【第12話】憧れの太陽
「う、うーん、どうしようこれ…」
周囲はおっぱいだ何だとざわついているのだが、ウィズはいまいちノリきれないでいた。目の前の元大きな球体は、もはや原型を留めていない。こぼした牛乳のように机の上に広がっている。
斜め後ろから、ゲラゲラ笑い声が聞こえるのが癪だが、これは笑われても仕方ない。
「柔らかくなりすぎちゃった…」
「ウィズ君すごいね。私は全然。足して2で割れたらちょうど良さそうなのに…」
「えへへ、確かにね」
一方のミランダの球体は、ほとんど柔らかくなっておらず、相変わらず、よく弾みそうなゴムボール状態のままである。
「柔らかくし過ぎたんだから、固めればいいんだよね、ボク、その呪文は知ってるぞ~。たしか、イグナムウーナム!」
ウィズが追加で呪文を唱えたが、見た目上変化がない。
「おかしいなぁ…」
ウィズが、元球体に触れてみる。
「げっ」
元球体は、そのままの形で固まっている。
しかも、指を離すとねばねばと糸を引く。机にもガッチリとくっついてしまっているではないか。
「どっ どうしよう! これ、机ごと弁償?!」
「ほっほっほ、こりゃあ大変だねぇ~」
いつの間にか隣に立っていたフレデリック先生が、ウィズの球体の成れの果てを見て、穏やかに笑っていた。
「ウィズ君だね~。さっきは答えてくれてありがとう~」
「あ、は、ハイ…」
フレデリック先生は怒っているようには見えないが、思わず体がすくむ。
「まぁまぁ、こういうこともあるよね~」
フレデリック先生が葉っぱの付いた小枝をひと振りすると、こぼれた牛乳がまるで逆再生するように集まって、元の乳白色の球体に戻った。
「わぁ…」
思わず机を撫でるが、傷1つ残っていない。ウィズの指に付いたねばつきも、綺麗さっぱりなくなった。机を弁償することを恐れていたウィズは、ほっとして大きく息を吐いた。
「ではでは、ウィズ君、もう1回やってみてくれないかね~?」
言われるがままにウィズがもう一度呪文をかけると、球体は再び、こぼれた牛乳に変身してしまった。
「うむ、うむ、なるほどなるほど~」
「呪文の発音が変、とかですか?」
「いいや、呪文は言えているね。あ、固める呪文の方は、ちょっと間違えてたみたいだけどね~」
その場しのぎの呪文で何とかしようとしたことまで、先生はお見通しだ。
「力いっぱいかけすぎなのと、イメージが足りていないように見えるねぇ」
「イメージ…」
「とにかく柔らかくなれ! とだけ思っていないかな? 詳しくは、変形魔法学の各論でも教わるけれどね、変形後の形をしっかりイメージしてから魔法をかけるのが大切だよ~」
確かに、とウィズは思った。思いきりやらないと伝わらないような気がしてしまって、がむしゃらに魔力をぶつけていたかもしれない。
「ウィズ君は、パワーは申し分ないから、あとはコントロールだねぇ。この、まるっ! とした感じね~。まるっ! まるっ!! とイメージしながらやってごらん~」
眉毛の長~いおじいちゃんが「まるっ まるっ」と連呼しているのが何とも可愛い。
「あ、ありがとうございます! やってみます! あと、あの、フレデリック先生、ミランダちゃんのも見てあげてください!」
「おっけ~。ちょっと貸してごらんね~。うむ、うむ…」
フレデリック先生は、ミランダから球体を受け取ると、手のひらで転がしながら観察し始めた。ミランダは不安そうな表情で、その仕草を見つめる。
「うむ。あんまり変化が無いように見えるけども、ちゃんと呪文はかかっているね~」
「ほ、本当ですか?」
「ミランダさんの場合は、パワーの出し方が分かってくれば、ちゃんとできるようになるね~」
つまり、パワーが足りない、ということだ。ミランダは、がっくりと肩を落とす。昔から魔力が弱く、コントロールだけでも頑張って、何とかしてきた。パワーが足りないのは、痛いほど知っているのだ。
「生まれつき魔力が弱い場合はどうすれば…」
「うむ、うむ」
フレデリック先生は少し屈んで、じっとミランダの顔を覗き込む。眉毛に隠れがちな、小さくてつぶらな瞳は、よく見ると新緑のような澄んだグリーンをしていた。
