207.(嘘から始まりたくない)
嘘をつくことは出来る。ミキの云うことを信じて、頷いて、反論せず、出会いからの一連の出来事を訊き出せばミキの知る世界になる。そして、何事もなかったように思い出をふたりで作っていけばいい。未来をふたりで作っていけばいい。
だが、ノブオはそれをよしとしなかった。
それは違うのだ。
嘘も方便とは云うが、ミキに嘘をつきたくはなかった。
嘘から恋を始めたくはなかった。
ノブオは、ミキには誠実でありたかった。
そして何より、ミキにはミキのための、川村ノブオいるのだ。
その川村ノブオは、この俺じゃない。
だからミキは、ミキの世界に戻るべきなのだ。
この世界は、童貞で、三十路で、前髪前線が後退しかけて、かわいい彼女がいない川村ノブオの世界なのだ。ミキと恋仲で居る川村ノブオのいる世界じゃないのだ。
ごめん、と云いかけてミキが何かもじもじとしているのに気がついた。
「……おしっこ」
ミキは立ち上がると、トイレに駆け込んだ。
がくりと気が抜けた。この土壇場でおしっこですか。そうですか。
しかし、ほっとした気持ちが自分の中にあるのを知った。座卓の上のふたり分の夕食をみて、ぐぅ、とお腹が鳴った。もうみそ汁はぬるくなってしまったか。
しかし、食事に手を付けられなかった。そして不意に──ロボの手のことを思いだした。
ロボの手は昨夜のまま、デスクの上、同じところにあった。ボールペンを握って、願い事を書いた紙の上。
──漠然としたお願いじゃなくて、具体的なお願いじゃないといけないのよ。
沢田さんの言葉が脳裏によみがえる。
まさか。
いや、そのまさかが今、トイレに篭っている。
ノブオは昨夜書いた願い事を見つめた。それから、ロボの手で握ったボールペンでその上に二重線を引いた。
いいのか、俺。後悔は、しないか──?
ミキはいい子だ。
百年経っても、二百年経っても、絶対に自分と恋に落ちるような子じゃない。
手を放せば二度と元には戻らない。
分かっているのか?
それでいいのか?
ノブオは思った。
いいんだ。
そう。ミキとは、嘘から始まりたくない。
嘘から恋を始めたくなかった。
だから、書いた。
「俺に彼女はいない」
ガンッとひときわ大きな音がトイレの方からした。ノブオはロボの手を放りだし、慌てて駆け寄った。
ドアをノックする。返事なし。
「おい! 大丈夫か!」
躊躇うことなく、えいっとドアを開けた。
誰もいなかった。
「……ミキ?」
声に出してみた。返事はなかった。部屋に戻ると、座卓の上の食事は消えており、ラックにはプラモデルやフィギュアが飾ってあった。
願いは……叶えられたのか?
全てが昨夜の通りだ。
これが、俺の知る世界。そして、ミキの居ない世界。
自分も自分自身の生活を取り戻したのだ。なんの不満があると云うのだ?
しかし、たった一日しかいなかった見知らぬ女のことを思うと、胸が締めつけられた。
ミキ。
しあわせそうな寝顔のミキ。
泣きじゃくってたミキ。
自分が女であることを嬉しいと云ったミキ。
もしミキが自分の世界に帰れたのならば、それは喜ぶべきことだろう。
だがもし、そもそもそんな世界などなかったとしたら?
ミキという存在そのものが、もともとなかったとしたら?
バカ野郎、と自分を罵った。
もうミキは居ない。二度と出会うこともない。自ら望んだことであるのに、動揺するバカがどこにいる。
ここにいる。ここにバカがいる。
ハッと気付いた。
ロボの手。
願い事は三つ──まだ、ふたつしかしていない。
そうだ、ロボの手だ。
嘘からではなく、本当から始まるミキとの物語を願えばいいのだ!
だがその願いは打ち砕かれた。
ロボの手は、さっき放りだした拍子に床に落ちて関節が砕け壊れ、ネジ曲がったシリンダ、ワイヤで繋がれた指がぶらぶらと、かろうじてくっついていると云った按配だった。
己の注意力の無さに、思慮の足らなさに、今ほど落胆したことはあるまい。
もし、もうひとつ願いが叶うのならば、明日の朝、パンをくわえて走ってきたミキと十字路でぶつかって、運命的な出会いをして恋に落ちるとか。いや、パンをくわえて走ってる女なんて、実際に遭遇したらどうなんだ。電車の中でコンビニのおにぎり食ってる女とどんだけ大差ないというんだ。いやまぁおにぎりくらいならアリかな。だったらトーストだってアリだ。ボックス席なら弁当を食うのは普通だし──ってそんなことより!
なんて想像力がないんだ、俺は。バカだバカだバカだ。
ノブオは自分を罵った。ああ、バカだ。俺はバカだ。くそっ。
壊れたロボの手を握りしめて、ノブオは思った。いっそ、こんな世界など呪われてしまえ!
