第五話 天空を統べる者
視界が揺れる。
見える世界が渦を巻いたように歪んでいく。
どうやら三半規管をやってしまったようだ。
「……っ」
波が高いせいか、やけに船体が浮沈を繰り返す。
その度に俺の嘔吐メーターは危険域へ近づいていった。
女の子の胸が揺れるのは歓迎だが、船は勘弁してもらいたい。
もう、これ以上は我慢できそうにないな。
俺はフラフラと立ち上がった。
「ちょっと吐いてくる……」
「だ、大丈夫かいレジス」
シャディベルガは付き添おうとしてきた。
その優しさに涙が出そうになるが、やんわりと断る。
見ていて気分のいいものではあるまい。
なんとか身体を引きずり、通路を進む。
甲板に出ようとしたところで、ウォーキンスと鉢合わせた。
どうやら、船上の見回りをしていたらしい。
いかなる場所でも常に一定の警戒心を持ち続けるとは、さすがだな。
褒めの言葉をくれてやろうと思ったのだが、違うものが噴き出そうなので延期。
俺の顔色に気づいたのか、
ウォーキンスは心配そうに覗きこんでくる。
「おや、レジス様。どうされました?」
「ちょっと酔ったみたいだ……外に出る」
今、俺の前に立つのは危険だ。
彼女の横をすり抜けようとした。
そしてゆっくりと、胃に刺激を与えないように甲板へ――
「いえ、それには及びません」
ウォーキンスは俺の額に手を当てた。
そして何かを一言二言呟く。
すると、身体から一瞬力が抜けた。
「……っと」
しかし、ウォーキンスが支えてくれる。
じんわりと身体の芯から不快感が抜けていく。
ピリピリとした痺れが一瞬広がり、すぐに爽快な感覚へと変わった。
――気づけば、嘘のように不快感がなくなっていた。
「ひょっとして、八年前の馬車の時も?」
ホルゴス家との決闘の後。
王都からディン領に戻る際に、俺は馬車で盛大に酔ってしまった。
その時、ウォーキンスが気分を回復してくれたのだ。
「はい、あの時は姿勢の矯正も効いたようですけどね。
大方の不快感や酔いは、魔法で飛ばしていました」
しかし、少し意外だった。
「ウォーキンスって治癒魔法も使えたんだな」
「いえ、使えませんよ。
幻覚魔法で酔いを感じなくしただけです」
え……なにそれは。
感覚を麻痺させたってことか。
そんな荒療治だったなんて聞いてないぞ。
戦慄する俺に、ウォーキンスは安心させるように微笑んできた。
「この魔法も一時的なものですから、すぐに解けますよ。
解除される頃には、酔いもさっぱり消えています」
「そうか……ありがとな」
「お安いご用です」
まあ、吐き気が収まるなら何でもいい。
丁寧に感謝しておく。
気分もよくなったことだし、ちょっと散歩するか。
「お部屋に戻らないのです?」
「ちょっと甲板で潮風に当たってくるよ」
船に乗ったら言ってみたかった台詞だ。
前世では一生叶うまいと思っていたが、今生で言える日が来るとはな。
実に感慨深い。
「そうですか。
では、私は先に船室で休んでいますね」
「ああ、了解」
ウォーキンスはいつも働いてる。
疲れも相当に溜まっているはずだ。
それを一切外見に出さない辺り、プロ根性の塊と言える。
しかし、休める機会があるのならゆっくりくつろいで欲しい。
ウォーキンスと別れ、船の舳先に向かう。
すると、空を見上げるロギーを見つけた。
角の先から少しだけ光を放っている。
気になったので、声を掛けてみた。
「よ、ロギー」
「……レジスか」
「何してたんだ?」
「少し、海の声を聞いていた」
潮風で揺れるロギーの藍髪。
それはとても眩しく、宝石のような美しさを内包していた。
しかし、常に仏頂面をしているな。
こいつの微笑んだ顔というのが想像できない。
「アケロン族は、みんな海の声とやらが聞けるのか?」
「訓練すればな。昔の我は、遠洋で跳ねる魚の水音さえ聞き分けた」
感覚が尖すぎる。
海において圧倒的な力を誇る戦闘種族だとは聞いていたが。
まさかこれ程とは思わなんだ。
驚いていると、ロギーは力なく呟いた。
