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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

兎侍と柴の姫君

作者: 曲尾 仁庵

――死に場所を探していた。

 時は戦国、身命芥の如き乱世に於いて、弱きは罪であり、強きこそ正義であった。礼節は廃れ、仁義忠孝は嘲笑の的となり、裏切りさえ世の習いと恥じることもない。幾つもの国が滅び、同じ数の国が生まれ、また滅んだ。幕府にもはや世を鎮める力なく、各地の守護、豪族たちは自らが日ノ本の覇者たらんと相食み、山河を血に染めてゆく。現はさながら阿鼻叫喚、慈悲は坊主のたわ言と、外道どもの哄笑が響く憂き世に、虚ろな瞳の侍が、生きていた。




 城が、燃えていた。

 兎ノ国の守護大名、兎月義久(うづきよしひさ)は、炎の迫る天守で目を閉じ、座っていた。傍らには正室である兎季(とき)が、動揺する様子もなく控えている。その姿は凛として、いささかの濁りもない。乱世の大名の奥として見事な振る舞いであった。ついぞ慌てた様子も見せなんだな、義久は他の者に気付かれぬよう、口の中で小さく苦笑いを浮かべた。


「無念で、ございます……!」


 義久の前ではひとりの若武者が膝を突き、唇を噛んでいる。兎佐美(うさみ)源九郎(げんくろう)義親(よしちか)。義久の近習であり、子のない義久にとって我が子の如く慈しんできた少年である。つい先日に元服を迎え、兎月家の通り字である『義』の字を名に与えた。いずれは養子に迎え、この国の未来を託すつもりでいた。しかしその夢はどうやら果たせぬようだった。


 隣国蛇ノ国は兎ノ国の長年に渡る同盟国であった。兎ノ国は狐ノ国、蛇ノ国は鷹ノ国という大国に常に脅かされており、その似た境遇が互いを結び付けていた。両国は互いの背を守り、大国の攻勢に辛うじて耐えていた。そのはずだった。

 しかし蛇ノ国は狐ノ国の調略に屈し、兎ノ国の後背を急襲した。呼応して狐ノ国の本隊も国境を破り、一気呵成に城下まで押し寄せてきた。数に劣る上、蛇ノ国の裏切りに動揺した兵たちに勝機なく、兎月の城は間もなく陥ちようとしている。


 義久は目を開いた。義親以外の家臣は皆、ことごとく討ち死にの覚悟で今も戦っている。それは主家への忠義であり、裏切りへの怒りでもあろう。義親もまた怒り、蛇どもを一匹でも多く地獄の道連れにせんと刀を振るった。義親が今ここにいるのは義久に召されたからである。義親は侍大将であった兎倉宗盛(とくらむねもり)の凄絶な最期を義久に伝え、悔しさに涙を流した。

 真っ直ぐな子だ、と義久は思った。この乱世にあって、義親は驚くほどに清く、正しく育った。その正しさは今の世を生きるには苦しいだけかもしれぬ。だがそれは、今の世に足らぬものであり、今の世に必要なものであった。

 義久は腰の刀を鞘ごと引き抜き、義親に向けて突き出した。


「これはかつて幕府より拝領した兎月家重代の宝刀、三日月丸じゃ。三日月丸は当家の誇り、当家の魂である。分かるな?」


 はっ、と義親は頭を下げる。義久は頷き、そして言った。


「狐や蛇どもにこの刀、奪わるるは耐えがたき屈辱よ。義親、お主に命ずる。三日月丸を守り、いずこへと落ち延びよ」


 義親が弾かれたように顔を上げる。その目は信じがたいものを見るように大きく見開かれていた。


「お待ちください! 私は――」

「主命である!」


 義久の一喝が義親の言葉を遮り、義親はびくりと身体を震わせた。義久は冷酷に繰り返す。


「これは主命であるぞ、義親」


 義親は頭を下げ、奥歯を噛み締めた。しかし了承の返事はない。義久は表情を緩め、諭すような声音で言った。


「頼む、源九郎。我らが魂を、あの畜生どもにくれてやるわけにはゆかぬのだ」


 義親が顔を上げる。その目がすがるように義久を見つめた。しかし義久は首を横に振り、身を乗り出して義親の目の前に三日月丸を差し出した。義親は捧げ持つように三日月丸を受け取ると、血を吐くようなうめき声を上げた。


