Case No.1.0 「深夜回送」
世間ではまだ多くの人が寝ているに違いない日曜日の午前6時。
休日の早朝だけに、車の通りもそれほど多くはない県道に面した矢来駅方面のバス停前に、今時珍しい黒髪を肩上で綺麗に切り揃えた少女が一人、佇んでいた。
化粧気のない面立ちは清潔感やかわいらしさはあるものの、著しい童顔なこと加わって、髪の色に準じた地味さを醸し出している。
小学生に間違われてしまいかねない面立ちを、同年代の娘と比べると比較的大柄な体躯でカバーしている彼女は、明らかに着慣れていない安物の濃紺パンツスーツに身を包んでいた。
色々とおかしな見た目の少女――桐羽柚葉は、眠気に加え朝日の眩しさという2つの難敵と戦いながら始発バスを待っていた。
しょぼくれた眼を必死に開こうとするが、意識は明後日の方へ飛んでいってしまいそうになる。
こうなってしまったのは単に休みの日の早起きが原因ではない。
中間試験が終わったのをいいことに、金曜の夕方から新潟に泊まりで出張相談に出かけたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
その場で依頼を受けることになったのはいいとして、鮮やかに解決したことを依頼主が大いに喜び、そのまま宴会に突入。よせばいいのに彼女も終電まで付き合ってしまったのが致命的結末をもたらした。
深夜に帰宅したためか目が冴えてしまい、ほとんど寝られないまま休日の早朝から群馬へと次の依頼をこなしに行かねばならない始末。
いっそ新潟から乗り継ぎで群馬入りできれば負担は少なかったのだろうが、事前に依頼人より地元から群馬までの切符を送られている上、金銭的問題が彼女の自由を束縛していた。
自業自得と言えばそれまでだが、世のため人のために東西南北駆けずり回っているにも関わらず、割を食っているとしか思えない最近の我が身のアレな境遇。
ストレス発散とばかりに片手で髪を掻きむしりつつ、柚葉は海より深いため息を吐いた。
こうなると手に持つ1m強の長方型楽器ケースや、肩がけのショルダーバッグがことさら重く感じてくる。
「休みの朝っぱらから1人で何やってるんだろう、あたし。それに引き換え、よし君は昨日今日ってどうせまた好き勝手やってるんだろうな」
年頃の娘なら誰もが憧れるような甘酸っぱい思いなど星の彼方にあるなんともしょっぱい現状に、妙に滑舌のよい声で悲嘆しつつ、費用の面で同行できない一つ年下の相棒を思う。
彼になんら責任はないのだが、休みを利用して趣味を満喫している様子が手に取るように脳裏に浮かんでくるとだんだん腹が立ってきた。
協力費削減してやろうかしら、などとらちもないことを考えながら道路を挟んだ向かいにある下りバス停を眺めていると、不可思議な事象が起きた。
大型トラックが通りすぎ一瞬視界が遮られた後、再び開けた向こう側―それまで誰もいなかった対面のバス停に人影があった。
まさかまだ寝ぼけているのかと目を疑ったが、何度見てもそこに人が立っていることに間違いはなかった。
歳の頃は20台後半。真っ白なワンピースと柚葉同様染めていない艶やかな黒髪が印象的な女性だった俯きがちに寂しそうな表情をしていはしたが、特段変わった様子はない。
体が透け、彼女の向こうの景色が見えてしまっていることを除いて。
「一緒でバス停に現れる手段って言ったら、さっきのトラックから飛び降りるか、空から降ってくるとか、荒唐無稽な方法しかない。そんなこと、人間技じゃないから無傷じゃ無理ね」
大怪我必至、高致死率間違いなしの荒業である。物理的には可能でも、それはあくまで確率論。現実としては限りなく不可能に近い。
では、彼女はどうやって急にバス停へ姿を現したのか。
答えは簡単だ。
彼女は『そういう存在』だからこそ、瞬きする間に姿を現せたのだ。
体が透けてしまうような、あるいは突然姿を現せるような存在――すなわち、彼女は『霊的』な存在に他ならない。
早朝から霊が出たとしても別段驚くことではない。宵の時間だけが彼らの世界ではないのだから。
問題なのは、彼女を見てしまった後の対応だ。
柚葉は眉間に皺を寄せながらしばし彼女を観察した。
邪な気配は特に感じられない。この辺りを通っても普段見かけなかったところから見ると、言う所の『浮遊霊』のようだ。
となれば結論は一つ。
「放置かな、普通に」
