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204.(今にも消えてしまいそうな)


   *


 釜屋は会社から歩いて直ぐにある、うどん屋である。

 昼休みが十二時半からの一時間と云うこともあって、特に待たされることもなく、また混雑もしていない店内に通された。

 ノブオはかき揚げうどんを、沢田さんは味噌煮込みうどんを頼んで、それぞれおしぼりで指を拭うと、出されたお茶をすすった。

「何か心配事でも?」

 沢田さんは前置きもなく核心を突いてきた。「今日はいつもより遅かったし」

「分りますか、」

「ずっとソワソワしてたよ。ケータイも何度も見てたし」

 話せないことなら無理に訊かないけれども、と沢田さんは云った。

「どこから話せば──」

 そのとき、ノブオのケータイがブルッと震え、メールが届いた。これで何通目だ。液晶に表示された文字を確認する。あの女からだった。いつの間にかに登録されていた名前。

「@藤本ミキ」

 電話帳の一番上に来るように登録してある。たぶん自分に彼女が出来たらこうするだろうな、と思ってたことそのままなっていた。記憶になくとも、とても自分らしい登録の仕方。そんなことが余計に気持ちのやり場に困った。

「信じられない話だと思いますが」

「事実は小説より奇なり、でしょ? 信じる信じないはひとまず置いといて、受け入れればいいんじゃなかな」

「かないませんね」

 そう? と沢田さんは微笑んだ。そしてノブオは話し始めた。朝、起きたら見知らぬ女が横で寝ていたこと。それから女を起こし、訊き出したこと。

 自分のことを憶えていないの、と藤本ミキと名乗った女は云った。

 そもそもノブオには、初対面の女だ。

 半べそで半裸の女から訊き出したこと──付き合って二ヶ月の間柄。彼女はノブオの会社の商品も取り扱っている取引先のひとつであるファンシー雑貨店の店員で、休日の前の日は泊まりに来るような間柄。出会いは、新店がオープンしたとき。企画部でも営業部でもない自分が、ちょっと冷やかし半分で立ち寄った時。自社製品を探しているところに、商品を陳列していたミキとぶつかった。それがきっかけで、何度か立ち寄るうちに親しくなり──お付き合いとやらが始まった。ふたりでアミューズメントパークに行った。美術館に行った。映画館に行った。

 ほら、とミキから見せられたのはキャラクター柄の女の子らしい手帳。ハートマークで描かれたノブオとのスケジュール。悪戯にしては手が込んでいる。そして何よりノブオを狼狽させたのは、手帳に貼られたプリクラだった。写真はプリクラ特有のネムさがあったが、確かにそこには自分とミキが顔を寄せ合って写っている。

 本当に、あたしが誰だか分からないの?

 分らない。

 ミキの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、見かねてボックスティッシュを渡した。ぶぶーっと洟をかみ、目尻を拭う。そんな姿でも、案外、かわいいものだなと場違いにも思ったが、あいにくと、ミキとの思い出などと云うものは存在しない。忘れたわけじゃない。もとから存在しないのだ。

 ミキの云うことが嘘だとは思えなかった。しかし、ミキの云うことが正しいとなってしまえば、自身を喪失してしまう。

 俺は正気だ、とノブオは理解している。しかし、ミキも正気のようだ。

 いっそ、あからさまにミキがオカシイのであれば、電話の一本で済むだろう。もしもし、黄色い救急車を一台お願いします。

 だが、ミキの言動に破綻はなく、マトモに思えた。いや、ミキはマトモだ。では自分は? 俺もマトモだ。

 相反する現実をすり合わせる術はあるのか。いや、無理だ。確かにミキはかわいいし、自分のことを好いてくれている。だが、ありもしない思い出を受け入れるのは出来ない相談だ。

 そこで時計をみてぎょっとした。

 とにかく、家を出ないと遅刻してしまう。

 非日常的な出来事に遭遇しながらも、ノブオは日常を優先させた。ぐずぐず云うミキを着替えさせ、荷物を持たせて、家の鍵を閉めた。駅までの道すがら、ミキは何度もノブオに問いかけるが、何ひとつ思い当たることはなかった。

 どうしてなの?

 どうしてこうなっちゃったの?

 答えられるはずがない。

 いつもね、お休みの日はノブくんのお家にお泊まりして、お掃除とかお片づけをするんだよ。いってらっしゃいって見送って、お洗濯して、まるで一緒に住んでるみたいで──。

 のべつ幕無し喋り続けるミキから逃れるように改札を抜けて、一度だけ振り返った。

 ミキの姿が人波の合間に見えた。

 とてもとても小さくて、今にも消えてしまいそうなミキの姿。

 胸が痛まなかったわけではない。それよりも、ミキを愛おしい、と思った自分の感情に驚いた。ほんの一時間前には見も知らなかった女に対して、そんな感情を持ったことに驚いた。

 単純すぎる。いや、単純だ。バカか。バカだ。コンビニ店員の女の子がちょっと笑顔がかわいかったり、釣り銭を丁寧に渡してくれたりするだけで、ああこの子とお近づきになりたいなぁとか思うのはしょっちゅうある。行きつけの店にお気に入りの店員を作るのは、ノブオの生態と云っても過言ではあるまい。こんな子とお付き合いできたら楽しいだろうな、デートはどこに行こうかな、どんなお店でご飯食べよう──妄想するだけなら自由だ。そしてときおり、お気に入りの店員さんの指に銀色に光る指輪を見つけて、仮想エア失恋をする。

 そう、妄想は妄想だから楽しいのだ。

 妄想の中の彼女たちはいつだってやさしくてかわいくて、そして気持ちを楽しくさせてくれる。

 だが、ミキは違う。

 彼女は体温を持ったひとりの人間であり、妄想ではない。家の中まで入り込んで、あまつさえ二ヶ月のお付き合いと、数々の思い出をふたりで築いたと主張する、ひとりの人間なのだ。

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