6月9日 夏目陽奈 1
6月9日 夏目陽奈1
授業が終わるとミカとエリカが私の元にやってきた。
「ヒナ、今日時間ある?よかったらこれから一緒にソナチネ行かない? 」
「うん、行こっか」
またこの感じか......もう新しいクラスになって3か月が経つのに、気を使われている感が否めない。
「今日時間ある? 」とか「よかったら」とか必要ない。
「これからソナチネ行かない? 」でいいのに。
気を使われている原因が私自身にあることは、私が一番分かっている。
私はカバンを手に取り、立ち上がろうとしたが、担任の杉山が教室に入ってきて
「一旦席着いて」
と指示したので、仕方なく座り直した。
要は「不審者が増えてきたから気を付けろ」と杉山は話している。ぐだぐだと。
「ソナチネ」に行くならネイルを塗っておけばよかった、なんて事を流れのままに考えていたら、思い出したくないことを思い出してしまった。
あれは私が中学2年生の頃の話だ。夕暮れから夜にかけての時間帯に「ソナチネ」から帰る電車内で、私は痴漢をされた。新大都宮駅から金井山駅までたった一駅、時間にしたら10分程だ。
その男は普通のサラリーマンに見えた。
グレーのスーツ、黒いスーツケース、銀のフレームの眼鏡、髪は横分け。私は乗車前に新大都宮駅のホームで男を見かけていた。
目が合うと、男はそれまでの目つきからだんだんと、粘り気のあるジトっとした目つきに変わっていったのだ。そして、車内に入ると予め私を狙って犯行に及んだのだろう。「あの目」は今、はっきりと思い出す事が出来る。
けれど、おかしいな。私は私自身に疑問を抱いた。
客観的にこの事件を見たら、私は結構なトラウマになっている筈だ。男性恐怖症になっていてもおかしくない体験をしている。しかし、私は特に男子だけを怖いと思ったことはない。
そもそも、どうして今まであの事件を忘れていたのだろう。そんなに重要ではない一つの出来事としてあの事件を捉えている自分が不思議である。
「……というわけで、最近不審者が増えてるみたいだからね、気を付けてください。」
やっと杉山の話が終わった。
杉山のせいで余計な記憶が蘇ってしまった。気を取り直してミカとエリカと「ソナチネ」へ向かおう。
作星生でごった返したバスに私はミカとエリカと共に乗車した。
2人は自宅が作星から近いので普段は学校に徒歩で通っている。今日はふた駅先の「ソナチネ」がある新大都宮駅に向かうため、路線バスで大都宮駅まで移動する。
ミカとエリカは杉山の長い話を聞き終わった開放感からお喋りが止まらない。
「ソナチネに着いたらどこに行こうか」「あのブランドの服がカワイイ」「カフェで新作が出た」「杉山がウザい」「飯田が変な呪文を唱えていて気持ち悪い」
などなど、鳥のさえずりの様に口をついて話題があふれ出てくる。
バスの運転手が
「他のお客様のご迷惑になりますので、大声での会話はお控えください。」
と車内アナウンスを行っているが、2人には聞こえていないのだろう。
私が2人ともっと仲の良い友達ならば、「ちょっとうるさい」などと注意できるかもしれないが、先述の通り私は未だに2人と壁がある。よくよく考えてみると、私にはこれまで親友と呼べる友達は一人もいない。原因が私にあるのは重々承知しているから、仕方のない事だと割り切っている。
周りを見ても、車内の会話のボリュームは下がるどころか更に上がっている。つまるところ、こんな小さなことでも注意が出来ないアンバランスな天秤にかけられた関係が「友達」なのである。そう考えたら私は少し安堵し、ミカとエリカの会話に入っていった。
バスが大都宮駅に到着し、新大都宮駅へと向かう電車に私たちは乗車した。丁度3人分の席が空いていたのでそこに座った。向かいに座ったのは文新大附属の男子2人組だ。ミカとエリカはスマホを操作しながら素早く彼らに視線を飛ばした。
「ないわ」
「ないわ」
残念ながら2人のお眼鏡に彼らは適わなかったようだ。
ミカとエリカは何事もなかったかのようにスマホに目を移す。残酷に思えるが、これが日常茶飯事で行われている。
私も手持ち無沙汰になったので、スマホを取り出してみる。ニュースサイトを開くとトップページに5つの見出しが表示された。
・都内での不審者情報 過去最大に
・高校生の性事情 倫理観の崩壊
・夏到来 UVカットコスメ10選
・虎中継ぎ田中 メッキが剥がれた今
・タランティーノ来日 来春映画公開
私はこの中のひとつの記事をタップした。
日焼けは最大の敵である。今の私に最もマッチした記事だ。これから行く「ソナチネ」にもドラッグストアは入っているから事前にチェックしておこう。
……そう考えてタップした筈なのに、出てきたのはタイガースのキャップを被った野球選手の写真だった。電車の揺れのせいで押し間違えたのだ。仕方なしに私は記事を読んでみる事にした。
記事の内容は、36歳になるタイガースのベテラン中継ぎ投手、田中敏光のインタビューだ。
ドラフト1位指名の鳴り物入りでロッテに入団した投手田中は初年度こそ好成績を上げることが出来たが、翌年から他球団のチェックが厳しくなり、攻略されてしまう。その時の心境を生々しく田中は語っていた。
「たまたま才能に恵まれ速い球を投げることが出来た。しかし通用したのは最初のうちだけだった。」
「自分が丸裸にされ、本当は何も持っていない事がだんだんバレていくのが本当に怖かった。」
「このままメッキが剥されていったら、自分は消えて無くなってしまうのではないか。」
今の私と一緒だ、と思った。
たまたま顔やスタイルが良く生まれただけの私は、その他に特筆すべき点は持ち合わせていない、本当はつまらない人間だ。いくら髪や化粧やファッションに気を使っても、それはやがて剥がれ落ちるメッキだ。
メッキが剥がれるのが嫌で人と関わる時はついケンカ腰になってしまう。そうやって大事に守ってきたメッキは錆び付いて体にこびりついて離れない所まで来ている。
雀橋駅でまた乗客が増える。立ったままの乗客も多くなってきた。
私は電車に揺られていた。
記事はその後、こう綴られている。
田中はその後タイガースに移籍し、登別監督に出会う。監督との普段の何気ない会話の中から出た
「お前には気持ちがあるじゃない。」
という言葉をきっかけに田中は復調し、36歳になる今日まで、プロ野球の現役を続けている。
最後に田中はインタビューでこう締めくくっている。
「登別監督に出会い、僕は成長することが出来ました。」
「何気ない一言がきっかけになり、道が開けることがあります。きっとそういう時は、本人も変わることを望んでいる時です。今、周りにいる人たちに目を向けてみてはどうでしょうか。」
私は思わずスマホから顔を上げ周りを見渡した。
2メートル程先に影山秋の横顔があった。
影山は何か凝視しているようだ。
私も影山の視線の先に目を向けてみる、と、そこには思い出したくもない「あの目」と同じ目をしている男が青陵の女子生徒の後ろに立っていた。