第九十六話 謝罪(apologize) 巧、愛梨に殴った事を謝罪する
後輩らに触発された愛梨と、ボクシング部のエースである井上
このスパーリングの勝者は、圧倒的な実力を有する愛梨であった
彼女へ、「井上に勝ってほしい」と頼んでしまったために、井上が愛梨から、選手生命を脅かされかねない一撃を貰ってしまった、と思い詰めた巧は、愛梨を衝動的に殴ってしまった!!
「すいませんでした、先輩。
つい、カッとなっちゃって・・・お詫びに、ボクも殴ってください、思いっきり」
いいのか、そう、愛梨が歯を剥き出しにして笑い、顔を迫らせる。
(ひっ・・・でも、僕が悪いんだから)
井上に、立てなくなるほどのダメージが刻まれるパンチだ、自分が受ければ、ただじゃ済まないのは、巧にだって分かっている。
けれども、こっちが手を先に出してしまった以上、そのパンチは甘んじて受けるより他ない。
見た目よりも堅物である巧は、一ボクサーとしての興味にも後押しされ、首を縦に振った。けれども、彼の首肯は、魚見が前に立ちはだかった事で、愛梨には見えなかった。
もっとも、巧がパンチを受ける体勢を取ったとしても、愛梨は殴らなかっただろう。それは、彼女が甘いからでもあるが、それ以上に、巧が弱いからに他ならない。愛梨が限界まで力をセーブしたって、巧は衝撃で失神していたに違いない。
しかも、このところ、愛梨は紅壱や修一とじゃれている。つい、彼らに対しての出力で殴ったら、巧の顔面はバイキンマ〇の巨大ハンマーにやられたアンパンマ〇の顔のようになってしまう。いや、下手をすれば、首が180度近く回りかねない。
「あの、部長」
負い目のある巧は魚見の背後から顔を出そうとするが、彼女は彼の顔を手で押さえてしまう。
「魚見さん、殴らないから安心してください」
しばらくの間、魚見は懐疑的な表情であったけれど、愛梨の表裏の無さを知っているからだろう、肩を竦めた彼女の言葉を信じる事にしたらしい。
依然、巧を守るような体勢のまま、魚見が視線を向けたのは、まだ目を覚ましていない後輩。
「相変わらず、デタラメな強さだな。
アイツは自他ともに認める、うちのエースなんだが、太猿、お前相手じゃ、まるで歯が立たないな」
「いや、あのラッシュは結構、ビックリしましたよ」
(驚いただけで、ダメージはないのか、この人)
巧が感心していいのか、呆れていいのか、怖がっていいのか、反応に窮しているのを彼の近くに意図せずいられる事で感じ取ったのだろう、苦笑した魚見は彼の頭をくしゃりと撫でた。唐突に、憧れの相手から頭を撫でられて戸惑う巧の目は白黒とする。
「仰天したのは、あれを捌かれるのを目の当りにしたコッチだがな。
まぁ、これで、純子もアレに頼りすぎるのを止すだろう」
井上本人に慢心を自覚していなかったようだが、魚見は彼女が持ちカードを増やす事を怠っているのを見抜いているようだった。
自慢の技を、とことん強化するのも大事だ。しかし、それだけでは、試合に勝ち続ける事が難しくなってくる。
ボクシングに限らず、格闘技はジャンケンだ。
相手が出してくる手を予想し、こちらの手を変える事が出来れば、有利になる。グー・チョキ・パー、全てが出せるようにする、つまり、対応できるようになるのは、言葉で言うほど簡単な事ではない。けれど、世界の頂点を掴める者のほとんどは、少なくとも、手を二種類は持っている。
彼女は信じていた、魚見ならそこに到れる、それだけの才能を見合った努力で引き出せる、と。
(まぁ、コイツの場合、一種類しか手が出せない事が弱点にならないだろうが)
魚見は、自分達と愛梨の間にある才能の格差を、改めて、この模擬戦で肌に感じたのか、冷めた笑いを浮かべてしまう。
愛梨の強さは知っている魚見。「今」の井上では、勝つのは厳しい事も分かっていた。しかしながらも、善戦は出来る、と思ったからこそ、やる気が漲っている後輩を更に鼓舞し、戦いに送り出した。
しかし、「今」の愛梨の強さは、魚見がその身で知った時よりも増していた。
愛梨も、あれから、ある程度は成長しているだろう、と考えてはいたが、井上では、まるで相手にならないほど、実力を上げていたのは、想定外だった。
彼女が、太猿愛梨が、自らの強さに驕らず、努力が続けられる性質の後輩であるのは、魚見も知っていたが、いくら、鍛錬を欠かさなかったからと言っても、このレベルアップはそれだけでは説明がつかない。
(恋の力か・・・・・・)
つい、心に過った自身の乙女な発想が気恥ずかしかったのだろう、魚見は自らの頬を叩いて、更に赤味を強めさせる。
「ちょ、いきなり、何ですか」
「いや、何でもないさ・・・」
驚かせた事を詫びた上で、魚見は「ここまで強くなられると、もう、妬みすら芽生えないな」と心中で呟く。
生じるのは、素直な憧れ。本人に、その自覚があるかは定かでないにしろ、闘技者として最強の女子を目指す魚見にとって、愛梨は追いかける価値のある目標だった。この世界には、年齢や功績は関係ない。自分より強い奴は、全員が憧れであり、倒したい敵だ。