「あ、あの、えっ…」
「魔力が弱いというより、魔力の出し方の問題じゃないかと、私は思うがね~。すぐには変えられないと思うから、そういう時は仕方がないので、既製品のニトリル手袋を使いなさい」
「じゃあ、ミランダちゃんは、別に魔力弱くないってこと? ですか?」
「うーん、正確には定期魔力検診の結果次第だけども、わたしの経験と勘ではなんとなく、そう思うがね~。まぁ、苦労はするかもしれないが、そう悲観しなさるな。せっかく入学したんだからの~。みんなで素敵な魔法使いになりましょう。コントロールはなかなか良いと思うよ~」
「は、はい!」
「先生、ありがとうございます! よかったね、ミランダちゃん!」
「うん…」
みんなで素敵な魔法使いになりましょう、というフレデリック先生の言葉で、ミランダの胸は少し温かくなった。
「先生! 質問です!!」
「はぁい、ウィズ君、なんでしょう」
「ボクはパワーが強すぎ、ミランダちゃんはコントロールが良い、ということは、一緒に作業したら解決しますか?」
「うむ、うむ。試験の時は一人ずつ受けなくてはいけないから、協力に頼りすぎは心配だけれども、普段は良いんじゃないかの?」
「本当ですか! ねぇ、ミランダちゃん、一緒にやってみてもいい?」
「う、うん、お願いします…」
「ほっほっほ、仲良しで良いこと。ではわたしはそろそろ、他の学生さんを見て回るかの~」
*
フィービー先生とエルトン先生は、その後も何度かぶつかっていたが、フレデリック先生と同様、なんだかんだで、学生に対するコツの教え方や、状況の見極め方は上手かった。授業の終盤には、ほとんどの学生がニトフィットを着用できるようになっていた。
ひょいっと投げて、拡げて、手を差し込む。
エイチェルもだいたいできるのだが、どうも、少しだけ手のひら側が短くなる。あと、何回やってもどこかが少し薄くなる。厚みにむらがあるのだ。
隣のセリアルを見ると、見本のように完璧な手袋が、細くて長い指に吸い付いていた。
「うっわぁ、セリアルの手袋、綺麗だねぇ。綺麗な指がますます綺麗に見えるねぇ」
エイチェルがまじまじとセリアルの手を見る。どこにも厚さにむらがなく、均一。しかも、作業も無駄がなく、速い。
「えっ、そ、そう?」
「うん、セリアルはいつも、本当に綺麗」
「えぇ、ちょっと、なにそれ恥ずかしい… 手袋の話だよね?」
「お、完璧ですね!」
様子を見て回っていたエルトン先生が立ち止まり、セリアルに言った。
それを聞いたスペルが、それとな~く手を拡げて腕を伸ばしたり、手を振ったりしているが、残念ながら先生の視界には入らない。セリアルの左隣にエイチェル、その左斜め後ろにラスター、スペルはその更に左隣なのだから、大声でも出さない限り、視界に入るわけがない。
くくくっと声を殺して笑いながら、ラスターが言った。
「お前さぁ…」
「なんですか?」
「いや、いいんだけどさぁ、面白いなぁ」
「な、何がですか?!」
「いや、うん、スペルの手袋も完璧だと思うよ」
「当たり前です! ラスターと違って!」
「あ! なんだよひっで! こっちが褒めてんのに!! いいんだよ多少むらがあっても、使える程度にできてれば!」
「僕はそういう、中途半端に器用なことできないんですよ」
「今の嫌味?」
「別に…」
斜め後ろのやりとりをなんとなく聞いていたエイチェルが、エルトン先生に質問した。
「先生、どの程度の『むら』とか『よれ』なら許容範囲ですか? 私、どうしてもどこか薄くなっちゃって」
「そうですね、ちょっと見せてくださいね」
エイチェルが手を差し出す。
「あぁ、これくらいなら許容範囲じゃないですかね」
「あ、なんだ、よかった!」
「あ、でも、あ、ええと、お名前は?」
「エイチェルです」
「エイチェルさんは、生き物を捕まえたりしますよね?」
「えっ!!? し、します……」
今日初対面のエルトン先生が、何で知ってるんだろう。そんな話、する機会もなかったはずだ。
キョトンとしているエイチェルに、エルトン先生が笑いながら説明した。
「あぁ、さっきフィービー先生と芋虫で盛り上がっていたでしょう」
