第28話 ギリアグルスという不死
前回までのあらすじ!
ギリギリ正気を保ちながら、おっさんは走る。
前線都市ガルグ領主のギリアグルス子爵は不死種だ。無数の蝙蝠に擬態して夜の空から急襲し、その魔眼で対象者の動きを止め、爪で引き裂き、牙で首筋を貫いて血を啜る。
啜られた者は眷属と化し、夜に徘徊し、そして生者の血を啜るバケモノになる。血を啜られた者は主であるギリアグルス子爵の眷属となり、それを無限に繰り返す。
先代魔王ジルイールの手下として、不死種ギリアグルス子爵は凄まじい働きを見せた。
人類の騎士たちを大量に眷属へと変じさせ、倍々計算でその勢力を伸ばしたんだ。人類がその絡繰りに気づいたときにはすでに遅かった。当時の人類側の前線都市は内部から崩壊、そのまま魔王軍のものとなってしまった。
やつはたった一体で、人類の前線都市を陥落させちまったんだ。
曾祖母、サクヤ・キリサメの手記にはそう記されていた。
もっとも、彼女はたった四人のパーティで、魔窟と化していた人類側の前線都市をギリアグルス子爵から取り返したらしいが。それでも人類サイドにとっては、大きな痛手だったという。
なぜならそのときにはもう、救える人間がいなかったからだ。つまり曾祖母は、その地に徘徊していた元人類である眷属を皆殺しにせざるを得なかったんだ。
そして人類は領域に対する拠点を失った。百年前のジルイールとサクヤの戦いで、あのオアシスの砂漠ができあがらなかったら、魔族はもっと早い段階で人類の王都に刃を届かせていただろう。
殺した敵兵を自らの手駒とするギリアグルスの悪名は、当時の人類領域で悪夢のように広まっていたが、百年前から徐々にその話を聞かなくなった。
そらそうだよ。ルランゼが魔王に即位したあと、先代ジルイールを失ってなお泥沼化していた人魔戦争が、砂漠を挟んでにらみ合うだけの冷戦となったのだから。そう考えると、ルランゼは人類にとっての救世主でもある。
ギリアグルス子爵を討ち取ることは、多くの眷属を手にかけてしまったサクヤにとっての悲願でもあった。だが彼女は、終ぞ本人と遭遇することはなかったという。
つまりいま俺は、伝説上の魔族の屋敷に乗り込んでいるわけだ。曾祖母の悲願など正直言って尻の毛くらいどうでもいいことだが、会敵した際には戦いを避けることはできそうにない。
柱に身を隠しながら、俺は廊下を走る。
嫌んなるね。うんざりだ。
いまになってみりゃあ、古戦場の地にリビングデッドどもを沈めておいたのは、ギリアグルスだったのではないかと思えてきた。
だが、リビングデッドとやつの眷属とでは、明確な戦力差がある。共通するのは死者を冒涜していることくらいか。
できることなら遭遇せずにルランゼだけを連れ出したいところだ。殺すに躊躇うような人物ではないが、そういったことは可能な限り戦場でだけにしたい。戦場も避けて通ってる人生だけどな。
つまり何が言いたいかってーとな。
……こういうときに限ってだよ。
わかっちまったんだ。身を潜めながら走り、あるドアの前を通り過ぎたときに、それが薫った。
「……ッ」
死の臭いだ。
戦場は避けて歩いてきた。だが俺は、戦いを避けて歩いてきたわけじゃない。何度も何度も嗅いできた臭いだ。
一度は通り過ぎたドアの前で立ち止まる。
人類にとって、さぞや危険な男だろう。曾祖母の悲願などどうでもいい。人類の未来もだ。わかってる。わかっちゃいるんだ。だが、ここでこいつを殺すことができたなら、この先どれだけの命が救われるだろう。
眷属は倍々計算で増加する。殲滅戦が始まれば、それはあまりにも大きな脅威だ。
「……クソ!」
おそらくこの先に貴賓室がある。そこにルランゼがいる。すぐ側だ。走ればわずかな時間で辿り着ける。
なのに俺は何をやっているんだ……。
キィと蝶番が軋んだ。
俺はそのドアを開けていたんだ。
強い死の臭いに、顔をしかめる。
俺は身を滑り込ませてから、後ろ手にドアを閉ざす。真っ暗だ。月の光さえ、遮光カーテンが遮ってしまっている。
都合がいい、か。
レンの用意してくれた剣の柄に手を置き、じわりと進む。次第に目が慣れてくる。だが、俺がギリアグルスの姿を発見するよりも先に、その声がかかった。
