第98話 その後のオアシス㊦
前回までのあらすじ!
平和になった!
俺はずいぶんと臆病なガキだった。
何かが潜んでいそうな闇が怖かった。
薄気味悪い人喰いの魔物が怖かった。
底の見えねえ大量の水が怖かった。
人を殺せる剣すら怖かった。
いま思うに、それらに共通するのは、ガキにとって理解の及ばねえもんだったんだろう。とにかく俺ァ、すぐに怯えて泣いちまうようなヘタレたガキだったんだ。
やがて剣を覚え、少しだけ強くなった。
闇に塗れた死地にすら踏み込み、そん中にゃ大方なんもねえことを学んだ。
覚えた剣で魔物を斬り、やつらも血肉を持ったただの生き物に過ぎねえことを学んだ。
海や湖から得られる多くの恵みを享受し、恐れどころか感謝すらした。
剣は人を殺すが、扱うのもまた人であることを識った。
ひとつずつ、恐怖を塗りつぶしていった。
人間は年月が過ぎると歳を取り、ゆっくりと、だが確実に死へと近づいていく。これもかつては恐ろしいと感じていたが、やがてそんなことさえ考えなくなった。
生の隣には常に死があったからだ。
俺は剣を振るたび死を生み出し、刃を受けるたび死に近づく。いちいち気にしちゃいられねえ。そこに気を取られりゃ、全力疾走であの世へいくのは己だ。
そんな人生を歩いてたら、ふと気づくのさ。
強くなったわけじゃねえ。感情が摩耗しちまっただけだって。
何が言いてえかっつーとな、ああ、何が言いたかったんだっけな。
……。
まあ、とにかくだ。
俺は死を恐れるあまり、ずっとその平行線を、手を伸ばせば触れられそうな至近距離から睨みつけながら生きてきた。
じっと見てりゃ何かがわかるかもしれねえ。理解さえ及べば恐怖は薄れると信じてな。何もねえはずの闇の底を、凝視し続けてきたんだ。
んで、慣れちまった。ただそんだけの話だ。
ただしそいつぁ、俺自身のことに過ぎねえんだ。他者の死は別だ。
死別ってのは、どれだけ重ねても慣れるこたぁなかった。親に始まりな。
死に物狂いで強くなって、掌の皮膚が何度も破れて硬化しちまうくらい剣を振り続けても、その恐怖だけは完全に消えることがなかった。
だからルランゼを救う旅をするまで、俺はまともに仲間を持ったことがない。
それだけに、魔王城でレンを失いかけたときは、胸を圧し潰されるような恐怖を感じた。
監獄の底でルランゼがすでに処刑されているかもしれないと思い至ったときは、全身から血の気が引いた。
多かれ少なかれ、俺の振るってきた剣だって、そういう感情を世界にまき散らしてきたってのに、我ながらずいぶんと身勝手な話さ。
加えて、俺はもう忘れるべきじゃあない。例え恐怖を感じない己の死とて、他者にそういった感情を押しつけるものであるということを。
理解した。
だからガキの時分に感じていた恐怖だって、ちゃんと正しい感情だったんだ。己を愛することは大切だ。俺はそれを失うべきじゃあなかった。
「……」
止めていた呼吸。長い息を吐く。
指を組み合わせた両手に、じんわりと汗が滲んだ。
テーブルに立てた両肘の痛みが、時間の経過を表している。だがそんな痛みなど忘れてしまうほどに、俺はいま、不安と恐怖を感じていた。
犬が目の前を行ったり来たりしている。夜明け前の今朝から現時点の日暮れまで、餌さえ食わずにずっとだ。
二足歩行になって、また四足歩行に戻ってを繰り返し、狭えキッチンの端から端を、忙しなく行ったり来たりだ。
時折、閉ざされた隣室へと続くドアの隙間に鼻先を押しつけるも、自ら開けようとはしない。ただ見た目が可愛らしいだけの畜生だと思っていたが、その程度の節度は持っているらしい。偉いぞ、犬。
ちなみに相棒の竜は、俺が肘をついているテーブルで半日へそ天だ。いつまで寝てやがんだ、このど畜生が。
──……ぁぁ……ッ……ぁ……。
隣室から苦悶の声が弱々しく響く。朝方はまだ悲鳴のような声だったのに、もう喉も枯れたらしい。
犬が前脚でぺたりと三角形の耳を塞いだ。不安げな視線を俺へと向けるが、それにかまうだけの精神的余裕は、俺にはなかった。
死に物狂いで祈った。恐怖を打ち消すために剣にすがった若き日々のように、神にすがった。戦神ガリアでも毘沙門天でも自称神様でも曾祖母様でもかまやしねえ。とにかくなんにでも祈った。
ただただ、時間だけが経過していく。
だが。やがて。
夜の帷が下りる頃──。
オアシスに初めての産声が響き渡った。
俺が椅子を蹴倒して立ち上がると同時に、犬がピョンと跳ねる。
元オルネの民の女衆がドアを開けた。どいつもこいつも顔に疲れは滲んじゃいるが、笑顔だ。俺はその表情でようやく、安堵の息をつく。
ゼラ爺の妻、カカ婆が、血まみれの両手を布で拭いながら言った。
「母子ともに健康だよ。ちょっと時間がかかったから、だいぶ疲れさせちまったけどね。だからあんた、眠っちまう前に──っと」
俺はカカ婆の脇をすり抜けるように、寝室に駆け込む。汗ばみ、憔悴しきったルランゼの隣には、小せえ小せえ赤ん坊がいた。
さっき猛烈に泣いたかと思ったら、もう眠ってやがる。
「……へへ……。……男の子だよ……」
ルランゼが弱々しく笑う。
「はは。立派なモノつけやがって、すけべそうな顔してら」
「……やーめーてー……」
俺はルランゼの額に口づけしてから、赤ん坊に手を伸ばし──。
「……」
指先が触れる直前で止めた。
命だ。命以外は何ひとつとして持っていない、儚く、脆く、弱い……。
「……ライリー……?」
「ああ……。いや、なんでもねえんだ」
そいつを見た瞬間、思い出したんだ。完全に思い出した。
恐怖だ。他者のみならず、己が己のためだけに感じる恐怖を思い出した。
闇のように。魔物のように。水のように。
そりゃもちろん、赤ん坊が怖かったわけじゃない。あたりめえだ。初対面なのに、ルランゼ同様、愛しいと感じる。驚くほどな。
俺は赤ん坊を布でくるんで、そっと抱き上げる。小さな頭を、掌で支えて。
柔らかく、温かい、いい匂いのする子だ。
「はは……」
だが、綿毛のように儚い。誰かが側にいなければ、すぐに死んでしまうだろう。
だから俺は、今日この瞬間からこの子を守っていかなければならない。
わかるかい?
死ねなくなったんだ。俺も。
生きなければならない。石にかじりついても。
俺はルランゼよりもこの子よりも、先に逝くだろう。だが、いつかやってくるその日までは。
おまえを守るよ。
心臓を貫かれようが、首を刎ねられようが、俺はおまえを守るために生きる。
「……ライリーが、名前を、考えてあげてね……」
「うん。よろしくな、スケベイ」
「……まーじーめーにー……」
「サイラスだ。俺たちのオアシスには、ぴったりの名前だろ」
空の太陽だ。実は考えてた。
男ならサイラス、女ならソレイユってな。
「……あは、いいね……。……暖かそう……」
死が再び怖くなった。ガキの頃のように。
だがこの瞬間に溢れ出た涙は、恐怖ではなく幸せなもんだったように思う。
リベルタリア建国から、およそ一年が経過していた。
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