201.(まるで普通の人間の部屋)
ロボット・ハンズ
寝ぼけ眼でベッドサイドのデジタル時計を見たら、昨夜セットしたアラームの鳴るちょうど一時間前だった。
川村ノブオはいたく損した気分になった。
それでも今日は金曜日だから、一日乗りきれば週末だ。
と、思えないのが哀しい。
何故なら月末は土曜出勤となっているからだ。そもそも入社した時は、土日祝日、盆に正月は休みと云う話だったのに、バカ社長が「営業日を増やすぞ」などと、毎度ながらつまらぬ思いつきをしてしまったがため、それが半年前から決行されている。当然、中小零細、風が吹けばそのまま業界の外へ飛んで行ってしまいそうな雑貨メーカーである適当な会社に、組合などない。ときおり営業部の人間と飲んだりするが、ぶぅぶぅ文句を云うだけで誰一人改善しようとか、直談判しようとか云いだしたりしない。ぶぅぶぅ文句だけ云って、適当に酔っぱらって、仕方ないね、そう云うもんだね、と毎度毎度、同じ結論に落ち着くのだ。実際に一日営業日が増えたからってその効果は疑問だ。と云うか、絶対に売り上げに貢献してないね、とノブオは思う。小売店ならまだしも、零細ながらもこっちはメーカーなのだ。一日増えた分、日割りでお給料が上がるなら、まぁぶぅぶぅ文句は云えど、気持ち的には相殺できよう。しかし、お給料は据え置きだったのだから、これはもう就労規則の反故に等しい。ってか就労規則なんてあったっけ? 貰った憶えないぞ、バカ社長め。
いつか、もくもく煙突みたいに吸っているあの煙草の一つに花火でも仕込んでやろうかとか思うのだけど、やっぱりノブオもサラリーマンなので、社長に対するテロリズムを夢想するだけで溜飲を下げる術をいつの間にか身に付けてしまった。
我慢すること、諦めること、長い物に巻かれること、日和見であることが大人の必須条件なのか。
二十代と決別した日になってもまだ、自分は大人になりきれていないと、ときおり落ち込んだりするけれども、私は元気ですって何の映画のキャッチコピーだったかなぁ。
二度寝しようにも、一時間はハンパだ。下手をすれば寝過ごすこともあり得る。しかしこのまま布団から抜け出るのもなんかシャクだ。それにしてもベッドが狭い。それはそうだ。女がすぅすぅと寄り添うようにして寝ているのだから。
……ん?
何が起きているのか、理解できなかった。否、理解したくなかった。
女が寝ている。
飲んだ翌日、二日酔いの頭を抱えて目覚めたら、見知らぬ女が隣で寝ていた経験がある、なんてのは都市伝説だと思う。その手の話は良く訊くが、実際にそんな経験をしたヤツはノブオの身近にいない。これさぁ、友達の話なんだけどさぁ、と必ず枕詞がつく類いの話だ。
それに自分は下戸であり、二日酔いなどという悲劇は学生時代に一度っきりしか経験していない。飲み会も、もくもく食べることに終始特化し、アルコールは最初の一杯、それすらも半分飲み終えずにウーロン茶へと切り替える。
そもそも、昨夜はとっとと帰宅したのだ。営業部や企画部と違って、零細企業の業務部SE特権だ。
では、なんで女が隣で寝ている?