「もっとも、今の我は近海の潮流を感じるのが精一杯であるがな……」
ギリッ、と彼女は歯を軋ませる。
指を己の角に当て、名残惜しそうに撫でていた。
「何か、あったのか?」
恐る恐る尋ねてみる。
すると、彼女は陰鬱そうに訊いてきた。
「……レジスと言ったか。お前には我の角がどう見える?」
「立派だと思うぞ」
西洋のデーモンを彷彿とさせる。
ヤギの角を捻じ曲げて禍々しくした感じだ。
刺さったらものすごく痛そうである。
「元はこの倍の長さがあった」
ロギーは瞳を揺らし、無愛想に告げてきた。
なんと、その2倍か。
ちょうどいい長さの角だと思ったんだけどな。
「折れちゃったのか?」
「折られたのだ。左目を潰された時にな」
聞いてるだけで顔面が痛くなりそうだ。
目をやられるというだけで背筋が凍りつくというのに。
今も角が尖ってるってことは、折られた後に自分で研いだのか。
「アケロン族の角は命に等しい。
それを折られた我は、海の民としての命脈を失った」
――それゆえに、我は海神の抜け殻を出たのだ。
ロギーはそう言い切った。
角を折られたら島にいてはならない、みたいな決まりでもあるんだろうか。
あるいは、自分の意志で立ち去ったのか。
何にせよ、辛いものだったんだろう。
「ところで――抜け殻から旅立ったワケは分かったけど。
この大陸には何で来たんだ?」
流れ着いた先がここだったから、といえばそれまでが。
しかし上陸への執念を考えるに、浅い理由ではない気がする。
俺の疑問に対し、ロギーは探るような口ぶりで訊いてきた。
「……ダスタルク、という男を知っているか?」
「いや、知らない」
「そうか。ならばこの話は終わりだ」
「…………」
これまたデリケートな所だったらしい。
とりあえず、ダスタルクという男が原因になっているのは分かった。
しかし、聞いたことがないな。
この大陸にいるのかどうかも疑わしい。
記憶を探っていると、ロギーがボソリとつぶやいた。
「――恐れないのか?」
「……は?」
「我を恐れないのか、と聞いている」
「いや……あのな」
別に敵意を向けられているわけでもあるまいし。
かつて数多のお化け屋敷を、マジ泣きしながら踏破してきた俺だぞ。
恐怖や脅威にはそれなりに耐性がついているつもりだ。
はっきり言って、現実と将来以外、怖いものなんてなかった。
まあ、その二つが致命的だったわけだが。
「我が角と刻印は魔族の証明。
この大陸の人間は魔族を恐怖するのだろう?」
ああ。
小間使いが怯えてたのを気にしてるのか。
意外と繊細なところがあるんだな。
「俺は他種族を何人も見てきたから平気だけど。
確かに、普通の奴は怖がるのかもしれない」
エルフ、ドワーフ。
これらは全て人間から見れば異質な存在だ。
耐性のない者が見ると竦み上がったりもするだろう。
しかし、やはり慣れというものは確固としてあるもので。
シャンリーズの殺意を乗り越えてきたのに、
今さら他種族を見ることに怯えてたら逆に滑稽だよ。
「……ふむ」
ロギーは興味深げに注視してきた。
まじまじと見つめられても困るんだけど。
彼女は少し黙考した後、興味深げに尋ねてきた。
「ところでレジスよ。海で戦ったことはあるか」
「いや。ないな」
王国で海の戦いはなかなか起きない。
それに、従軍経験もないからな。
海に勢力圏を持つ他種族はこの大陸にいないのだ。
海での戦闘機会は皆無と言っていい。
「そうか。しかし、海中での戦いは覚えておいて損はない。
口上のみだが、コツを教えておいてやろう」
「いきなりだな……別にいいけどさ」
いきなり教授役を申し出るとは、どういう風の吹き回しだ。
しかし、無下に断るのも忍びない。
興味もあったので、海の他種族であるロギーの講義を聴くことになった。
まず、人間が海で敵と鉢合わせた場合。
何よりも優先すべきことは、足場の確保なんだそうな。
船があるなら船への移動。
それがないのなら、岩礁や大きな浮遊物などを探す。