「……ああ、懐かしい。この甘く芳しき血の薫りは、人間か……」
老人のように嗄れた声だった。弱々しく掠れ、覇気はまるで感じられない。
だが油断はしない。俺は抜刀術の構えで、声のした方を振り返る。ぼんやりと、闇の中にやつはいた。
そのときになってようやく、俺は全身から力を抜くことができた。柄から手を放し、曲げた膝を伸ばして、目を見張る。
殺意が霧散した。
なぜならギリアグルス子爵は、まるでミイラのように乾き、大きなベッドに横たわるだけの老人だったから。
警戒するに値しない。いつでも殺せる。演技ではない。それがわかるから。
「あんたがギリアグルス子爵か?」
「…………おお、おお、我が館に人間がおるか……。……ああ、渇く……」
ギリアグルスはベッドから枯れ枝のような手を伸ばして、ベッドの横の物置棚から水の入ったグラスをつかむ。だが、震える手は途中でその力を失い、グラスは落下してベッド下を汚すに留まった。
「質問にこたえろ」
老人が咳き込む。目はすでに白く濁り、あまり見えていないのがわかった。
「……いかにも、私がギリアグルスだ……。……クク、暗殺にでもきおったか、人間の童よ……」
「あんた、不死種だったよな。不死種にも寿命ってもんがあるのか?」
危険はない。俺は何だか哀れになって、落ちたグラスを拾い上げ、水差しから水を注いで渡してやった。
やつはそれを受け取って口に含むと、気管にでも入ったのか派手に咳き込んだ。ベッドに飛沫が散る。
「……ない……。……この有様は、あの優しく残酷な魔王のせいよ……」
「魔王? ルランゼ・ジルイールか?」
「……ああ」
この夜に聞いたギリアグルス子爵の話を、俺は生涯忘れることはないと思う。
不死種は他の生物より吸血行為を行わなければ生きてはいけない。完全な意味での不老不死ではないのだ。不死種ギリアグルス子爵にとっての吸血行為とは、戦争のためではなかった。ただ腹を満たすために戦っていたのだ。
けれどルランゼが魔王に即位してしばらく、泥沼化していた人魔戦争は冷戦となった。表立って吸血行為ができなくなった強硬派のギリアグルスは、大いに困惑した。魔王が人類領域での戦闘行為を禁止したからだ。
しばらくの間は攻めてくる人類を捕らえて食材とすることで、ギリアグルスは若さを保つことができた。しかし彼の眷属の分までは回らず、眷属は減少し、渇いていった。強大な一大勢力を誇っていたギリアグルス子爵は、数十年後にはその力の大半を失うこととなった。
そこに拍車をかけたのが、人類領域での、とある変化だったのだ。
「……ライリーなる若者が、勇者として選ばれてしまったことよ……」
「……」
俺……?
俺は、人類の領土を侵さなくなった魔族たちの領域へと攻め込むことを、決して由とはしなかった。スタンスとしては専守防衛だ。やられたらやり返すが、こちらからは挑まない。
焦ったのはギリアグルスだ。怠け者か、あるいは臆病者の勇者が不戦を決め込んでしまったせいで、攻め込んでくる人類が大幅に減少してしまったのだ。
足りぬ。ヒトの血が足りなくなる。このままでは緩やかに衰弱死する。
すべての眷属の動きを停止させた。眷属に回す分の血液など、もはやない。不死種の他にも血液を好む魔族は多くいる。嗜好品としての血液は取り合いだ。よこせ、己にとっては嗜好品ではなく必需品なのだから。
だが、すでに眷属の大半を失っていたギリアグルスには、それを奪う力すらない。矜持を捨てて他の貴族連中に頭を下げたこともあった。落ちぶれた者に手を差し伸べる者は誰もいなかった。
強硬派からは戦力外として追いやられ、穏健派からはいい気味と誹られた。
孤立……。
すべてを失った。眷属も、力も、この館以外の何も残されてはいなかった。
老人のように衰えた肉体で人前に姿を現すことを辞めた。だからガルグの領民は、領主の衰弱を知らない。
そんな折りだ。
ギリアグルスを飢餓へと追い込んだ張本人である魔王ルランゼ・ジルイールが前線都市ガルグのこの館を訪れたのは。
魔王は力を失った一介の子爵に、頭を垂れて言った。
申し訳ありません。生者の血以外の食料ならば何度でも運ぶから。大願成就のため、どうか、あなたを殺すわたしを許してください。
