、完全に頭が真っ白になった。
本来ならば、領主として断固とした態度を取らなければならなかったのに。
父親として、家族を守る力がなければならないというのに。
それが、あの結果だ――
「……本当、情けないな」
脚は震え、声が裏返るのを止めるので精一杯だった。
偶然が重なったおかげか、運良く相手は退散してくれた。
しかし、シャディベルガの心に残るのは情けなさだけだった。
身内の前でさえ格好がつかない。
領主たる風格が保てない。
父親たる力は、どこにもない。
だが、レジスは言った。
言い切ってくれた。
――何言ってるんだ。言葉だけで交戦を回避してみせただろうが
ここぞという時に、何もしてあげられなかった。
そんな自分に対し、こう言ってくれたのだ。
――俺は昔からずっと。それこそ生まれた時から、親父をすごいと思ってるんだからさ。
完全に不意打ちだった。
涙が出そうになった。
気恥ずかしさに駆られて、思わず隠してしまう程に――
救われた気持ちで、いっぱいになったのだ。
「……ありがとう、レジス」
”生きて子が生まれることはない”
ある理由から、シャディベルガとセフィーナはそう言われていた。
しかし、その懸念を払拭し、彼は生まれてきてくれた。
かけがえのない、大切な存在。
それこそが、レジスという少年なのだ。
愛するセフィーナと共に、これからも彼の成長を見て行きたい。
「そのためには、僕が頑張らないとね……」
自分に活を入れる。
この危機を突破しないことには、おちおち安心もできない。
レジスの言葉が力を与えてくれたのだ。
それに応えて、一気に仕事を片付けてしまおう。
そう思った矢先――
「シャディベルガ様、失礼します」
竜の体内調査を担当していた船乗りが入ってくる。
神妙な顔つきだった。
胸のざわめきを感じつつ、丁寧に応対する。
「どうだった? 何か出てきたかい」
「はい……竜の胃から、このようなものが」
船乗りが渡してきたのは、一枚の石版。
いや、材質は石ではない。
そして、金属でもない。
知識や心得はないが、これは恐らく魔法具というものだ。
レジスの持っている竜神の匙と似たような物質。
魔法によって加護が掛けられているのだ。
「それがどうかした――」
と、石版に刻まれた文字を見て、シャディベルガは息を飲んだ。
ある文献に目を通した経験が、脳内で警鐘を鳴らした。
正直、伝説上のものだと思っていた。
まさか実在したというのか。
「……これは、まずいぞ」
しかし、辻褄は合う。
だからこそ、竜騎士は必死になっていたのだ。
どのような手を使ってでも、この魔法具を手に入れるために。
シャディベルガは唾を飲み込んだ。
これが偽物である可能性は否定できない。
むしろそうであって欲しい。
なぜなら、これはもう――
地方貴族が解決できる問題ではないのだから。
それこそ、王の英断が試されるような代物だ。
「……すぐに書簡を出して、国王の命を待とう」
レジスやウォーキンスに伝えるのは、王宮で動きがあってからでいい。
自力ではどうしようもないことで悩むよりは、よほど健全で効率的だろう。
何か責任を追求されることがあれば、自分が全てを被ろう。
決意しながら、シャディベルガは石版に目を落とす。
「なんで、こんなものが――」
ディン領の海域に流れ着いてしまったのか。
シャディベルガの背筋を、冷たい汗が伝い落ちるのだった。
次話→7/21
※作者テスト期間につき更新延期中
次話→今月中
ご意見ご感想、お待ちしております。