きっとまだ自分は寝ているんだ。夢の中なんだ。それにしてもリアルな夢だなぁ。
とか思えたらどんなに楽だろう。身じろぎした女の髪が腕に触れてぞわっとした。波打つ髪は、ホラー映画を連想させる。
とは云え、寝ている女の顔はかなりかわいらしかった。
年の頃は自分よりは若そうだ。まぁ同い年と云うことはあっても、年上ってことはあるまい。その寝顔はしあわせそのもので、この世界に不幸なことなどなく、悩めることのなどなにひとつなくといった様相を呈してる。長いまつ毛が小さく震え、桃色の柔らかそうな唇が規則正しく動く。少し乱れたセミロングの髪が頬にかかり、ぽっちゃりとしたその頬はまるでマシュマロのように柔らかそうだった。
だが、見知らぬ女が自分の寝床に潜り込んで呑気に寝ている状況はぞっとしない。
ノブオはそっと身をずらして、女の身体の下に敷かれている右手を抜いた。痺れて感覚がない。
うわっ、本当なんだ。
腕枕は痺れる、とは漫画で仕入れた知識であって、異性関係は奥手を通り越して未経験。それが三十の誕生日を迎えた朝に、予想だにしなかった展開で体験してしまうとは。
幾分、損をした気になった。いや、ものすごく損をした。
もっとロマンチックでリリカルな恋を夢想していたのに、現実とはこんなにもラディカルでドラスティック。切なさで鼻血が吹き出そうだ。
ってそんなことより。
ノブオは起き上がって、未だ甘美な夢の中と云った具合の女を見た。誰なんだこいつは。しかも、寝巻き代わりに着ているのは俺のTシャツじゃないか。通販で買った、お気に入りのロボットアニメのイラストTシャツ。レアなんだぞ。レア。女の身体にはちょっと大きい。胸元から覗く肌に、ドキッとしたついでに、そのシャツの下にあるふくらみ、未知の双丘を想像してしまった。くそっ、これはなんのご褒美だ。
柔らかそうで、程よい大きさらしく──って、いかん、愚息が起き上がる。でもちょっとくらいは……とか実行できるなら人生変わっていたんだろうなぁ。どうせ俺はヘタレだ。それでいいんだ、いいんだそれで。泣くほどのことでもない。くそっ、ご褒美じゃなくて罰ゲームだ。
そろりそろりとベッドを降りた拍子に女が身じろぎして、ううん、と切なげな声を上げ、再びドキッとさせられた。
とにかく気持ちの整理ができるまで、女には起きて欲しくなかった。
フローリングの床には女の服が散らかっていた。どうみてもショーツとブラだ。姉がふたりいる環境で育ったせいもある。たかだが女物の下着で動揺することはない。ないったらない。
飾り気の無いパステルブルーの綿下着。本当に女の子って上下揃えたりするんだなぁ、コットンの質感がなんとも生活感があって生々しい。ごめん、嘘ついた。やっぱり少し動揺した。
家族でない人間の下着となると、やっぱりこれは未知の領域だ。他に、デニムのスカートに薄黄色のブラウス、ストッキングが脱ぎ散らかされている。そしてそれを覆い隠すように、自分のシャツとジーンズもあって、これはもう事後、としか云いようのない状態でありまして。
げんなりした。部屋の隅にはポップな花柄が染め抜かれたピュアレッド色のトートバッグがあった。これも女のものか。カーテンレールには、女物のコートがハンガーで吊るされている。
そこで、部屋の中の違和感に気付いた。
ない。
ラックに飾ってあった、組み立てたプラモデル、美少女やメカのフィギュア。
それらが、ない。
なんだこれ。まるで普通の人間の部屋みたいじゃないか。
人を招かないことを良いことに、賃貸アパートを好き勝手に自分の城として飾り立てていたのに、これじゃ普通の人間の部屋だ。本棚に並べていた漫画本や同人誌、アニメのDVDボックスもない。
ノブオはちらりとベッドに目を向け、女がまだ寝ていることを確認した。それからそっとクローゼットを開けてみた。
他人に知られたくないものを隠すとなると、人間はあまり創造的なことをしないらしい。
並べ立てていたプラモデルやフィギュア、DVDに漫画本は、確かにそこにあった。ポリ製の衣装ケースに詰められて。カーテンみたいな布で覆っていて。まるで人を呼ぶ部屋にするために仕舞い込んだみたいだ。そう、たとえば彼女を連れ込んだり──。
そう、たとえばいま、俺のベッドで寝ている女とか。