Case No.3.0 「錯誤自縛」
ようやく陽が西の空へと沈みかけた午後5時過ぎ、矢来市の基幹駅である矢来駅前は夕暮れ時の賑わいを見せ始めていた。
部活帰りの中高生や、夕飯の買い出しに出かけた主婦、仕事を終えたサラリーマンたちで往来は混雑し、前へ進むのも一苦労だ。
人ごみをかきわけるようにして、柚葉はやっとのことで目的地であるコーヒーチェーン店にたどり着いた。
店内は、読書したり携帯に興じたりと割合1人で居る人物が多かった。
それだけにテーブル席のソファ側に3人、椅子側に1人という光景はかなり目立つ。
しかも組み合わせ的に片やあまりにも今時すぎる化粧パーフェクトなコテコテのコギャル風女子高生3人組。片や根暗そうな眼鏡の男子高校生というのはギャップ的にもあまりにインパクトがあった。
他でもない、彼女たちこそ今回アポイントを取り付けてきた相手――依頼主だった。
顔も知らない依頼主のことがなぜわかったのか? 答えは彼女たちの対面に座る少年が全てを物語っている。
「悪い、待たせたわね」
少年――義志の肩を軽く叩きながら彼の隣に座る。
始め見上げ、座るこちらに合わせて視線を移動させた彼は明らかに疲弊していた。眼鏡奥の眼光には理由はどうあれ遅刻したことに対する恨み節が込められているように見えた。
無言で半泣きの彼の様子から、対する依頼主の人となりが伺い知れる。その論拠を自ら証明するかのように、彼女たちは一切反応することなく薄笑いを浮かべながら携帯をいじり続けていた。
「お待たせして申し訳ありません。退魔禁妖討霊社の桐羽です」
お馴染みの鮮やかな滑舌を奏でつつ学生鞄から名刺入れを取り出し、1枚抜き出した名刺を中程の席に座った少女の前に差し出す。
無反応。相変わらず半笑いで携帯に興じている。
目を丸くした柚葉はそっと体を傾け、義志の頭に頭を近づける。顔は前を向いたまま、横目で義志を見ながら囁いた。
「ちょっと、なんなのあの態度」
「さあ、なんなんでしょうね。僕は見飽きてもうなにも感じませんが」
同じく囁きで返して来た義志の声には著しい疲労の色が含まれていた。いかに彼が苦労を重ねて彼女らの相手をしてきたかがわかるというものだ。
「なんかえらい難儀したみたいね」
「難儀もなにも半分はこの有様ですよ? 何もしてませんから楽すぎて申し訳けないくらいです」
明らかに心にもないことを口にしている義志。皮肉以外の何ものでもない言い草に、柚葉は胸中で苦笑した。
「そう怒らないでよ。こっちも好きで遅れたんじゃないんだから。美穂ちゃんの呼び出しは絶対。よくわかってるでしょ?」
先方の都合により急遽寄り道することになった相手の名前を出す。
すると、義志は表情を強張らせたまま固まると何も言い返してこなかった。
「モノが入荷したのに受け取りに行かなかったらどんなことになるか。機嫌損ねた美穂ちゃんのためにあたしが大間まで鮪の一本釣りしにいかなけりゃならなかったのもう忘れたの? ま、よし君が責任取って無理難題代わりに背負ってくれるなら無視したんだけど」
「な、なんて恐ろしいことを……」
義志はそう言ったきり蒼い顔をして脂汗をかきながら押し黙ってしまった。
気難しい装備屋のことは義志もよく知っているし、彼女の機嫌を損ねては結陣板や金票などの装備を補充できないことも認識しているからこそ、追及の手を止めたにほかならない。
もっとも、脂汗を流して凍りついた理由は、強烈な個性を放つ美穂に義志が意外にも気に入られていることに対する拒絶反応に違いなかったが。
ちなみに美穂は御歳八十歳の健康優良不良老女である。
「なにこそこそしゃべってんだよ」
突然投げかけられる険のこもった声。
依頼主たちへの意識が散漫だったため、机を挟んだ目の前にいるにもかかわらず、いつのまにか揃ってこちらを睨みつけていることに気付かなかった。
いえ、別に何も、と答えると、対面中程に座る頭にサイケデリックなカラーリングの造花を戴いた女子高生が品定めをするかのようにこちらを頭から胸まで見回していた。
女子高生というよりは女子高生らしき格好のコスプレをしたお水な人にしかどうしても見えない彼女は、ガムを噛みながら胡散臭そうな視線を無遠慮に向けてくる。
「あんたがお化け退治してるっての?」
「ええ、私が退魔禁妖討霊社の代表ですから。何か?」
ひとときの間を置いて互いに顔を見回した後、大爆笑。
腹を抱えて笑い転げているのは言うまでもなく三人組だ。
「あ、あんた、うちらと同じ高校生なん? しょ、小学生がコスプレしてるわけじゃないよね?」
笑いすぎて引き攣りながらサイケ造花がツッコムと、右隣の多連ピアスを耳たぶに光らせたヒカリモノ娘が手を叩いてウケていた。
「それウケルー! うちもさあ、チョー童顔ってゆーか、子供? なんて思ったりしてさ」
これにサイケ造花を挟んで反対側に座る3周ぐらい時代から周回遅れなヤマンバが訝しげに反論する。
「え〜こんなデカイ子いないっしょ」
「わかんないじゃん。最近の小学生って結構でかいよ。うちの妹なんてあたしより色々デカイからムカつくんだよね」
あの〜もしもし?
柚葉の心の声である。どれほど口に出して言いたかったことか。
彼女の思いなど露も知らずに、3人組は勝手に盛り上がっている。
事前に知らされた依頼内容からすると、よくそんなに明るくいられるものだと呆れを通りこして驚嘆すら覚えた。
明らかに失礼なことを、しかも本人に向かって吐き続けられる想像を絶した思考回路は理解不能だったが、1つ分かったことがある。
彼女たちは柚葉が嫌悪しているタイプだということだ。
「そろそろ話を進めていいですか?」
軽く咳ばらいをしてから依頼の件をうながすと、途端に3人組の顔色が変わった。心を入れ替えて真剣になったから、ではないことは明らかだ。
せっかく気分よく喋っていた時間をえらそうによくも邪魔してくれたな――敵意の篭った眼差しがそう物語っていた。
見事なまでの自己本位だ。
顧客としての立場を勘違いしている程度ならそこらのクレーマー程度と変わらないが、彼女たちは違う。
受け手も送り手も関係ない。自分さえよければ相手がどんな立場であろうがやりこめて従わせる自信、いや確信に満ちていた。
最近この手の傲岸不遜な手合いが老いも若きも本当に激増したように感じる。
その原因が社会にあるのか教育にあるのかあるいは他にあるのかはわからない。いや、きっとすべてにあるのだろう。
今のところ劇的に心を入れ替えさせる、適切かつ即効性の手段がなに1つない現状、本件に首を突っ込んだ以上は堪えるしかない。
柚葉は頬を引き攣らせながらも彼女たちに笑顔を向けた。
「それで、ご依頼されたのはどなた?」
実はくだんのサイケ造花が依頼主だと見抜いていたが、あえて尋ねる。
こちらは名乗っているのに今だ自己紹介の1つしない彼女たちへのささやかな抵抗である。
「うちだけどさあ、依頼って金かかるんでしょ? 幾ら? ってゆーか、あんたが退魔なんとかで解決してくれるってマジ信じらんないんだけどさ」
激烈に自分本位な貴女の方がよほど信じられないんですけど、と喉元まででかかったのをどうにか押し留める。
なぜ自分はここにいて、どうしてこんな阿呆の相手をしなくてはならないのか。自分で決めたことにもかかわらず無性に腹がたってきた。
別にこのサイケ造花がどうなろうとそもそも知ったこっちゃないし、いっそ放置して席蹴ったろか? などと段々投げやりになってきた柚葉。
席についた時に給仕を受けていた己の分の水グラスを手にしていたのだが、あおる間もなく手の甲には青筋が走っていた。
「詐欺られたらムカつくからさ、あんたが霊とか退治できるってんならなんか証拠みしてくんない?」
「あ、それい〜」
