第九十四話 悦楽(enjoy) 愛梨、スパーリングを楽しむ
先輩として、そう簡単には後輩に追い抜かれる訳にはいかない愛梨
彼女が、自分の強さを磨くべく訪れたのは、何人もの全国級の選手を擁すボクシング部だった
そこのエースとスパーリングをする事となった愛梨へ、マネージャーの巧は「全力を出して、可能なら勝ってほしい」と求める
最初から手は抜かずに戦うつもりでいた愛梨だが、その言葉で一層に発奮する
そして、ゴングは鳴らされ、井上は序盤から得意技である「散弾銃」を愛梨へ見舞った!!
これでフィニッシュだ、と部員のほとんどが確信した。しかし、愛梨は、この程度でKOされない、と知っている魚見、井上は気を抜かなかった。また、巧も視線と意識をリングの中に向け続けていた。
三人の予想通り、ガードを下ろした愛梨は楽しそうに笑っていた。
殴られる痛みが肉体かつ精神的な快楽に変換される癖ではなく、単に井上が期待していたよりも強く、それを感じられる技を、この身で真っ向から受けられた事が悦楽しくて、しょうがないのだろう。
打ち終わった瞬間の反撃を警戒し、愛梨から軽快やかなフットワークで遠ざかっていた井上は、自分の「散弾銃」が直撃したにも関わらず、愛梨が体はともかく、心にダメージを負った様子がない事に、リング外の部員と違い、驚いていなかった。
全弾が、愛梨の芯に届いていなかったのは、拳に感じていた。むしろ、様子見の「散弾銃」で体力が半分まで削られてしまうようでは、ジャンケンに勝ち抜いた意味がない。
(さ、ギア上げるわよ)
ペロリと下唇を舐めるや、その場でステップを踏みながら、空に数発のパンチを打っていた井上は一気に距離を詰め、本気の「散弾銃」の引き金を引いた。
「速ッ!?」
「手数が倍って」
井上は、この「散弾銃」を愛梨は避ける、と予想っていた。
彼女のスタミナが自分以上にある、と知っている井上は、まず、そのスタミナを消費りたかった。
回避に足を使わせて、自分より体力を中盤までに減らしていく事で、この試合の流れを完全に自分の方に持ってきたかった。
数発でも当たれば、儲けもの。足運びが鈍ったら、即座に「散弾銃」を止め、威力に重きを傾けた「貫通弾」を放つつもりだった。
(この「貫通弾」なら、太猿からでも、KOを奪える、必ずッ)
圧倒的なポイント差で勝っても、意味がない、愛梨相手なら。
井上は完膚なきまでに叩きのめしたかった、自分が知る中で最も強い女子高校生を。
一撃必殺に繋げられる、その自信がある技だった、「散弾銃」は、井上純子にとって。
一切、彼女は油断していなかったし、慢心も棄てていた。
愛梨を、これまで倒してきた相手、また、自分に勝ったことがある選手と同等に見ていなかった。何より、今の彼女は自分に完勝した頃より強い、と侮ってもいなかった。
間違いなく、井上純子の強さは純度が高く、プロとも戦り合えるだけの、十分な強さに達している、と言えた。
それでも、人以外の存在と日夜、命懸けの戦いを繰り広げているのだ、愛梨は。
踏んだ場数だけでなく、一回の戦闘の密度が、井上のそれとは比較にならなかった。
井上の「散弾銃」だって、いくら、愛梨でも「止まって見える」と言えるほど、つまらない技ではない。
(いいなッッ)
一発に、彼女の努力が詰まっている。これほどの手数を出せるようになるまで、自らの体を地道に鍛え続けてきた事が肌で感じられたからこそ、愛梨は先程、嬉しさを隠せなかった。
だから、今度は、本気になったのが分かる「散弾銃」を受けも、避けもしなかった。
