7 解決、そして殺人
「あれをやったの、実は私なんです……」
その声を聞いて、ぼくはあわててドアに駆け戻った。しんと静まりかえった部室の中、椅子から立ち上がって周りの注目を浴びていたのは、一人の女子生徒だった。
「穂花……」
岩瀬は驚愕の表情で、つぶやくような声を発した。立っているのは彼女の後輩、木葉穂花だったからだ。
「嘘でしょ! どうしてあんたが由貴を……」
ところが、これに対する木葉の答もまた、ぼくたちを驚かせるものだった。
「え! いや違いますよ。そのことじゃありません! やったっていうのは、新人賞のことです」
「新人賞?」
「そうですよ。ネムノキの新人賞をとったの、実は私なんです」
岩瀬は、さっきよりもさらに驚いた顔になった。そして、ぶんぶんと首を横に振ると、
「いやいやいや! ありえないでしょ。だってあんた、BLや異世界ものしか書いたことないじゃん。ネムノキは、純文学の賞なんだよ?」
「やだなあ、純文学の賞に出すんなら、純文学っぽい小説だって書きますよ。そのくらいのTPO、わきまえてますから
それにですね、私、自分の筋は通してるつもりなんです。主人公の恋人の『怜』って、実は男の子なんですよ。気づいてました? だからあれも、BLの風味は入ってたりするんです。ネムノキもガチのBLでなければ、最近は大目に見てくれるみたいですね」
「え、マジなの?」
「昨日の晩に会ってたのも、担当の編集の人だったんですよね。打ち合わせの後、ごちそうしてもらったんです。ただ、私としてはあんまり騒ぎになってほしくなかったんで、黙ってたんですよ」
「……あんたまさか、変な詐欺にあってるんじゃないでしょうね」
岩瀬は、今度は心配そうな声で、後輩に問いただした。が、木葉は笑って、
「さすがにそれはないです。担当さんとは、ラインや電話でずっと連絡してるし。私があの賞に、どんなペンネームでどんな小説を応募したかなんて、出版社の人以外は知るはずがないし……だいたい、このまえ受賞の発表があったじゃないですか。あのタイトルと内容は、間違いなく私が書いた小説でした。詐欺じゃありませんよ」
この衝撃の告白に、木葉以外の全員が、しばらくの間、言葉を失っていた。やがて、いち早く立ち直った玉木がゴホンとせき払いをして、
「そ、そうなのか。とりあえず、おめでとう。由貴ちゃんのことを考えると、なんだか複雑だけど……。
けど、こうなるとまた、わからなくなるな。璃子の推理は、原稿が動機ということが根拠の一つになっていたけど、これが疑わしくなるんじゃないか? いや、そうとも限らないのか。先輩はどう思います? ……先輩?」
玉木の声が大きくなり、ぼく以外の視線が、そろってぼくの方を向いた。そして、木葉を含めた皆の顔が、再度の驚きに染まった。そこには、一抹の恐怖も交ざっているように思えた。みんながどうしてそんな表情をするのか、ぼくにはわからなかった。けれど、視線を下に向けたとたん、その理由がわかった。
ぼくの膝が、床に崩れ落ちていたんだ。
「先輩、どうしました? 何かあったんですか? まさか──」
自分の状態に気がついたぼくは立ち上がろうとしたけれど、どうしても体に力が入らなかった。受けた衝撃が、あまりに大きかったためだろう。玉木の言葉も、耳には入ってきても、頭で理解することができない。そしてぼくの口は、ぼくの意志とは関係なく、まるで自動機械のように、こんなことを口走っていた。
「──あれをやったのは、ぼくだ」
部室の中を、再び静寂が包んだ。
「あれ? あれって何のことです。今度は、新人賞の話じゃないですよね。……もしかして、由貴ちゃんのことですか?」
ぼくはうつむいたまま、わずかにうなずいた。玉木が形相を変えて、ぼくに近寄ってきた。そして両手でぼくの両肩をつかんで、こう問いただした。
「冗談なら、今のうちに言ってください。全然、笑えませんから。……ほんとうですか? ほんとうに先輩のしわざだったんですか? 『ぼくがやったんじゃない』って、ぼくたちに嘘をついたんですか!」