無害とわかればいたずらに関わる必要性はない。
彼女の『使命』に関わる案件なら話は別だが、無報酬では基本この手の事象に関与しないのが彼女の方針だった。冷たいようだが、死者よりも生きている自分や自分の大切な人を第一にするためである。
女性霊の寂しげな表情が少し気にはなったが、いちいち気にしていては身がもたない。
ちょうどそこへバスが滑り込んで来たので、柚葉は迷うことなく乗り込んだ。
さすがに休日の始発なだけあり、乗客は数えるほどしかいない。手近な席に腰を滑り込ませると、昇降ドアを閉めたバスはゆっくりと走り出した。
途端、後ろに流れ出す窓の外の風景。
対向車線側の席だったため、軽く振り向くとあのバス停が視界の端に入る。
遠ざかっていくバス停には、変わらずあの女性霊が佇んでいた。
「関係ないわ、あたしには」
これから群馬で難題が待っているのである。小さくつぶやき、柚葉は視線を前へと戻した。どこか気になる思いを、振り払うかのように。
深夜。
朝方バスで駅に向かった道のりとは逆行程〜下りのバス路線に沿って、柚葉は疲れきった足を引きずるようにしながら月明かりの下ひたすら歩いていた。
今回の依頼は涙が出るほど過酷だった。
正確には、現地での道のりと依頼の2つが過酷だった。
遠路はるばる往訪したものの、いきなり道に迷い、彷徨うこと4時間。
ようやくたどり着いた依頼主の元で難敵と格闘すること2時間。
さらに難敵に逃走され、追いかけ回すこと3時間。
へとへとになりながらようやく今回の相手を仕留めた頃には、夜の帳はとうの昔に降りていた。
正直、依頼自体というより、移動や追いかけ回していた時間と労力の方が何倍も堪えた1日だった。
おかげで地元駅に帰還した頃には終バスもなく、ただでさえ財政難な中、割り増し料金の深夜タクシーなど使えるはずもなく、結果徒歩で30分歩く道を選ばざるをえなかった悲哀。
厳しい依頼をこなす中で完全にセットの乱れた黒髪を梳き直す気力などとうに失せ、今や帰宅して即寝ることだけが唯一の希望となっていた。
駅から下宿先までの全行程のうち、ようやく8割方を踏破した頃、見えてきたのはいわくつきのあのバス停。
この辺のバス通りは直線が長いので遠くからでも先を見ることができる。
したがって、バス停の傍らに佇む、街灯の明かりに照らされた人影があることもすぐに分かった。
初めはまさかと受け流したものの、次第に近づいていくとその人影は見たことのあるものとして網膜に結像する。
他でもない、朝方目撃したあの女性霊が、同じ場所、同じ様子で佇んでいたのだ。
彼女は、こちらが近づいても意に介さないようでまったく微動だにしない。
ついにはバス停に到達し、彼女の後ろ至近距離を通りすぎたのだが、反応は一切なかった。
霊と言う存在は、人・物・場所etcに執着したり、あるいは自身が死んだことを認識できずにさ迷ったりして、結果現世に留まっているという。
初め、彼女のことは浮遊霊かと思ったが、それにしては何かに執着しているような感じを受ける。
場所、にではなさそうだから人か物か、いずれかに強い想いを残しているのだろうか。
立ち止まり、半身になって振り向き女性霊を見ていた柚葉だったが、考えをそこで打ち切った。
今の自分が最優先すべきことはさっさと帰宅して寝ること。明日からはまた平時の日常が始まるのだ。
踵を返して歩を進めようとした。
足が凍り付いたように動かなかった。
いや、動かせなかったのだ。
背後にて急激に巻き起こる邪な気配。爆発的にほとばしった邪気は、背中から大津波を浴びせられたかのように強烈で、それほど霊感の強くない柚葉にでも恐ろしいほど感じられた。
背筋を冷たいものが伝う中、彼女は意を決して振り返る。
案の定、恐るべき邪気の出所はあの女性霊だった。
しかも彼女は、それまで微動だにしなかったにもかかわらず、ゆっくりと動き出したのだ。彼女の目の前に停まるバスに向かって。
深夜バスも終了する時間帯である。そのバスは回送車だった。信号待ち列によりたまたまバス停前に停車していたのだ。
開くはずのない昇降扉に向かってゆっくりと近づいた彼女は、手品のように昇降扉をすり抜け、車内へと侵入した。
彼女が乗り込んだが早いか、信号が変わり車列が動き出し、バスも合わせて走り出す。
柚葉は目の前の異変を凍りついたように見つめていたが、今まさに走り去ろうとしているバスの車内に居る彼女と一瞬目が合ったことで、得体の知れない緊迫から突如開放された。