刹那、ガンッと思いきり頭を殴られた、と思った。
*
そこは真っ暗だった。
後頭部がズキズキする。
ああそうか、俺は殴られたのか。ってことは失神しているのか。
呑気にノブオは思った。おや、手に握っているのは壊れた敵ロボの右手か。
「おう、いたいた」
不意に後ろからスピーカーを通したような声が聞こえて、ノブオは振り返った。
真っ暗な世界なのに、そいつの姿が見えた。
「それは私の右手だ」
は?
そいつはシリンダにワイヤだのプレートだの金属の塊で構成されており、まるで骸骨のような形をしていた。ちょうど雑誌付録で見るようなアニメロボットの装甲を剥がした内部構造図のイラストのようだった。しかし、その姿は上半身だけで腰から下がなかった。いや、よく見れば、他にもところどころとパーツが欠けているようだ。しかし浮遊している感じでもない。それなのにノブオを見下ろすような位置にいた。って云うか普通にデカイ。なんぞこれ。
「いったいなんだってんだ?」
そいつは赤く光る一つ目をぎょろりとさせた。「見ての通りだ」
分からん。
「お前が思った通りに見えてるだけだろう」
なんだそれ。ますます分からん。
そいつはノブオの手から壊れたロボの手を取り上げると、自分の右手首に差し込んだ。
「壊しちゃったんだけど──」
大丈夫だ、とそいつは云った。繋がった右手はしゅるしゅるとビデオの巻き戻しみたいに、破損前の状態に戻っていった。最後にはその表面がクロムの輝きを取り戻した。
そいつはコキコキと、新品同様となった右手を動かして見せた。「こんなん、どうってことない」
「……ちょっとお尋ねしますが、」
「なんだ」
「世界は……どうなってしまったんでしょうか」
「呪われたんじゃねーの?」
ああ、やっぱり。「で?」
「でって?」
「いや、だから。それでこんな真っ暗に?」
あいやっ。「まぁ気にするな」
「いや、困るんだけど」
アホか、とそいつは云った。「望みがあるなら、明確なヴィジョンを持て。そこから逆算すれば、今、自分が何をすべきか分るだろうが」
ふん、と鼻を鳴らし、「このバカチン」
うりゃっと、繋いだばかりの右手でノブオのデコに空手チョップをかました。
「だからダメなんだ、お前は」
いてぇ。
「ほら、目覚ましが鳴っている。さっさと起きて、勤労に励め」
えっ、とノブオが思った時には、その姿はどこにもなかった。
そして、目覚ましのアラーム音がだんだんと大きく鳴り響き、真っ暗な世界を覆い尽くしていくのだった。
*
変な夢を見た、と気乗りしない土曜出勤の電車の中で欠伸をした。
部屋には、確かに沢田さんから貰ったスターバックスの紙袋と、ラッピングのリボンはあった。しかし、プレゼントはなくなっていた。
三十過ぎて童貞だと魔法が使えるらしい。
昨日の一日が魔法の一日だったのなら、たぶんそうなのだろう。
よく分からないけれども、確かに起きてしまったことなら、受け入れてしまえば楽になる。
それはどこか、大人の必須条件と重なるものがある。
我慢すること、諦めること、長い物に巻かれること、日和見であること。
ちょっと勿体ない、と思う。しかし、時間は残酷にして勝手に過ぎていく。ならば、どこかで折り合いをつけるしかないのだ。
週刊誌の中吊り広告に目をやる。今日も今日とて、国民の投票で決まった政治家は汚職をし、地球の裏側では戦争が続き、差別と区別を履き違えた運動が盛んで、今もどこかで誰かが泣いている。本当になぜ、僕らは死ぬためにだけ生きているのだろうとかなんとか。
ふと、最後の願いを思いだした。
世界は既に呪われている。ならばもし、世界の平和を望んでいたら──?
ノブオは頭を振った。平和の定義は、ひとそれぞれだ。結局のところ、誰もが折り合いをつけて生きていくしかないのだ。与えられた世界と環境の中で。
しかし少し、今より少し、毎日が楽しいと思えることが少しでも増えれば、それはそれで素敵なことなのかもしれない。
ノブオは、どう願えばそんな風になるのだろうと思って、ちょっと笑った。
それは自分が現実に対してどう思うか、どう感じるかに依存するのだ。自分がそれを受け入れ、楽しいと解釈すれば、それで充分なのだ。
会社に着くと、沢田さんは既に出社していた。
「どうなった?」
「たぶん、解決したんだと思います」
そっか、と沢田さんはそれ以上、尋ねてはこなかった。
缶コーヒーを飲みながら、PCが起動するのを待った。
「あのね、」
ふと、沢田さんが声をかけてきた。「昨日、気になってアメ横に行ってみたの。そしたら左手も売ってたけど──いる?」
─了─