番外編① 殿下と亜竜、ときどき子犬
番外編です。
穏やかな日射しの降り注ぐ夕刻前。
リベルタリア王国のオアシスでは、一艘の小舟が浮いていた。
竿から垂れる糸、三本。
クイっと竿先がしなり、ソレイユは慣れた手つきで上げる。水面からあがった魚は、手で触れるまでもなく小舟の中にポトリと落ちた。
「つれないねぇ、にいちゃん」
「そうかなあ」
別の竿先がしなった。今度はサイラスが竿を上げる。
成人男性の頭部ほどもある魚が空を泳ぎ、小舟に落ちた。竿先は止まることなく、弧を描いて流れるような動作で再び投げられる。
釣りにおける竿捌きは、達人の扱う曲剣の極意と似ていると、父ライリーは言う。かつてそういう使い手と対戦し、一度は敗れたことがあったらしい。あの父が。驚きだ。
けれど、父と同じくしてかつて勇者と呼ばれたほどの使い手ならば、不思議ではないのかもしれない。
父の話で聞く世界は広い。いずれは見て歩きたいと、そんなことを考えたくなるほどに。
「つーれーなーいー。なーんーでー?」
「……」
小舟の中にはもう、大小様々な魚が山ほどあがっていた。大漁だ。
舳先ではイヌノコが短い竿から糸を垂らしているが、一匹もかかっていない。なぜならイヌノコの竿には、疑似餌も針もついていないからだ。
「クゥ~ン……? ツー、ツ釣レン……? ……ナニユエ……」
以前、イヌノコの仕掛けに大きな魚がかかったときに、引きあげるだけの力が足りずに引きずり込まれたことがあった。これは魚による犬釣りになりかねないと、彼の竿からは、父である犬によってこっそりと仕掛けが外されたのだ。
事実上の戦力外通告である。
もちろんイヌノコは気づいていない。竿というものは、糸を垂らせば魚がかかるもの。そう思い込んでいるがゆえに。
「オッサカッナ釣ッレル♪ フッシギッナ棒♪ ブンブン♪」
楽しそうで何よりだ。
ソレイユが小舟に仰向けになって、右足の親指と中指で竿を挟み、仕掛けを動かす。すぐさま魚がかかり、小舟にあげられた。
「もー。なんでつれないのー。やっぱエサがわるいんだよ。ねえ? ……生き餌の方がいいのに……」
しかしその視線の先は、釣った魚ではなく、イヌノコに向けられている。イヌノコがクワッと目を見開いた。
「ファッ!? イヌノコ!? 食ベルルララランランルー!?」
「だめだよ、ソレイユ」
「んじゃまた、にいちゃんがエサになってよー。にいちゃんはおいしそうだから、ぜったいイケルよ」
「おまえ、そんなことばかり言ってると、また母さんに尻を叩かれるよ」
ソレイユがにぃっと歯を見せて笑った。
「あたしのおしりのシンパイ? へへ~、この、こすけべ」
「おまえの頭の心配をしているんだよ。それから、僕はどすけべだ。二度と間違えるな。いいか、二度とだ」
強い調子でそう言って、サイラスは苦い表情をした。
先日、船釣りの最中に迂闊にも眠ってしまい、縄で両手を縛られて小舟から垂らされたのだ。他ならぬソレイユに。そんな悪ふざけでは済まされない海賊行為をされたとき、サーペントと呼ばれる水竜の亜種が、初めてオアシスで姿を現したのである。
父ライリーの話では、オアシスには地下水が常に流れ込み続けているから、おそらくそこから入り込んだのだろうとのこと。
両手を縛られた状態で、大口を開けてすべてを飲み込まんと迫るサーペントを水中で見てしまったときは、さすがに胆が冷えた。
以来、ソレイユは取り憑かれたようにサーペントを釣ることを目的として、湖に通い詰めだ。けれど小さな疑似餌にサーペントがかかる様子はない。
それでいいのだと思う。危ないから。
子育て中や空腹状態のときに近づいてしまったり、あるいはこちらから手を出したりさえしなければ、サーペントはワイバーンと同じくして、無闇に人を襲ったりはしない臆病な亜竜でもある。
だが、ひとたび怒らせてしまえば、竜種としての攻撃力は健在だ。危険であるがゆえに駆除が求められるところではあるものの、オアシスの最高戦力保持者たちはいつも忙しい。
「こんどはちゃんとしとめるのになー!」
「おまえの魔法は火だろ。水被ってるやつにはあまり効かないよ」
「ぶんなぐるっ」
「……いや、だから、無理だって……」
「へへへ、にいちゃん、めっちゃビビってないてたもんね」
「あたりまえだ、アホ! 水ん中で両手縛られてんだぞ!? 死んだかと思ったわ!」
ろくに泳ぐこともできない状態だったのだから。
あのとき、古竜である炎竜がたまたま空を通りかからなければ、本当にどうなっていたことか。
そんなことを言っていると、イヌノコが口を開けた。
「パパ犬。ドランゴサァ~ン、オネゲイシタラシ。ヨース見テーッテ」
「あれ、そうだったんだ。あのとき犬さんが炎竜を飛ばしてくれてたの?」
「ラシ。パパ犬、スグシンパイスル。イヌノコ、チョー無敵ナノニナ?」