「あ…」
「だから、そうかなと思ったんですけど」
さっきはフィービー先生のことを、怒りながら連れ去っただけだと思っていたが、よく見ている。セリアルは感心しながら聞いていた。
「生物によってはですが、私達の魔力に影響されやすいものもいるので、練習して完璧に近づけておくのが良いとは思います」
「練習で何とかなりますか?」
「そうですね、今の状態に対するアドバイスとしては、円盤状になったニトフィットに手を差し込む時、ほんの少し、たぶん手の甲側に手が反ってると思うんですよね。垂直に気を付ければ、手のひら側が少し短くなるのは直ります」
「垂直! ありがとうございます!」
エイチェルが、急いでノートにメモを取る。
「あとは、均一な厚みをしっかりイメージして魔力を注ぐ訓練と慣れですね。変形魔法はどれだけ完成型を精密にイメージできるかで、仕上がりが変わってきます。彫刻家が像を作るのと同じで、変形魔法家は、魔力で物を彫刻するんです。
逆に、わざと均一にしないことをイメージすれば、こういうこともできますよ」
エルトン先生は、1つニトフィットを投げ、手を差し込んだ。人差し指のところだけがするりと破れ、指が出ている形になった。
「機会があるかは分かりませんが、素手部分を残しておきたいときは、こういう使い方もできるんですよ」
「ほほぉ… ちょっとやってみよ…」
エイチェルもニトフィットをひょいっと投げ、魔力をかけるが、意図して部分的に薄くするのが意外と難しい。あまり悩んでいる暇もないので、えいっと手を差し込んだ。
「あ! あーぁ、全然ダメだぁ、難しいです」
エイチェルの手袋はもはやビリビリで、手の甲の方まで破けてしまった。
「均一の方が簡単でしょう」
「そうですね… って、あぁ! セリアルできてる!!」
「あ、なんか、できたね…」
先生の手にあるものとほぼ変わらない、完璧な指あき手袋が、セリアルの手には装着されていた。エイチェルは、すごーい、やったやった、と自分のことのように喜ぶ。
その様子をチラチラ見ながら歯ぎしりしているのは、スペルである。スペルもこっそりやってみて、だいたい出来ているのだが、少し穴の範囲が大きく、指の付け根まで開いてしまった。
スペルは授業中、ずっとセリアルの方ばかり見ている。対抗心剥き出しの様子がおかしくて、ラスターは笑った。
「すごい、すごい、できてんじゃんよ」
「…まだまだですよ。バカにしてます?」
「してないって、素直じゃねえなぁ」
昨日の帰り道、スペルは天才に勝つにはどうのこうのと言っていた。あの時は一体何のことだかラスターには分からなかったのだが、つまり、セリアルに負けるのが悔しいわけだ。あからさますぎて、それに気がつくには授業1コマもあれば十分だった。
そうこうしているうちに、終わりの時間が来る。
名簿から指定して当てるのは、結局一番最初だけだった。気を引き締めさせるための工夫だったのかもしれない。のんびりした顔をして、フレデリック先生はなかなかやる。
エルトン先生が、授業終わりのアナウンスをはじめた。
「それでは皆さん、初めての授業お疲れ様でした。ニトフィットは購買でも買えますからね。そんなに高くないですし、練習したければ、友達同士で割り勘して買ってもいいと思いますよ」
「だって! 私、買おうかな~」
エイチェルがうきうきと財布の中身を確認している。セリアルも同意した。
「だね。それに、庭の石ひっくり返す時も使った方がいいよ」
今朝はエイチェルの手が泥だらけで、洗うのにちょっと時間がかかったのだった。
「使う! あとポシェットにも常備する!!」
「また容量があふれるね」
「もう1つポシェット買おうかなぁ」
「この無駄遣い娘め~」
「やーん」
「じゃ、あとで、昼休みに購買行こうか」
「セリアルありがとう~ お願いします!」
「私もお金出すから、ちょっと分けてよ」
「もちろん!」
そろそろ次の講義室へ移動する時間だ。身支度を整えて、変形魔法学教室付属の講義室を後にした。
*
「ふいー、やたらと疲れた疲れた~!」
