203.(脱いだらすごいんだよ?)
作り置きしていたシチューを暖め、冷凍していたご飯をレンジで解凍、鮭の切り身をムニエルにして、炒めたほうれん草を添えた晩ご飯。ネットを徘徊しつつ、食後のケーキをティーバッグで淹れた紅茶で楽しんだ後、皿を洗っていざプレゼントを開封。
ラッピングに泣けた。茶色いサテンのリボン。女の子らしい。嬉しい。頬が自然と緩む。
しかし、開封した箱の中身は、女の子と云う言葉から遠く離れた物だった。
手だ。
おおっと思わず声が出た。これは感嘆の声だ。
それは、リアルロボット系アニメに出てくるヒトガタ兵器の手に見えた。
右手首。やや丸みを帯びたシルエット。
これはヤヴァイ。ヤヴァイですぞ。
エアパッキンの詰められた箱から取り出し、手にして再び感嘆する。すげえ、関節が動く。なにこれ、レプリカにしても良くできている。いや、パチかもしれない。どこにもコピーライト刻印が見当たらない。そうかそうか、メイド・イン・以下略。
それでも、これは敵軍の巨大ロボットの手首を連想させる程に良くできていた。そう、丸指は敵ロボの特徴です。角指は自称正義の地球体制側ですが。
パクリは悪いこととは理解しているが、パチはパチなりに味があって面白いのだ。コレジャナイはジャンルとしてアングラなりに確立しているのだ。
なんというセレクト。ど真ん中ストライクですよ、沢田さん。
やっぱり、沢田さんは素敵だ。大好きだ。ああ、沢田さん、結婚してください。
コキコキ指先を動かすと、連動して腱を模したシリンダが動いた。
すごいなぁ、良くできているなぁ。関節にはクリックが設けられており、気に入った形が保持できる。これは……我がオタクコレクションの頂点に相応しい。あのちょこちょことした愛らしい沢田さんがこれを買っている姿を想像して、おかしくなった。
わざわざ俺のために選んでくれた一品。彼女にしてみれば、きっとこういうのが好きなんだろうな、とたったそれだけだったかもしれない。でも、俺のことを思いながら選んでくれたんだ。俺のことを。
ふひっと、思わず変な笑いが鼻から漏れた。いかん、鼻水が飛び出た、ティッシュ、ティッシュ。
それからノブオはふと思い立って、ボールペンをそのロボの手に握らせてみた。
おおっ。ペンホルダーになるのか。こりゃいいや。
表面もギラギラとしたクロムではなく、経年相応のくすんだ風合いがまたいい。そう云うところはマイナスどころか、むしろプラスだ。もしかしたらオークションで落としたものなのかもしれない。あとで潤滑剤(556)を吹いておこう。
嬉しい、嬉しすぎる。高くなかったのかな。お礼どうしよう。どういうお礼が相応しいかな、喜んでくれるかな、ふひっ。
とりあえずノブオはこの喜びを沢田さんのケータイにメールした。短文で溢れる喜悦の思いを表現するのは難しかった。PCメールならガンガン書けるのに。いや、それだと長文過ぎて、何キロバイトになるか分らない。もしかしたら、何メガバイトかもしれん。そんなのお礼と云うより嫌がらせだ。
程なくして、返信が来た。気に入ってくれて良かった、と。
ああ、これはもう声を聴くしかない。いや、声を聴きたい。沢田さんの声が聴きたい。
ノブオは電話していいかと返信した。直後、着信。沢田さんの名前が液晶に出る。慌てて通話ボタンを押した。
「こんばんはっ」声がちょっと裏返った。
『はい、こんばんは』
「こっちからかけ直します」
いいわよ、と何やらゴソゴソとする音が受話器の向うからした。まるで服を脱いでいるような──って何を想像してんだ、俺。もちつけ。もちつくんだ。違った。落ち着け。餅をついてどうする。
『気に入っていただけたようで嬉しいわ』
「無茶苦茶気に入りました」
『ぜったい好きそうだって思ったの。一日早いけど、早く渡したくて』
「普通に泣けます」
『あらやだ、わたし男の子泣かしちゃった?』
あは、と沢田さん笑い声が心地よく耳朶を打つ。
『お祝いの一番乗りしたかったの』
ああ、もう、どうしてこんなにかわいらしいんだろう、この人は。
『お姉さんたちから、おめでとうメールは届いた?』
「え?」
何を云い出すんだ、この人は。
『ほら、毎年お姉さんからメールが届くって云ってたじゃない』
そうだっけ。いや、そうなのだけれども、そんな話したっけ。したにしても、この人は記憶力、良過ぎやないか。いや、それとも俺のことだから憶えていてくれたのかな。ふひっ。
『いいよねー。ウチなんてふたり姉弟なのに、メールすらくれないもの。男の子ってそんなもんだと諦めてるけれどもさぁ、先生なんて仕事してるのにどうなのかしらね』
やれやれとばかりに盛大な溜息が受話器越しに聞こえた。
「いや、その。じゃあ沢田さんのお誕生日には俺がメールしますよ」
『あらやだ、嬉しい』
「いやいや」って何を和んでいるんだ、俺。「でも本当に、ありがとうございました。こんなの、ホントどこに売ってたんですか」
『アメ横』
なるほど、確かにアメ横っぽいかも。
「なんか声が反響してるんですけど?」
『お風呂に入ったの』
「スッポンですか」
『だれが亀ですか』
「いや、その、妄想しそうです」
えっへっへ。『脱いだらすごいんだよ?』
特にこの腹!
