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正義病

作者: カカ

柳瀬忠男は、ヤクザの世界で名を馳せた男だった。冷徹な判断力と、いかなる状況でも動じない強靭な精神力を持ち合わせていたが、ある日、ふとしたことで胸のあたりに鈍い痛みを覚えた。それは最初、小さな違和感に過ぎなかった。だが、日々その痛みが強くなり、ついには仕事中にも手が震えるようになった。腕を振り払っても、心の奥底から湧き上がる不安を抑えることができなかった。


「なんだ、この痛みは……」


最初は単なる体調不良だと思い、外科医を訪れた。レントゲンを撮り、血液検査をしても、結果には異常は見られなかった。


「これで体に問題はないようだな。」医師は首をかしげながら言った。「もしかしたら、精神的な原因かもしれないな。」


精神的なもの――それに柳瀬は面食らった。だが、胸の痛みが治らない以上、次の手を打たなければならないと思い、精神科医の診断を受けることにした。


訪れたのは、小さな診療所。扉を開けると、無愛想な雰囲気の中年の男が柳瀬を迎えた。名前は「小川」と言った。精神科医だ。


「さて、あなたの症状についてお話しください。」小川は淡々と話し始めた。


柳瀬は言われるままに、自分の胸の痛みと不安感について話した。すると、小川はしばらく黙った後、意味深に言った。


「あなたは、『正義病』ですね。」


「正義病?」柳瀬は眉をひそめた。


「はい。」小川は頷いた。「簡単に言うと、『一日一善』をしないと、心がどんどん苦しくなっていく病気です。」


「は?」柳瀬は目を見開いた。「そんな病気があるわけねぇだろ。お前、ふざけてんのか?」


小川は表情を崩さず、静かに続けた。


「一日一善、つまり良いことをしないと心が押し潰されていく。その結果として、身体的な痛みとして表れることがある。これが『正義病』です。」


柳瀬はその言葉に納得できなかった。だが、何も分からないままでいるのも怖かったため、診察を続けることにした。小川はさらに続けた。


「あなたのような人、特に暴力的な過去を持つ人には、正義病が発症しやすい。悪事を働いてきたツケが、心に溜まっていくのです。それが痛みとして現れる。」


柳瀬は呆れたように鼻を鳴らした。「冗談だろ… そんなこと、信じるわけねぇ。」


小川は微かに笑った。「信じられなくても構いません。症状が改善しない限り、続けていくしかありませんね。」


何か変だと感じながらも、柳瀬は半信半疑でそのまま診察を終えた。その後、彼は少しずつ、医師に言われた通り、善行を積むように試みた。街で見かけた高齢者に席を譲ったり、募金をしたり、たまには自分の部下に優しく接したり。しかし、胸の痛みは一向に治まらなかった。むしろ、日々強くなっていくように感じた。


「なんだ、これ…。」柳瀬は寝床でうなだれながら呟いた。胸の痛みが、胸を締め付けるように激しくなっていた。


その時、ふと彼の目に留まったのは、本棚の中の古びた聖書だった。それは彼の母親が昔、信仰深い人だったために家にあったものだ。これまであまり興味を持ったことはなかったが、何かに導かれるように、彼はその聖書を手に取った。


ページをめくりながら、ふとエゼキエル書33章11節が目に留まった。


「わたしは生きている、と主なる神は言われる。悪人の死を喜ぶのではなく、悪人がその道を離れて生きることを喜ぶ。」


その言葉は柳瀬の胸を貫いた。今までの自分の生き方、暴力、無関心、冷徹な判断――それらが間違いだったのかもしれないという思いが心に湧き上がった。過去の自分が積み重ねてきた罪が、痛みとなって現れていたのだと、ようやく理解した。


その夜、彼は決心した。


翌日、再び小川の診察を受けると、柳瀬ははっきりと言った。


「俺は、変わりたい。」


小川は静かに微笑んだ。「それがあなたの本当の『一善』の始まりですね。」


数ヶ月後、柳瀬忠男は暴力の世界を離れ、キリスト教の信者となり、牧師の道を歩み始めた。過去の罪深い自分に悔い改め、心からの赦しと悔悟の意志を抱いて、彼は新たな人生を歩み出した。


「正義病」という言葉が嘘っぱちだと分かったとき、彼は初めて本当の意味での正義を知った。正義とは、他人を傷つけず、自己を犠牲にしてでも他者のために生きること。彼はその道を、少しずつ歩んでいくことに決めた。

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