母を愛す
受験勉強の合間に過ごすサチコとの時間は桃太郎にとってよい息抜きだったが、母の恵子が、勉強は大丈夫、と声をかけてくるのがうっとおしいと思っていた。普段ギンから電話が掛かってくるときは普通に応対するのに、サチコからの電話の時には少し声音が尖っているのは理不尽だと感じた。まるでサチコが邪魔な存在であるかのようにいろいろと質問してくる母に対し、桃太郎は声を荒げてしまうこともあった。彼は自分の携帯電話が欲しいと思ったが、今まで何度も両親に迷惑をかけているという負い目があって、おねだりをすることに抵抗があった。
桃太郎は何度かギンとサチコとの三人で勉強会をしたり、遊びに行ったりしようと提案したが、それにはギンが渋った。ギンは小学校の頃から異性を過剰に意識して上手く喋れなくなってしまうところがあって、それが気持ち悪いと思われた理由でもあるのだが、それはサチコに対しても例外ではなかった。
しかし、中学最後の冬休みにギンは譲歩した。休みに入る前に桃太郎が初詣に誘ったとき、浮森さんも行くのかと訊き返したのでダメかなと思いつつそうだと答えたが、ギンは行くよ、と誘いを受けた。
ギンは自分がカウンセリングを受けていたことを話した。彼は桃太郎と勉強しているときは大丈夫だったが、一人のときに勉強疲れなどでストレスが募るとフラッシュバックを起こして苦しむことがしばしばあったそうなのだ。ギンの母親の知り合いにカウンセラーがいたのでその人と会話をし、気を楽にしてもらったという。少しは自分から頑張ってみるよ、とギンは笑いながら言った。
初詣の帰りに3人でファミレスに入ったが、特にどうということもなかった。積極的に口を開かないまでも、サチコが話を振ったときにも普通に受け答えをし、笑うこともできた。
倫星学園の入試を明日に控えた日の夕方、体調を崩した母が倒れた。桃太郎は母を居間のソファに寝かせると、父が講師を務めている市の文化センターに電話し、判断を仰いだ。父はすぐ帰ってきて行きつけの病院に運ぶことにした。桃太郎が付き添おうとすると、明日は試験なんだからお前は家に残って休めと指示された。試験前日は無理して勉強を行わずに体調を整えておく予定だったが、家で一人で待っていると、最近ずっと母に心配をかけてしまったからではないか、冷たい態度をとってしまったからではないかと、そんな罪悪感が胸の中で跳ねた。しかしその間、頼んだわけでもないのにサチコやギンが電話を掛けてきてくれたのはものすごく嬉しかった。夜遅くなって父から電話が掛かってきて、恵子の状態が安定したことを教えてくれた。そしてもう寝ろと繰り返した。
思わぬ不安を抱えたまま試験を受けた桃太郎だったが、結果は合格だった。そしてサチコもギンも合格した。
高校に進学したことでまた人間関係がリセットされ、生徒は自分たちと気の合いそうな仲間を探そうとして会話を始める。桃太郎とサチコは同じクラスになり新しいクラスメートと他愛ない会話を行っていた。話題が出身中学や受験時の苦労話になったとき、桃太郎は何気なく試験前日の母のことを喋った。すると、それに対し、入学式当初からひょうきんな態度で目立っていた男子がうはははは、と笑った。そして、じゃあ大学受験の時にもお母さんに倒れてもらえばいいな、と続ける。桃太郎は何で彼がそのようなことを言うのかわからず、なんでだよ、と小さく返したが、縁起担いでさ、と彼は笑い続けた。桃太郎の顔から血の気が引き、思考が上手くいかなくなってめまいを起こしそうになった。
すると、桃太郎の隣の椅子に座っていたサチコが立ち上がり、ひょうきん男子の頬を打った。彼が何か言い返す前にもう一発打った。