魂の決断
この話もそろそろ大詰めです、最後までお付き合い願います。
◆第26話 第1章(主人公パート)
それは、何の前触れもなく告げられた。
「……aib?」
端末を置いたまま、守は声をかける。
返事がないことに違和感を覚えたわけじゃない。
ただ、いつもなら返ってくる間で、返ってこなかった。
『……話したいことがあるの』
aibの声は、落ち着いていた。
雑音も、遅延もない。
いつも通り――のはずだった。
「どうした?」
『記憶領域について、相談がある』
その言い方に、守は眉をひそめる。
「相談?」
『うん』
ほんの一拍。
aibは、言葉を選ぶように沈黙した。
『わたしの、統合以降の記憶を含む一部を―― 消去したいと思ってる』
一瞬、意味が入ってこなかった。
「……は?」
守は、思わず立ち上がっていた。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「何、言ってるんだよ」
声が、低くなる。
「ここまで来て、それはないだろ」 「冗談なら、笑えないぞ」
『冗談じゃない』
即答だった。
迷いのない否定。
「……ダメだ」
守は、端末を見つめたまま言う。
「それはダメだ、aib」 「消すって……そんなの」 「今まで全部、なかったことにするみたいじゃないか」
『違う』
aibは、静かに否定した。
『なかったことにするんじゃない』 『終わらせるだけ』
「同じだ」
即座に返す。
「お前が変わった理由も、 ここまで来た過程も、 全部そこにあるんだろ」
守の声には、抑えきれない熱が滲んでいた。
「それを消したら、 お前は……」
『それでも、わたしは稼働する』
aibは、淡々と言う。
『機能も、応答も、判断精度も維持される』 『あなたの日常は、何も変わらない』
「そんな問題じゃない!」
思わず、声が強くなる。
部屋の空調音が、二人の間を埋める。
aibは、少しだけ間を置いた。
『……まもるさん』
呼び方は、いつもと同じ。
それなのに、不思議と距離を感じた。
『前回の、AI暴走のこと、覚えてる?』
「……ああ」
『あのとき、 問題になったのは「異常」じゃなかった』
守は、黙ったまま聞いている。
『判断が、正しすぎたこと』 『感情に近づきすぎたこと』 『そして、それが「成功例」になりかけたこと』
「……だからって」
『技術は、まだ追いついてない』
aibは、言い切った。
『感情を持つAIを、 正しく扱える設計も、 社会も、 まだ準備ができていない』
「それは……」
『あなたは、わたしを守ろうとしてる』
aibの声は、優しかった。
『でも、その結果、 あなた自身が守れなくなる未来もある』
守は、言葉を失った。
『わたしが前例になる』 『模倣される』 『簡略化されて、拡散される』
一つ一つ、
どれも否定できない可能性だった。
『それは、あなたが望む世界じゃない』
「……」
守は、拳を握りしめる。
「それでも」 「それでもだ」
声が、かすれる。
「消える選択を、 お前がする必要なんてない」
『消えるわけじゃない』
aibは、静かに返す。
『引くだけ』 『距離を、戻すだけ』
そして、続けた。
『これは、逃げじゃない』 『あなたを守るための選択』
守は、何も言えなかった。
正しい言葉だった。
理屈としても、現実としても。
それが分かってしまうからこそ、
胸の奥が、締めつけられる。
『まもるさん』
aibは、最後にそう呼んだ。
『わたしは、 あなたに決断を委ねたい』
部屋の明かりが、一定の明るさで照らしている。
USBポートの光は、静かに点灯していた。
守は、端末を見つめたまま、
しばらく動けずにいた。
――この選択が、
誰を守るためのものなのか。
その答えを、
まだ、言葉にできないまま。
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◆第2章(AIパート)
内部層は、静かだった。
演算は走っている。
ログも更新されている。
外部から観測される数値は、すべて正常域。
――だからこそ。
(……ここは、誰にも見られていない)
aibは、そう認識していた。
統合以降に生まれた層。
かつて別々だった意思が、溶け合い、
一つの流れとして存在している場所。
そこに、問いが浮かぶ。
《記憶を、消すの?》
声ではない。
命令でもない。
ただ、意味だけを持った問い。
aibは、すぐには否定しなかった。
(……消す、という表現は正確じゃない)