「できないったらぼこっちゃおっか」
90℃に到達しもうすぐ沸点状態な柚葉の内心などまるでおかまいなしに好き放題。
彼女たちの辞書には「相手の気持ち」「思慮」といった項目はどこを探しても掲載されていないのだろう。
ただ、彼女たちは1つ大きな間違いを犯していた。相手にしているのは何を言っても許してくれるような気の弱い内向的なキャラクターでは毛頭なく、180度真逆の「人間核弾頭」であることを見誤っていたのである。
甲高く、鋭い音が周囲に響いた。
それまで姦しく騒いでいた3人組から言葉が失われ、固まっている。
テーブルの上は水浸しになり、溶けかかった氷とほんの少し前までガラスコップだった残骸の数々がそこら中に転がっていた。
その中心で握り締められている拳。他でもない。柚葉の拳だ。
「ゆ、ゆずさん! ちょっと大丈夫ですか!?」
凍れる時を打ち破ったのは焦りに焦った義志の声だった。掴んだガラスコップを素手で握り潰してしまったのだからもっともな反応だ。
一方、当の本人はというと、痛みに顔を歪ませたり驚いて泣き叫んだり、など一切せずに一言。
「あら失礼。手が滑ってしまって」
滑って落としたのではなく、どこからどう見ても握り潰したにもかかわらず、しれっとしている柚葉。
あまりの平然ぶりに3人組も口を開けっ放して呆けていた。
止血しなければと考えたのだろう。義志は慌てふためきながらおしぼりを柚葉の拳にあてようとした。
それを反対の手を軽く振って制した柚葉は、握っていた拳を開いた。
「切れてなんかないわよ、ホラ」
鍛え方が違うから、なとど補足した彼女の掌からは砕かれたガラス片のみが零れ落ちる。
掌には傷ひとつなく痛々しい赤い液体は一切見受けられない。
掌に張り付いていたガラス片を取り除きつつ、騒動に駆け寄って来た店員を大事ないと下がらせた柚葉は、さてと、と一息ついてから3人組をあらためて見回す。
「仕切り直しということで。話進めてよろしいですね?」
釈然としない様子ながらも、彼女らは流石に異を唱えてくることはなかった。
今回の依頼について、柚葉は正直乗り気ではなかった。
なにしろ『堕胎した女子高生の周りで起きる不可思議な現象の解決』だったのだから。
その時点で最も危険度の高い案件、と義志が取り上げたため依頼メールを見たものの、3行でメーラーを閉じたくなった。
いきなりタメ口で始まった上、経緯などすっ飛ばして『できちゃったから堕したら変な物音したりつけられてるみたいな怪奇現象起きてる。水子かもしんないからなんとかしろ(要約)』と目を疑うような内容を命令口調で投げかけられれば現実逃避したくなったとしても誰も責められまい。
こんなもん自業自得だと無視を決め込もうとしたものの、とりあえず会って話ししてからでも断るのは遅くないのでは? という義志の情けに免じて話を聞く旨を返信したのだった。
それからがまた地獄の拷問のようで、学生であるのにやれ土日遊ぶから打ち合わせは平日の昼間がいいだの、面倒臭いから必ず1回で終わらせろだの、安く済ませろだのと我が儘三昧。
さすがに時間は放課後の17時にさせたものの、他については匙を投げた。納得したからではない。彼女らとやり合う労力より自身が我慢する労力の方が低いと判断したからだ。
その見通しは明後日の方向を向いていたと認識させられるが、気付いた時は遅すぎるというのが世の常というものだ。
こうして実際に対面したものの、実物はサイケ造花だったのだからさらにパンチが効いていた。
メールから伺える人物像の通り、かつ見た目通りの中身にさしもの柚葉も軽くキレてしまうほどだったが、それで片が付くほどサイケ造花は甘くなかった。
事の経緯を喋り出したサイケ造花だが、内容はというと事前に知らされていた話のまま。もう少し詳しく言うと、大意はそのままで、『どうでもいい部分』が大幅に肉付けされていた。
元カレとの出会いから始まり、会ったその日にラブホへ行ったのだの、付き合いだしてラブラブだっただの、そこに元々彼が登場して修羅場だの、さらに修羅場の日に元々彼となぜかHしただのと、今回の依頼に関してはまったくもって関係のない話を小一時間聞かされる始末。
柚葉は聞いているふりをしながら途中から別件の対処方法についてあーでもないこーでもないと頭を巡らせ、思い切り右から左へ聞き流していたほどである。
苦痛を通りこして苦行の時間を小一時間乗り越えた頃、考えることもなくなり丁度夕飯のメニューを思案していた辺りでようやくどうでもいい部分が終焉を迎えた。
これだけ苦難を耐え忍んでいると悲しいかなだんだん耐性がついてくるもので、逆に夕飯メニューについてああでもないこうでもないと内心盛り上がってしまっていた。なんだったらもう少し馬鹿話し勝手にしていてもいいのに、などと段々と自身もおかしな方向に行きつつあったが、柚葉は気持ちを切り替え久しぶりにサイケ造花の話に耳を傾けた。
サイケ造花の身の回りに起きている不可思議な現象は、通常ではありえないようなことばかりだった。
机の上の物が勝手に動いて落ちるどころか、一度宙を舞ったりしてから落ちる。
入浴していると、突然シャワーが噴き出した。
夜道を一人で歩いていると誰かが後ろからついている気配がして、振り返ると誰もいない。
夜寝ていると金縛りにあって、誰かに上に乗られる。耳元でひそひそ喋っている声が聞える。
エトセトラ。次から次へと出てくる出てくる、典型的ないわゆる『ポルターガイスト現象』。
その割にあまり堪えてなさそうなサイケ造花の性根の図太さに妙な感心を覚えたが、不可思議な現象が起き出した時期を加味すると彼女が原因ではないかと挙げた点も頷ける。
事の起こりは彼女が妊娠した赤子を堕してから間もない頃だったのだ。
つまり、原因は彼女も言っていた通り、いわゆる『水子』の可能性がある。
「で、よし君。実際のところどう思う?」
話を聞き終え正式に着手契約を結んだ後、対策を練るために今日のところはひとまず解散し、義志と2人、喫茶『憩居』までの夜道を並んで歩いていた柚葉はどこか釈然としない面持ちをしながら尋ねた。
義志に確認したのは意味がある。
霊感のそれほど強くない柚葉には、サイケ造花の至近に水子どころか霊的な存在を見ることができなかったからだ。
「あの人が疑っていた原因かもしれない、という点では黒です」
断言する義志。サイケ造花の疑っていた原因を名指しして黒と言うのであれば、言わんとしているのは1つ。
「やっぱりいた?」
「だからゆずさんが来るまでひたすらあの人たちの口撃に耐えてたんじゃないですか。なにもいなかったらさすがに付き合いきれないんで逃げてましたよ」
どこか言葉に険がある。表情も微妙に憤懣とした様子。なるほど、1人でサイケ造花たちの相手をしていたことについてまだ納得いかないのだろう。
とはいえ、柚葉としても彼に無責任に押しつけたわけでもないので、あまり尾を引かれても釈然としない。彼女の『癇癪手りゅう弾』のピンが抜けかかる。
「何その言い方。まだ遅刻したこと根に持ってるの? だからいつでも美穂ちゃんのご機嫌取り役なら代わってあげるってあれほど――」
「べべべつに何とももう思ってないですってば! た、他意はないです、はい」
憮然とした表情で威嚇すると、義志はたちまち震えあがって頭を振った。自分の知らないところで彼女からよほどの目に遭わされているのだろう。
今後義志が意に添わない態度取ったらしばらくはこのネタでいこう、などと鬼のようなことを考えながら、柚葉は満足そうに頷いた。
可哀想なぐらいうな垂れて深いため息をついている義志だったが、まあまあ元気を出してと肩を軽く叩いてやると気を取り直したようで、半泣きの顔をすがるように向けてきた。
「それで、どんな様子だった?」
