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205.(かわいい彼女って)


   *


 味噌煮込みうどんをふぅふぅ冷ましながら、沢田さんはノブオの話をきいていた。一方で、喋っていたノブオは、かき揚げうどんにほとんど箸をつけていなかった。

「二、三度、彼女から電話が入って、それを無視してたらメールに切り替わったんです」

 つるっと沢田さんはおちょぼ口にしたその唇で、うどんを吸い込んだ。

「信じられます?」

 ノブオはケータイの「@藤本ミキ」で占められている受信メールの一覧を見せた。

「ふたつに一つよねぇ……」

「と云うと?」

「どっちかが嘘ってこと。でも川村くんは嘘をつかない人だし、公平とは思えないけれど、わたしはその相手の子を知らないから、どっちかが嘘なら、ついてるのはその子の方だと思う。それに川村くんに女ッ気がないの知ってたし」

「余りにも彼女が普通すぎて、自分の現実がぐらつきそうなんです」

 うーん。「その子は変じゃないのよね?」

「変だったら話は簡単ですよね」

「そうね。それにピンポイントで川村くんを狙う理由が分からない」

「え?」

「たとえば、その子は、そこまでして川村くんの彼女を装うことで、なにか得すること、あるのかな」

「まさか。思い当たることはないです」

「そこなのよ。ちょっとイヤな云い方かもしれないけれども、それだけ手の込んだことをするなら、それなりの見返りがあるからでしょう? だから不可解すぎると思うの」

「もし僕がお金持ちとかだったら、答えは簡単ですね」

 うん。「宝くじ、最近買った?」

「買いましたけど、はずしましたよ」

「そう。わたしの記憶でも、川村くんはその、だれちゃんだっけ? その子と付き合ってたと仮定しても、ちっとも気付かなかったし、そういうのって黙ってても分るのよね。荒木さんなんか翌日には見抜いてると思うし、わたしも気付く自信あるかな。二ヶ月でしょ? 川村くんってそういうの隠すの下手だし、むしろ、直ぐに教えてくれそう」

「やっぱそう見えますか」

「イの一番に、彼女できましたって宣言しそう」

「否定はしません」

 そりゃ、彼女が出来たら嬉しいだろう。

 嬉しいのだから、誰かに話したくなるのは人情ってなもんです。

「やっぱりその子、どこかオカシイんじゃない? ストーカーとか」

「面識ないんですけど──」

 そのとき、ノブオのケータイが震えた。着信。液晶には自宅のIP電話からの発信であることが表示されていた。

 ゾッとした。

 誰かが自宅に上がり込んで、電話をかけてきた。

「誰から?」

「自宅からです」

「出ないの? 緊急じゃないの?」

「違うんです、実家じゃなくて、俺のアパートからです」

 えっ、と沢田さんも理解したのか、どんぶりの中をかき廻していた箸を止めてノブオを見た。

「……例の子?」

 たぶん。いや、絶対だ。

 ミキの云うことが本当なら、合い鍵を持っていてもおかしくはない。ひとつのベッドで眠るような仲なのだから。二ヶ月のお付き合いの仲なのだから。

 震えるケータイが、まるで見たことのない気味の悪い生き物のように思えて、ノブオは触れたくなかった。しかし、沢田さんはついと、それを手にして電話に出た。「はい、こちら川村の携帯です」

 すごい、とノブオは思った。そんな恐怖の電話に出るなんて。着信アリだぞ。

 今さらながら、沢田さんを巻き込みたくないと思った自分の身勝手さに腹が立った。

「ちょっと川村は離席しておりまして──。はい、総務をしております沢田と申します」

 普通に応対している沢田さんの勇気に感嘆した。やっぱり、この人にはかなわない。十年の経験とかそんなこと以上に、この人はすごい人なんだとノブオは思った。

 沢田さんはノブオへ声を出さずに、例の子、と口を動かした。

 やはり相手はあの女だったか。

 沢田さんは終始、はい、ええ、と相づちを打つだけで、具体的なことは何ひとつ口にしなかった。なるほど、相手の云い分を訊くだけで、こちらのカードは一切見せないと云うことか。さすが、総務部。これがクレーム対応のスキルか。

「──川村が戻りましたら、伝えておきます。はい、では失礼します」

 沢田さんはケータイを耳から放し、プツッと通話を切った。

「……彼女ですよね」

 ノブオの言葉に、うん、と頷きながら、ケータイを返す沢田さん。その眉間にシワが寄っている。

「川村くんさぁ……、」

「はい、」

「ちょっと意地悪が過ぎるんじゃない?」

 えっ。「もしかして、あの子のこと信じたんですかっ」

「だって、話しを訊く限り、おかしなところないわよ?」

「そんな、だって、」

「ちょっと困ったわ」沢田さんはぐるぐると丼の中をかき廻し、箸でつまんだうどんをずずっと口の中に吸い込んだ。

 もぐもぐと口を動かしながら、なんか変な物を食べてしまったみたいな顔をしている。

 ノブオは途方に暮れた。沢田さんがあの女を信用してしまったら、俺は何を信用すればいい?