フィービー先生は、右手を握りこぶしにして、左肩をとんとん叩く。フレデリック先生は、すぐ次のコマに授業が控えているため、残る2人で教室の後片付けである。
「それはこっちのセリフですよ。去年までキャシー先生だった時は、滞りなくスムーズでしたよ、ほんと…」
時折落ちている、ニトフィットの切れ端を拾いながら、エルトン先生が愚痴をこぼした。
「いやー、だってさぁ、学年上がってもニトフィット使えない学生がちらほらいてさぁ。魔法生物学の授業の時に何度か困ったのよ。じゃあ私が教えてやる! って思ってさぁ」
「その割には脱線してばっかりで、ろくに教えてなかったじゃないですか。僕とフレデリック先生がいれば十分だったんじゃないですか?」
「んまー! 辛辣なこと!! そんな、自由奔放なフィービー先生が大ちゅきだったくせにぃ~」
「…はぁ、それは昔の話ですよ。僕が学生だった頃の話です」
「あははは、知ってるよ。知ってる。冗談だって。あんたのことは、ちゃんとおめでとうって思ってるし、私のこと気にかけて欲しいなんて、これっぽっっっちも思ってないから!」
エルトン先生は、余りのニトフィットが入った箱を積み上げていたが、ふと手を止め、少し考えてから、箱を見つめたまま言った。
「…学生の前で独身貴族とか言って、すみませんでした」
「お、謝ってくれんの? 素直じゃん。許す!!」
エルトン先生が振り返る。
フィービー先生は、太陽みたいな、目がくらむほど眩しい笑顔でそこにいた。小麦色の肌に映える、白くて透明感のある歯が綺麗だった。いつの間にか片付けはサボっていて、机に腰かけて足をぶらぶらさせている。
フィービー先生が教員になって間もない頃に出会い、もうかれこれ10年ほど経つけれど、昔からちっとも変わっていない。
エルトン先生は、大きくため息をついて、苦笑いを浮かべた。フィービー先生のこの笑顔は、純粋に「教え子に向ける笑顔」である。そんなことは、本当は昔から分かっていた。ただの一度も、教え子以上に見てもらえたことなんてなかった。だから、完全に諦めたのに。二人きりの時に、この笑顔は見たくなかった。
なんとなく息苦しく感じて胸元をちょっと押さえながら、絞り出すように言った。
「あなたのそういうところが、好きでした」
「あ、待て、待て、話を振った私が悪かった。二度とそういうことは言うな」
「過去形ですよ」
「過去形でもだ。大体、なんなのその辛気臭い顔は!! シャレにならん。からかって悪かったよ」
「……」
「あんたの奥さんも、私の可愛い可愛い教え子なんだよ。ちょっとでも悲しませたら、ただじゃおかないからな」
フィービー先生からは笑顔が消えている。明るい金色の瞳には、窓越しの四角い光が反射していた。
「……すみません。冗談です」
「冗談に聞こえないんだよ、まったく… 分かればよろしい」
「好きっていうか、憧れですよ」
「そうかいそうかい」
居たたまれなくなったフィービー先生は、机からひょこっと降り、てきぱきと片付けを始めた。興味の薄いことに関しては、いつもそう。やればできるのに、脱線ばかりして腰が重い人なのだ。スイッチが入ったフィービー先生のお陰で、残りの片付けはあっという間に終わり、エルトン先生が講義室を閉める。
「よし、終わり。お疲れ様でした」
「あ!! ねぇ、エルトン!! そうだ、そうだ!!!」
「な、なんですか?」
「そういえば、あの大きいタマさぁ、緑にしてもらいなよ!! 大きさはそのままでいいからさ!」
「緑?! 何でまた」
「あれ、柔らかくした時の感触が、芋虫そっくりなんだよ! 緑にすれば、より芋虫に近づいて、みんなおっぱいって言わなくなるぞ! 今は乳白色だから、なんとなく怪しいんだよ」
「ああ、さっき学生と盛り上がってましたもんね… なるほど、少なくとも人の皮膚は連想しにくくなりそうですね。検討しますよ」
「間違っても小麦色って注文すんなよ!!」
「し、しませんよ!!」
エルトン先生が慌てて否定するが、フィービー先生はもう、こちらを見ていなかった。
「あはは、んじゃ私戻るから、お疲れーィ!!」
廊下を去っていく後ろ姿を数秒見送ったあと、エルトン先生も、自分の研究教室へ戻った。