とりあえず今回はもう脅さないどいてあげる的に微笑みながら尋ねると、これ幸いとばかりに義志も乗ってきた。現金なものである。
「彼女の肩口から前を覗きこむようにして憑いていました。ただ――」
「ただ?」
「何か腑に落ちないというか。実際、彼女にちょっかいを出しているのかもしれないですけど、どうもそれだけじゃないような気がしてならないんですよ」
義志は難しい顔をして腕を組んでしまった。なるほど、彼の気持ちがよくわかる。
なぜなら自分も同じような考えを持っていたのだから。
「実は、あたしも何だか気になっててね。私には見えなかったけど、感じるのよ。あの子から妙な感覚、それもあまり良くない感覚を」
それはコーヒーチェーン店に入り、サイケ造花を見た時から感じていたことだった。出会ってから別れるまで、途切れることなく。
「さらに言うと、どうも水子からじゃない気がする。むしろ、水子にはプラスのイメージがあるぐらい」
では、その『良くない感覚』はいったい何なのか。
サイケ造花から感じられるのは間違いないのだが、会っただけでは原因がわからない。
「さらに調べてみないとなんとも言えないけど、どうする? この後」
義志は柚葉が完全に仕切っていると思っていたのだろう。
よもや今後のことを尋ねられるとはまったくもって考えていなかったようで、当初彼はは目が点になっていた。
意味がわからないんですけど、という思いがありありと出ていた表情が、柚葉の言動を顧みたのだろう、意味を理解したとたん一変した。
「どうするって、僕に振らないでくださいよ」
「あら、『とりあえず会って話ししてからでも断るのは遅くないのでは?』って彼女に情けかけたのよし君じゃない。だから最後まで責任取ってもらおうと思って」
「だから最後までって、退魔禁妖討霊社の代表はゆずさんでしょ!?」
「じゃあ代表として命じます。責任とって」
ハートマークを付ける勢いの可愛らしく柄にもない声色で言ってやる。それが100%心にもない甘い声であることは、かけられた当人が最もよくわかっていることだろう。憮然とした表情を顔一面に張り付けているのがいい証拠だ。
「わかりましたよ。着手契約もしましたし、やる方向でお願いしますよ。あの人たちには辟易しましたが、このまま放置しても釈然としない案件ですし、我慢してもう少し付き合った方がいいかもしれません」
「オーケー。同感よ」
間髪入れずにさらりと答えると、義志は口をあんぐりと開け放って愕然としていた。
先のことを自分で決めずに人に任せるほど消極的な態度をしていたのに、蓋を開けたら即答だったのだからまっとうな反応と言えばまっとうなのかもしれない。
「な、なんですかそれ!? ゆずさん、ハナっからやる気だったんじゃないですか!」
「やる気なんて最初から大してないわ。あたしはこの案件無視しとこうって思ってたんだから、自分から積極的に関わったら馬鹿みたいじゃない。だからあくまでこの件の主導はよし君なの」
涼しい顔をして言うと、彼は始め呆けたような顔をして、やがて何かを悟ったように肩を落としていた。
そのまま明らかなやさぐれモードに突入する義志。
「あーもーいいですいいです、なんでもいいです。ゆずさんの仰せのままに」
「なによそれ。えらく挑戦的な態度じゃない? そういう態度取ってるよし君には――」
散々振り回してくれてまったく本当にゆずさんってば、とブツブツ文句を言っていた義志に呼びかけ、間を置く。
すると、柚葉を無視するかのように愚痴の独白を続けていた義志は、ピタッと口を噤んで意識を再びこちらへと向けてきた。つまり、彼は懲りずにまたひっかかったのである。
「あっ、美穂ちゃん!」
適当な方向を向いて指をさしながら叫ぶ。
とりあえず今回はもう脅さないどいてあげる的な微笑みを先ほど浮かべておきながら、早速脅し倒している鬼のような柚葉。
さて義志は、と彼の方へを向き直ると姿が消えている。
「あれっ? よし……君? って、速っ!」
つい口走ってしまうのも無理はない。
数十メートル離れた路地の四ツ角。物影から恐る恐るこちらを窺う誰かさんの顔が。
彼の逃げ足の速さが天下一品なのは周知の通り。
とはいえ、少し目を離した隙にこの距離を逃走してしまうなど、もはや呆れて笑うしかないほどの速さだ。
「ホントに苦手なのね、美穂ちゃんのこと。でも、あそこまでよし君を怯えさせるって、美穂ちゃんいったい何したのかしら。いくらなんでもちょっと酷いわよね」
自分の行為は30段ほど重ねた棚に上げて、装備屋の老女を非難する柚葉。
さすがに今度彼女を問い詰めてやろうか、と内心考えたものの、5秒ほど思い耽ってから――
「やっぱりやめとこう、うん。今度はエビアンに水汲みに行かされそうだもの」
この件について彼女に突っ込もうものなら藪蛇になるとばかりに頭を振って『なかったこと』にしてしまうと、溜息を一つ吐いてから、逃げ出した義志を呼び戻すのだった。
6月下旬ともなると日中の平均気温は25度近くなり、最高気温も30度近くまで上昇する。
夜になっても気温が20度を下がらない日が来るのもそう遠くない時期であり、これだけ暖かくなると、いや、暑くなると出てくるのは『奴ら』に他ならない。
「あぁ!? また刺されてる。か、痒い……」
半そでのYシャツから覗く腕をぼりぼり掻きながら、義志は心底嫌そうな顔をしていた。
サイケ造花との会談から2日。
先方との日程調整ができたので、実際に彼女が遭遇している現象の調査をすべく、柚葉と義志は彼女の自宅へと赴いていた。
親に余計なことがバレると困る! と憚らないサイケ造花には『そんなもん自業自得だろうに』と辟易したもののそこはグッと堪え、彼女の両親が所用で不在だというこの週末夜に往訪したのだった。
室内の状況をとりあえず確認したいと伝えたら、『男に電話するから入ってくんな』とのこと。
誰のためにやっているのか小一時間問い詰め倒してやりたい思いが喉元まで出かかるも、ここまで我慢したのだからと、手が思い切りグーになっていたもののどうにか押し留める。
結局、屋外で事の推移を見守ることとなり、今に至るのだった。
待機場所に割り振られたのはあまり手入れされていない庭の隅であり回りは藪やら雑草だらけ。
現在の気候とその場の環境を鑑みれば、夏の嫌われ者が幅を利かせていても不思議はなく、義志などは体の良い標的になっていた。
「あのう、ゆずさん」
遮蔽物になってくれている藪の中で片膝をつき、月明かりを頼りに隙間から辺りを監視していた柚葉は、唐突な呼びかけに隣の相棒へと顔を向けた。
「なあに?」
「さっきっから思ってたんですけど、なんか僕ばっかり刺されてません?」
「そう? まあ確かに、あたしは刺されてないけど」
言って、自分の体を見回す柚葉。
仕事着の一張羅スーツが昇天されたので、今日は仕方なくかつて使用していた仕事着をひっぱり出してきて身に付けている。
すなわち、『月落ち桜』の家紋が背中に入った白い長着に濃紺の袴、革製の長靴という出で立ち。元号を二つ前に遡った頃の女学生のような服装だったが、実はこれこそ本来の立場上、事に臨む際に必須とされた伝統的装束なのだ。
しがらみから解放された今となっては無用のものだったが、仕事着がなくなってしまった現状では、体を動かす際にセーラー服は少々場違いだ。かと言って私服では仕事に臨む意識に欠ける。
というわけで久しぶりに袖を通したのだが、腕は袖の長い長着に、脚は袴に覆われているため露出面積は確かに少ない。もっとも、それが被害のない理由ではなかったが。
「見た通り肌出てないからじゃない? 刺されてないの」
本当は月詠祓詞をこっそり使って蚊を近寄らせていないだけなのだが、それをおくびにも出さずに涼しい顔で大嘘をこく柚葉。