「御承知、仕る――!」


 義久は鷹揚に頷き、そして鋭く声を発した。


「行け! 必ずその刀、守り抜けよ! 奪われてはならぬ! 決して奪われてはならぬぞ!」


 義親は今一度、義久と兎季に向かって額を床にこすりつけると、無言で外へ向かって駆けだした。義久は目を細める。義親は必ず落ち延びるだろう。義親には自らの持つすべての知識と技術を伝えてある。


「良き若者に育ちましたね」


 兎季が義久に微笑む。義久は嬉しそうに破顔した。


「おうよ。我らの自慢の息子じゃ」


 やがて炎は天守の梁へと回り、轟音と共に天井が崩れ落ちる。自らの頭上に降る梁を見上げながら、義久は呟いた。


「生きよ、義親。生きよ――!」




 冷たく吹き荒ぶ風が戸口を揺らし、カタカタと音を立てる。刀を抱きかかえ、壁に背を預けて眠っていた兎佐美義親は、ゆっくりと目を開いた。周りではいかにも無頼の男たちがいびきをかいて眠っている。狭いあばら家は壁は隙間だらけ、屋根には大きな穴が開き、冴え冴えと月の光が屋内を照らしている。義親は刀を抱く腕に少し力を込めた。月は嫌いだ。無力な自分を闇の中に浮かび上がらせてしまうから。


(……なぜ、共に逝かせてくれませなんだ)


 あの日、燃え落ちる天守に背を向けて駆けたあの日からずっと、義親の胸にあるのは後悔と虚しさのみであった。守り抜けとの主命により今手の中にある三日月丸は、ただの冷たき殺生の道具に過ぎぬ。義親が守りたかったのは、本当に守りたかったものは、このような鋼などではなかった。わずか三歳で父母を失い、頼む者も無き幼子に手を差し伸べ、実の子のように慈しみ、育ててくれた。幼心に義親は誓ったのだ。


 このひとたちのために生き、このひとたちのために死のう。


 しかしその誓いは永遠に果たせぬものとなった。守るべきものを守ることもできず、死すべき己がむざむざと生き延びている。後を追うことを幾度も考えたが、義久の『主命』がそれを阻んだ。「守り抜け」それは今や血の繋がりのない義久と義親を結ぶたったひとつの縁であった。『主命』を蔑ろにすれば、義親と義久の関係を証しするものが何もなくなる。それだけは、決して受け入れられぬことであった。


(あなた様の居られぬ世に、どうして源九郎を残して逝かれた。なぜじゃ、御館様――!!)


 義親は固く目を閉じる。外を渡る寒風が悲鳴のような音を立てた。




 兎ノ国が滅んでより五年の月日が流れた。乱世の無情は日ノ本のあらゆるものを平等に呑み込む。蛇ノ国は狐ノ国に併呑され、その狐ノ国も鷹ノ国に滅ぼされた。そして鷹ノ国も内紛により三国に分裂、今は血を分けた兄弟が我こそは頭領なりと相争っている。周辺国はその様子をじっと伺っており、おそらくは鷹ノ国も遠からず滅ぶであろう。国が滅ぶなどもはや珍しくもない。そして、滅んだ国のことなど誰も憶えてはいない。時の流れは怒涛の如く全てを押し流し、無慈悲無情こそ世の常との諦念が現世を跳梁している。




「ようし、みな聞け。仕事だ」


 あばら家の板間に、ふてぶてしい顔の偉丈夫が膝を立てて座っている。いかつく暑苦しい容貌は、しかし破顔すると妙に愛嬌があった。この男の名は熊代政重(くましろまさしげ)。今、義親が身を寄せる野伏りの頭であった。背丈を超える大槍を軽々と操る姿から『槍熊』の異名を持つというが、自らそう名乗っているだけなのか、本当にそう呼ばれているのかは義親には分らなかった。


「柴ノ国が滅んだって話は知ってるな? 一族郎党ことごとく河原に首を晒されたってぇ話だが、実は末の娘、散里(さり)姫が落ち延びたらしい」


 政重を半円に囲んで座る手下たちの顔は様々だ。その数は十人。義親のように主家を失った牢人者もいれば、戦で故郷を焼かれ行き場を失った農民も、徴兵されたものの逃げ出して帰るに帰れなくなった商人の息子もいる。共通することと言えば、皆、平和な世であったならまったく別の生き方をしていたであろうということくらいか。もっとも、そんなことは今の時代に生きる誰にでも当てはまることではある。


