幻想の終わり
桃太郎は父の亨の言いつけで、ひとり以前住んでいた漁師町へ行くことになった。元教え子で、最近視力と体力の低下で医者を辞めることになった小倉の家へ退職祝いを届けるためだ。単純に郵送してもよかったのだが、何といっても小倉は桃太郎の命の恩人である。救った命が元気に育った姿を見せてやりたいというのが亨の計らいだった。
小倉の家は柴川家の以前の家とは全く離れたところにあり、駅を出てからその先は見慣れぬ道を歩くことになった。桃太郎は小倉に会っているはずだが、なにしろ赤ん坊時代の頃。その後はほとんど病院に通うこともない健康な生活を送ってきたため、見ず知らずと言ってよかった。
小倉邸では白髪混じりの男性とその妻であろう女性に丁重に迎えられた。そして客間に通され小倉と向かい合いでソファに座った。年の離れた人物との会話は緊張したが、桃太郎は最近の両親の様子を告げ、小倉は亨との思い話を語った。
桃太郎君、ずっと元気でやってきたかい。その言葉に、おかげ様でと答えた桃太郎だったが、小倉はそこで表情を固くすると、ソファから立ち上がり、桃太郎に、申し訳なかった、と頭を下げた。桃太郎は驚き、慌てて自分も立ち上がって、どうしたんですかと声を掛け手を添えて座らせた。小倉は顔を上げると、桃太郎を診たときの話を始めた。
かつて、がん治療のための再生医療の研究プロジェクトが実施され、小倉もそれに協力していた。MO2細胞と仮称されたその細胞は正規の流れではなく偶然生まれたものだった。通常、人体で自然に生まれることのないその細胞はがんになってもおかしくはなかったのだが、MO2細胞は善玉のがんとでもいうべき存在で普通のがん細胞を破壊して修復するのみならず、それ以外の破損や変質も修復するという恐るべき働きをした。これが認められれば医療に画期的な革新をもたらす筈だった。しかし、実験記録の不備により他の研究室ではMO2細胞の再現ができず、それどころか論文の図と画像に盗用が見つかって糾弾されリーダーは自ら命を絶ち、プロジェクトは中止となった。MO2細胞は小倉の病院に保管されていたが廃棄されるその直前、恩人から緊急に助けて欲しいという懇願を受ける。その赤ん坊は呼吸もままならぬ重態で、先天性の疾患を持ち、とても助けられる見込みはなかった。だが、小倉はそこで決断してしまった。
認められていない治療を施されていた。桃太郎は自分の体内の細胞をイメージした。心当たりはある。ぞわりと悪寒が走った。だが、桃太郎には小倉を責める気はなかった。桃太郎はうなだれる小倉に対し、僕はこうやって元気でいます、感謝こそすれ恨んでなどいません、と宥めた。ありがとう、と小倉は薄く涙ぐみながら笑った。
桃太郎は帰途で思いを馳せる。自分は鬼の血など引いていなかった。当たり前の話なのだが。もう、無理して自分の本当の親を探すことはない。新しい人生の目的を見つけよう。サチコの顔が真っ先に頭に浮かんで桃太郎の笑みがこぼれた。