ざぶざぶとした水音と、沢田さんのエコーの効いた声が響いた。ずいぶんと上機嫌らしく、その声にノブオも自然と顔がほころんだ。
「あの、明日のお昼は電話番ですか?」
えーっと。『明日は荒木さんだわ』
「差し支えなければ、お礼って云うのも何ですけど、お昼、ご馳走させてください」
『お誕生日の人に奢ってもらっちゃうの?』
「ぜんっぜん構いません、何でも云ってください」
『じゃ、釜屋のおうどん!』
「よろこんで」
楽しみにしてるわ、と沢田さんは云った。
明日のお昼は、おうどんデートだ。サシで。やった。
嬉しい、とデスクの上のロボの手を持ち上げた。ついでにプリントミスした裏紙に、持たせたボールペンでぐりぐりと適当な模様を書いてみた。おお、普通に書けるな、面白い。
せっかくだからなんか面白いことでも書いてみよう。
そう。三十越えて童貞だと魔法が使えるようになるらしい。出典は知らない。いつ頃からかネット上で囁かれている噂のひとつだ。いわゆる、ネットロア。鮫島事件みたいな。もし、噂通りに魔法が使えて、願いがかなうと云うのなら──。
ちょっと思案して、かわいい彼女が欲しい、とロボの手に握らせたボールペンで書いてみた。
書き上がった文字をまじまじと見つめて、自分のバカさ加減に苦笑した。
魔法? どうせなら沢田さんと結婚したいとか書けばいいのに。
と思ったが、それはそれでどこか生々しくて無理だ。恥ずかしいよりも、現実感が強すぎる。
沢田さんのことは好きだけれど、やっぱり姉以上の感情にはならないんだろうなぁ。くそっ。
もし彼女が五歳若かったらどうだろう? それでも下の姉より年上になる。二、三歳くらいの幅だったらちょうどなのに。
この歳になると、適当な気持ちで女性と付き合うのは無理だ。その先には必ず結婚と云う二文字が存在する。友人の何人かは既に通った道であるが、ノブオにしてみれば、それを正面切って考えるにはどだい無理な相談だった。なにせ、未だにひとりの女性とも、いわゆるお付き合いなどと云うことをしたことがなかったのだから。
ふたりの姉がいたお蔭と云うべきか、女性に対して抵抗はない。だが、それがアダとなってか、恋人として見られない、友達以上に思えない、と学生時代に立て続けに玉砕して以降、そういう回路をどこかで無意識に遮断しているような気がする。
彼女が欲しい、とは思うけれども、それは漠然とした思いであることは理解している。沢田さんが好きだ、と思うのも、それは決して、沢田さんと付き合ったり、恋に落ちたりすることがないと分かっているからだろう。だから素直に沢田さんのことを好きだと常々思えるのだ。
ってか、二十代最後の夜に俺は何を考えているんだ。風呂に入って寝よう。
読みさしのライトノベルも佳境に入っている。ヒロインが悪の秘密結社にさらわれたのだ。超能力に目覚めた主人公が単身、秘密基地に侵入する。よもや、ヒロインを助けられず、むざむざ敵の手に渡してしまうとかそんな鬱展開にはなるまい。物語はいつだってハッピーエンドだ。そうでなければエンタメじゃない。それにとても愛らしいイラストの絵師がついている作品だから間違いない。
零時になったところで、ふたりの姉から同時にケータイへメールが来た。どちらもハデなデコメールで、小さな液晶画面の中で文字とイラストが踊っていた。上の姉は、キャラクターものだったが、下の姉は、甥っ子の写真を加工して使っていた。顔文字派のノブオとしては、いつもならこんなにハデなメールは鬱陶しいと思うところだが、今日ばかりは微笑ましく思えた。
ねーちゃんたち、ありがとう。
ノブオはお礼の返信をして、本にしおりを挟み、目覚ましのアラームをセットすると電気を消して就寝する。
明日もまた、変わらない毎日。
通勤電車は満員で、二重の意味の自衛のためにカバーをかけた文庫本を掲げた両手で読みつつ、中吊り広告で芸能ニュースを仕入れる。始業三十分前に一番乗りで出社。タイムカードを切って、PCを起動。その合間にブラックの缶コーヒーを飲みつつ、昨日書きつけておいた自分への申し送り書に目を通し、一日の仕事手順を考える。それから始業時間になって朝礼、と。
そう、三十路だからって、明日は今日の延長でしかない。
あ。忘れてた。
明日のお昼は、沢田さんとおうどんデートだ。