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206.(君のことを、何も知らないんだ)


   *


 退社時間になって、ノブオは沢田さんと一緒に会社を出た。

 沢田さんは何か云いたそうに感じたけれども、ノブオは黙っていた。ふたりは一言も話しをせずに、改札で別れた。

 列車に揺られながら、ノブオはミキのことを考えた。

 しあわせそうに寝ていたミキ。

 泣きじゃくっていたミキ。

 ノブオはケータイに届いていたメールを、一通ずつ読んだ。

 どうして、と不安と混乱、そして困惑と恐れが文面から滲んでいた。

 ノブオの心変わりを理解できない、と。

 そうか。ミキにとっては心変わりなのか。

 ミキのメールは、自分がノブオをどう思っているのかを切々と訴えかけてくる。二ヶ月前の出会いから、今朝に至るまでの、楽しくも嬉しくも、ちょっぴり恥ずかしい、それでもしあわせな思い出について──。

 胸が痛んだ。

 こんなに慕ってくれる女を知らぬ存ぜぬと手放すなんて、バカだ。

 だが、ノブオにとってはやはりミキは恋人でも友達でも、ましてや知り合いでもない。赤の他人だ。しかし、こんなことでも起きなければ、百年経ってもミキのような女の子に慕われることもないだろう。

 分かってる。

 自分のことは分かっている。

 恋人は欲しい。

 結婚もしてみたい。

 だけど、その過程にある、あれこれのイベントを全てクリアして、さらに向う何十年もさまざまな障害だのなんだのを乗り越えて──。

 ダメだ。考えられない。

 自分がそれをする姿など想像だにできない。

 結局のところ、自分はひとりがいいのだ。

 適当に、行く先々にいる子に恋をして、自分に都合の良いシナリオの妄想に浸るだけで、実際に恋をしたり、付き合ったり、結婚したり、一緒に暮らしたりなんて、敷居が高すぎる。

 そう、妄想の中の恋人は、誰も愛らしくて、やさしくて──そして何より、都合が良い。

 都合が、良いのだ。

 ひとりが寂しいと感じた時だけに彼女たちは現われて、ひとりになりたいと願えば彼女たちは消えてくれる。

 だが、生身の恋人だったら?

 四六時中機嫌の良い人間なんていない。自分だってムラッ気がある。八つ当たりをすることだってあるだろう。いつもやさしく甘い時間と云うワケにはいかない。向うが当たってくることだってあるだろうし、それを受け止めなければならないのだ。そしてもし、どうしようもなくなってしまったら──別れるしかない。

 片思いの失恋は知っている。辛かった。だが、相思相愛になった相手との別離となると、その痛手はどんなものだろう。片恋であれだけ辛かったら、過ごした時間に比例して、もっともっと辛いんじゃないだろうか。それだけじゃない。お互いに理解が出来なくなること以外にも別離の理由なんて幾らでもあるのだ。事故に遭う、病気になる、隕石が落ちてくる。

 ずっと一緒になんていられないのだ。

 なんで人間は死ぬために生きるんだろうなぁ、と哲学めいたことまで意識が飛んだところでノブオは我に返った。事故も病気も隕石も、ミキのこととは関係ない。そもそもミキは、自分の彼女ですらないのだから。


   *


 玄関を開けると、ミキが出迎えてくれた。

「おかえりなさい」

 そう云う瞳にの中に、不安の色が見えたのは気のせいだろうか。たぶん、気のせいではない。もごもごと、ノブオは言葉にならない言葉を呟いた。ただいま、の一言を云えなかった。

「ご飯作ったから」

 お洗濯もしてね、お掃除もしてね、お風呂も洗ったし──。

 ミキはまるで何か話しをしていないと自分が消えてしまうのではないかと、そんな感じで次から次へ口を開いてきた。

 座卓の上に、ふたり分の夕食。ノブオは手を洗い、うがいをして、ミキに促されるまま座った。

 すぐに暖めた豆腐とナメコのみそ汁と、炊飯器からご飯を盛った茶碗が出てきた。焼いたししゃもと、ほうれん草のおひたし。二膳の、箸。

「お腹、空いたでしょ?」

 ミキが、笑顔で話しかける。

 ダメだ。その笑顔が、ノブオにはひどく痛々しく思えた。

「藤本……さん、」

「やめて」

 ミキはうつむいて、云った。「名前で呼んでよ」

 ずっとそうだったじゃない。ミキって呼んでよ。

 ノブオは呼べなかった。

 顔を上げたミキの瞳が、滲んでいた。

 どうして。どうしてなの。

 蛍光灯の光を受け、キラキラと輝いて、その濡れそぼった瞳は宝石みたいに綺麗だった。

「思い出せないの?」

 ノブオは答えなかった。否、答えられなかった。

「わたしね、ノブくんと出会って、いつも自分が女で生まれてきて良かったって思うの」

 ミキは、涙に濡れた瞳のまま語り始めた。

「お風呂に入る時にね、下を向くとおっぱいがあって、自分は女なんだっていつも確認して、それがすごく嬉しいの。だってノブくんのことを好きでいられるから。ノブくんに好きになってもらえたから。自分が女だから、ノブくんと一緒にいられるんだ、だから嬉しいの。女で生まれてきてすっごく嬉しく思うの。いっぱいノブくんに抱きしめてもらって、キスしてもらって、わたしもノブくんにキスして、ノブくんに抱きついて。こうして一緒に、これからも一緒に色んなことを一緒にやっていけるんだと思うと、嬉しくて嬉しくて、次に会える日を毎日毎日数えるの。

 明日はお仕事だけど、さよならは一度だって怖くなかった。だって次のお休みに必ず会えるんだもん。さよならは寂しいけど、怖いことなんてなかった。ノブくんはいつだってやさしくて、わたしのことをぎゅっと抱きしめてくれる。

 今日ね、お洗濯してたら、家中がノブくんの匂いでいっぱいになったの。ノブくんに包まれているみたいで嬉しかった。

 このお部屋大好き。

 ノブくんの匂いで溢れてて、わたしの大好きなノブくんが、色んなところに隠れている。

 お片づけをしていて、クローゼットの中、見ちゃった。漫画の女の子のお人形、持ってるなんて知らなかった。まだ、わたしの知らないノブくんがこんなに隠れているだ、それをひとつずつ知っていく楽しみ、ううん、もしかしたら一生かかっちゃうかもしれない。

 でもわたしはノブくんのことをもっともっと知りたいし、だから知らなかったノブくんを知るのはとても嬉しい。ノブくんを見つけるのがとても楽しい。かくれんぼみたいで、でもきっとノブくんを捕まえるの」

 ミキは弱々しくながらも、確かに微笑んだ。目から涙が零れ落ちることはなかった。

 なんていい子なんだろう──。

 フィギュアを見つけても、気味悪がったりバカにしたり捨てたりしないなんて。

 けれども──けれども。

「やっぱり俺は、君のことを、何も知らないんだ」

 絞り出すように、言葉を紡いだ。正直に、言葉を紡いだ。それが誠実であることだと思ったから。

 ミキの瞳からぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちるのを見た。

 ノブオは知らないことの罪悪感にさいなまれた。

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