「その逃げた姫さんがどうしたってんで?」


 早く要点を言え、とばかりに手下の一人が声を上げた。考えさせられるようなことは嫌いなのだろう。何をすればよいのか、それだけを知りたいのだ。政重は薄く苦笑いを浮かべた。


「まあ聞け。柴ノ国は西国の雄と呼ばれた大国よ。その血が絶えておらぬとなれば、慄いて夜も眠れぬ奴らがごまんと居る。そういう奴らに姫さんの首をくれてやりゃ、十年遊んで暮らせる金が手に入る」


 十年、という政重の言葉に、手下から感嘆のため息が漏れた。明日には骸を晒すとも知れぬ日々を送る彼らにとって、十年の保証はさぞ魅力的だろう。もっともそのような大金、奪われることに怯えて暮らす日々の始まりになるだけかも知れないが。


「鴉どもが言うには、今日、この近くの街道を姫さんが通るらしい。そこを襲う」


 鴉とは、いずれの主君にも仕えず金で雇われる忍び者である。政重は事も無げにその名を口にするが、鴉と接触することも、彼らから情報を受けることも、ただの野伏りにできる芸当ではない。一見すると粗野な熊男だが、その立ち居振る舞いには拭い去れぬ教養があった。おそらくはどこぞの家中の、それなりの格を持った家の生まれに違いない。その家が今も存続しているかどうかは分からないが。


「生け捕りですかい?」


 先ほどとは別の手下が言った。政重は難しい顔を作り、腕を組んだ。


「それができりゃあ一番だが、逃がすくらいなら死体でいい。売りつけ方はいくらでもあるもんだ。だが逃がせば一銭にもならん」


 さらりとそう言って、政重は一同を見渡した。自然、手下の視線が政重に集まる。手下たちが政重を重く見ている証だろう。出自も様々な荒くれ者の野伏りたちを、政重は完全に掌握している。


「姫さんには四人、柴の武者が付いているそうだ。柴侍は犬忠義よ。手ごわい相手だが、なぁにこっちは十二人。三人で一人を相手にすりゃいい。死なねぇようにしっかり気張れよ!」


 「応っ!」と手下たちが唱和し、政重が満足げにうなずいた。義親は醒めた目でそれを見ている。ここにいる全員が、落ち延びた柴の姫を金としか見ていない。そして政重以外は金の輝きに目が眩み、現実が見えていない。柴の武者は強者揃いと聞く。数は倍以上、とはいえ政重と義親を除けば、柴の武者とまともに戦える者はこの中に一人もいまい。おそらく政重にとって、手下は使い捨ての駒に過ぎぬのだ。


「あんたも頼むぜ、義親さんよ。そのために来てもらったんだからな」


 政重は義親に顔を向ける。愛想のよい表情とは裏腹に、その目は冷たく乾いていた。義親は無言で小さく頷く。政重はにやりと口の端を上げた。


(くだらぬ)


 義親はぼんやりと野伏りたちを見つめた。手下たちはすでに金を手にしたかのようにはしゃぎ、政重はそれを煽っている。踊らされる愚か者と笛を吹く痴れ者は、一体どちらが罪深いのか、などと考えても詮無きことであろう。しかしもっともくだらないのは、義親自身がこのような者どもと共にいるということだった。

 政重が義親に声を掛けてきたのは、ほんの三日ほど前のことだった。当てもなく各地を流れ、用心棒まがいのことをしながら辛うじて生きてきた義親に、政重はずうずうしく話しかけ、酒を振舞い、そして「いいもうけ話がある」と持ち掛けた。詳細をぼかした『もうけ話』は明らかにその仕事がまともなものでないことを示していたが、義親は敢えてその話に乗った。義親はすでに疲れ果てていたのだ。生きることに。生き続けねばならぬことに。


(外道に堕ち、擦り切れ果ててしまえば、あるいは捨てられるかもしれぬ。主命も、三日月丸も)


 何もかもどうでもいい。政重たちが野伏りであると知った時も、仕事の内容が亡国の姫を殺すことだと知っても、それがもはや義親の心を動かすことはなかった。




 街道沿いの林に身を隠し、義親たちは姫が通りがかるのを待ち構えていた。日は傾き始めている。次の宿場まではいま少し歩かねばならない。普通なら日没前に辿り着きたいと気が急いているだろう。そういう小さな心の揺らぎが生死を分かつということを政重は良く知っているようだ。

