第九十五話 脳揺(brain concussion) 井上、愛梨のパンチで脳が揺らされ、負けを喫する
向上心のある後輩たちから刺激を受け、女子ボクシング部へ殴り込みをかけた愛梨
部のエース選手である井上が、もっと強くなる事を望む、マネージャーの巧から、手を抜かないでほしい、と頼まれた彼女は、予定よりも真面目にスパーリングを楽しむ事に
全国級の選手である井上が繰り出す連打も、愛梨には通用しない。それどころか、全弾が打ち落とされてしまう
追い詰められていく井上だったが、彼女の目は決して、死んでいなかった
「よしっ」
魚見もタオルを投げかけたのだが、井上が諦めなかったのを見て思い止まり、拳を強く握った。
「無理に攻めるな!!
距離を取って、体力を回復させるんだッッ」
腹で疼いていた熱が頭にまで届き、やり返すべく、前に飛び出そうとしていた井上は、その指示で冷静になる。
自分からは動かず、愛梨が詰めてこようとすれば、ジャブで止めさせ、すぐに離れる。
魚見の助言に従い、体力の回復を優先する井上に、愛梨は「いいね」と白い歯を見せた。
じっくりと堪能したいが、魚見がくれたのは1Rで、それも半分ほど過ぎてしまいそうだ。
怪異と戦っている時と違い、急いで倒さねばならないほど切羽詰まっている訳ではないにしろ、相手の思惑に付き合う義理もない。ここは、あえて崩させてもらおうか、と決めた愛梨は足を使い、井上の周りを俊敏に動きまわる。
動かない気なら、それで結構、その場で動かぬまま、アタシの連打を浴び続ければいい、とばかりに、愛梨は井上の周囲を動き回りながら、迅速いジャブを小刻みに繰り出していく。
「ッッッ」
愛梨の動きに、井上もどうにか反応するが、全てはガードできてはいない。
全方向から放たれる、愛梨のジャブの連打に、観衆らは息を呑み、大半は井上の負けを予感する。それでも、まだ、井上の勝利を頑なに信じる者もいる。
「井上ッ、ガードだけは落とすなッッ」
確かに鋭いが、その分だけ、軽い。愛梨のジャブなので、素人なら倒せる、その程度の威力は十分にあるけれど、井上なら耐えられる、と信じた魚見。
だからこそ、こめかみや顎を打たれた場合だけはマズい、と感じたので、大声で檄と共に、的確な指示を飛ばす。
魚見以上に、自分の勝利を信じる井上は必死に耐えた、体に浴びるジャブの痛みにも、手を出したい逸りにも。
この場所にいると、チャンスを作れない、そう考えた彼女は愛梨の動きを目で追い、ジャブを対処しながら、ジリジリと摺り足で目的地に動いていく。
愛梨の作ったジャブの檻は狭かったが、脱出口は見えていた。
痣が出来ていくのが分かる痛みを堪え、目的地に到着できたのは、試合終了を告げるゴングが鳴る30秒前だった。
「コーナーに!!」
巧は、井上の意図を理解し、驚きに声が大きくなった。
確かに、愛梨のフットワークは卓絶し、賛せるものだった。それは、美しい円をキャンパスに描いていた。だからこそ、その軌道をポストを背負う事で断ってしまえば、閉塞状態を打破できる。思った通り、愛梨の足は止まり、彼女らは正対する形となった。
逃げ道がないのは、井上も同じだが、この時間内に片を付けなければならない以上、致し方ない。むしろ、背水の陣となった方が、井上は燃えられた。
途中で気付いて、井上がそこへ行くのを阻もうとしていたが、成功できなかったからか、愛梨は痛恨の色を滲ませ、口の両端をひくつかせていた。
それに気付き、諦めムードに包まれ、仲間をどう元気づけようか、と眉を曇らせていた観衆の胸も膨らみを取り戻そうとしていた。
魚見もこれがラストチャンスだ、そう直感し、「勝て!!」と叫ぶ。
しかし、魚見らが熱くなるほど、観衆の中で一人だけ、巧だけが胸の中で騒ぐ心配の雑音を喧しく感じてしまう。
それは、彼が愛梨に、「勝ってくれ」と願ってしまったからか。
「シャッ」
痛みへの耐性が限界を迎えそうである井上は、気合を入れた声を張り上げ、攻めていく。
井上の癖を観察し、把握していた愛梨は彼女が「散弾銃」を繰り出す、と見せかけ、まだ自分に見せていない、もう一挺の銃を抜いてくる、と予感した。
他の選手では気付かない、井上のレベルの高いフェイントを看破した愛梨は、逆にそれを気付かれないようにしながら考量した。そうして、井上の攻撃に乗った上で、上回ってやろう、と即決た。
紅壱が、この戦いを「解析」を使いながら観戦していたのなら、愛梨が持つ「高速思考」が発動していたのに気付いただろう。
「散弾銃」を迎撃するべく、愛梨が三度、ラッシュを繰り出してきた事に、井上はほくそ笑んだ。
被弾しないギリギリのラインで踏み止まった井上に、愛梨は「しまった!?」と言わんばかりの表情で、左ストレートを放つ。
(勝つのは、アタシよ、太猿ッッ)
井上が、愛梨の左ストレートに、温存していた右ストレート、他の選手の生命を断ちかねないほどの威力があるゆえに、「攻城砲」と恐れられているそれを発射したのと、愛梨のすかっとした笑みに気付いてしまい、「ダメだ!」と巧が叫んだタイミングは、ほぼ重なった。
完全に集中していなければ、井上も巧の制止が耳へ入り、自分がダメージを負うのも承知で、「攻城砲」の軌道を強引に変えただろう。しかし、自分の逆転勝利を期待する観衆が騒いだのも仇となり、井上は止まれなかった。