「……涙ながらにだ……。……私は、私を殺すといった彼女を憎んだ……。……彼女はそれから何度も何度も、何年間も、私の下を訪れた……。……最初のうちはにべもなく追い返したが、不思議と気がつけば……私は……彼女を館に上げるようになっていた……」
咳き込み、血交じりの唾液を吐く。
だが、ギリアグルスは語り続けた。
「……そのうち、ふとわかったのだ……。……おぬし、不死種がなぜ眷属を増やすと思う……?」
「血を抜いて殺したやつは眷属になると聞いた」
ギリアグルスの頬が微かに上がる。笑ったらしい。
「……なる、のではない……。……作る、のだ……。……あえて、な……」
「血を抜かれても、ならないやつもいるのか?」
子爵が弱々しくうなずいた。
「……私の意思次第だ……。……だが、私たち不死種は眷属を作り続ける……。……眷属を増やせば……、……それを保つため、それだけ多くの……、……血液が、必要となる……。……それらを賄うため、戦い……そして傷つき、また増やす……。……なぜ……」
俺の応えを待たずして、やつは口を開く。潤ませた瞳を、俺に向けてだ。
「……寂しいのだ……。……私たちは、夜に生きる……。……静かで、暗くて、冷たい夜にだけ……生きられる……。……生きるしか、ない……」
だから偽物と知りながら眷属を増やし、寂しさを紛らわせる。ギリアグルスはルランゼとの関わりで、ようやくそれに気づいた。
「……不死種は……無限に続く……孤独だ……」
季節が変わっても、何年経過しても、ルランゼはギリアグルスに食料を運びにやってきた。厨房を借りて調理し、使用人にすら見捨てられたギリアグルスの口に甲斐甲斐しくそれを運んだ。
色々な話をした。強硬派と穏健派のことも、ルランゼには妹がいることも、信頼を置く側近らですら知らない影武者のことも。彼女はいつも楽しそうに自身のことを語ったらしい。
すべてを失ったギリアグルスに、新たな感情が芽生えた。
楽しい。この瞬間が。愛しい。この娘が。
それは津波のように心のすべてを呑み込む強い感情だった。
眷属はいくら作っても、何も語らなかった。問えば返すが、決して創造主たる己に逆らうことはない。手足となって動き、獲物を狩る。ともに食事を取ることもない。それだけの存在だ。
だが、違う。この魔王は。
ああ、暖かい夜が訪れた――……!
数千年もの間、埋められることのなかった寂しさが、その魔王によってやわらいでいくのを感じ始めたのだ。
そうして気づいた。
「……そう……か……。……“生きる”とは……こういうことだったのだ……と……」
そしてやつは、自らの死を受け容れた。
魔王ルランゼ・ジルイールの、大きな大きな願いのために。
ようやく満足したのだろう。数千年もの寂しさと、数十年もの飢餓に。憎しみが愛へと変貌して。
大きなため息をついて、ギリアグルスが満足げに微笑む。悪戯をして見つかったガキのように、目を細めて口角を上げて。
そこには邪悪さの欠片もなかった。ただ、無垢に。涙を溜めて。
「……最期に……誰かに語りたかった……。……クク、自慢したかったのだ……私の……家族を……な……。……訪問に……感謝するぞ、小童……」
「いいのかい? 俺ぁ人間だぜ? 魔王の敵かもしんねえのによ。いるはずだ、この館にあいつが」
その言葉に、ギリアグルスが枯れて震える手を上げた。人差し指で道を指し示すように、微笑みがながらだ。
「……さっさといけ……。……ライリー……。……私の家族を……託す……」
「あんた、俺の正体に気づいてたのか?」
そうか。一年前のあのオアシスからの帰りに、ルランゼはここに立ち寄っていたんだ。そしてオアシスで出逢った妙な勇者のことを、楽しげに老人に語っていたんだ。
そんな光景が目に浮かぶ。
「……頼んだ……ぞ……」
静かに、渇いた手が落ちた。
それっきりだ。ギリアグルスは口を開かなくなった。事切れたんだ。
同情はしない。こいつはたった一体で人類をあまりにも殺しすぎた。
だが、俺が廊下で嗅いだ死の臭いは、犠牲となった人間たちのものじゃなかった。それは多くの罪を犯してなお、ぬくもりだけを求め続けた老人のものだった。
そんだけの話さ……。
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