 街道を挟んだ向かい側には政重の手下が五人、こちらと同じように息を潜めている。姫が現れればまずその五人が街道に出て行く手を阻み、護衛が気を取られた隙にこちらの七人が背後から襲い掛かる手筈だ。本来ならば政重か義親が向かいの五人の指揮を執るべきと思うが、政重はそうしなかった。義親を信用していないのだろう。


「来たぞ」


 政重が抑えた声で言った。視線を追うと、義親の右手から白い装束に身を包んだ巡礼者の姿が見えた。中央にいる一人を囲うように前に二人、後ろに二人が並び、全員が杖を持って歩いている。笠を目深に被っているため顔こそ見えないが、中央にいる小柄な人物が姫だろう。姫を囲う四人からは強い緊張と警戒が見て取れた。

 手下の一人が向かいの者たちに手で合図を送る。合図を受け、五人は「おおぉぉぉーーー!!」と時の声を上げながら飛び出し、巡礼者たちの行く道を塞いだ。


「な、何事か!?」


 前を行く二人が動揺したように杖を身体の前に掲げる。道を塞ぐ手下たちはその様子に拍子抜けしたのか、嘲りを顔に浮かべて言った。


「へっへっへ。おとなしくしてもらおうか、お姫様よぅ」


 手下の一人が刀身を巡礼者たちに向ける。その言葉を聞いて、巡礼者たちの雰囲気が変わった。巡礼者を装う必要がなくなったのだ。笠を投げ捨て、姫を囲む四人が杖に偽装した刀の鞘を払う。鋭い殺気を纏って正眼に構える姿は、精強と名高い柴の武者に相違なかった。


――ちっ


 忌々しげに政重が舌打ちをする音が聞こえる。手下の不用意な発言で姫を狙っていることが露見してしまった。柴の武者たちは背後への警戒も怠ってはいない。前方に注意を引いて背後から急襲するはずが、完全に当てが外れてしまったということだろう。政重は義親と周囲の手下たちに合図を送った。目的が知られた以上、逃がさぬよう一刻も早く包囲する必要がある。

 手下たちは雄たけびを上げながら林を飛び出し、柴の姫一行の退路を断つ。政重は「頼むぜ」と義親に声を掛け、義親は頷いて前に出た。政重は後方に控えるようだ。全体を見て差配する腹積もりか、単に危険を避けたいだけか。おそらくは後者だろう、と義親は思った。もっとも、義親にとってそれはどうでもよいことであった。


「ぎゃぁぁぁーーーっ!!」


 前方ではすでに戦いが始まり、不用意に近づいた手下の一人が刀を持った腕を一刀で切り落とされて悲鳴を上げている。「一人で相手をするな! 囲んで仕掛けりゃ必ず勝てる!」と政重の檄が飛び、出鼻をくじかれた手下たちに戦意が戻った。義親は周りに「一人、請け負おう」と言い、右手側にいた武者と対峙した。「ありがてぇ」と返し、手下たちは左手側の武者を囲む。手下のうちの二人が、政重の命を受けて前方の支援に走った。


(若いな)


 対峙する柴の武者の顔を見て、義親はそう思った。おそらくは自分よりも年下だろう。構えはなかなかに様になっている。


「きぇぇーーーいっ!!」


 鋭い気合の声と共に、若武者は義親に斬りかかった。素直でまっすぐな太刀筋。本人の性格が良く見える。義親はわずかに身を退いてそれをかわした。今、義親が三日月丸を振るえば、この若武者の首が落ちる。しかし義親は、ただ若武者の顔を見つめていた。

 太刀捌きも、一撃に込めた殺気も、見事なものだ。年齢を加味すれば天才と呼ばれていても不思議はないだろう。何より、この若武者の刃には意志があった。必ず守り抜く、その強い意志が。義親はその意志に感じ入っていた。そして、羨ましいと思った。


(この者はまだ、守ることができるのだ)


 義親はこの若武者よりも強い。しかし義親の刃は空虚だった。目的を失い、無意味に命を刈り取っていくだけ。何のために刀を振るうのか、その一点に於いて義親は若武者に、遠く及ばない。そんな自分がこの若武者を切り伏せることにいったい何の意味があるだろう。