まあとにかく、サーペントが炎竜に驚いて湖底に逃げ戻ったおかげで命拾いをしたのだ。
ソレイユは当然のようにルランゼから左右の尻を祭り太鼓のように叩きまくられ、大泣きしていた。そりゃあもう、オアシスに響き渡るような声で。
にもかかわらず、まさかまるで懲りていなかったとは。
「あたしがエサやる?」
「やめろ。次は僕の尻が腫れるだけだ」
「……やん、こすけべ」
「自分の尻の話だよ!? あと僕はどすけべだって言ってるだろ! 二度と間違えるな!」
「ナゾノコダワリ? コダワリノナゾ?」
あいかわらずこの妹は話が通じない。
「まあとにかく、もう日が暮れるから今日は帰るよ。ご近所さんに配っても余る量だしな。魚は」
「え~! あたし、サーペントのカバヤキがたべた~い!」
「セムカタナッシーィィッィアァ……ウワー!」
イヌノコが仕掛けのない竿をあげた瞬間、舳先で足を滑らせて湖に落ちた。
大慌てで手足をばたつかせて戻ろうとしている。
「ハプ、ブブブ、ブハッ、イ、イヌノコ、オサカナ、食ベラルルランランルーブブブパァ!」
「落ち着け、すぐに助け……て──」
サイラスが舳先から手を伸ばした瞬間、イヌノコの足の下を巨大な影が横切った。ソレイユが瞳を輝かせる。
「き、き、きたぁぁぁぁ! きたよ、にいちゃん!」
イヌノコが必死の形相で前足を伸ばす。
「ハプッ、プハ、早ヨアゲテ! パボボボププ、早ヨウ、プハァ! ナンカオル! ナンカオルゥゥーーー!」
「どど、どうしよ、にいちゃん! エサ! 逃げないようにもっとエサまかないと! あそ~れっ! あそ~れっ!」
だがその周囲にソレイユが釣った魚を撒き始めた。
「こ、このアホ! やめろ! イヌノコが食べられちゃうだろ!?」
イヌノコの足下を、水色に輝く鱗を持った巨大な蛇のような生物が通り抜けていく。
でかい。大きさだけなら、炎竜をも凌ぐほどだ。
考えたくはないが、サーペントがその気になれば、こんなちんけな小舟など……。
サイラスがイヌノコの前脚をつかみ、一気に引き上げた直後、先ほどまでイヌノコが暴れていた水面を空間ごと飲み込むように、大口を開けた巨大なサーペントが跳ね上がった。
天に昇る竜が如く。
「ぎゃあああああっ!? こわいいぃぃ! にいちゃーーーーーーーーーんっ!?」
「……!」
「死ンダ! コレイヌノコ死ンダァァ!」
波、というにはあまりに大きな水面の隆起に、小舟は当然のように転覆する。
空に投げ出されたソレイユが、指先を宙空のサーペントへと向けた。幼い指先から、熱線が放たれる。魔王一族にのみ伝わる炎術だ。
「ピンチはチャンス! いっけぇぇぇ!」
だがルランゼのそれに比べて、あまりにか細く、持続する長さもない。
熱線はサーペントの鱗を一枚割って焦がしはしたものの、それだけだ。
湖面に落ちて水面から顔を出したソレイユが、絶望的な表情で叫んだ。
「わああああっ、だめっぽいよ! にいちゃん!」
「あたりまえだ……! だから言ったろ……!」
空を跳んだサーペントが水面に戻る。
凄まじい衝撃音とともに水面を爆ぜさせるように下りたサーペントは、ソレイユを嫌がるように巨大な尾びれで弾いた。
「──ぁっ!?」
「ソレイユ!」
ソレイユは水切り石のように水面を跳ねて転がり、水飛沫だけを残して湖岸近くまで一気に吹っ飛ばされる。
「イヌノコ、ソレイユを追って!」
「ヒェ!? ガガガッテン承知ノスケベェェェ!」
「すけべじゃない! 僕はどすけべだ!」
イヌノコが魚の死骸だらけの水域を犬かきで抜けて、ソレイユのもとへと泳いでいく。
サイラスは血抜き用に持ってきた聖なる包丁をベルトから抜く。周囲にはやつのエサになりそうな魚の死骸が、山ほど浮かんでいる。
そちらに目を向けてくれれば、その隙に泳いで逃げるつもりではいたけれど、どうやらサーペントはソレイユの魔法でお怒りの様子。死んだ魚には目もくれず、生きて動いているものを優先的に追ってくる。
己が逃げれば、おそらくサーペントは泳ぎの遅いイヌノコを追うだろう。その先にはソレイユもいる。
サイラスは震えながらため息をつく。
「……結局、いつもこうなるんだよなあ……」
この先、何度、あの妹の尻を拭わされることになるのだろう。もうこの際、早い段階で恋人を見つけ、さっさと嫁に出て欲しいと願うばかりだ。
サイラスは自ら水中に潜り、包丁に魔力を宿した。
※
その日の夜は、ちょっとした祭りになった。
わずか十歳の少年が亜竜サーペントを仕留めたのだ。そうそうある話ではない。
オアシスの民は小さな王子の勇敢なる偉業を称え、そしてサーペントは王家によって湖岸で焼かれ、民へと振る舞われた。
祭り囃子、リベルタリア王妃殿下の打ち鳴らす尻太鼓は、朝まで続いたという。
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