彼女は、車内の女性霊は、うっすらと『笑み』を浮かべていたのである――それまで寂しげな面持ちしかしていなかったにもかかわらずに。
柚葉の『経験』が盛大に警鐘を鳴らしていた。このまま放置すれば確実に災いが巻き起こるであろう、と。
予想違わず、バスは本来左折していくはずの交差点を直進していった。
「何、今日は仏滅? 天中殺?」
ため息一つ。天を仰ぎぼやく柚葉。
「こういうの右から左へ華麗にスルーできる性格だったらよかったのに」
憮然としたまま何かを諦めたかのようにひとしきり愚痴ると、彼女は表情を一変させた。真剣で険しいものに。
続けざま、通り掛かったタクシーを呼び止め、飛び乗るかのように車内へと滑り込んだ。
「前のあのバスを追ってください」
映画やテレビドラマで使い古された台詞をまさか自分が口にするとは思わなかったものの、今眼前に起きている事象は紛れも無く現実である。
しかし違った角度から見れば、露骨に不審な表情を浮かべた中年タクシードライバーの反応もまた、現実的だった。
深夜、色々な意味で不釣り合いなスーツ姿の小娘が、険しい表情で乗り込んで来て、こともあろうか回送バスを追えと口走るのを目にすれば、まともな人間なら普通警戒するだろう。
面倒ごとは御免だ、とばかりの訝しさを顔面に貼付けて追跡を渋るドライバー。もっともなことだろう。
だが、今問答している時間はない。柚葉は強行した。
「王春」
運転席と助手席の間から前へと腕を突き出すと同時に、人差し指と中指を揃え伸ばし他の指は軽く握り込む「指結印」を結び、月詠祓詞を詠む。
「式使令・厳命」
途端、まだ開いていたドアが急に閉まると、タクシーは突然勢いよく急発進した。エンジンが唸りを上げ、みるみる加速していく。
「な、なんだ、どうなってんだ!? か、勝手に動いてるぞ!?」
それまでの態度を一変させ、シートから滑り落ちそうになるほど恐れおののいているドライバー。
彼の主張は正しい。
彼はハンドルを握っていない。ましてや、アクセルを踏んでもいない。
彼のタクシーは、今、柚葉の支配下にあり、彼女の内心の命令により走り出したのである。全ては、普通自動車程度の無機物や、あるいは同程度の大きさの動植物をある程度自由に操ることができる式使令が為す業であった。
しかし車体は妙にふらつき、直線道にもかかわらず今にも対向車線へと飛び出しそうだった。
それもそのはず、彼女はまだ17歳なのだ。つまり――
「あ、言い忘れてましたが、あたしまだ車の免許取れる年になっていません。ゴーカートすら運転したことがないんで、いつ事故するかわかりませんよ」
中年ドライバーの情けない悲鳴が車内一杯に響き渡った。
そこで駄目押しである。
「運賃ならお支払いします。だから、あたしの命に従いなさい」
「わ、わかった! あんたの言う通り走る! 走るから、無茶は止めてくれ!」
とうとう折れるドライバー。いい年した中年男性が半泣きで許しを請う姿は少々可哀相だった。
が、始めから大人しく言うことを聞けばよかったのに、とつい本音を漏らす柚葉。
ショックを受けているドライバーが柚葉のつぶやきに聞く耳を持てないことをいいことに、彼女は何事もなかったかのように、
「とにかくあのバスを追ってください。できるだけ近づいて」
と急かした。
本気で腹を括るしかないと悟ったのだろう。三十年間無事故無違反できたのに、とつぶやきながらも、ドライバーは素直にハンドルを握っていた。
彼がアクセルに足を乗せたことを見届けると、柚葉は車の制御を解除し前方のバスへと意識を戻した。
柚葉の支配下に置かれていた際のタクシー同様、バスもかなり怪しい挙動を続けながらもなんとか走っている。事故を起こさないのが不思議なくらいで、深夜で人はもとより車も少ない状況が幸いしていた。
そうは言ってもまったく車の通りがないわけではなく。危惧した通り、交差点に赤信号で進入した際、左から走って来た自家用車と衝突しかけていた。
自家用車の方がとっさにかわしたため事故は避けられたものの、単に運がよかったからに過ぎない。
幸運はそう多く続かない。女性霊の意図はいまだ不明だが、このままでは彼女が目的を達する前に事故を起こすだろう。
もはや一刻の猶予もなかった。