(ここで斬られるのも、良いかもしれぬ)


 肉体から流離した意識でそう考える義親の耳に突如、断末魔の悲鳴が届き、義親は我に返った。




「お、おかしら……どうして……」


 信じられぬという顔で、手下の一人が背後を振り返る。政重が「当てが外れた」と忌々しそうな表情を浮かべていた。政重の手の大槍は手下の背を貫き、その向こうにいた柴の武者の腹を抉っていた。柴の武者は呻き声を上げて膝をつく。柴の武者を仕留めるつもりだったのだろう。槍を引き抜き血を払いながら、政重は苛立たしげに舌打ちをした。槍を受けた手下の目から命の灯火が消え、膝から崩れ落ちて地面に倒れた。


「なんという……」


 信じられぬものを見るように、柴の姫が政重をにらむ。周囲の手下たちは何が起こったのか理解できぬように手を止め、頭とかつて仲間であったものを見比べていた。


「仲間ではないのか!」


 姫は鋭く政重に怒りを放った。政重は悠々と大きく頷く。


「おう、大事な仲間よ。だから俺たちのために役に立ってくれたのよ。生きて役に立つ実力は、コイツにゃなかったんでなぁ」


 政重のその言葉は、姫の瞳に更なる炎を滾らせた。激しい怒りに身を震わせ、姫は世の理不尽に抗うように全霊を以て叫んだ。


「命を、何だと思っている!!」


 政重は嘲りを浮かべ、大槍を構える。姫を守るべき柴の武者は、一人は地に膝をついて動けず、一人は義親に、残りの二人は七人の野伏りに動きを阻まれていた。政重を阻むものは何もない。政重は醜悪な笑みで姫の問いに答えた。


「あんたの命は、俺の金と栄達よ」


 槍の穂先が姫の心の蔵に狙いを定め、鈍い輝きを放った。




「姫っ!」


 目の前にいる若武者が、自らが死地にいることを忘れたかのように義親から目を逸らし、姫の方へと身体を向けた。それは明らかに愚かな行いであったろう。しかし義親は三日月丸の切っ先を下ろし、自らの目を若武者の視線が向かう先へと向けた。なぜ、と問われても、義親自身にも答えられぬであろう。敢えて言うならこの若武者が己の命を蔑ろにしても守りたいものの姿を見たかったのかもしれない。義親は柴の姫の顔を、初めてしっかりと見た。


「命を、何だと思っている!!」


 柴の姫の叫びが鋭く響く。義親はハッと息を飲んだ。姫の目――その目に宿る激しい怒りに、義親は魅入られていた。姫は怒っている。命を嘲る者に、命を踏みにじって恥じぬ者どもに、命が塵芥の如きこの現世のすべてに、怒っているのだ。三日月丸が自ずからかすかに震えた。


(失うてはならぬ)


 どくん、と、義親の心の蔵がひとつ、強く鼓動を打った。冷たく虚無に沈んでいた手足に赤く血が巡る。そう、怒らねばならぬのだ。諦念ではなく、冷笑ではなく、怒らねばならぬのだ。不条理に、抑圧に、嘲笑に悪意に理不尽に、死に、怒らねばならぬのだ! 柴の姫はそれを知る。今、義親の目の前で吹き散らされそうな灯は、無情が統べる乱世に命の価値を知るのだ。


「失うてはならぬ!」


 口を突いた言葉と共に、義親は弓を絞るがごとく身を屈め、たわめた力で強く地を蹴り、確かな意志と研ぎ澄ませた殺気を纏って政重に斬りかかった。細く鋭い義親の殺気は、姫に向いていた政重の意識を力づくで振り向かせる。がきん、と金属を打つ音が響いた。政重は大槍の鉄の柄で三日月丸の斬撃を受け止めていた。


「兎佐美源九郎義親、義によって裏切る(・・・・・・・・)!」


 ギリギリと押し込まれる刀身に政重の顔が引きつる。不意を打たれ不自然な体勢で斬撃を受けた政重は、苦し紛れに叫んだ。


「義によって裏切るたぁどういう了見だ! 今さら畜生に堕するを厭うかよ!」


 叫びを契機に政重の二の腕がメキメキと盛り上がる。息を止め紅潮した顔は悪鬼の如く歪んだ。徐々に三日月丸が押し返されていく。政重はさらに獣のようなうなりを上げ、三日月丸と噛み合う槍の柄を一気に前に押し出した。義親の体が崩れる。ザッと地面を蹴り政重が後方に退いた。体が整わぬまま繰り出した袈裟懸けが虚しく空を斬る。


