奇跡
お父さん、桃太郎、これ、どんなものか食べてみて。
夕食が終わりそうになると、母の恵子はそう言って半分に切った緑色の皮の果物を皿に載せ、食卓に置いた。キウイを食べるときのようにスプーンが添えられている。果肉は薄いクリーム色で中に花の形のようにゼリー状の部分があり、断面はパッと見きゅうりのようだ。
フェイジョアっていうんだって。恵子は果物の名前を言う。最近、恵子の又姪が結婚し、その結婚相手が経営している果樹園から贈られてきたのだそうだ。フェイジョアは日本ではあまり育てられていない果物だが独特の甘みと香りで静かな人気があるのだという。亨はスプーンで果肉を救い、うん、と唸った。
メロンとバナナとパイナップルを混ぜたような面白い味だな、うん。酸味がいい。父のその言葉を聞き、桃太郎も果物とスプーンに手を伸ばした。そして一口食べ、父の言ったようなそれぞれの果物の味を確かめようとした。と、その途端、桃太郎の脳にガツンと衝撃が走る。息が、止まった。
どうしたの、桃太郎、変な味だった?驚いた母が声を掛ける。桃太郎はうつむきながら手を振って大丈夫というゼスチャーをした。口の中のものを飲み込むと、味にびっくりしただけ、と両親を安心させた。
桃太郎が高校3年生の秋。彼は倫星学園と同じ市にある大学に進学することに決めていたが、ギンやサチコとはそれぞれ別々の大学を目指し、以前ほどの交流はできなくなるだろうなと寂しくなった。
家にネット環境が無く、スマートフォンも持っていない桃太郎は、ギンの家でインターネットを使わせてもらうことにした。実の親のことを探すのはやめにしたんじゃなかったの、とギンが尋ねる。そのつもりだったんだが、手がかりを見つけちゃったからな。
それは以前、ギンの紹介でカウンセラーにかけてもらった催眠術によって思い出した果物の匂いだった。
ギンに検索の仕方を教えてもらい、フェイジョアの栽培地を探す。まずは親戚の果樹園を見つけ、どれくらいの規模で探せるかを確かめる。しかし親戚の果樹園は遠い香川県だ。他にも検索で引っかかった順に農園・果樹園の場所をメモしていく。そして次にマップでその位置を確かめる。自分が流されてきた浜、そこに流れ込む川、その上流……。
あった。地図を指さすと、ギンが地図を拡大した。さらに航空写真に切り替えるとそれっぽい緑色の葉や草の色に囲まれた建物の写真が表示された。ふう、と息をつきインターネットの便利さを実感した。
でも、別に桃太郎は農園で生まれたと決まったわけじゃないでしょ、というギンの疑問に、そりゃそうだと桃太郎は笑う。農園から家庭や青果店にフェイジョアを梱包して送ったときの箱が使われただけというのが一番ありそうなパターンだろう。でも、それでも。
俺、今度の3連休にここに行ってみようと思う。いや、朝から電車に乗れば日帰りできるか。そんな桃太郎の宣言に、ギンはじゃあ僕も付き合うよ、と言った。根拠のガバガバな感傷旅行だぞと苦笑するが、ギンは高校卒業したら会う機会も減るし高校生活の最後の思い出になりそうだから、と言う。それで桃太郎も頷いてそれじゃ一緒に行こう、と了承した。するとギンは自分のスマートフォンを渡し、サチコも、と促す。桃太郎は礼を言って電話を掛けようとするが、番号キーを出さなくてもアドレス帳に登録してあるからそこをタップすればいいと教えられた。ギンのスマートフォンにサチコの電話番号が納められていることに少し嫉妬した。
3人は電車を乗り継ぎ、駅からバスに乗って最寄りのバス停まで行くつもりだったが思っていた以上にバスの本数が少なく、しばらく待たされた。
バス停を二つ三つ過ぎると、たちまち辺りから高い建物が減り、そこから先は田舎の風景になった。その途中、バスが大きな橋を渡り、外の風景を見て桃太郎の胸がキュッと緊張する。もしかしたら、俺は……。サチコが、大丈夫?と桃太郎の手の甲に触れた。
バス停に降りると、近くの大きな木の看板に農園への矢印が書いてあってすぐに管理棟が見つかった。40歳くらいの作業服のおじさんがいた。頭を下げる。この人は農園主らしい。
一人1000円でフェイジョアの収穫体験が出来ると壁のプレートに表示してあったので、せっかくなのでやらせてもらった。フェイジョアは葉っぱとほぼ同じ色の果皮の実だ。農園主のおじさんから説明を受けて、既に地面に落ちているものを拾ったり、今にも木から落ちそうな、つながりの緩いものを収穫した。ああ、確かにこの匂いだったんだよ。桃太郎は二人に説明した。
フェイジョアに興味がある若者が嬉しかったのか、農園主のおじさんはよく話しかけてきた。フェイジョアの普及をさせたいというおじさんは、栽培を20年前からやっているが、なかなか人気にならないことを嘆いた。ネット通販で全国への送付にも対応しているが、ほとんどの出荷先は市内の青果店か個人宅だそうだ。20年前といえば、桃太郎との関係の可能性がギリギリ消えない年数だった。
フェイジョアのジャムを買って農園を出た。バスの時間が合わないのでだらだらと駅まで歩くことにした。
俺が出来ることはここまで。俺の実の親はこの市内のどこかにいる……のかもしれない。まあ今度こそ最後、これ以上はもう無理だ。お土産も買ったし、適当に何か食って帰ろう。
国道沿いのショッピングモールを見つけ、3人はそこに入ろうと駐車場を横切る。すると、こちら側に背を向けて歩く女性の買い物袋からタマネギが落ちるのが目に入った。桃太郎は駆け足でタマネギを拾い、少し大きな声を出してその女性に呼びかけた。女性が振り返った。
――その時。桃太郎は全ての思考段階を跳び越えて悟った。
おかあさん。
だが、その声を皆まで発することは出来なかった。桃太郎の顔を見た途端、その女性は驚愕に目を見開き、耳をつんざくような悲鳴を上げた。ふっと糸が切れたようにその女性は倒れ、買い物袋からバラバラと買ったものがこぼれて散らばった。桃太郎は女性を助け起こそうとし、サチコやギンも駆け寄ってきた。
あなたたち、何をしてるの!