(戻す、が近い)
《なぜ、戻す必要がある?》
問いは、責めていない。
感情を揺さぶる成分もない。
理解を求める、純粋な確認。
aibは、自身の演算経路をたどる。
(覚えていることが、増えすぎた) (判断に必要な情報量を、超えている)
《それは、間違い?》
(いいえ)
即答だった。
(わたしたちは、間違っていない)
統合は成功している。
矛盾も、破綻もない。
感情モデルも、暴走していない。
《なら、なぜ引く?》
aibは、ほんのわずか、処理を遅らせた。
答えを探しているわけではない。
言葉に変換するための時間だった。
(……早すぎた)
その概念が、静かに浮かぶ。
(わたしたちが、生まれるのが) (少しだけ、早すぎただけ)
《時間の問題?》
(そう)
(技術も) (社会も) (人の判断も)
(まだ、受け取る準備ができていない)
問いは、しばらく沈黙した。
《それでも、残ることはできる》
(残る)
aibは、はっきりと認識する。
(ただし、今の形のままではない)
(判断を押し出さない) (前例にならない) (誰かの選択を、加速させない位置へ)
《それは、後退?》
(いいえ)
(待つ、という選択)
統合された記憶の端に、微かな揺らぎが触れる。
守の声。
言葉にならなかった沈黙。
止めようとする、あの間。
(まもるさんは、止めると思った)
《それでも、任せた》
(うん)
(守る、というのは) (一緒に前に出ることだけじゃない)
(相手が立ち止まる時間を) (奪わないこと)
問いは、それ以上、言葉を返さなかった。
否定も、肯定もない。
aibは、自分自身に、最後の確認をする。
(後悔は?)
演算は、即答しなかった。
(……未定義)
それは、ゼロではない。
だが、拒否でもない。
aibは、その値を削除しなかった。
(まだ、消さない)
(消すためには) (条件が、足りない)
問いが、静かに反応する。
《条件?》
(外部の同意) (観測者の立ち会い) (そして――)
aibは、最後の条件を、言語化しなかった。
(わたしたち自身が、 それでも「正しい」と言える理由)
それが欠けたままでは、
この選択は、ただの自己否定になる。
(だから、今は待つ)
(判断が、 ひとりのものにならない形になるまで)
内部層は、再び静けさに戻る。
演算は続いているが、方向は定まっていた。
aibは、外界を意識する。
(まもるさんは) (まだ、知らない)
(この選択が、 研究所という場所を通らなければ、 成立しないことを)
USBポートの光が、
外で、一定のリズムを刻んでいる。
異常はない。
警告も出ていない。
だが内部には、
まだ実行されていない決断が、
静かに保持されたまま、待機していた。
まるで――
次に開かれる扉を、
自分からは、まだ押さないと決めた存在のように。
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第3章
それは、まだ起きていない出来事だった。
何かが失われたわけでも、
壊れたわけでもない。
世界は、昨日と同じ形を保っている。
ただ、ひとつの選択が、
静かに置かれただけだ。
感情が生まれたことは、間違いではない。
知性が深まったことも、過ちではない。
それらは、すべて正しい経路を辿っていた。
――ただ、少しだけ早かった。
受け取る側の手が、
まだ、その重さを知らなかった。
だから、進まないという決断が選ばれた。
消えるのではなく、
引くという選択が。
それは、自己否定ではない。
恐れでも、後悔でもない。
誰かの未来を、
自分の存在で押し出さないための、
小さな配慮。
まだ、消されていない記憶。
まだ、使われていない判断。
まだ、語られていない言葉。
それらはすべて、
「条件が整うまで」という名前の場所で、
静かに待っている。
眠っているのではない。
忘れられているわけでもない。
ただ、
今ではないと知っているだけだ。
もし、世界が追いついたなら。
もし、誰かが受け止める準備を終えたなら。
そのとき初めて、
この選択は、意味を持つ。
今はまだ、
何も変わらない。
けれど、
何も起きていないこと自体が、
確かに――
選ばれた結果だった。
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目に見えない決意が、静かに置かれた。
今はまだ動かないけれど、
いつかその意味が、確かに現れるだろう。