「如何様にも申せ。この世はさながら生き地獄、されど姫は世のあるべき姿を知る。この御方をここで失うてはならぬのだ!」


 義親は政重から姫を背にかばう。それは姫に無防備な背を晒すことでもあった。柴の若武者が迷いながら義親に刃を向ける。柴の姫は若武者を目で制した。


「はっ! その小娘の戯言が、やがて天道に至ると惑うたか? くだらねぇ! この世は地獄よ! 命は塵芥よ! 生きるも死ぬも泡沫よ!」


 嘲りを吠え、政重は槍を大きく振り下ろした。槍は威嚇するように風を切る。気が付けば野伏りたちも柴の武者たちも争いの手を止め、義親と政重の戦いの行方を凝視している。戦場に突然現れた奇妙な沈黙の中、義親は三日月丸を鞘に納め、身を低く構えた。透き通る冷たい殺意が、周囲の空気を凍てつかせていく。


「……居合か。面白れぇ」


 滲む汗を左手でぬぐい、政重は大槍を軽々と右手一本で支えると、義親に向かって突き出した。


「流派を聞こうか」

「兎月一刀」


 短く答えた義親に、政重は「ほう」と感嘆の声を上げる。


「音に聞こえし神速の太刀。絶えたと聞いたが継ぐ者がいたとはな」


 虚勢か自信か、不敵な笑みを浮かべると、政重は槍を両手に持ち替え、構えた。表情が消える。凶暴な殺気が膨れ上がった。義親は動かない。ただ静かに、湖面の如く静かに刀気を研ぎ澄ませている。


「月ノ輪一貫流、熊代政重、参る!」


 政重の足が地面を抉り、義親との距離を一気に詰める。義親の体がわずかにゆらりと揺れた。政重は満身の力を込めて突きを放った! 月ノ輪一貫流の極意は一撃必殺。初撃に全てを賭ける剛槍である。


(殺った!)


 政重の目が確信に沸く。政重の槍は吸い込まれるように義親の心の蔵を貫いた。貫いた、ように見えた。しかし自らの目に映る像を、政重自身の手の感触が否定する。政重の手は槍が空を斬ったことを伝えていた。


――兎月一刀流・歩法、『幻月』。緩急をつけた独特な動きは彼我の距離を惑わし、あたかも幻月の如く偽りの像を結ぶのだ。政重の槍は義親の身一つ分右を貫いていた。三日月丸が鞘走り、細く冷厳な光が水平に(はし)った。


「兎月一刀流・壱の太刀、『繊月』」


 信じられぬものを見たかのように、政重の目が大きく見開かれた。腹からは血が溢れ、ぐらりとその身体が傾く。政重は自らの血の中に倒れ込んだ。しかし政重にはまだ、息があった。政重は義親の放つ気に我知らず気圧され、わずかに踏み込みをためらったのだ。そのためらいが義親の斬撃を致命傷たらしめることをかろうじて阻んだのである。義親は政重を醒めた目で見下ろし、三日月丸の狙いをその首に定めた。そして、右手を振り上げ――


「そこまで!」


 姫の声が戦場の沈黙を破り、義親はハッとしたように姫を振り返った。


「戦いは決した。それ以上は、お主の心を殺すことぞ」


 固く芯を持った姫の声音は静かに周囲に広がる。義親は三日月丸の血を払うと、鞘に納めて一歩下がった。政重が口惜しげに歯噛みする。義親が離れたことを見て取り、手下の三人が政重に駆け寄って抱え、振り返ることなく逃げ去った。残りの六人の野伏りは政重が逃げたのとは逆方向に消えた。




 死の気配はようやく去り、柴の武者たちは強張った緊張を解いた。義親と対峙していた若武者は腹を抉られた男に駆け寄り手当てをしている。幸い命に別条はないようだった。柴の姫は命を落とした野伏りの男の亡骸に近付く。恨みがましく目を見開いた野伏りにそっと手を当て、姫は小さく呟いた。