指示通りに車が加速しているおかげで彼我の距離は縮まりつつあるが、事を起こすにはまだ遠すぎた。今の間合いでは無茶する以前の問題で、手も足も出ない。
それでも、機会が到来したらすぐに対応できるよう柚葉は準備に入った。
群馬での依頼のために携行していたショルダーバッグから手際よく『獲物』を取り出していく。
霊相手、それも狭い限定空間での近接戦闘となれば長物は不要だ。
使い慣れた相棒は車内に残し、柚葉は取り出した獲物――索金票(さくひょう。鋼線を柄に繋いだ投げナイフ型の手裏剣)と参方結陣板のみを準備する。
鋼線を取り扱うので特殊素材の手袋をはめながら前方を注視していると、大通りの交差点へ出たところでバスは車体を大きく傾かせながら、通常ならばありえない速度で右折して行く。
負けじとタクシーも後を追いかけて右折する。大通りは片側二車線で、反対側はともかく、走行している車線は相当な距離、丁度前後に他の車がいない。
チャンスだった。
走行車線を走るバスに対し、追い越し車線側を激走させ、見る間のうちに彼我距離を詰めて行く。元々、加減速なら鈍重な路線バスより小型なタクシーの方が遥かに優れている。
並走するまでに追いつき、運転席を望める所まで接近した。
窓越しに見えた運転席では、一心不乱にハンドルを握るドライバーと、彼を背後から抱きしめるように憑いている女性霊の姿が。
間違いなくバスのドライバーは彼女に憑依されていた。
彼女はいったい何を目的としているのだろうか。
強い霊感を持つ義志がいれば彼女がなにを企んでいるのかわかるのだろうが、ないものねだりをしてもしかたがない。
ただ、言えることがある。
バスドライバーを惑わし、危険な走行もいとわずに車を走らさせているのだ。
少なくともドライバーの身の安全など考慮していないことが分かる。
なにより危険な走行をするバスは走る凶器だ。周囲への影響を考慮すると一刻も早くこの無謀な走行を止めさせねばならない。
タクシーの速度をやや落とさせ、後席からバスの後部を間近に伺えるポイントまで後退。再びそのまま速度を同調させる。「始める」なら今しかない。
パワーウインドウを開けると外気が勢いよくなだれ込んで来る。
夜風は心地よかったが、浸っている時間はない。窓から身を乗り出し、バスの後部――リアウインドウに向けて指結印を突き出した。
「王春・尖空衝」
大気が震えるような音がした。それは、これから起ころうとしている現象の前段階であった。
「厳命!」
尖空衝を発動させる。
大気が振動し、瞬間的に圧縮された空気があたかも槍のように収束し、照準している目標に向けて突き刺さった。
窓枠に破片一つ残さないほどリアウインドウのガラスは一瞬にして粉砕されて周囲に飛び散る。尖空衝の威力はとどまることを知らず、車内の天井に取り付けられている後部行き先案内表示版をも原型を留めないほど破壊した。
派手な音を立ててバスの後部を蹂躙した尖空衝により障害は取り除かれた。
手にした索金票を投射すべく構え、タイミングを見計らって放つ。
風を切り裂いて飛翔した索金票はリアウインドウがあった空間から車内に飛び込み、斜めに天井に突き刺さって止まった。
すかさず鋼線を思い切り引く。弛みが張られたこと、しっかり固定されていることを確認すると、柚葉は窓枠に片足をかけ、体の3/4以上を車外に露出させた。
「バスを停車させますので、それまで後をついてきてください。支払いは残していく荷物を引き取る際にします」
「止まらせるって、あんたいったい何を」
「乗り移るんですよ、バスに」
背中にドライバーの驚く声を受けながら、柚葉は窓枠を蹴って宙に身を翻した。
バスの後部に取り付くにはまだ少し距離があった。
重力に引かれて体が沈み込み、凄まじい勢いで後方に流れていく道路が眼下に迫る。
「こなくそ!」
気合一閃。
なんと走行中の道路を直接踏み切ることで跳躍した。
再び宙に身を翻させ、崩しそうなる体勢を空中でバランスを取って修正しつつ渾身の力を込めて鋼線を引く。
見事に功を奏し、バスとの彼我距離を一挙に詰めて車体後部のパネルに取り付くことができた。
驚異的な運動神経を駆使してどうにかバスに乗り移った柚葉は、鋼線を放り出し、息つく暇もなく行動を開始する。
ガラスが欠片も無くなった窓枠越しに、室内灯が落とされて薄暗いものの、窓から差し込む月明かりや街灯光のおかげでなんとか見渡せる車内を覗き込む。