観衆は自分達の目の前で、信じがたい事が起こった時、ざわめいてしまう。
しかし、本当に、自分らの常識にあてはめられず、想像もしていなかった、圧倒的な強者を目の前にしてしまった時、言葉が出なくなるどころか、息すら忘れ、絶望に吐き気と息苦しさを覚えてしまうようだ。
破裂音は、鳴り響いた、リング内で。けれども、その音の奔流は、全弾が愛梨の肉体を撃ち抜いたそれではない。
巧が、あまりの出来事に、膝から崩れ落ちてしまったが、誰もそれを責められない。何故なら、大半の部員も驚き過ぎて腰が抜け、その場にへたり込んでしまったのだから。
「・・・・・・そこまでか」
辛うじて、ロープを掴んで立っていられた魚見は、愛梨の底知れなさに下唇を噛み締めた。あまりにも、歯が強く、唇に突き立てられたか、魚見の下唇からは「プッ」と音が上がり、赤い珠が顎を沿って転がり、毎日、巧がモップをかけている床に零れ落ちた。
愛梨が、「散弾銃」を同じ数の、左ジャブのラッシュで迎撃し、全弾を潰した事に関しては驚かない。
しかし、それは先程までの話だ。魚見だって、井上が本気の「散弾銃」を繰り出してくる、と察知したのなら、リスクが高い迎撃をしようなんて考えず、足を使わされるのも承知で避ける。
(まさか、一発も打ち漏らさないなんて)
動体視力、反射神経、それらの情報を無駄にせず、最適な攻撃を行える身体能力、そして、失敗を恐れない胆力、どれもが桁違いだった。
才能に努力、そんな陳腐な表現ですら、愛梨が今やった事は説明できなかった。
強さの次元が違い過ぎる、その現実が生む衝撃波を、至近距離から浴びてしまった井上。
彼女は体勢こそ崩していなかったが、心のバランスは揺らいでしまいそうになっていた。
努力の末に、やっと、ここまで手数を増やせた「散弾銃」が通じない、それを認めれば、愛梨と自分の間にある距離を、これから、どれほど頑張っても埋められなくなる。
嫌だった、それだけは。
弱気から、攻撃の波に乗り損ねそうになった井上は、息を小刻みに吐きつつ、左の手首を糸を巻き取るような動作で回した。それは、彼女にとって、落ち着きを失った気持ちを落ち着かせ、闘争心を取り戻すためのルーティンだった。
幸い、体力も十分にあったからか、それは井上にまだ効いたようで、彼女の目は光を失くさずに済む。
井上は対岸に、不遜な笑みを浮かべて立つ愛梨に向かって、底が見えない崖を全力で跳び越え、殴りかかっていく自分を強くイメージしながら、再び、本気の「散弾銃」を繰り出す。
けれど、愛梨は井上が崖を跳び越えられる、と判断したタイミングに合わせて、自らの跳躍してきた。そうして、動転している井上を容赦なく、崖に向かって蹴落とした。
またしても、「散弾銃」を完全に迎撃されてしまった井上は、ヘッドギアを被っていても、はっきりと青褪めてしまっていた。
先程は「まぐれかもしれない」、そんな空虚な希望に縋る事が出来たから、井上の下半身はブレなかったのだろう。けれど、また縋ろうとしたそれは、すっかりと空気が抜けて萎んでしまっていた。
わずかであっても、井上にとってはピンチであり、愛梨にとってはチャンスだ、体勢の崩れは。
得意とは言えないが、接近戦で優勢を引っ張り治す為に、その場で立て直すべきか、それとも、臆病者と謗られるのも承知で後ろに下がるべきか、もしくは、逆に前へ出てクリンチをして凌ぐか、普段ならしない躊躇だった、これは。
井上が気付いた時には、愛梨の左拳が眼前にあった。
チャンスだ、と思えた、井上には。