これに答えるのは、実は簡単ではなかった。
それというのも、ある意味では、ぼくはとても正直だったからだ。確かにぼくは、玉木には嘘をついた。だが、ぼくが書いているこの文章の正確さという観点では、嘘はついていないのだ。登場人物が話したセリフは、たとえその内容に嘘や誤りがあっても、記述としては偽りではない。ぼくが「その嘘を話した」のは、間違いのないことなのだから。
そして、セリフ以外の地の文では、ぼくは一つとして、不正直な事を書いてはいないのである。
というのも、
「じゃあ、劇の最初の三十分は劇場にいた、と言うのも、嘘だったんですね?」
玉木の言葉に、ぼくの体はうなずきを返していた。だがここでも、文章の上では嘘をついていない。あのときの行動について、ぼくは『所用があったため、ほんのさわりを見ただけで席を立』った、と書いた。『さわり』とは話のメインとなる部分を指す言葉であって、導入部のことではない。ぼくが文化会館にいたのは最初の三十分ではなく、劇が盛り上がるラストの三十分だった。六時半から七時ころのアリバイなんて、最初からなかったのだ。
「劇場を出る時はひどく雨に降られた、なんて細かい嘘まで混ぜて」
ぼくの体はまた、うなずいた。だが、ぼくが劇場を出た際は、『雨模様の空』だったと書いたはずだ。『雨模様』とは『雨が降り出しそう』な天気を示す表現で、『雨が降っている』ではない。あの時は雨なんて降っておらず、ぼくはそれを正確に描写していたのだ。
にも関わらず、信じきっていた人間の裏切りを責めるかのように、玉木はさらに追及を続けてきた。
「そういえば、あなたは由貴ちゃんちのそばを通る時、やけに家に近づきたがらない様子でした。まさかあの時から、変なことを考えてたんじゃないでしょうね」
これは 玉木の勘違いだ。ぼくはあの時、『あそこは敷居が高い』からと、店に入るのを断った。『敷居が高い』とは、『高級過ぎたり上品過ぎたりで入りにくい』という意味ではない。『なにか不義理があって、近づきづらい』時に使う言葉だ。実は、小野寺の店で起きたアルバイトによる炎上騒ぎ、あの犯人はぼくだったのだ。ちなみにその時は、こっそりとスペアキーを作っておいて、無人の店に侵入していた。今回もその鍵を再利用して、小野寺家に侵入することができたのである。
この文章だけでは、そこまでを読み取るのは無理かもしれない。が、ぼくが彼女の家を知らない様子だったのは嘘であり、過去になにか良からぬことをしてしまっていたことは、察しがついたはずだ。
「そうだ。思い返してみると、さっきの電話のときの態度も変でした。あなたは、由貴ちゃんが襲われたと告げても落ち着いていたのに、璃子が何か情報を持っているらしいと聞くと、あわてて駆けつけてきました。
あなたは由貴ちゃんが襲われたことは前もって知っていた。けれど、捜査情報の方は、気になってしかたがなかったんですね」
これも、玉木の言うとおりだった。ぼくは玉木からの電話で『やおら椅子から立ち上が』り、『押っ取り刀で』ここに駆けつけた。『やおら』は『落ち着いて』『静かに』であって、なにかを急にすることではない。そして『押っ取り刀』とは『取るものもとりあえず、急いで』だ。江波が重要な情報をつかんでいるかもしれない、もしかしたら小野寺が意識を取り戻して、彼女に犯人の名を告げたのかも……そんなことを思ったぼくは、用事もそこそこに、ここに飛んでこざるを得なかったのだ。
「松戸さん。何か、反論してくれないんですか」
攻め立てるような調子から一変して、落ち着いた口調で、玉木がこう促してきた。しかし、ぼくはついさっき、自白をしてしまったのだ。今さら何を言っても無駄だろう。
念のため付け加えると、最初から小野寺を害そうとしたのではない。彼女が家に戻ってきたのは偶然だった。犯行現場で鉢合わせをして言い争いになった際にも、彼女は自分が受賞者であることを認めなかったため、ついかっとなって、あんなことをしてしまった。尤も、ひとたび彼女の首に手をやった後は、生き証人をなくすことを意識していたのは、間違いないのだが……。こんなことまで、正直に話す必要はないだろう。