当たり前だがこの位置からは車内に誰の姿も見えない。運転席も客席とを隔てる遮蔽板に隠れて見えていなかった。
が、すぐに人影が現れる。遮蔽板の陰からあの女性霊が。
大人しそうな面持ちから一転、凄まじい形相を浮かべた彼女は勢いよくこちらへと向かって来た。
これに対し、すぐさま柚葉も動いた。
車内へと乗り込むと、懐から金票(鋼線のついていない索金票)を二振り取り出し、同じく取り出した二枚の参方結陣板にそれぞれ突き立て、車内後部両端にある柱に一振りずつ突き刺す。
二振り目を突き刺した時には眼前に女性霊が迫っていたが、柚葉は微塵も慌てる素振りを見せない。
それどころか、なんと自分から彼女の方へと向かって突進したのだ。
もはや女性霊と接触は免れない距離に接近した時、柚葉は身をかがめて床の上を前転し、受身を取りつつ彼女をやり過ごした。
彼我位置がそれまでとまったく逆転した形になり、互いに振り向く。
自らの攻撃をかわされ、表情を一変させている女性霊。そんな彼女に、柚葉は静かに語りかけた。
「何が貴女をそうさせるかはわからない。でも、現に今、生きている人に害をなそうとしていることは看過できない。だから――」
懐から三振り目の金票を取り出す。
「貴女を滅ぼします」
同じく取り出した三枚目の参方結陣板を床に置くと、そこに金票を突き立てた。
同時に開始する、月詠祓詞の詠唱。
「戴陽」
最後に金票を突き刺した参方結陣板に指結印を突きつける。
「理法の楔影縫いて、参方陸方、原初の静謐を現せ」
これから為そうとしていることに、彼女は気づいていないだろう。
だから、再び襲いかかって来たに違いない。
だが、突き出した彼女腕が柚葉に届くことはついぞ到来しなかったのである。
「参方結陣・厳命!」
結唱すると同時に三点に設置された結陣板が光を放ち、それぞれを結んだ壁――薄っすらと光を放つ壁が構成される。
途端、女性霊の動きが止まった。
その表情も凍りついたかのように固まっている。
彼女が動きを止めたのは、動かなくなったのではなく動けなくなったのだ。参方結陣により。
参方結陣は参方結陣板を三枚一組使用することによって発動させる、所謂「結界」である。
本当は本来の敵相手に活用するものではあるが、霊にも効果があるため今回使用に踏み切った。
初歩的な結界ではあるが、それほど力を持っていない存在なら光りの壁の中では身動き一つすることはできないほどの効果を発現させることができる。
後は彼女の処遇だが、先ほど宣告した通り滅ぼすこととなる。
柚葉は霊媒師でも除霊の専門家でもない。
したがって、浄霊したり成仏させたりすることはできないのだ。
霊に対して柚葉にできることはただ1つ。
霊を無に返す――すなわち、せめて消滅させてやることだけだ。
「この世界に貴女の居場所はもうないのよ」
指結印を彼女に突きつける。
「王春」
残酷なようだが、死んでいる彼女よりも生きている人間のことを考えるべきで、人々にとって有害な存在なら排除しなければならない。
厳しい表情のまま、女性霊を滅ぼすための月詠祓詞を放とうとしたその時。
視界が天地方向に揺らいだ。
むろん、世界が揺れたわけではない。
自身が仰け反るようにして姿勢を崩したため、景色が下方に下がって行くように見えのだ。
このままでは背中から倒れてしまう。
しかし、類い稀な彼女の運動能力は彼女を無様に転倒なぞさせなかった。
誰もが目を見張るほどの驚くべき反射神経が上体を逆にさらに反らせ、両腕を床に着かせる。そのまま両腕を支点にして全身を宙に舞い上がらせた。後方転回――バク転をする形となった柚葉は、見事に両足から着地して難を逃れた。
なぜ視界が揺らぎ、姿勢を崩すこととなったのか。
バスが急停車したことにより、言うところの「慣性保存の法則」が働いたからである。電車やバスに立って乗っている時、ブレーキがかかると進行方向へと体が持っていかれそうになるアレだ。
しかも、進行方向に背を向けていたことにより、思い切り背面から倒れそうになったのだった。
なんとか転倒は防げたが、問題なのはバスが急停車したことだ。
振り返ろうとした途端、背後に気配を感じたかと思うと男の腕が彼女を羽交い絞めにした。
この車内で相手を羽交い絞めにできるような肉体を持っているのは柚葉と後はもう1人しかいない。
――まだ化かされているの!?