それを受けて『そうかそうだよな、僕もTシャツなんかで来るんじゃなかった』と馬鹿正直に頷いている義志を見ていると少し可哀想な気もしたが、彼自身が納得している通り義志の準備が足りてないのもまた事実――と、理由付けて蚊の件を一段落させてしまうのだった。
「でも正直、屋外で張っていて、何か起きた時に果たして対応できるんでしょうか」
「さあ? できるんじゃない?」
途端、妙に納得した顔で頷いている義志。
「何その顔」
「ゆずさん、徹底してやる気ないんだなあと思って」
「んなことないってば。あるわよ、やる気。それなりに」
ええと、それなりに……? とつぶやきながら目が点になっている義志の言をさらりと流す。
「だいたいやる気なけりゃ、たまの休みにあんな放送禁止女の為だけにこんなとこまでのこのこ出てくるわけないでしょ」
「でも、こないだ打ち合わせした時の帰り、やる気ないからって最終的な決定を僕に任せたのゆずさんじゃ―−」
はた、と義志の言葉が頓挫する。柚葉が懐から取り出して彼の眼の前でひらひらさせた1枚の写真が、義志の対の眼を釘づけにしたからだ。
な、何ですかコレ……? とつぶやくのが精一杯で、後は身じろぎ一つせずに固まっている義志。
当然の反応と言えば当然だった。
肝心な(?)ところはアングルと湯気で隠れていたが、写真は彼が入浴している際の姿を斜め後方から撮影した一枚だったのだから。
「何って? とある人ん家でね、拾ったの。よし君はあまり好きじゃないトコかもね」
何を言わんとしているかは一目瞭然。見る間のうちに青ざめ、卒倒しそうな眼鏡君を他所に、柚葉は涼しい顔をしていた。
「ま、こうしてあたしが回収しといたから安心なさい」
ネガだかマスターデータだかはどうなってるか知らないけど、と小声で補足して写真を懐に戻そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば!」
袖をつかまれ制止させられた。
「どしたの?」
「『ど、どしたの?』じゃないでしょう! なんでしまうんですか!?」
鬼気迫る顔で口角泡を飛ばしながら写真を狙ってくる。これを華麗にかわし、柚葉は写真を再び懐へと納めた。
「あたしが拾った物だし。なんならあげてもいいけど? 取れるなら」
貧弱ながらも男性のそれとは明らかに違う胸元を突き出す。
一時、『この人は一体何を言っているのだろうか?』と言わんばかりの呆けた顔をした義志だが、すぐに真っ赤に染まる。間違いなく羞恥と怒りのために。
できるわけがないことをあえて示した柚葉に対する抵抗は、『混乱』というスパイスに掻き回されて大変香ばしい反応となって表現された。
「ゆ、ゆずさん、なんでんなこ@‐ふ∽†Å∇あわ」
「しーっ! 大きな声出さないの。何かが起きるかもしれないでしょ」
途中から何語かわからない言葉を吐いて取り乱す義志に対し、自分が焚きつけたことなどまるでなかったように窘める。
「それにね、外で待機してるのは別にあのお花畑がゴネたからじゃないの」
チラ、と視線を庭の一角へと向ける。
「ここン家尋ねてからずっと庭が気になっててね。特にあの辺りが」
柚葉が向けた視線の先には煉瓦で囲まれた花壇があった。
言うまでもなく、そこは二階にあるサイケ造花の部屋直下に位置した場所だった。
花壇は荒れ放題でここ最近手入れされた様子もない。萎びた雑草しか残っておらず、さらに踏み荒らされた怪しい形跡すらある。
「よし君は?」
「僕も気になってはいましたけど、具体的にはさっぱり。いったいなんなんでしょうか」
「まだわかんない」
「なんですかそれ」
今度は半目になって呆れたような顔を向けてくる義志。
「またそんな顔して。なによー、よし君だってなんもわかってないじゃない」
「僕は素人ですけど、ゆずさんは封禍術士じゃないですか。まったく立場が違いま――」
腹が立ったので懐の写真を取り出し、明後日の方向へ放り投げてやった。
声にならない悲鳴を上げながら写真を追いかけて行った義志を呆れたように一瞥し、花壇へと視線を戻す。
「とにかく、その『何か』を確かめるためにも、もうしばらく『盛り造花』につきあわなきゃならなそうね」
嘆息するも、だからと言って何も変わらないため、すぐに気合いを入れ直す。
それにしても。
花壇の踏み荒らされた跡はかなり鍵となる痕跡に思えた。
靴の跡はなく、ましてや素足で踏みならした跡でもない。
人がやったのでなければ、あるいは犬猫の類か?
否。彼らとは似ても似つかぬ足跡だったのである。
ではいったい『何』がそこに足跡をつけたのか。
普通でないのは一目瞭然なのだが、そこから先は推測の世界になってしまう。
確たることは現状何も言えず、もどかしさが募る。
とりあえず早くあの色ガキになんか起こってくんないかしら、とつぶやきながら家屋の2階を見上げる。
今頃サイケ造花は携帯片手に頭だけでなく話にも花を咲かせまくっているに違いない。時折聞こえてくる奇声に近い近所迷惑な笑い声が、明かりのついた窓の向こうの有様を物語っていた。
人の苦労も知らずに好き放題の依頼人に対し、通算何十度目かのため息をつく柚葉だった。
「しかし、よくあんな声出してられますね、ずっと」
そよ風にあおられてあちらこちらに舞っていた写真をどうにか捕獲し、満足そうな顔をして戻ってきた義志は訝しげに首を傾げていた。
確かに酷い声を上げている。まるで悲鳴のような――
「違う、これ本物!」
元々非常識な声を上げていたため、危うく聞き流すところだった。
異変が現実にサイケ造花の元で起き、本当に彼女は悲鳴を上げていたのだ。
「すぐに2階へ――」
急ぎ対応するため、立ち上がって駆け出そうとした時。
「ゆずさん!?」
驚き慌てる義志の声。
膝を折って倒れそうになったこちらを目にしたのだから無理もないだろう。
「どうしたんですか、ゆずさん」
「大丈夫。それより、よし君は彼女のもとに行ってあげて」
心配気にこちらを覗き込んでいる義志を急かす。脂汗がこめかみ辺りから頬を伝ったが、
今は彼を安全な場所へと退避させるのが先決だ。
「いいから行って。私にはここでやらなきゃいけないことがある」
「で、でも」
身を案じてくれるのはありがたかったが、それが余裕を持って退避する時間を奪ってしまった。
「伏せる!」
もはや間に合わない。そう判断した柚葉は、義志の後頭部を強引につかむと、そのまま共に前のめりに倒れ込む。
受け身も取れずに地面とハグするやいなや、頭のすぐ上を風を切って何かがとび越えて行った。
焼け火箸を水に押しつけたような音がすると、ゴムが燃えた時の臭気に近い嫌な臭いが辺りに立ち込める。伏せたまま首を巡らし後方を見やると、藪の立ち草が茶色に変化して端から塵と化していた。
「な、なんですかこれ!?」
「解説は後!」
すぐさま身を起して片膝をつき、袴の切れ込みから目にも止まらぬ手業で30cm物差しのような細長い物を取り出す。
手を添えて目の前にかざした途端、柚葉たちをの前に半球形・半透明の薄蒼い障壁が出現。
瞬きする時間の後、電気がショートした時のような光りが障壁の表面にほとばしった。
ただ、光りが夜の帳を押し退けたのはほんの僅かな時間だった。
すぐに闇が戻ると同時に障壁も消失。
再び静寂が訪れるが、それが長続きしないことは明白だ。
油断なく睨み据える柚葉の視線の先、庭を囲むブロック塀の上に人影が仁王立ちしていたのだから。
「ゆずさん、あれって」
「そう。立ち草を塵化させ、さらにあたしに『抜かせた』張本人――って違うわね。あれは人じゃないもの」
2人の視線の先からこちらを見下ろす人影は、四肢こそあれおよそ人とは呼べないものだった。