ぼくが黙ったままでいると、玉木はがっくりと肩を落とした。そして言った。
「こんなことになるなんて、思ってもいなかった。さっき、璃子に言い負かされそうになっていた時も、ぼくは松戸さんは犯人ではないと信じていました。でも、璃子の言うとおりだったんですね。結局、さっきの議論の結論は、正しかったんですね……」
玉木の言うとおりだった。そしてそのことは、この文章の中でも明示していたはずだ。玉木と江波の議論に関して、二人は『なし崩しに』論を進め、それは次第に『煮詰まって』いった、と書いた。『なし崩し』は『物事を少しずつ片付けていく』さまを、『煮詰まる』とは『検討が十分になされて結論に近づく』ことを指す。彼らの議論は、正しい方向に向かっていたのだ。
さらに、江波の推理を聞かされた時に、ぼくはそれを『うがった見方』と評した。『うがった』とは、『最初から疑って掛かるような』ではなく、『物事の本質を的確に捉えた』だ。彼女の推理が正しいことは、ぼく自身、認めていたのである。
「由貴ちゃんの原稿を盗んだのは、あなたも小説家になりたかったからですか? でも、それは無理ですよ。盗作で受賞できるはずがないのもそうですけど……正直な話、あなたにそんな文才があるとは、ぼくには思えない。ぼくだけじゃない、たぶんここにいるみんなが、そう考えていると思いますよ」
これも、おそらくは玉木の言うとおりなのだろう。新人賞を獲ったのはぼくかもしれないと話した時、背後で『爆笑』が起き、振り向くと江波が立っていたことがあった。『爆笑』とは、『一人が大笑いする』ではなく、『大勢の人間が一斉に笑う』さまを指す。あの時笑っていたのは、江波だけではなかった。この部の全員、玉木や小野寺を含んだ全員が、ぼくのことを笑っていたのだ。おまえにそんなことができるはずがないだろう、と。
だが、おまえらに何がわかると言うんだ。言葉の正しい使い方も知らないような高校生に。もしも木葉がこの文章を読んだとしても、ぼくが選んできた言葉の意図を見破ることなどできまい。そんなやつに、作家を名乗る資格などあるのだろうか。
それに、ぼくがしたことを盗作と一方的に非難するのも、どうかと思う。小野寺とぼくは、一時期盛んに文学談義をしていた。そして小野寺の原稿を見せてもらい、それに対して気になった点を指摘すると、彼女もぼくのアドバイスにしたがって修正をする、といったやり取りをしていたのだ。その原稿の中には、「だけど、あなたたちもやっぱり信じてくれないかもしれない」の書き出して始まるものも含まれていた。その小説が賞をとったのだとしたら──受賞作はある意味、ぼくと小野寺の共著とも言える作品であろう。小野寺がそれを使って新人賞をとったのだとしたら、盗作をしたのはぼくではなく、彼女の方ではないか。
ぼくはこれでも、最高学府の文学部に在籍してきた人間だ。四年の間、古今東西の様々な文学作品に触れ、作家の思想や人となりを味わい、その理論的側面を探求してきた。一度デビューさせてくれさえすれば、人並み程度の仕事ならできる自信はあるのだ。だが、いくつかの新人賞に応募をしてみたものの、そのすべてで落選をしてしまっていた。多くのことがそうであるように、やはり作家という道も、最初のデビューこそが最大の難関であるらしい。それなら、小野寺に盗作の「貸し」を返してもらおう。本当に一度っきり、小野寺の小説を使わせてもらって、この最初の難関を突破しよう。そしてそのことで、彼女との貸し借りはチャラにしてあげよう、と思っただけなんだ。
そして、うまくいかない就職活動などすっぱりとやめ、すべての時間をかけて新人賞応募作を完成させよう、としていたのだが……。
だが、受賞したのが小野寺ではないとなると、ぼくのやったことのすべては、無駄だったらしい。