女性霊を引き剥がしたつもりだが、それでも憑かれたままという状況は経験上起こりうる。
だとすれば、一刻も早く彼の精神を正常に戻さなければならない。除霊はできないので多少手荒な方法を使わざるを得ないが、この際手段を選んではいられない。
まずは羽交い絞めをしてきている彼――バスの運転手を引き剥がすべく、その腕を鷲掴みにし、振り解いて投げを打とうとした。
「止めてくれ! 彼女を、彼女を助けてやってくれ!」
耳を打ったのは悲痛な男の叫び声。
それは、憑かれている為に口に出しているものなどではなく、心からの想いが言葉となったものだった。
彼は憑かれてなどいない。柚葉は手に込めた力を緩めた。
「どういうことでしょう。ひとまず彼女には手を出しませんので、話を聞かせていただけませんか」
努めて落ち着いた声で背後に呼びかけると、柚葉を捕らえていた腕の力が弱まった。体を捻ると彼の腕を簡単に振り解くことができた。
あらためて正面から対峙すると、彼は涙を流しながら力を失ったかのようにその場にへたり込んだ。それでも、想いを止めることはしなかった。
「見えたんだ。彼女が背後から俺に覆いかぶさってきた時、彼女の過去、彼女のたどって来た道のりが」
堰を切ったかのように話出した彼は、息つく間も惜しむかのように彼女のことを語り続けた。
彼女――女性霊は生前28歳の会社員だったそうだ。
彼女には想いを分かち合った男性がいた。
しかし、不幸にもその彼を病で失ってしまう。
茫然自失となった彼女は、ついには心の病を患い、通院生活を重ねるようになる。
そんな時、通院に使用していた路線バスの若い運転手から温かい対応を受けた。顔を合わせる度に親切に応対してくれる彼に、やがて彼女は凍りついた心を溶き解していった。
いつしか2人は互いを想い合う関係となるも、現実は過酷だった。
彼は業務中の事故で亡くなってしまったのだ。
この悲劇に完全に心を砕かれた彼女は、そのまま精神を病み、緩やかに衰弱して結局死去してしまったとのことだった。
以来、「バス」に想いを重ねた自縛霊となった彼女は、路線バスのバス停を幾つも彷徨い続けていたのだという。
嘘偽りない彼女の悲劇なる人生が直接彼の心に流れ込んできたためだろう。
よほどの極悪人でもなければ、あたかも実際に目にしてきたかのように見えるであろう悲しい思い出を受けて感化されてしまっても無理からぬことだった。
なるほど、だから彼女は、同じ職業で若い男性である、眼前でこのむせび泣いている彼を見つけて憑いたのだろう。
もしかすると姿格好も彼女が生前想った運転手に似ていたのかもしれない。
だが。
だからと言って彼女のことを許せるかと言えば、答えは「否」だ。
彼女の危険性が消えたわけではない。
生前、どんな辛い思い、どんな悲しい思いを抱いたとしても、それを以って死後何をしても許容されるかと言えば、それはまた別の話である。
このまま彼女を野放しにはしておけない。それが結論だった。
「王春」
容赦はしない。柚葉は、身じろぎ一つすることのできない女性霊に指結印を向けた。冷徹な表情のまま。
「な、なんだよ、助けてくれるんじゃないのか、彼女を」
「あたしは霊媒師でも霊能力者でもありません。あたしにできることは、このまま彼女をこの世から消滅させることだけ。彼女に悲しい過去があるのはわかりましたが、人に仇為す存在でいる限り放置することはできません」
涙声で戸惑う彼を、柚葉は毅然と撥ねつけた。
「待てよ、待ってくれ! 確かに彼女は俺に取り憑いたかもしれない。俺を道連れにしようとしていたのかもしれない。だけど、果たせなかったじゃないか。俺なら別に気にしていないし、だから、このまま彼女を成仏させてやってくれよ!」
「言ったでしょう。あたしは霊媒師じゃない。彼女を供養することはできない」