 自分のアイデンティティに関わる問題だ。足下から全てが崩れてしまう。まるで自分だけが平行世界パラレルワールドに放り込まれたみたいじゃないか。そんなのはアニメの中の話だけで充分だ。漫画の中の話だけで充分だ。

 だが──だが。

 もしそれが本当だったら?

 悪魔の証明だ、とノブオは思った。

 フィクションはフィクションだ。アニメはアニメで、漫画は漫画だ。だが、それは平行世界が存在しないことの証明にはならないし、そして自分がそんな設定の世界に飛ばされないと云う証明にもならない。もし、本当に自分が藤本ミキと云うかわいい彼女がいる世界に飛ばされてしまったのならば? そしてそれに気付かないでいたのなら?

 辻褄は合う。しかし、猫が半分死んで、半分生きていようが、それはただの思考実験にしかすぎない。猫が死んでいるのか生きているのかなんて問題じゃない。ただトランクを開ければいいだけの話だ。理論上、テーブルに突いた手がすり抜けてしまう可能性はゼロでない。ゼロではないが、そんなことは決してありえない。

 それが自分の住んでいる世界で、現実にはありえないどんなことの可能性も、しょせんは科学者たちのおもしろおかしな机上の思考実験の産物でしかないのだ。

 しかし──今、ノブオの世界がぐらついている。

 ごくりと飲み込んで、沢田さんは口を開いた。「川村くんの云い分は分るし、わたし自身、一緒にお仕事していて、川村くんの人となりは分かっているつもりです。でも、わたしが知っているのは川村くんの一側面でしかないのも事実だわ」

 世界が狭まっている、と感じた。ノブオの知る世界は、今朝から少しずつ変容し、そしていつしか入れ替わってしまう──。

 川村くん、と沢田さんは云った。「ひとつ訊くけれど」

「はい」

「その、藤本ミキちゃん? 彼女のこと、嫌い?」

「好きとか嫌いとかって、そもそも今朝、会ったばかりですが」

 ぺちっと沢田さんは自分の額を叩いた。「ごめん、そりゃそうだわね」

 そして、なんかね、と続けた。「もしかして、案外、そのまま受け入れちゃうのもいいんじゃないかな、とか思っちゃった」

 ごめんね、と沢田さんは云った。

「なに謝ってるんですか、」

「だって、例え一瞬とは云え川村くんを疑っちゃったから」

 すごいわー、と沢田さんはずるずるうどんをすすった。「ぜんっぜん、迷いがないって云うの? あれじゃ、素で信じちゃう」

 川村くんとあの子が付き合ってたってこと。

「まるであの子が、どこか川村くんと付き合っていた世界からそのままやって来たみたい」

 ほっと、ノブオは安堵した。良かった。平行世界からやって来たのは自分ではなく、ミキの方だ。

「だとしたら、かわいそうだわ」

 えっ。「なにが、」

「ミキちゃん」と沢田さん。「だって、見ず知らずの世界にいきなり放り込まれたってことになるじゃない。だから、もし──もしだよ? 川村くんにその気がちょっとでもあれば──彼女と本当に付き合っちゃうことも、あり得ないことではないと、思ったりするんだけど……」

 云われてみれば、確かにそういうことも充分に考えられる。確かに今朝、ナチュラルに寝床にいた不審女には違いないが、彼女は藤本ミキと云う名のある一人の人間であることには違いない。そして何より──ミキは、けっこうノブオの好みだ。いや、かなり好みだ。その上、慕ってくれている。ああ、出会いさえ普通であれば。

 でも、と沢田さんは云った。「やっぱ怖いか」

 うわっと、ノブオはその言葉の意味するところを理解して戦慄した。

「あの子、いま俺んちにいるんですよ!」

「よもや金目の物を盗んで……とかはないと思うけど……」

「お、俺、早退します」

「うん、その方がいいかも。じっくりと話し合った方が──」

「な、なんですか、」

「人目のあるところの方がいいかな」

「そんな怖いこと云わないでくださいっ」

「大丈夫だとは思うけれども、万が一ってこともあるから、」

 うん、と沢田さんは頷いた。「電話の感じだと、そんなことになるとは思えないけれども、万が一は言葉通りに万が一だから」

「週刊誌、お腹にいれてきます」

「何? それ」

「その、防刃……です」

「ぼうじん?」

「お巡りさんが着てるヤツです」

「そんなの着てるんだ」

「少なくとも正面からは大丈夫……とか」

 ダメだ、考えるほどに恐ろしくなる。

「俺、やっぱ帰るの嫌です……」

「先送りは出来ないわよ」

「そうだ、お巡りさんだ!」

 おっ。「そうね、家出少女かも知れないし、警察に行くのはいいかも」

 あっ。「いや、やっぱ無理です」

 えっ。「なんで?」

「警察って民事不介入って云って、こっちの云い分だけで出張ってくれたりするのは難しいと思うんです」

「そうなの?」

「詳しいことは断定できませんけど、彼女と僕が恋人でなかったことを証明する術ってありますか?」

「わたし?」

 ノブオは首を振った。「沢田さんの証言だけじゃ、無理だと思います。彼女には手帳があって、僕との出会いとかデートとか、話に破綻がないんです。それにプリクラまで貼ってあって──第三者が話を訊いたら、痴情のもつれ以外の何ものでもないです」