(こいつの、とことん強いグーには、二種類だけじゃ足りないな)
拳大の石が、一回り以上も大きい石を真正面からぶつかって砕き、日本刀のような輝きを誇る鋏の刃を、自らも切れ目を入れられながらもボロボロに傷つけ、半ばからヘシ折り、何重にも包み込んで動きを封じ込めようとした紙を内部で回転する事により、粉々にするイメージが見えた魚見は、ブルッと震えてしまった。
「ほんと、大丈夫ですか、部長?」
巧に下から覗き込まれ、痛みと熱が引きかけていた魚見の頬は、先ほど以上に赤くなってしまう。
「うむ、平気だ」
臍の下と奥に感じた疼きに支配されてしまわぬよう、魚見は6つに割れている腹部に力を入れると、巧を安心させるように破顔する。
「しかし、今の試合を見ていて、少し不安になったが、太猿、お前、後輩に手など出してはいないだろうな」
意外に、愛梨が気は長い、と知ってはいるが、異性相手にもそれが通じるのか、は魚見も判断が出来ない。同性相手なら、笑って許せる事でも、異性がしたら、簡単に怒ってしまう事は、よくある。
愛梨の場合、逆上した男に怪我をさせられる事は、まず考えられない。先に一発を入れたのなら、その男は一発KOさせられているからだ。井上がカウンターを決められなかった以上、その辺の男にも出来ないだろう。
魚見は、まだ会話はおろか、直近した事もなく、紅壱や修一の強さを正確に把握できていなかったからこそ、その心配が湧いた。
そんな彼女の言葉に、愛梨はパチパチと瞬いていたが、いきなり、「フハッ」と笑い、「してませんよ、そんな前時代的なこと」と、手を大袈裟に振る。
「なら、いいんだが」
「ちょっとムカついたくらいで、アイツの頭ぁ張り飛ばした日には、アタシの首がアキに斬り飛ばされちゃいますよ」
おどけた愛梨が親指を素早く、喉元で横に動かし、舌をだらりと出したので、巧は「生徒会長は、そんな事しないでしょ」と返そうとしたのだが、魚見が「確かに、あの会長なら、やりそうだな」と真面目な顔で同意したものだから、口を半開きにしたままで固まってしまった。
「そもそも、アタシだって、勝てるかどうか確信できない相手に、何の準備もせずに挑みはしませんよ」
そこまで明るく笑っていた愛梨が、急にマジメ、しかも、一握りの慄然を滲ませたので、魚見と巧は息に詰まる。
何を馬鹿な、と笑い飛ばしたくなるが、愛梨が後輩に対して、何らかの危険を野生動物じみた勘で感じているのは、表情から瞭然である。二人は観察力に長けているだけに、愛梨のそれが本物である、と判断できた。
「・・・・・・そんな、ヤバいのか」
「今みたいな、審判がいて、ルールが厳格な試合なら、勝率は八割は超えますよ。
ただ、屋外で喧嘩となったら、五割以下でしょうね」
卑下や謙遜でないのは、目に宿る光や、唇の色、口角のわずかな強張りで察せた。
「それは、蹴りや投げ、武器の使用もアリ、でか?」
「何でもアリで」
一般人である魚見が気付くはずもないが、愛梨の口にした「何でも」には、魔術の使用も含んでいた。
当然だが、愛梨は今のスパーリングに、魔術は使用していない。
肉体を強化する呪文と同等の効果を発揮する装備も、この部室に入る前に外している。あくまで、愛梨の目的は、昂ぶった血を押さえる為に、汗を流す事だったのだから、対怪異の手段を人間に使うはずがない。 もしも、使用していたら、今ごろ、井上の内臓は無傷じゃ済んでない。
愛梨は、自分の魔力量が多くない、と知っているからこそ、肉体を強化できる装飾品の力を借りる点に関しては、あまり、引け目は感じていなかった。
何せ、相手は人間の常識が通じてはくれないモンスターなのだ、自分の力だけで戦って勝つ、なんて生易しい信念は簡単に貫けない。
命があっての物種、道具で力の差を埋められるなら、愛梨は気にしなかった。彼女は死にたくもなかったし、仲間の足も引っ張りたくなかった。そんな彼女の戦いにおける誇りが、皆の闘争心を高めているのだが、本人はまるで気付いていなかった。
魔術方面に関しては、武技ほどの才気が自分にはない、と見切りをつけていた愛梨だからこそ、紅壱が魔術師としても大成できる可能性が高い、と見抜いていた。
同じように、彼の才能に気付いている瑛がマンツーマンでレクチャーしたのなら、その可能性は更に高まるだろう。
巧の行為は、ボクサーを志す者としては失格
だが、もしも、巧が頼んでいなければ、魚見は愛梨に、井上を成長させるべく、敗北をプレゼントしてやってくれ、と依頼していた
なので、魚見は部長として、愛梨に殴られようとしている巧を庇い、彼へ相応のペナルティを与えたのだった
一方で、魚見は愛梨が後輩である紅壱に拳で仕事のイロハを教えているのでは、と危惧する
彼女の心配を笑い飛ばしながらも、愛梨は紅壱の潜在能力に対して、恐れすら抱いている事を、魚見相手に吐露するのだった




