退行
サチコは桃太郎と二人きりになると、どうしてあんなこと言われて怒らなかったの、と責めた。桃太郎はあまりのことに言葉が出なかったと釈明したが、考えてみると最近は感情を出すべき時に出していないなと気付いた。いつからだろうか。小学生の頃はヒーローに憧れて正義感を出していたのに。……高校生にボロボロにやられた時からだ。
桃太郎がよい母親に恵まれていて羨ましい、とサチコは言った。桃太郎はそれを聞いて少し不思議に思った。サチコに対して恵子はあまりいい態度で電話の応対をしていなかったはずだ。
でもそれって、お母さんがモモのことを心配しているからでしょ、とサチコは薄く笑った。
サチコの母親は、彼女に優しいときと冷淡なときとで激しい差のある女性だったが、サチコはよく慕っていた。だが周りの人間が、サチコの父親を含めて、サチコの母親を悪く言った。それがサチコの心をひどく傷つけた。年齢を重ねるごとに、サチコは自分の母親が悪い母親であると理解していくようになったが、それでも好きなことには変わりなかった。ただ一度、離婚のときに媚びるような声で私と一緒にいたいでしょ、と言った。その時だけは母親を気味悪く思って突き放した。
それでも私はお母さんのことが好き。
桃太郎はサチコの話のお返しに、自分と両親の関係について話した。一生かかっても返せない恩がある。サチコが代わりに怒ってくれたのは嬉しかった。忘れかけた感情を再燃させたい、と思った。
その後、サチコのビンタは1年生の間で噂になり、彼女はちょっとした有名人になってしまった。
ギンが桃太郎に退行催眠を勧めた。いつか本当の両親に会ってみたいという話を聞いたことを覚えていたギンは、自分が世話になったカウンセラーが退行催眠療法をしていることを知り、桃太郎の助けになるかもしれないと思ったのだ。催眠という言葉に桃太郎は少し胡散臭いものを感じたが、ギンは信頼できる人だからと宥めた。
退行催眠というのは、催眠状態の中で過去の体験の記憶を思い出させ、それを原因とするトラウマなどを治療する目的で行われるものである。一説には前世の記憶まで思い出させるというのだが、ギンのカウンセラーはそのようなことはしないらしい。桃太郎はまれに夢の中で何かを思い出しそうになり、目が覚めたら忘れてしまう経験があることは実感していた。彼の中で興味が警戒より勝り、カウンセラーに会ってみることにした。ただ、過去のことを思い出したいと言うと両親が悲しむだろうと思ったので二人には黙っていることにした。
カウンセラーは桃太郎がイメージしていたお医者さんのような姿とは少し異なっていた。真面目で優しそうな顔をした、ノーネクタイでYシャツ姿の眼鏡のおじさんだった。
少し会話して、退行催眠を受けたかった理由を話す。両親とは血がつながっていないことだけ話し、記憶にない実の両親の思い出に触れたいと語った。
指示に従い、目を閉じ体を弛緩する。幾つかのキーワードと共に少しずつ昔のことを思い出すよう誘導される。眠くなったわけではないが、朝、寝起きに夢と現実とが頭の中で混ざり合っている状態になった。テレビ番組のナレーションのような声に従って、一度自分の思い出が録画された映像のように目の前に現れたかと思うと、すーっと自分がその映像の登場人物になった。
小学校、幼稚園、病院……。桃太郎はやがて、暗闇の中に溶けていく。
遠くに感じる光、身体をゆらゆら揺すられる感覚、水音、そして……甘酸っぱい匂い。
桃太郎は目を覚ました。どうでしたか、とカウンセラーが優しく話しかける。夢とは違って、よく覚えている。先ほどまでの経験は本当の記憶なのかということはハッキリ言えない。けれど、胸に熱いものが襲って、涙ぐんでいる。そしてカウンセリングルームには芳香剤の花の匂いが漂っているが、これはさっきの果実のような匂いとは違っていることに気付いた。本当の記憶の中の匂いかもしれない。残念ながら、記憶にない人間の姿を見ることはなかった。だが、とてもスッキリした気分だった。それだけでもカウンセラーに、そして紹介してくれたギンに感謝したかった。