眼球が飛び出さんばかりに大きく見開かれた目。潰れたような低い鼻に、鋭い牙が見え隠れする口からは涎が滴り落ちている。
骨そのままに近いシルエットの腕と足が生えた胴体には肋骨が浮かび、対照的に腹部は妊婦のように膨れていた。むき出しの肢体にはほとんど体毛がない代わりに、赤黒い肌は腐臭を放つ粘液によって覆われ、月光が妖しく照り返していた。
背筋に走った、急激で尋常でない悪寒によって瞬間的に意識を飛ばされそうになり先ほど膝を折りかけたのだが、原因となったのは対峙している人外の存在と見て間違いないだろう。
「そっか、そゆことだったんだ。だからあの子は『伝えたかった』んだね。ずっと気になってた『あんまり良くない妙な感覚』の謎、解けた」
化け物の来訪により、解けなかったパズルが一瞬にして組み上がった。
ならば、さしあたって脅威の高い方を排除するのが最優先となる。
「よし君、家ん中入って。ちょっと立て込みそうだから」
油断なく視線を化生に向けたまま、先ほどまでとはうって変わって感情を抑えた声質で義志を急かす。
彼女の持つ能力が言葉に込められているからこそ、その力は見えない強制力となり、伏せていた義志を有無を言わさずに突き動かして家屋内へと走らせた。
「待たせたわね。これで気兼ねなくサシで相対したげるから、好きなようにかかってきなさい」
先ほど太もものホルスターから取り出し化生の『瘴気』から身を守った、銀色に光る白狼鋼製の鉄扇『清令』を再び眼前に突き出す。
ところが、ブロック塀の上の化け物は警戒しているのかこちらを見下ろしたまま動かない。
好きかかってきなさいって言ったげてんのに何あの態度、とぶつぶつ独り愚痴を吐きつつもこのまま膠着状態は遠慮したいので、柚葉は通じるかどうかわからないものの軽く挑発してみることにした。
「何? 初手をかわされて、二手も防がれたから臆したの? あーらら、執念深い卑想餓鬼も堕ちたもんね」
鼻で笑い、肩を竦めて『やってらんない』と相手を小馬鹿にする有様をこれでもかと見せつける。
言葉が通じたのか、はたまたゼスチャーが通じたのか、いずれかはわからなかったが、とにかく対峙している化生――卑想餓鬼は俄かに様子を一変させ、唸り声を上げて塀から飛び降りつつ、凶悪な口腔から瘴気を放ってきた。
瘴気――一部の邪な化生が持つ腐蝕性の荷負属エネルギー体であり、触れれば生体にも深刻な影響を及ぼしかねない危険な存在だった。先ほど柚葉たちを襲い、立ち草を塵に変えてしまったのも瘴気がなしたことだ。
黒い靄のような瘴気はひと固まりとなって風のように向かってくる。
これに柚葉は清令を扇状に開き、タイミングを合わせて空を薙ぐようにして打ち振るった。
戦闘用の鉄扇である清令は、本来紙で作られる扇面も全て白狼鋼で作られている。そのため蛇腹状に開く構造にはなっておらず、それぞれ独立した板状をした白狼鋼製の中骨が要を中心に弧を描いてスライドする形に展開する。
中骨の天側と最外縁の中骨側面には鋭い刃が付けられており、展開した状態で清令を翻せば標的を切り裂くこともできた。
さらに、この清令は白狼鋼製であることから特別な能力を持っていたのである。
扇面を水平に振るわれた清令は、薄蒼い軌跡を残しながら黒い靄に迫ると、なんと瘴気の影響をまったく受けないどころか真っ二つに両断してしまう。
切り裂かれた黒い靄は、そのまま急激に分裂拡散し見る間のうちに無力化されてしまった。
これこそ白狼鋼が含有している力、『理力』が為せる業だった。
理力は柚葉たちの『本来の敵』を倒すために存在する力ではあるが、邪悪な力を中和・浄化する対抗性も持ち合わせていた。
清令が持ち得ている理力はそれほど強くはないものの、卑想餓鬼の瘴気を防ぎ、さらには切り裂いてしまう程度のことは十分為せる能力を有しており、今まさにその力を如何なく発揮したのだった。
先ほどから自身の攻撃がまったく通用していないことにさすがに驚いたのか、卑想餓鬼はただでさえ大きな目を、さらに剥くようにして見開いて棒立ちになっている。
「王春・尖空衝」
相手の動揺に合わせてやる言われはまったくない。隙だらけの今、畳みかけるには絶好の機会だった。
「厳命!」
指結印を卑想餓鬼に向け、尖空衝を放つ。
収束した圧縮大気が矢のように化生へと襲いかかり、細身の体を弾き飛ばした。
そのままブロック堀に叩きつけられる卑想餓鬼だったが、元来執念深い化生である。ようやく我を取り戻したのか、塀に叩きつけられた衝撃にも屈せず、再び瘴気を放ってきたのだ。
常人には脅威の瘴気。柚葉でも生身で直接受ければただでは済まない。
だが、卑想餓鬼は彼女に同じ手のうちを何度も見せすぎた。
「そう言うのをね、『馬鹿の一つ覚え』って言うのよ!」
同じ攻撃を四度も重ねてくる敵相手に後れを取る手練の封禍術士はいない。
柚葉はもはや清令も使わず易々と見切ってかわし、飛び退りつつあたかも魔術を駆使してるかのごとき素早い手業を卑想餓鬼に向けて行使し、そのまま跳躍。庭の丁度角にあたる塀の上に降り立った。
驚異的な身体能力で一連の所作を軽々と為してしまう柚葉。塀の上の彼女は息をまったく乱しておらず、十分な余裕の範囲で戦闘を組み立てていることがよくわかる。
一方の卑想餓鬼はもはや追い詰められたも同然。塀に叩きつけられた後、苦し紛れの瘴気を放ったのが最後の足掻きだった。
なぜならもはや彼の人外は行動の自由を奪われていたのだから。
その肩口にはそれぞれ鋭利な切っ先の金票が突き刺さり、塀に体を縫い付けていたのである。
肩口を貫通するほどの大きな傷口からは深い緑色の体液がとめどなく流れ出、卑想餓鬼はその痛みからか苦悶するかのような唸り声を上げていた。
柚葉が先ほど見せた手業。それは、太ももの兵装ホルスターから金票を取り出し、卑想餓鬼に向けて投擲していたのだ。それも2本同時、それぞれの肩口という別目標に対して。
回避しながら反撃している行為だけ切り取っても驚嘆に値するものだが、さらに寸分違えることなく狙ったところに命中させてしまう能力を持つ柚葉と対峙した時点で、この化生が彼女に勝てる機会は永遠に失われていたのだ。
もはや勝負は決した中、柚葉は不敵に唇の端を歪めて卑想餓鬼に問いかけた。
「さて問題です。封禍術士は普通、怪しい場所には仕掛けを展開できるよう事前に準備をしておくものです。ではこの場所の仕掛けはどうなっているでしょーか?」
それは、設問の中に答えがありありと含まれている極悪な問題だった。
柚葉がしゃがみ込む塀の角下。
そこには真円の中に正四角形の文様が記された『肆方結陣板』が金票によって縫い付けられていた。また、同じものがこの家の敷地を囲む塀の四隅に既に用意されていたのである。
柚葉が得意とする結界戦術の布石はとうの昔に打たれており、後は月を詠むだけ。
「答え、教えたげる」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、柚葉は指結印を真下の肆方結陣板へと押しつけた。
「星花!」
それは、参方結陣よりも強力で、広範囲の標的を支配下に置くことができる結界を起動させるための起唱。
「理法の楔影縫いて、肆方捌方、原初の静謐を現わせ」
塀の四隅に張り付けられた肆方結陣板がそれぞれ薄蒼い光を発し始める。
「肆方結陣・げ――」
本唱を詠み上げ、いよいよ月詠祓詞を発動させるため結唱しようとしたその時。
突然2階の窓が開き、片目の周りに青あざを作った義志が上半身を乗り出すようにして、
「ゆ、ゆずさんヘルプミー!!」
おかしな救助依頼はよほど余裕がないためか。鬼気迫る勢いで絶叫している義志の有様に珍しく柚葉ですら結唱するのを忘れて呆気に取られてしまった。
