番外編④ 旅の始まりは
前回までのあらすじ
またモテとる……。
彼女は大海原を滑るように走る帆船の船首に立って、水平線を飽きもせずに眺めていた。
魔都ルインを去る際に切った後ろ髪は、少しばかり不格好になってしまっている。もっとも、だからといって彼女の魅力が失われることはない。
なびく黒髪と、長いスカート。風を受けて空を飛ぶように進む様は、まるで舳先に掘られた女神のようだ。事実、帆船の乗組員や男性客の大半は、そんな彼女に視線を奪われていた。
僕にはそれがおもしろくない。
だから呆れたように言ってやった。
「フレイア、風邪を引くよ」
「ああ、うん」
振り返った顔には、童女のような笑みが浮かんでいた。
船旅を存分に満喫しているといったところだ──と言えればよいのだけれど、残念ながら安い客船で絶賛逃亡中の身だ。
ルーグリオン地方からも、人類領域からも、僕らは指名手配されている。
あの大陸にはもう、帰る場所はない。魔王軍を乗っ取って人類領域に攻め入り、魔族にも人間族にも多大な被害を出してしまったのだから、当然の報いだろう。
フレイアがなびくスカートを手で押さえながら船首から降りてきて、甲板で荷物にもたれていた僕の隣に膝を折った。
彼女は僕を見上げて無邪気に笑う。
周囲の男どもの表情が一斉に曇ったのが心地いい。欲に溺れた目で彼女を見てもいいのは、僕だけだ。例外はない。
「初めて乗ったのだけれど、船は楽しいね、ミリアス」
「ああ、痛快だ」
「痛快?」
おっと、独占欲が漏れてしまった。
僕は言い直す。
「間違えた。爽快だね。冷たい海風なのに気持ちよく思える」
「うん」
フレイアが僕の肩に頭を乗せた。
僕は荷物の中から一枚の毛布を取り出して、ふたりで包まる。その中で彼女の腰を引き寄せると、フレイアが嬉しそうに目を細めた。
彼女は僕のものだ。誰にも渡すつもりはない。そのために、子供の頃からずっと憧れていたあの英雄とだって、剣を交えたのだから。
結果は惨敗だったけれど、そこに後悔はない。むしろ安心したくらいだ。理由はどうあれ、あの人にはいつまでも高い壁でいてもらわなければ困る。
剣士としても、人間としてもだ。でなければ、自身は成長を止めてしまいそうだ。老いてなお、成長し続けるあの人のようになりたいのだ。僕は。
王と重罪人では、もう会うことはないのだろうけれど。
あの戦いがあった日から、しばらく。
大陸を脱するための資金稼ぎに、少し時間がかかってしまった。けれど一度も捕まることなく無事に船に乗れたのは、僥倖と言わざるを得ない。
「なあ、フレイア」
「うん?」
「初めての姉妹喧嘩はどうだった?」
逃亡者に身をやつしてしまった僕らだけれど、彼女に悲壮感はなかった。それどころか、あの大陸にいた頃よりもすっきりとした顔つきになっている。
眉間に皺を寄せて生きていた頃よりも、ずっと魅力的だ。
「ん~。たぶんミリアスが、あのすけべオジサンに持った感情と同じだと思うよ。あー思い出したら腹立ってきた。人の胸をパンパンパンパン叩いて逃げるとか、何なのほんと、あの人」
「僕とライリーさん?」
「うん」
どすけべってちゃんと言わないと怒られそうだが、黙っていることにした。
「だったらすっきりしたってこと?」
「そうね。でも、わたしはいまでも、自分の主張が間違っていると思っていない。王も貴族もいらない。身分制度なんて弱者を生むだけだから。でも妹が──ルランゼがあれだけ必死になってまで訴えてきた方法も、間違ってはいないのかもしれないって思わされた」
一度言葉を切って、フレイアが小さくうなった。
「確かに、あの子が魔王として目を光らせてる限りは、幼い頃のわたしやカテドラール領の遺児たちのような弱者はもう出てこないのかもしれない」
「ルランゼさんはずっと前から魔王だったよ。カテドラールの悲劇は彼女の政権下で起きたことだ」
荷物に手を入れて、リンゴを取り出す。
ナイフで半分に割って、僕は半分をフレイアに差し出した。彼女はそれを受け取って一口囓り、嚥下してから再び口を開く。
「うん。だからね、殴り合ってたときに気づいたんだ。わたしたちの本当の役割は、ルランゼに『世界の狭間に落ち込んで泣いている子供たちがいるんだ』ってことを伝えることだったのかもしれないって。カテドラール領に限らずね」
納得した。
「だからルランゼさんとの戦いで最後に手を抜いたのか、あなたは」
リンゴを喉に詰めたように、フレイアが小さく「ぅ」と呻いた。
「……やっぱり気づいてた?」
「ルランゼさんの母親は人間で、フレイアの母親は魔人だ。同じジルイールの血脈だからこそ、同じタイミングで魔力切れを起こして稚拙な殴り合いに転じるのはおかしいからね。ましてやルランゼさんは結界魔術にまで魔力を割いていたから、消耗はあなたより早かったはずだ」
僕はフレイアを睨みつけ、ため息をついた。
ばつの悪そうな顔をして、フレイアが毛布の中で擦り寄る。
「ごめん、ミリアス。もう二度とあんなことはしないって誓う」
「そう願う。あなたが死んでいたらと考えると、いまでも怖くなる。死んでしまったのは僕の方だったけれど、少なくとも僕はあなたと生きるために、ライリーさんと限界まで力を振り絞って戦っての敗北だったからね。言わせてもらうよ」
「わかってる。だってミリアスったら、死に顔まで気持ち良さそうだったもん。人の気も知らないでのんきに死んじゃって、信じられないこの人って思った。……でもそれも全部お互い様だったね」
同時に苦笑する。
僕は話題を戻すことにした。
「でもさ、フレイア。ルランゼさんは早々に退位して、いまの魔王はルナちゃんのようだよ。僕はあまり彼女の人となりを知らないけど、大丈夫なのかな」
「ルナとルランゼは双子で仲良しだし、思想は似たようなもんでしょ。性格は全然違ったけど。ルランゼはほんわかしてるのに、ルナは──」
フレイアが自身の頭から空へと向けて二本の指を立てた。ちょうど、ルナの側近にあたるオーガの祖、鬼のシュトゥンのように。
「すぐに怒るから苦手。ミリアスが死んでたとき、蘇生を渋ってたから『尻デカだから重い腰を上げられないんだろ』って罵ってやったら、すごい剣幕で胸を叩かれたもん。おまえがゆーなー! ってさ」
「……や、それは完全にあなたが悪いな」
「あははははっ」
重い、重い荷物を大陸に捨ててきた僕らは、互いに寄り添い合って、語り合って、笑い合って、甘酸っぱいリンゴを囓る。
海はどこまでも続いていて、空は限りなく青く、まだ見ぬ大地を目指して。
旅の始まりは、冷たくて優しい海風の吹く日だった。
楽しそう!
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