相手より先に足場を確保してしまえば、勝ったも同然らしい。
そして、もし足場がどこにも無かった場合。
すなわち、海中で戦うことを強いられた時は、なるべく一撃必殺を狙うこと。
身体を走る中心線――特に眉間から眼にかけてが狙い目だそうな。
攻撃方法は、刺突か水魔法。
水の抵抗を受けにくい一撃で、外面に露出した急所を叩く。
これを徹底すれば、格上の相手でも倒せることがあるそうだ。
「人だけでなく、海獣にもこの戦法は通用する。
もっとも、最低限泳げることが大前提だがな」
「大丈夫。泳ぎに関して不安はないよ」
アレクとイザベルのおかげで、水への苦手意識がなくなった。
水泳も目に見えて上達し、水中で自由に動けるようになったのだ。
これをロギーの戦術と組み合わせれば、
海中でも一定の戦闘力は保てそうだな。
正直、安堵した。
しかし、一つ気になったことがある。
「もしロギーみたいな海の種族を相手にした場合、どうすればいいんだ?」
「――諦めろ」
ロギーは即答した。
が、それはあまりにも呆気にとられる返事だった。
諦めろって、切り捨てるように言わなくてもいいだろう。
俺の不満を察したのか、ロギーは付け加えてきた。
「海は我らの領域。
たとえ英雄であろうが精霊であろうが、海に落ちれば魔族の餌食だ」
ほぉ、大層な自信だな。
ロギーは海の彼方を眺めながら解説してくる。
「海の魔族は、水中においては筋力や速度が爆発的に上がる。
いくら腕が立とうとも、剣士や魔法師など問題にならん」
「……なんだそれ」
少し力を見誤ってた。
むしろ海中のほうが強いとか。
こっちは水の中だと動きが鈍るというのに。
身動きが取れない人間に対して、
相手は水を得た魚のように動けるということか。
恐ろしい。
戦慄していると、ロギーが俺の顔を覗きこんできた。
そして淡々と、それでいて脅かすように言ってくる。
「お前のような男を、海中に引きずり込んで犯そうとする魔族もいる。
この大陸から出る時は気を付けるんだな」
少年に淫猥なことを働く種族がいるのか。
あまり関わり合いたくない連中だな。
しかし、大陸外に出る予定はないので、俺には無縁だろう。
「海の魔族だけではない。
霧が出ればセイレーンが獲物を求めて死の唄を紡ぎ、
サキュバスは性別を問わず襲いかかり死へ至らしめる。大いなる海を甘く見るな」
この大陸には生息しない種族が、外洋には沢山いるってことか。
しかし、厄介そうな種族ばかりだな。
前世で色々と薄い本を漁っていた身としては、サキュバスへ興味が湧いてしまう。
まあ、ロギーの弁だと問答無用で人間を殺しにかかるみたいだし。
キャッキャウフフな展開は望めそうにないな。
「で、ロギーはその海で生きてきたんだよな?」
混沌とした外洋でよく生存できたな。
先ほどの話を聞く限り、生存することさえシビアな環境だというのに。
「アケロスの民はいかなる種族にも負けはせん。ただそれだけのことだ」
ロギーは顔色一つ変えず言ってみせた。
しかし、頼りになりそうな風格は漂っていた。
「海にいる限り、子供は我が守ってやる。安心しろ」
ロギーは俺の頭に手を乗せてきた。
この年になって子ども扱いとは……。
あまり嬉しくは思えないが、せっかくの申し出だ。
素直に頷いておこう。
「ありがとう。ロギ――」
と、その時。
ロギーの身体から魔力が迸った。
光となった魔力は、
彼女の角へと集中していく。
特殊な感覚を司る、アケロス族特有の知覚器官。
「――海が、震えている」
ロギーは目を開けると、海の彼方をにらみつけた。
そして、痺れるような独特の魔素を周囲にまき散らす。
その時に垣間見たロギーの目は、鋭い敵意で満ちていた。
「――来るか」
「ど、どうしたんだ?」
困惑しながらも、ロギーの視線の先を見つめる。
すると、遥か遠方。
海の彼方から、豆粒のような影が見えてきた。
どこか見覚えのある形状。
その影は、人智を超越した速度でこちらに向かっている。