「……このような死に方をするために、生きたのではなかろう」


 姫の手が男の瞼を閉じさせる。苦悶に歪む口元が少しだけ和らいだ、と思うのは、義親の願望が見せた幻であっただろうか。

 義親は姫の前に歩みを進める。柴の武者がふたり、姫の横に立ち、刀を構えた。姫は手でそれを制する。義親は三日月丸を鞘ごと抜き、地に伏して額づいた。


「兎佐美義親、と申す牢人者にございまする。どうか散里姫様に仕えるをお許しくださりませ」

「愚かなことを。裏切ったとはいえ、元は姫のお命を狙うた賊ではないか!」


 頭上から投げかけられる柴の武者の詰り声を、義親は額づいたまま聞いている。柴の武者の反応は当然であろう。信じよというほうが無理な話だ。なおも言葉を募る柴の武者を、しかし制したのは柴の姫であった。


「私は国を滅ぼされた流浪の身。仕えたとてお主になんの利があろう。まして我らは明日にも骸と成り果てるやもしれぬ」


 義親は伏したまま答える。


「散里姫様こそ、やがて乱世を照らす日輪となられる御方と見定め申した。斯くなる上は我が身命を投げ打ってお仕え申し上げる所存。如何様にもお使いあれ。必ずやお役に立ってご覧に入れまする」


 散里姫はじっと義親を見つめる。しばしの沈黙が流れた。やがて散里姫はゆっくりと口を開いた。


「許す。私に仕えよ、兎佐美義親」

「有難き幸せ!」


 義親はさらに強く地面に額をこすりつけた。姫の両脇にいた柴の武者たちが、やや苦い顔で刀を収める。「面を上げよ」と散里姫が言い、義親は顔を上げた。散里姫は無表情に義親を見つめる。


「私に仕えると言った以上、私の命には従ってもらう。分かっておろうな?」


 義親は短く「はっ」と首肯した。もはや散里姫は主君である。今ここで腹を召せと言われたとしても、義親は従うつもりでいた。散里姫は鷹揚に頷いた。


「ならば義親。お主に命ずる。主命であるぞ。心して聞け」


 義親は再び頭を下げた。散里姫は能面のように表情を変えぬまま、静かな声で告げた。


「生きよ」


 跳ねるように顔を上げ、義親は散里姫を見上げる。散里姫はしっかりと義親の目を見据えた。


「生きよ、義親。命を投げ打ってはならぬ。誰かに命を使われてはならぬ。主命である。己を生きよ、義親」


 義親は、今、見ている散里姫の瞳に覚えがあった。その瞳は、同じであった。三日月丸を義親に託した、まさにその時の義久の瞳と同じであったのだ。義親の目が大きく見開かれる。そうだ。義久はあの時、なぜ三日月丸を義親に託したのか。なぜ、決して奪われてはならぬと強く命じたのか。義親はようやく義久の真意を知った。義久が守りたかったのは三日月丸でも、兎月家の誇りでもなかった。義久はあの時、義親に「生きよ」と言ったのだ。


「御承知、仕る――!」


 義親は三度、地に伏した。その目からとめどなく涙が溢れる。涙は地面を濡らし、吸い込まれて消えた。散里姫の目がわずかに笑みを形作り、義親を見つめていた。

 日は山の端に沈もうとしている。山河を染める血も、嘆きも、怨みも、すべてを隠すように藍色の紗が現世に降る。されど世が闇に包まれることを拒むように、星は姿を現し、そして、細く青白い三日月が空に昇ろうとしていた。




 時は戦国、身命芥の如き乱世に於いて、弱きは罪であり、強きこそ正義であった。盛者必衰の無情は等しく日ノ本を呑み込む。小国の若き侍は宝刀と絶望を抱えて浪々の身となり、かつて大国と呼ばれた国の姫はあてどなくさまよう。されど、日輪を得て月は輝きを取り戻す。これは、混迷に覆われた乱世の霧を払う日輪となった一人の姫君と、その傍らに月の如く寄り添い姫を守り続けた一人の侍の、始まりの物語である。



だれもしななくてよいせかいは、いつになったらやってきますか?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 拝読しました。 凄い迫力でした。時代小説はあまり読まないのでわかりませんが、世に出ている時代小説に遜色のない作品なのではないでしょうか。または、講談のような迫力が、文章からびしびしと感じ…
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