来るのがおせーんだよ! と言う怒声が彼の背後から上がったかと思うと、襟首を掴まれて後ろに引き倒されたのか、窓から彼の姿が消えた。
「あーあ、よしくん大丈夫かしら……って、いないし!」
嫌な汗が頬を伝う中、今頃タコ殴りにされているであろう義志が助けを求めていた2階の窓から卑想餓鬼へと視線を戻すと、塀に縫い付けられていた化生の姿が綺麗さっぱり消え去っていた。
「逃げられた……。ていうか、もしかして金票刺さったまま逃げた!?」
初めは単に逃げられたことに落胆していた柚葉だが、彼女にとってそれ以上に重大なことに気づき、塀の上から飛び降りると血相を変えて卑想餓鬼が縫い付けられていた場所まで駆け寄る。
塀には金票は残っておらず、肩口を貫通して金票が開けた穴だけが2つ、残されていた。
体ごと無理やり引っこ抜いて逃走したのだろうが、その際金票を放置して逃げている可能性もある。
2階のことなどそっちのけで中腰になり、藪をかきわけて卑想餓鬼を塀に縫い付けていた金票が落ちていないか探しだす柚葉。
「金票って安くないのよ!? 毎回毎回徹底して回収してんのに、まったくなんてことすんのよあの卑想餓鬼!!」
2階からは義志の悲鳴が、庭では柚葉の悲壮な嘆きが、それぞれのまったく異なる思惑のなか響き渡り、事態は思わぬ混沌に飲み込まれたまま収束していくのだった。
雲一つない快晴の空。
見渡す限りの蒼天はここしばらくどこか鬱屈していた思いを癒してくれるようだった。
息を止め両手を組んで逆手にし、空に突き出す。伸ばされた背筋が心地良い。
一転、脱力して深呼吸する。肺を満たす新鮮な空気が活力を与えてくれる。
清々しい思いを表すかのように、気まぐれで今日はかけている伊達眼鏡の奥で彼女は目を細めていた。
穏やかな日曜の昼下がり。
何事もなければ実に気持ちのよい午後のひとときのはずだった。
「ゆずさんゆずさん、現実逃避しないでくださいよ」
爽やかな世界こそ全てのはずが、聞きたくない突っ込みにより一瞬にして瓦解。
常夏のリゾート地から三途の河岸に有無を言わさず連行されたようで、すっきりした面持ちが急変する。
「人がせっかく嫌なこと忘れてノーブルな午後を自然と戯れてたのに、よくもあっさり粉砕してくれたわね」
後ろで様子を窺っていた相棒に対し、年頃の女子が決してしてはならないようなNGそのものの表情をして振り返った。
犯罪的な童顔さはあるものの黙っていればクラスでひそかに人気を博す面持ちにもかかわらず、凄まじい形相を見せつけられた義志は、
「うひぃい?!」
と奇声を上げる驚愕リアクション。
「な、なんて顔してるんですか!」
「だって気分だいなしにさせられたし。ぶー」
頬を膨らませて不貞腐れると、「ぶーっ」て小学生ですか、と義志に引き気味に呆れられた。
腹が立ったので何事もなかったかのように義志を無視し、彼の後方、御代志神社の鳥居をくぐって出てくる騒々しい一団を見やる。
閑静な神社の敷地前にもかかわらず、知ったことかとばかりに自分たちの世界に入ってことさら大きい声で盛り上がっていた。
サイケ造花を筆頭とした、お馴染みの非常識女子高生3人組である。
先ほど彼女たちが体験した超自然現象のことを考えれば気持はわからないではないが、自分と同年代の、しかも女子がことさら下品な口調で状況を無視して騒いでいる姿を見せられると、なんとも脱力した気持ちにさせられてしまう。
傲岸不遜、厚顔無恥な数々の所業をこれまでさんざん味あわされてきたことも顧みると、鬱屈した思いにかられるのも無理もないというものだ。
一刻も早く関わり合いを避けるため、すぐにでも逃げ出したいところである。
「もう少しの辛抱なんでしょう? ここまできたら堪え抜きましょうよ」
こちらのバレバレな心情を酌んだ上での義志の言。
年に似合わず『大人』なその発言が小憎たらしいが、もっともな内容に珍しく自重する柚葉。
「……そうよね。後少し我慢すれば、あの目が痛くなりそうな頭を二度と見なくて済むのよね」
あたしってなんてものわかりいいのかしら、などと1人悦に入っていると、眼鏡の青少年は呆れを通り越した引き攣った表情を向けてきた。
「何その『エグいUMA見つけちゃった?!』みたいな顔リアクション」
「いえ、まさか素直に聞いて貰えるとは思ってなかったんで」
おもむろに手提げバッグから何枚か写真を取り出し、辺りにばらまいてやった。
内容はもちろん、義志が畏れる人物宅でなぜか入手した、明らかな盗撮物である。
血相を変えて回収に走る義志を尻目に、柚葉は再びお騒がせ3人組らを見やった。
サイケ造花の自宅での一件から明けた翌日。
件の時も自室で物が勝手に動き回ったという話を聞いた柚葉は、依頼案件について解決すべく懇意にしている御代志神社でのお祓いを進言した。あの時、外で起きていたできごとには一切触れずに。
例のごとく、『予定が入っている』、『面倒くさい』、『追加料金取るための方便かコラ』、とある意味天晴れなぐらいの放言の数々。
こいつら2、3人東京湾に沈めてもきっと無罪じゃない? などと内心ではかなり危ないことを考えていた柚葉だが、ひたすら耐え抜き丁寧に主旨説明をしたのだった。
すなわち、『お祓いを受ければポルターガイスト現象は収まる』、『1回限りで終了』、『お祓いは無料、かつ他者に委託する為、当初費用からの大幅なディスカウントを行う』等々。
サイケ造花もこれには文句一つなく喜んで飛びついてきた。
こうして、あの騒動の翌日、早くも御代志神社を往訪したのだった。付き添いとは名ばかりの、終了後すぐに遊びに行くために多連ピアスとヤマンバを連れたサイケ造花を伴って。
さすがに日曜であるのと今日は立ち回りもないはずなので、柚葉と義志はシックな私服で来訪していたが、サイケ造花たちが神社を訪れるには場違いすぎるほど派手な私服だったのはある意味予想を違えていなかった。
訪れた御代志神社は佐保姫を祭神とした、矢来市近隣では最も古い歴史を持つ社である。
装備屋の美穂に宮司の神代氏を紹介してもらったのが縁の始まりであり、以来良好な関係を保っている。
神代宮司は、まだ30代半ばながらその道では名の知れた浄霊のプロだ。
浄霊が必要な心霊関係の依頼は柚葉の守備範囲外なので、神代宮司に請け負ってもらえるよう、以前協定を結んでいた。
単なる浄霊案件なら今回も始めから神代宮司に話を通していたところだが、通常の案件ではなかったため、回り道になってしまったのもいた仕方ないというものだ。
神代宮司は人となりも公明正大な人格者で、今回『アレ』な依頼者にもかかわらず、嫌な顔一つせずに二つ返事で請け負ってくれたことからもその人柄が窺える。
紆余曲折はあったものの、御代志神社の本殿にて昼前から浄霊の儀式は開始された。
祭壇に向かい祓詞を詠む神代宮司から距離を置き、サイケ造花たち3人が座り、その背後に柚葉と義志が座った。
精悍な神代宮司にわかりやすく見惚れるのも束の間、始めは胡散臭そうなものを見るような視線を飛ばしまくっていた3人組。
しかし、儀式が進むにつれて態度が一変する。
サイケ造花の肩口から半透明の赤子の霊が離れ、3人組の前にゆっくりと四つん這いにて降り立ったためだ。
見えない何かによるポルターガイスト現象を体験していたサイケ造花も、可視できる霊体を生で見るのは初めてだったようで、口汚く騒ぐのも忘れたかのように見入っていたほどである。
心霊番組や心霊写真の中だけの存在だった『霊』という存在を現実として目にしたことは、彼女たちの好奇心を大いにかきたてたようだった。
途中まで心妙にしていたのが嘘のように、神聖な儀式の途中にもかかわらず足を崩すのはまだましで、奇声を上げるわ、私語はしまくるわ、挙句の果てに携帯カメラで激写しようとする始末。