いくら、愛梨でも右ストレートがクロスカウンターが入ってしまえば、大ダメージとなり、KO負けを喫していただろう。
入っていたら、の話であり、右ストレートが来る、と察知できていれば、いくらでも対応は出来た、愛梨ほどの強者なら。
井上の「攻城砲」をわずかに顔の位置を逸らして通過させた愛梨は、無防備になっていた彼女の顎を一直線に打ち抜く。
カウンターを返された井上の脳は、今度こそ、完全に揺れる。
膝は、いくら、彼女が拒もうとも、勝手に曲がってしまう。
本来であれば、このまま、井上はKOしていただろうが、相手は愛梨である。しかも、巧との約束を守って、完膚なきまでに負かす、と決めてしまっている。
彼女は井上が崩れ落ちていくのを許さず、左のアッパーで打ち上げ、強引に井上の背を真っ直ぐな状態に戻してしまった。
そして、鳴が密かに「ゴリラパンチ」と呼称でいる、愛梨の左フックが出た。
ここは、さすが、と賞賛るべきだろう、井上は意識がほとんどない状態だったにも関わらず、野生の勘、もしくは、ボクサーとしての経験か、体は防御に動いていた。
それでも、愛梨の左フックは、井上の右手によるパリングなど物ともせず、先ほどと同じ箇所にメリこんだ。
ぼぎゅんっ、と水が詰まった革袋が踏みつけられたような音が発せられ、直後に、井上の口からマウスピースが落ち、体勢も低くなっていく。
もし、レフェリーが止めていなかったら、愛梨は左拳を振り降ろして、井上の膝がキャンパスに落ちる寸前に、こめかみを打ち抜いていたに違いない。
いくら、ヘッドギアを被っていても、コンクリートブロックを砕ける愛梨の拳打を受ければ、井上の頭蓋骨には亀裂が走っていただろう。
例え、スパーリングでも、相手が本気で向かってくるのであれば、手加減はしない、それが太猿愛梨だ。
レフェリーは激しく腕を交差させ、井上のKOをアピールする。
「担架!! 急いでッッ」
顔色を失っていた部員らだが、いつになく大きな巧の声に身を竦ませたが、すぐに数人が担架を取りに走る。
「ちょっ!!」
リングの中に飛び込んでいった巧は、愛梨に殴りかかる。誰も、彼を止められなかった。巧の動きが迅速かったのもあるが、それ以上に、誰もが思っていなかったのだ、彼が激情に駆られるとは。
魚見から教えられていた事など忘れ、感情に任せた、素人の殴り方だった。
けれど、愛梨の顔に巧のパンチは当たった。
いくら、魚見らから指導を受けていると言っても、巧はまだ、初心者だ。
そんな彼のパンチなど、愛梨は目を瞑っていても避けられただろう。
にも関わらず、彼女が巧のパンチを、あえて顔面で受けたのは、彼の勇敢さに敬意を表したくなったからだ。
今の今まで、自分と井上の試合を見ていたのだ、実力差が分からないほどバカではない、巧も。
その上で、愛梨に向かっていける心は、決して、弱くはない。
試合を終えた愛梨へ、怒りから殴りかかる行為が、ボクシング部の部員として正しいか、は別にしても。
「っ?!」
まさか、巧も愛梨に自分のへなちょこパンチが当たるとは思っていなかったのだろう、拳もひっこめる事が出来ないまま、呆然としていた。
動くに動けない巧に対し、スマイルを浮かべた愛梨。その瞬間に、巧は自身の睾丸が体の内側に引っ込むような錯覚を覚えた。
未体験の恐怖に対応できず、動けなかった巧は、いきなり、後ろへ引っ張られる。
襟が首に食い込み、息苦しさから彼は「ぐえぅ」と、自転車の前輪に蹂躙されたカエルの断末魔めいた呻き声を発してしまった。
だが、魚見がその場から退かせていなかったら、巧には愛梨の頭突きが直撃していただろう。
さすがに、漫画のように、頭が半ばまで首元に埋まるような事態には、愛梨にも、その程度の分別があるので、ならなかっただろうが、少なくとも、鼻血は噴き出し、頸骨もダメージを負う事になっていた。
巧の部員を想う気持ちに、心が打たれたからこそ、彼に殴られてやったが、やり返さない訳ではない。痛痒にも感じなくても、倍で返すのが愛梨のスタンスなのだから。
頭を振り降ろす前に、巧がそこからいなくなってしまっては、愛梨も諦めた。
「巧、外周1だぞ、このペナルティは」
「!! ・・・・・・はいっ」
愛梨に恐怖を抱き、次いで、魚見の軽々しくはない響きの言葉で、巧は冷静となり、自らの行動が、栄誉あるボクシング部の一人として相応しくない、と気付いて、一瞬、ひどく落ち込みそうになる。
しかし、ここで落胆する事を、魚見は求めていないし、何よりも、部員以外にパンチを打ち、当てた事に関するペナルティとして、外周1(5km)は生温い。
これは、魚見の温情だ、と気付けた巧は、彼女への感謝から、自然に大きくなった声で肯定の返事をした。
勝つ事を諦めず、愛梨から逃げない井上
愛梨の容赦ない攻撃に耐え忍び、ついに、彼女は反撃の糸口を実力で掴んだ
愛梨を壊す事も厭わず、井上が繰り出す右の拳
だが、愛梨の実力は、彼女達が思っていたよりも上だった
雪辱を果たすはずだったのに、井上はまたしても、愛梨に惨敗を喫してしまう
井上が担架で運ばれていった時だった、巧は愛梨へ殴りかかった!