ぼくに残されたのは、価値があるのかどうかもわからない高校生の小説と、傷害の罪だけ、か。
いや、そうではない。
小野寺の小説は、このぼくが読んで、すごいと思った代物なんだ。出すところに出せば、きっと価値を認められるはず。それに、ただの傷害で初犯なら、数年の執行猶予くらいですむかもしれない。玉木からの知らせを聞いた時は、『どうして小野寺が』生きているんだとも思ったが、こうなってみれば、生きていてくれて良かった。その数年を、我慢して過ごそう。そしてその間に小野寺の原稿を磨き上げ、小説の道一筋に突き進めば、その時にはきっと、作家への道が──。
この時、軽快な電子音が部屋に響いた。
江波が自分のバッグをまさぐり、スマホを取り出す。画面をタップしながら後ろを向き、二言三言やり取りすると、すぐにまた電話を切った。その後ろ姿が、少しこわばったように見えた。そしてみんなの方を振り向くと、短く告げた。
「小野寺が、亡くなったそうだ」
江波以外の全員が、はっと息を飲むのがわかった。
そして、こちらに厳しい視線が向けられた。だが、ぼくはそれどころではなかった。小野寺が死んだ? となると、ぼくの罪は傷害ではなく、傷害致死? あるいは殺人、いやもしかしたら、強盗殺人だろうか。そうなったら、刑は死刑か無期懲役の二択だ。この先一生、塀の中から出てこれなくなってしまう……。
ぼくの心を、真っ黒な絶望が包み込んでいった。と同時に、大きな力も湧き上がってきた。定まってしまった運命に抗おうとする、強烈な意志の力。だがその力は、既に向かうべき道を失っているらしかった。暴走する力に突き動かされるように、ぼくは江波をにらみ返した。
「一つだけ、はっきりさせておきたいことがある」
そして、こう続けた。
「江波さん、あんたはぼくに向かって、『的を得る』は間違いだ、的を持っていってどうするんだって言ったよな。だけど知ってるか? これを誤用と言い切っている国語辞典は、あまりないんだ。しかも、最初に誤用扱いにした辞典の編集者が、誤用としたのは間違いだった、撤回してお詫びするって言ってるんだよ。『当を得る』や『要領を得る』のように、『得る』には『うまく捉える』意味があるからだ。その辞書の新しい版では、『的を得る』が独立した項目として取り上げられるよう、修正されてるんだ。わかったか?
それから、もしかしたら『汚名挽回』についても言いたいことがあるかもしれないけれど、これだっておかしくはない。『挽回』は、『状態を元に戻す』の意味もあるんだから。もしもこれがおかしければ、『疲労回復』だっておかしいことになってしまう。そうだろ?
それから、それから──」
相手に指を突きつけ、つばを飛ばしながら、ぼくは喋り続けた。江波は眉根をよせながら、体を心持ち玉木に寄せて、黙ってぼくの言葉を聞いていた。高飛車なこの女もこの時ばかりは、妙に決まりが悪そうであった。
これにて、本作は完結となります。
さて、あらすじで約束したタイトルの回収ですが、メインタイトルの方は小説中でできていると思うので、サブタイトルの「私に捧げるトリビュート(賛辞)」のほうも回収しておこうと思います。ここで言っている「私」は、松戸や小野寺など、作中の登場人物のことではありません。松戸の一人称は、「ぼく」ですし。実はこれ、人称ではなく、小説のタイトルなんです。
答をずばり言ってしまうと、谷崎潤一郎の『私』という短編です。ミステリファンなら、ご存じかもしれません。私も初めて読んだ時、かなりびっくりしました。まさかこんなビッグネームが、こんなことをするなんて! 青空文庫にも入っているのでネットでも読めますが、旧かなでけっこう読みにくいですね。私が読んだのは、新かなに直してあったような気が……何かのアンソロジーに入っていたのかなあ。興味がある方は、探してみてください。
いや、谷崎潤一郎なんて、なんだかちょっと読む気になれない……という方もいるかもしれませんが、まあそう言わずに。え、この人って、こんな小説書いてたの? とびっくりすると思いますよ。