冷たくあしらうと、彼は突然立ち上がって柚葉と女性霊の間に割って入った。
女性霊を背にし、左右に手を広げて立ちはだかる。その眼光は柚葉を真っ直ぐと見据えていた。絶対に通さないという決意の炎を燈して。
「そこをどいてください」
低い声で彼を威嚇する。
しかし、彼は折れなかった。一歩も動かなかった。
――だから訳有りの案件って嫌いなのよ。
苦虫を噛み潰したかのように小さくぼやく。
事態は千日手の状況になるかと思われたが、意外にも折れたのは柚葉の方だった。
「ああもうわかったわかった、わかりました。滅ぼすのは止めます。これでいいんでしょ?」
いくら胸を打つような体験をさせられたとしても、よもやここまで感化され、霊を擁護する人物がいるとはまったくもって想定外の事だった。毒気を抜かれたかのようにもはや強行する気も失せ、柚葉は完全に肩の力を落として戦闘体制を解除した。
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます! よかったですね、ねえ!」
途端、今度はうれし涙を流しながら表情を輝かせ何度も頭を下げると、彼は女性霊を振り返って喜びを露にした。
すると、それまで鬼のような形相をしていた女性霊はいつの間にかとても穏やかな表情になっていた。
さらには彼女の体表が淡く輝きだしたのである。
「うそ。ホントに?」
その現象はかつて見たことがある。
他でもない。それは、霊が浄化されて昇天する時に起こる現象だった。
彼女は成仏しようとしているのだ。
現世に縛られていた彼女がどうしてこのタイミングで成仏できるのか。考えるまでもなかった。
手間かけさせて、と嘆息しながらも、柚葉は腰を屈めて結陣板を固定していた金票を床から引き抜く。同時に参方結陣は解除され、光の壁は霧散した。
結陣からの縛鎖から開放された女性霊は、それこそ憑き物が取れたかのような微笑みを浮かべながらゆっくりと上昇を始めた。
すぐに天井へと突き当たるが、すり抜けて車外へと出て行く。
自身が破壊して大穴を開けた後部の窓へと彼とともに駆け寄り、身を乗り出してバスの上空を見上げる。
暗闇の中、ほのかに光る彼女は少しずつ、少しずつ天へと昇っていく。
その口に、なにか言葉を載せながら。
――あ・り・が・と・う
唇は確かにそう動いていた。
やがてその姿は小さくなり、ほのかな光は優しい月の明かりの中にゆっくりと消えていった。2人の立会人に見守られながら。
「こんなこともあるのね。術者でも能力者でもない、一般人が霊を成仏させるだなんて」
彼女が昇天するのを見送った柚葉は、すっかり埃まみれとなった一張羅のスーツを叩くと撤収の準備に入った。車体後部の両端の柱に刺さった金票をそれぞれ引き抜いていく。
「一般人って、俺のことか?」
状況がよくわかっていない彼は、目を丸くして驚いている。
「他に誰が?」
小首を傾げて問うと、彼は訝しげに唸った。
「でもどうして。俺は何もしてないぞ」
「あら、されていましたよ。我が身を省みず、涙を流して彼女を想い、庇っていたじゃないですか」
言いながら、天井に刺さっていた索金票も引き抜き、いまだ実感の湧いていないような様子の彼に向かってほのかに笑みを浮かべながら、諭すように語りかける。
「ご先祖様の御霊をどうお参りします? いつも見守ってくれていることを感謝して、ご先祖様のことを想うでしょう? 亡くなられた方にとって彼らを「想う」と言うことはそれだけで供養になります。貴方の真摯な想いが彼女に届いたから、彼女は天に召されることができたのではないかしら」
――それと、あたしには感じられる、生来貴方が持っている「徳」の高さも寄与していると思うわ、多分ね。
あまり褒め過ぎても嘘に聞こえてしまうので、最後の言葉は胸の内で独りごちた。