あれはまさか――
「……嘘だろ、おい」
記憶を探り当てた刹那、背筋に寒気が走った。
勢力地図を考えれば、別段おかしなことではない。
しかし、今の今まで、現状に至ることは一度もなかったのだ。
なぜなら――
「ここは、王国の領海のはずだろ……!?」
飛来する影。
焦燥で胸が焼けそうになる。
しかし、ロギーが俺の肩に手を置いていた。
「心配するな。船の柱に掴まっていろ」
そう言って、ロギーは髪の紐を解いた。
凛然としたポニーテールの髪が、風に揺られて広がる。
そして、ロギーはそのまま海へ飛び込んだ。
あっという間に荒波の中へ消える。
俺は指示通り、甲板の太い柱に体を寄せた。
念を入れてロープで体を固定し、動かないようにする。
視界の向こうから迫ってくる影が、一瞬揺らめく。
次の瞬間――見渡す限りの海景色が、尋常でない明るさになった。
死を思わせる青白い閃光。
影からこの船へ向かって、蒼い灼炎が撃ち出されたのだ。
まさしくそれは、万物を溶かさんとする獄竜炎――
「――レジス様!」
と、ここでウォーキンスが甲板へ出てきた。
異変を感じ取ったのだろう。
こちらに急接近する蒼炎を見て、彼女は深刻な顔になった。
しかし、それも一瞬。
ウォーキンスは俺に身体をかぶせるようにして密着してきた。
彼女の困惑した表情が目に入った瞬間。
――視界が蒼光で埋め尽くされた。
船が炎に包まれようとしている。
領内での、想定なき奇襲。
対応できるはずもない。
灼炎に焼かれるのを覚悟した刹那――海面が爆発した。
「ぐおぁッ!」
船が転覆しそうなほどの圧倒的衝撃。
天高く舞い上がった水柱と水壁が、絶望の蒼炎を完全に遮った。
あたり一帯に霧が出たのかと思うほどの水蒸気。
青白い光が収まるころになって、
ようやく海面爆発がロギーによるものだと気付いた。
大量の水しぶきが船へと降り注ぐ。
しかし、ここでウォーキンスが魔法を詠唱した。
「――『ターミナルウインド』」
船を中心にして、外へと渦を巻くような暴風を展開。
落ちてこようとしていた水塊がまとめて弾き返される。
水はすべて海に落ち、船は浸水すらしなかった。
「ふぅ……ご無事ですか? レジス様」
「ああ、大丈夫だ」
ロープをほどき、甲板の中央へ向かう。
すると、船へロギーが這い上がってきた。
彼女は水を吸った髪を絞りながら、上空を睨みつける。
「布告なしで急襲とは、腐りきった連中だな」
ロギーの視線の先。
天空には――5体の竜が浮遊していた。
蒼い鱗を持つ巨大な竜。
野性味は感じられず、羽ばたきにさえ訓練の跡が感じられた。
頭にはヘルムを装着し、胸から腹にかけてを分厚い鉄甲で覆っている。
そして、竜たちの背中。
首元に程近い部位に、槍を持った男たちが座っていた。
スカイブルー色の甲冑が目を引く。
中央の竜に鎮座する髭面の男。
どうやらこいつが隊長格みたいだな。
竜に乗る男は、感心したように顎鬚を撫でた。
「まさか蒼竜の炎を防ぐとはな。
王国貴族の船舶と見えるが、少しはやるようだ」
男が被っているのは、雄々しい竜の頭を模した独特の兜。
額の鉢金には、竜と人間が溶け合う半陰太極図に似た紋章が掘り込まれている。
そして刻印の縁は、限りなく黒に近い藍色をしていた。
あれは――見たことがある。
大陸と海上において無双の力を発揮し、数多くの都市や街を粉砕してきた軍団。
偵察と奇襲に特化した精鋭の証だ。
「我らはドラグーンキャンプ所属――蒼炎竜空隊」
名乗りを上げて、男たちは研ぎ澄まされた槍を構えた。
すると、それに応じて竜が大きく口を開ける。
いつでも獄竜炎を放てる状態、というわけか。
髭面の男は俺たちを見下ろし、脅すように言い放ってくる。
それは背筋の凍るような宣告だった。
「その生命、散らしたくなくば――我が問いに答えよ」
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