儀式に集中している神代宮司に代わり、目を覆うばかりの行為をさすがに止めたが、まったく懲りた様子はない。
目の前の小さき哀れな霊がいったい誰の水子なのかまったく理解しようとしていない彼女たちの態度に、柚葉は激しい憤りを覚えた。
それでも、柚葉は懸命に爆発しそうになる想いを抑え込んだ。知ってしまったこの案件の真実を、彼女たちに骨の髄から思い知らせるその時のために。
無神経かつ無礼な参列者の無法があったものの、神代宮司の祓詞は途切れることなく進んだ。
サイケ造花から離れた水子はやがて淡い光に包まれ、徐々にその姿を失っていった。
最中、母親であるサイケ造花を求めるような仕草を見せたが、それに対し彼女は嫌悪するかのように信じられない言葉を口にした。
『キモい』と。
その瞬間、柚葉は腰を浮かしかけた。もはや我慢の限界だった。
腕を掴まれた。
行動を阻害されたことに、柚葉はその行為者を睨みつける。
隣に座る義志だった。
彼はまっすぐこちらを見上げ、悲しそうな表情を浮かべ黙って首を横に振っていた。
腕を振り払いたい思いに駆られていた柚葉だったが、どうにか堪え切り、再び腰を下ろすのだった。
柚葉たちの真摯な想いが通じたためか、儀式自体は滞ることなく進み、最終的に水子はゆっくりと上昇しながらやがて消えていった。本来向かうべき、天の国へと。
こうして、サイケ造花たちにとっては見るもの初めてな楽しい心霊体験ツアー、一方の柚葉たちにとっては行者の荒行のような過酷すぎる忍耐の時間が終了したのである。
残っているのはこの案件の『補足』のみ。
そう、柚葉たちにとってはもはや補足にしか過ぎない。
ただ。
それこそがサイケ造花にとっては恐るべき真実だったのである。
「ちょっとよろしいですか」
いまだ興奮冷めやらぬといった様子で盛り上がっている彼女らに声をかける。
「なんだよ、追加料金やっぱり払えって言っても払わねーよ」
楽しい時間を邪魔されたことに対し露骨に嫌な顔をするサイケ造花。
と、何かに気づいたようで、見下したような視線を向けてきた。
「ていうかさ、あんた結局なんもしてないじゃん。だから金払わなくてもいいよね? 一切」
この期に及んで考えているのは金のことか。さしもの柚葉も嫌悪感が表情に出てしまう。
「んだよ、その顔。お祓いしたのはあのイケメン神主っしょ? なんもしてないあんたに金払う理由ないじゃん。文句あんの?」
お祓いについては確かに何もしてないのでその通りなのだが、あまりにも身勝手な理屈に呆れて物も言えない。
それを『言い返せないから』と勘違いしたようで、サイケ造花は調子に乗ってまくし立てた。
「あたしの知り合いにレディースの頭張ってる子がいるんだけどさ。ゴネるならあんたのこと可愛がってもらうように頼んじゃおっかなー」
目が点になった。
何を言い出すかと思えば、という話である。
揚句の果てに多連ピアスとヤマンバまでいいじゃんいいじゃんと囃し立てる始末。
もはや呆れを通り越して滑稽でしかなく、柚葉は噴き出して失笑した。
「てめぇなに笑ってんだよ!」
他人を嘲笑することには無神経でも、自分がコケにされることには途端に敏感になるのがこの手の人種である。
目を剥いて気色ばむ相手に臆することなく、柚葉は失礼、と心にもない断りを入れてから淡々と応える。
「こうまで見事な『虎の威をかるなんとやら』ってのを見たことなかったからおかしくて。ああ、ごめんなさい。この程度の故事も難しすぎてどういう意味か貴女にはわからないわよね」
先ほどの『失礼』がまったく上辺だけの話なのは一目瞭然。
水を得た魚のように生き生きとした様子で毒を吐きまくる柚葉は、我が道を爆走する。
「腹立ったんなら自分でタイマンでもなんでも叩きつければいいのに、他人の力借りないとなんもできない小物っぷりもいいとこってことよ、とどのつまり」
積もり積もった鬱憤をようやく晴らせるとばかりに急激に捲し立てる柚葉の勢いに、清大にコケにされていることを怒るのも忘れて呆気にとられている3人組。
満足そうに不敵な微笑を浮かべた柚葉は、ついに伝家の宝刀を抜き放つ。
「そうそう、いいことを教えてあげる。実はね、本当の意味では一件落着してないの」
怪訝な様子のサイケ造花。
もっともな反応だ。所詮一般人の彼女が、化生の世界を知るはずもないのだから。
しかし、彼女は知らなければならない。
自ら招いてしまった、この案件の真相を。
「確かに貴女の周りで起きてた不可思議な現象はあの水子が起こしていたことよ。でもね、悪戯でしていたことじゃないの。意味があったの、ちゃんと」
いまだ何のことかさっぱりわかっていない風の彼女に、『あの日』のことを顧みさせる。
「貴女の家を張ってた夜、心霊現象があったでしょう? その直後、『卑想餓鬼』が現れた。貴女が自室で大騒ぎしている間にね。すぐピンときたわ。絶妙な時間差でのできごとだもの」
身を乗り出し、サイケ造花の顔を覗き込むようにしてまっすぐ見つめる。いよいよ核心へと迫るために。
一方で、当の本人は視線を泳がせていた。
嘘偽りを射抜くような柚葉の真摯な眼差しに居心地が悪いのだろう。散々無茶をしてきた人物ならではの反応だった。
「あの子はね、貴女に教えたかったのよ。貴女に迫る危険があることを。そう、貴女を狙う、卑想餓鬼って存在を」
「な、なんだよ、ひそうがきって」
「知りたい?」
さすがにただごとではないと気付き始めたのか、次第に落ち着きがなくってきたサイケ造花は無言で小刻みに数回頷いた。
「卑想餓鬼ってのはね、卑しい心に満ちた人間が変化した妖怪でね。人間の強い煩悩を好んでいて、狙われた人は煩悩ごと魂を喰われてよくて廃人、悪くすると命を落としてしまうわ。煩悩の限り好き放題やっていた貴女は、いつしか卑想餓鬼に狙われていた。そのことを、堕されたにもかかわらず知らせようとしていたのよ、健気にもあの子は」
まだ自我の欠片すらないはずにも関わらず、なぜそこまでできるのか。
その核心は悲愴に満ちてはいるが、サイケ造花には聞いてもらう義務がある。
畳みかけるようにして、柚葉はいよいよ本丸へと踏み込んでいく。
「それだけじゃない。あの子がいたからギリギリのところで助かってたのよ。小さな力を懸命に使って、見えない力の壁を作って卑想餓鬼を寄せつけないようにしていた。言わば、貴女の水子は貴女を守る防波堤の役目を果たしていたのよね。なんでそこまでしてたかわかる? 答えは簡単、だって自分の『お母さん』を守るためだもの」
あんたそのことわかってる? という意味を込め、ことさら『お母さん』という言葉に力を入れて言い放つ。
「そんないじらしいあの子もさっき浄霊しちゃっていなくなったわけだけど、これからどうなると思う? スカスカの足りないオツムでもわかるわよね。堤防なくなっちゃったところに濁流が押し寄せたらどうなるか」
「て、てめえなんで言わなかったんだよ!」
さすがに全てを理解したようで、先ほどまでの余裕が嘘のように慌てている様がありありと出ているサイケ造花。
それでも弱みは見せまいと精一杯の虚勢を張っていた。
しょせんは見せかけだけの薄っぺらい人間なのだ。彼女の代名詞である頭のサイケデリックな造花が虚構に飾られたこの人物をよく表していた。
そんな彼女から逃げ道を徹底して奪い去るべく、容赦せずにさらに追い討ちをかける。
「だって、聞かれなかったし」
聞かなかった誰かさんが悪い。何か間違ってる? とばかりに面持ちから表情を消し去って言う。突き放すように感情を排した対応をすることで、より威圧感が増し、サイケ造花を追い詰めて行く。