「そっかぁ……難しいなぁ」

「特に恋愛絡みの話となると、だいたい男が不利になる傾向もあるみたいです」

「じゃぁダメじゃない」

「だからダメなんですよ」

 ノブオは、すっかり汁気をすってぶよぶよになったかき揚げの泳ぐどんぶりをかき廻した。

「あれが猿の手だったらねぇ……」呟くように沢田さん。

「はい?」

「昨日のプレゼント。猿の手だったら、せめて三つはお願い事を訊いて貰えたのに、って思ったの」

 あっ。「それだっ」

 えっ。「なにが?」

「俺、昨日あの手に、かわいい彼女が欲しいって願ったんです!」

 図らずも大きな声を出してしまった。ハッと顔を上げたら、店内にいた店員も客も全員が全員、ノブオを一瞬見て、そそくさと視線をそらすのが分かった。

「……そんなことお願いしたの?」

 呆れ顔の沢田さん。

「いや、その……、だってかわいい彼女、ちょっと欲しいかなって……」

 三十路だし。そろそろ特定の女性とステディな関係になりたいとか。

 それなりに……年齢なりに思うんです、はい。

「まぁ別にいいけれど」

 かわいい彼女って。

 かわいい彼女だしょ?

「漠然としたお願いよね。猿の手の話、全然教訓になってないじゃない?」

 ノブオはうな垂れた。全く、仰せの通りです。

 猿の手に金が欲しいと願った夫婦は、息子の死と引き換えに金を手に入れるのだ。

「だからそんな突飛もない朝を迎えたんじゃないの?」

 お願いの仕方に問題があったから。

 でも、と沢田さんは続ける。「もし──もしもだよ? もしもあれが猿の手なら、あとふたつ、お願いは訊いて貰えるってことだよね?」

 沢田さん……。マジですか。

 マジで猿の手だと思っているんですか。

 ノブオは頭を振った。「自分で云っておきながら何ですけど、そんなのファンタジーですよ」

「でも願いは叶った」

「いや、その、……叶ったんでしょうか」

「かわいい彼女でしょ?」

「なんか違う気が──」

「だから漠然としたお願いがいけないのよ」

 具体的でないと。

 沢田さんはお茶をぐいっと飲み、立ち上がった。ノブオもそれにならう。昼休みは終わる。そろそろ戻らなければ。

 伝票を手にして、結局、じっくり昼食を楽しめなかったことに気付いた。

 会計を済ませて外に出る。陽の光が眩しくて、目を細めた。

「ごちそうさま。で、どうするの?」

 早退する?

「退社時間まで、執行猶予にしようかと思います」

「たぶん大丈夫だと思うけど、予防線にメールか電話しておいた方が良いと思う」

「その……沢田さんは、猿の手ならぬロボの手だと思うんですか?」

 本気で。

「わたし自身、ちょっと混乱しちゃったかな」沢田さんはちょこちょこと歩きながら前髪をかき上げた。「電話で声を訊いちゃったから。だから、無責任かも知れないけれども、ひとまず問題は置いといて、とりあえずは受け入れればいいんじゃなかな、と。藤本ミキちゃんは存在する。そう考えた方が、何かしらの具体的な解決策が見つかると思う」

 話を訊きながら、ノブオは思った。事実は小説よりも奇なり、か。

 やっぱり、この人には、かなわない。

 いかに自分がテンパっていたかよく分かった。

 事実は事実として受け入れればいい。それをどう解釈するのか、それはまた別の問題、切り離して考えればいいのだ。

 退社時間の頃には、自分の気持ちをどうすればいいか、その落とし所が見つかるかもしれない。それはある種、ミキと云う存在を受け入れたことになる。そっちの方が、ありえねぇ、と頭ごなしに思うよりも、ずっと建設的であり、何より気持ちが楽になるのを感じた。

 しかし目下の問題は──予防線。

 ノブオは、「@藤本ミキ」宛てに、なんとメールしようかと散々思案して、十五時ごろになって、やっと帰宅時間を認めただけの文面を送信した。

 返信は直ぐに来た。

『待ってます。お仕事頑張ってくださいね』

 自分のデスクに突っ伏すついでに、頭突きを食らわせた。

 やさしくされると、惚れてしまう。

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