「ま、ともあれ。貴方が身を挺して彼女を助けて、彼女は成仏した。それで十分ではないかしら」
自身の想いや行為が1人の霊を鎮めたことについて実感がないのか、どうにも釈然としない様子の彼だったが、柚葉にそう言われてやっと笑みを見せた。性格的に単純なのだろうが、その素直さには好感が持てた。
しかしながら、単純さは裏返せば直情的に物事を考えてしまう可能性を秘めている。
「でも、こんなことそうそうできるものじゃありません。あたしがいたから大事にならなかったんです。今後軽々な行動は慎んでください」
釘を差しておかなければまた同じようなことをしかねない。彼は殊勝にも頷いてはいたが、本当に理解しているかは怪しいものだ。
もっとも、今後のことまではさすがに責任は持てない。後は本人の問題である。
何より、自分が今、何をしなければいけなかったのかを思い出した。
腕時計を見ると、午前2時目前。
思わず噴出した。
現実を認めたくなくて今一度確認してみるが、もちろん時刻が変わるはずもなく、追い討ちをかけるかのように時計の針は無情にも午前2時丁度を指し示し示した。
「2時……。2時ぃ!? か、帰って寝なきゃ明日、ああもう日付変わって今日か、今日死んでしまう! ってここどこ!?」
髪の毛を掻きむしりながら軽く混乱する柚葉。
ただでさえ朝起きるのが弱いにもかかわらず、もはやわずかな睡眠しか取れないとわかれば、混乱したくもなる。
リアウインドウが粉砕されたことによってバスの後部に穿たれた大穴から車外に飛び出そうと窓枠に足をかけた。
「え? ちょ、こ、これどうするんだ!?」
突然背中に投げかける焦り声。
「よかった、さっきのタクシーちゃんとついて来てくれてた。って、どうかしました?」
現在地がいったいどこなのかもはやわからない状態だというのに、よもや歩いて帰らなければならないかもしれない恐怖に一瞬怯えたものの、バス追跡に利用したタクシーがしっかり後をついて来て、バスの後ろに停車しているのを見て安心する。
タクシーの姿を見て胸を撫で下ろしたためか、始めまったく無視をした焦り声のことに気を向ける余裕が出来た。ワンテンポ遅れて焦り声の主に半身になって振り返る。
バスの運転手が青い顔をしてリアウインドウが存在していた場所を指さしていた。
「窓全損どころか案内板も根こそぎ取れちゃってるし、営業所戻っていったいなんて釈明すりゃいいんだ」
「それはご自身でどうにかしてください。今のあたしの使命は、帰って寝ることです」
答えになっていない答えを返す柚葉に、彼は泣きそうな顔になっていた。
「これだけ壊しておいてそりゃないよ」
「あら、丸く収まったとはいえあたしが間に入らなかったら貴方とり殺されていたかもしれないんですよ? 本来報酬いただくところなのに、貴重な睡眠時間を削ってまで無償で命を助けて差し上げたんだから。討霊に物的被害はつきものです」
いったい何を言っているのやら、といった呆れ顔で諭すと、彼はがっくり首をうなだれていた。
「今回のような超常現象を解決する依頼でしたらいつでも受け付けていますよ。もちろん、有償が原則になりますけど。何かありましたらこちらにどうぞ」
すっかり意気消沈している彼に、懐から名刺を取り出す。
うなだれていたものの、目の前に差し出されたためほとんど反射的少し顔を上げた彼は、名刺に書かれている文言へと投げやりに目を走らせていた。
名刺には連絡先のメールアドレスとともにこう表記がなされていた。
“超常現象解決致します!
◆見えない「何か」にお困りのあなた。
◆見えてしまう「何か」に悩まされているあなた。
今すぐご連絡ください!!”
“退魔禁妖討霊社
代表 桐羽 柚葉”
文言を読み終えた彼に、柚葉は眠気を感じさせない実に爽やかな「営業スマイル」を向け、言った。
「退魔禁妖討霊社を今後もご贔屓に!」