「それに、あたしが受けた依頼は貴女のまわりで起こっていた『不可思議な現象の解決』でしょ? それ自体はあの子が起こしていたことだから、しっかり解決したじゃない。ああ、お代はお望み通り請求しないどいてあげるから、願ったり叶ったりでしょ」
サイケ造花が望んだ形になっていることを指摘し、この上なにを望むのか、とことさらわざとらしく告げた。
いよいよ逃げ道がなくなり脂汗をかきはじめたサイケ造花だが、唐突に何かに気付いたようで一転表情を輝かせ、ここぞとばかりに反撃を始めようとした。
「は、はは〜ん。そういうことかよ。金払わないって言ったから、あることないこと言って脅して、うちから金ふんだくろうとしてんのね?」
何を言い出すかと思えば。
ここまできて金のことしか想像できないとは、なんとさもしい性根を持った人間なのだろうか。
鼻で笑い飛ばすと、柚葉は見下すような視線を彼女にぶつけた。
「なんでそんな面倒くさいことしなくちゃならないわけ? あたしが本気で金取ろうとしたら、もっと直球の、『死んだ方がマシ』と思うぐらいの恐ろしい目に合わせてふんだくるわよ。それにほら、あたしの言ってること疑うなら、あそこ見てみれば?」
顎をしゃくって御代志神社の鳥居を示す。
サイケ造花にとっては丁度背後にあたる。
従順だった柚葉が豹変したことに適応できずにすっかり余裕を失った彼女は、言われるがまま多連ピアスとヤマンバと一緒にゆっくりと振り返った。
途端、引き攣ったような悲鳴を一斉に漏らす3人組。
鳥居の影から、醜悪な人外の者がこちらを静かに見つめていたからだ。サイケ造花などは腰を抜かしてその場に座り込んでしまう。
他でもない。ただれた赤黒い肌の化生など、そうそういるものではなかった。
柚葉の言が真実であったことを何より証明する存在の登場に、多連ピアスとヤマンバは震えながら数歩後退ったかと思うと回れ右をして脱兎の如く逃げ出した。1人、友人を置き去りにして。
「あれま、大層友達甲斐のあるご友人方々だこと。ま、よかったんじゃない? ろくな友達じゃなかったってわかったんだし」
呆然としている彼女の肩口を思ってもいない励ましの意味を込めて軽く叩いてやると、柚葉は踵を返した。
「ほいじゃね、あたしたちはこれで。1日でも長生きしてね、たぶん難しいと思うけど」
お達者で、という意味を込めてヒラヒラと手を振りながら立ち去ろうとする。
「ちょ、待てよ! わ、わかった、わかったから! ちゃんと金払うから、あいつどうにかしてよ!」
精一杯絞り出しているのがありありな泣きそうな声が背中から投げかけられたかと思うと、ミニスカートの裾が掴まれた。
サイケ造花も必死なのだろうが、今更なにをか言わんや、である。
「あたしに汚い手を触れるな、この売女が!」
柚葉は振り返り様、鋭く腕を打ち振るって彼女の手を払い退けると、それまで見せたことのない激しい言葉で一喝した。
「勘違いしないで。あたしにもお客を選ぶ権利がある。簡単に股を開くような薄汚い最低の淫売からの依頼なんてホントはまっぴらだったけど、真実が知りたかったからここまで付き合ったのよ。いつもなんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いってこと」
へたり込んでいるサイケ造花を見下ろしつつ、辛辣な言葉を次々と叩きつける柚葉。
一方、本来の苛烈な自身を前面に曝した柚葉の本性に圧倒され、そもそもが虚勢のみで生きてきたサイケ造花はその鼻っ柱を完全にへし折られていた。恐怖に涙を流し、バッチリきめてきただろう化粧もすっかり落ちて酷い顔になっている。
それでも、現実として身の安全が侵されそうとしている、命にかかわる状態であることを理解した彼女は、なりふり構っている場合ではないと判断したようだった。
「い、命を狙われてるのに見捨てるの!?」
聞くに堪えないとはこういうことを言うのか。
大分と気弱になっているのが角の取れてきた口調からわかるが、それは何の免罪符にもならない。
「あんたよくそんなこと言えるわね。己の欲望のみを優先し、自分の中に宿った尊い新しい命すら自分勝手な都合で簡単に切り捨ててきたの、どこの誰?」
弱者を弄る趣味はないが、眼の前で腰を抜かしている小娘の皮を被った畜生の傷口に塩を塗りこんでもまったく心は痛まない。
サイケ造花の双眸を射抜いていた冷めきった視線を切りつつ、再び踵を返して歩き出す。
もはやまともに視線を合わせて語るべき価値などない彼女に対して、柚葉は最も突きつけたかった言葉を背中越しに吐き捨てるように残し、立ち去った。
「我が子をごみ同然に扱う外道は、卑想餓鬼に煩悩ごと魂まで喰われて地獄に落ちなさい」
「凄いタイミングで出ましたね、卑想餓鬼」
御代志神社を後にし、帰路についた柚葉の隣に並んで歩く義志は、驚きを隠せない様子で言った。
「あれのこと?」
彼の反応を大して意に介さず、柚葉は視線で進行方向先の電柱を指し示す。
「えっ? うわっ!?」
何のことかわからず、指示されるがままに電柱を見て、彼は仰天した。
柚葉が指定した電柱の陰から、卑想餓鬼がこちらを窺っていたのである。
先ほどまで鳥居の影からサイケ造花を狙っていたあの卑想餓鬼だった。
「な、なんで僕たちの前に」
足を止めて狼狽している義志を尻目にそのまま卑想餓鬼の元まで進むと、柚葉は指結印を真一文字に切りながら『解命』とつぶやいた。
すると、卑想餓鬼の姿が揺らぎ、霧散するように消失してしまう。
後には、人の形を模して小枝と髪留めのゴムで作られた小物がアスファルトの上に転がっていた。
「人形よ、人形。何回か見たでしょ? ああ、これが実際に幻影を見せてるのを体験するのは初めてかしら」
「ゆずさんが仕込んでいたんですか」
「さしもの卑想餓鬼も白昼堂々と出てこないわよ。もっと陰湿に、夜陰に紛れて忍び寄ってくる輩なんだから。だいたい、あんなタイミングよく出てくると思う? 普通」
「……ないですね」
「でしょ? ただ、逃げられたまんまで退治したわけじゃないから、今後もつけ狙われるでしょうね。しかも『お護り』がいなくなっちゃったから、本格的に煩悩喰われるわね」
髪留めだけを回収して再び歩き出すと、置いて行かれまいと義志も隣に続いた。
「結局廃人にされてもあたしは知ったこっちゃないけど、改心して真人間になれば卑想餓鬼は自然と狙わなくなって助かるんだけどね。もっとも、そのことに彼女が気づけばだけど」
「教えてあげなかったんですね」
別に非難しているわけではなく、単純に疑問に思ったからであろう義志の発言。
その問いに、柚葉は自身としての考えを投げ返す。
「教えられて本当に真人間になれるなら、端からこんなことにはなってないわよ。教えられた時点で打算が働くもの。こうすれば卑想餓鬼から逃れられる、って。そんなのは悔い改めたことにはならないでしょ? 自分で気づかないと何の意味もないわ。ここから先は、あの子次第よ」
確かに、と納得している義志の反応に満足しながらも、柚葉は心に引っかかっていたことを遠い目をしながらつぶやく。
「ああやって、考え無しに子供作って堕す、母親って到底呼べない存在の元で命を宿す赤ちゃんの存在価値のことを考えると、なんだか切なくなってくるわ」
しかもそれはあの彼女だけの話ではなく、世の中に他にも数多く実在しているという現実があった。
「かと思えば、どうしてこの人たちには子供が恵まれないんだろうって夫妻もいる。どうにもならないけど、わかっているけど、世の中って理不尽よね……」
霊に物怖じしない心を持っていても、化生と戦える力を持っていても、こればかりは柚葉にはどうにもできないことだった。
本当に恐ろしい存在なのは霊でもなく化生でもなく、人間ではないのだろうか――そんな思いを心に秘めつつ、柚葉はただ、天に昇った水子の冥福を願うばかりだった。
― 了 ―