いくら、愛梨でも、「散弾銃」の迎撃で精一杯だったのだ、そこから、十分に威力のある攻撃は繰り出せない。腕が伸び切っている、この左パンチは自分を接近させないために牽制。
力を乗せられていないパンチであるなら、このまま被弾しても、影響はない。むしろ、愛梨が拳を引く動きに合わせ、自分は飛び込めばいい。
そう思ったのは、井上が強いボクサーだから。元より、喧嘩屋の面が大きい愛梨は、そんな彼女と戦い方が違う。
愛梨は、腕が伸び切った死に体の状態からでも、柔軟な手首の捻りで打撃力を上げる事が出来た。
念の為に、とヘッドギアで愛梨の左拳を受けていなかったら、井上はここでKO負けを喫していたに違いない。しかし、その備えも、愛梨のパンチの威力の前では、さほど良い働きをしてくれなかった。
お笑い芸人が、巨大ハリセンで叩かれたような音だった、ヘッドギアに左拳が直撃した瞬間に部室内を静かにさせたのは。
ヘッドギアと、普段から首を鍛えていたおかげだろう、井上は脳震盪で気絶せずに済んだ。それでも、愛梨のこのパンチが当たってしまい、井上は一瞬、目の前が真っ暗になった。
想定外の一撃により、視界は霞んだが、真っ暗にはなっていない。手も足も、まだ動かせる、根性で。
(左のストレートが来る!!)
正常に戻っていない視界でも、愛梨が動いているのは見えたし、情報が欠片でも、相手の攻撃を予測できるだけの洞察力が、井上にはあった。
(カウンターを合わせて、ダメージを同じにするッ)
いつもならば、左へステップしながら上体は左へと回し、相手の打撃は右肩の上で避けて、左手で右拳のパンチに備えておきながら、上体の捻りを戻しつつ、左フックを顔面に打ち込んでいる。
だが、今の自分では十分に、左フックへ威力を乗せられない、と強引に回転させた思考で判断した井上は、垂直のダッキングから、左ストレートを愛梨のボディへ打ち込むカウンターを選択した。
けれども、彼女は左アッパーが自らの腹にメリこむまで、自分が愛梨に動かされた事に気付けなかった。
(左ストレートじゃない!?)
魚見は内心で舌打ちした。井上が、愛梨のフェイントに引っ掛かった、と察せたからだ。
視界がクリアな状態であれば、井上なら愛梨の「左ストレート」を打つぞ、そんな分かりやすい嘘に引っ掛かりはしなかっただろう。
左ストレートが来る、と思い込んでしまった井上は、そのまま、カウンターを選択させられ、しかも、左のアッパーを無防備に受けてしまう体勢を自分から取ってしまった。
いくら、日頃から鍛えていたって、力を入れていない状態で腹部へ、拳がメリこめば、大ダメージである。
もしも、視界の端に、続行か中止か、その判断に迷い、自分の顔色をチェックしようとしているレフェリーが入っていなかったら、井上はそのまま、膝をキャンパスへ落としていたに違いない。
「おおっ」
観衆が湧くほどの意地を見せた井上は、腹の痛みを捻じ伏せて構え直す。表情こそ歪んでいるが、目の光は却って強まり、拳にもやる気が詰まっているのを感じたレフェリーは、試合を止めない判断を下す。
大会で鎬を削り合う選手らの心を蜂の巣にしてきた、井上の「散弾銃」
それを被弾してしまった愛梨だが、彼女の心に生じた感情は恐怖や逃走衝動ではなく、不純物のない悦び
愛梨は、手を抜いた「散弾銃」で倒せないのが解かりきっていた井上は、当初のプラン通りに、本気の「散弾銃」を繰り出す
だが、愛梨は、井上の「散弾銃」を全弾、迎撃してしまう。思ってもいなかった展開に、動揺してしまう井上
愛梨の強烈なパンチに、意識は飛びかけるも、井上は諦めない
果たして、井上は愛梨から初勝利をもぎ取れるのか!?