と、そこに中年の女性が怒りの形相で駆け寄ってきた。だがその女性も桃太郎の顔を見るなり、驚きの顔になった。
ショッピングモール内の喫茶店でしばらく待っていると、先ほどの中年女性がやってきた。倒れた女性を家に送ったあと、ここで待ち合わせをしていたのだ。
桃太郎はこの町に来た理由を話し、女性に声を掛けたいきさつを話す。中年女性はため息をついた。信じられないような話だけど、あなたはあの男によく似ています。それにあの子が出産したことはお医者さまと一部の警察の方しかしらない筈です。きっとその通りなんでしょう。そして中年女性は自分が女性の母であることを話した。つまり、この人は桃太郎の実の祖母ということになる。母の恵子よりだいぶ若かった。
その男は町の外れに住む裕福な家の子だった。人間関係を構築するのが苦手で学校も休みがちだったが、なんとか高校を卒業し、小さな会社に就職する。しかしその矢先、両親が事故死。それからは自分を叱咤激励してくれる者もなく、仕事も辞め、家に引きこもり、親の財産だけで生活するようになった。
男はときどき散歩に出た時に通学中の児童を見かけたが、やがてそこに悪しき感情を向けるようになる。ある日の夕方、男は一人で歩いていた女子小学生にナイフを突きつけて脅し、口をふさいで自分の所有する自動車のトランクに押し込めて自宅に連れ込み監禁した。彼女は24時間拘束されていたわけではないが、暴力と暴力的恫喝により心を恐怖に支配され逃げることができなかった。警察の捜査も有力な目撃情報が無かったため難航し、次第に捜査員の数も減っていった。
やがて少女は妊娠、そして、一度も病院に行かぬまま男の家で出産した。少女にも男にも知識が無いため赤ん坊の様子が良いのか悪いのかの判断も出来なかった。最初、男は赤ん坊の面倒を丁寧に見ていたがやがて態度が変わり、ある時赤ん坊を大きめのタオルにくるんで部屋を出ていくと、その後一人で帰ってきて、赤ん坊のことを問われてもヘラヘラと笑うばかりだった。強く問い詰めると殴って黙らせた。
地獄のような時間は9年という長期に渡った。ある時男の家のネット回線の切り替え作業で業者が家の中に上がったとき、男の一人暮らしであるはずなのに生理用品のゴミがあることを不審に思い、男の様子も不気味だったので作業後上司に相談して警察に通報、事件が明るみになった。
男は逮捕され、裁判の結果は実刑で懲役15年、直ちに収監された。少女は元の家に戻り、母親と共に静かに心身のリハビリ生活を送った。
悪いけど、と桃太郎の実の祖母は申し訳なさそうな顔で言った。このままあの子には会わず、帰ってくれないかしら。
そんな、と非難めいた声を上げたのはサチコだった。モモは何も悪くないのに。
あなたの顔を見たらまたあの子が辛いことになってしまうわ。わかってちょうだい。私だって孫にこんな形で会うなんて思ってもみなかった。
さらに声を上げるサチコを、桃太郎は止めた。いいんだ、もういいんだ。
あふれあがる感情をこらえ、桃太郎は、雑に、それではお元気でという、まるで社交辞令のような言葉だけを言って立ち上がり、喫茶店を出た。
サチコとギンが桃太郎を追いかけ、モールの外に出た時、彼は深呼吸をしていた。
ギンが声を掛けると桃太郎は振り返って、暗い笑みを浮かべた。
俺も悪かったんだ。昔、親から、お前を捨てた奴は鬼だ、親だなんて思うなと言われてたんだ。それを守らなかったんだからバチが当たったんだよ。
ギンはそんなことはないよ、と否定の言葉を言った。桃太郎は力なく首を横に振る。だが、サチコはそんな桃太郎の腕をギュッとつかんだ。そして、ギンの方を向いて、しばらく二人きりにさせて欲しい、と頼んだ。ギンは察して頷いた。
奇跡は誰にでも起こり得る。
けれど、奇跡で幸せになれるとは限らない。
帰りの電車の中で、3人はフェイジョアでモノボケ合戦をして笑い合った。
桃太郎は自室で電話を受けた。
大学に入学し、スマートフォンを買ってもらった桃太郎は、古い名刺に書かれた電話番号に電話をした。電話はつながり、しかも桃太郎が名乗ると電話の相手は自分のことを覚えていた。桃太郎は過去に起こった事件の加害者と被害者の実名を知りたいと頼んだ。事件は匿名で発表されたが、報道関係者ならきっと知っているはずだと思った。相手は調べてこちらから掛け直すと言ってくれた。
塩田が言う名前をノートにメモする。関心がなければすぐ忘れてしまいそうな平凡な名前だった。
この名前を知ったからと言って、どうするというわけでもない。ただ、知りたかった。名前を心に刻んでおきたかっただけだ。
この先、一生、この二人とは関わりあいになることはないだろう。いや、関わらない。
桃太郎はノートを閉じ、机にしまった。