第九十三話 打鐘(gong) 愛梨と井上のスパーリングが始まる
成長性のある後輩たちに負けじと、愛梨はボクシングへ”道場破り”を仕掛ける
闘争心を漲らせる部員らは、愛梨とスパーリングをすべく、激しいジャンケン勝負を繰り広げ、勝ち残ったのは、全国的にエース級の実力を誇る井上順子であった
彼女ならば、自分にイイ刺激を与えてくれそうだ、と内心で喜ぶ愛梨へ、ボクシング部のマネージャーを務める黒一点である西尾巧は、ある願い事をする
それは、井上に勝ってほしい、というものだった
魚見が好いている男だ、八百長を持ちかけてくるとは露も思っていなかった愛梨だが、まさか、マネージャーが自分に、部員に勝ってくれ、と頼んでくるとは予想外すぎて、愛梨は反応できなくなってしまう。
巧ほど、可愛い系の少年でなければ、愛梨も「ナメるな」と小突けるのだが、真剣に頼んできているのが目、呼吸、雰囲気から察せるだけに、彼女は参ってしまう。
とりあえず、こんな妙な事を頼んでくる理由だけは知っておかねばならないので、愛梨は、身振り手振りで説明を求める。
普段から、マウスピースを咥えている相手とのコミュニケーションは慣れているのだろう、愛梨の要求は巧にきちんと伝わったようだ。
どう説明したら、愛梨に納得してもらえるか、可愛い顔を真面目に顰めていた巧は、しばらく、無言で考え込む。
「井上先輩は今、壁にぶつかってるんです。
僕と違って、才能がある人なら、誰でもがぶつかる壁だと思うんです。
井上先輩は、多分、努力や勝利で壁を乗り越えるタイプじゃなくて、負けちゃった悔しさで壁をぶち壊せる人です。
けど、井上先輩は強いから、部員相手の練習じゃ、どっちも本気を出す訳にはいかないんです。
他校に交流試合を頼むって手もあるんですけど、井上先輩がこっちから出ると分かると、ほとんどの女子ボクシング部に断られちゃうんです。かと言って、男子とは戦わせられません。
いえ、井上先輩なら勝っちゃうでしょう。それじゃ、本来の目的は果たせませんし、男子相手じゃ怪我もしてしまうかも知れません。
壁にぶつかったままじゃ、今度の大会で優勝は出来ません。
だから、先輩、無理なのも、失礼なのも承知でお願いします、井上先輩に勝ってください。
勝ってくれたなら、僕、何でもしますから」
愛梨は口を挟む隙が無いほど、巧は一気に喋り、最後に再び、深々と頭を下げてきた。
彼は井上のプライドを慮ってか、小声で愛梨に語りかけていたのだが、やはり、彼女へ首を垂れる姿は、魚見には不審に見えたらしく、視線を動かせば、眉を顰めている。
慌てて、愛梨が「イジめてないっすよ」と目で訴えると、一応は納得したのか、井上へのアドバイスを再開した。
ホッとしつつ、愛梨はまだ、頭を下げたままでいる巧をジッと見つめる。
部員ではないとは言え、先輩、しかも、話の流れで生徒会の役員と解かっている女子に、こんな懇願をするには、相当な度胸を振り絞る必要があっただろう。
視線を下にズラせば、巧の膝小僧はガクガク震えている。
それでも、その場にへたり込まず、緊張と恐怖に耐えられているのは見事だった。
(コイツ、良い男だな)
今年、この高等部に入ってきた男子の生徒は当たりが多いようだ。つい、嬉しくなってしまう愛梨のプレッシャーが増し、目前にいる巧には、それがモロにぶち当たり、膝が一瞬、カクンッと脱力してしまう。 けれども、彼は太腿を強く握った拳で殴って喝を入れ、愛梨の前に跪くのを耐えた。
巧は愛梨にお願いはした、だから、頭は下げる。
しかし、彼が平伏し、自らの忠誠心を捧げたいのは、自分を受け入れてくれ、理不尽に抗える程度には強くしよう、と力を貸してくれる魚見だけだった。
意図的ではなかったとはいえ、自身の威圧に負けなかった巧への評価を高めた愛梨は、自分のプレッシャーが届いたからか、更に闘争心が増している井上をジッと見つめた。
軽く汗を流すつもりだった愛梨だが、気は変わってしまったようだ。
それが、井上にとって、良かったか、良くなかったか、それは定かでないにしろ、愛梨が本気を出してくれる事になったのは、井上にとって願ってもない展開だっただろう。
「準備はいいか、巧」
「は、はい!!」
魚見の声がかかっては、頭を下げたままでいる訳にはいかない。恐る恐ると顔を上げ、愛梨の表情を見て、巧はハッとする。
「・・・・・・お願いしますッッ」
愛梨が自分の頼みを叶えてくれる、と直観した巧は涙ぐみそうになるも、ここで泣いたら情けなさ過ぎるので、乱暴に縁から溢れかけた涙を拭う。
そんな泣き虫ではない彼の肩に、グローブをはめた右手を置いた愛梨は目で脅し気味に問う、「何でもする、と言ったな?」と。
刹那、己の発言が軽はずみだった事を後悔しかけた巧だったが、男として、一度、交わした約束は撤回できない、したくない。だから、彼は「はい」と頷いた。
「でも、約束は守ってくれたら、の話ですよ」
そこは譲れない、と目でも告げてくる巧の肩から、頭へグローブを動かした愛梨。
「ひゃあっへる」
戦意丸出しの笑みに、巧は今更ながらに不安が芽生えた。
元から、ボクシングの試合を録画して何度も見直すのが趣味で、また、部員の練習風景やスパーリングを近くで見てきて、自分なりに強い人間を見抜く目力は磨いてきた自負がある巧。
だからこそ、いきなり乗り込んで来た愛梨に対して、正直なところ、不信感があったのだが、その強さが本物だ、と感じたからこそ、お願いしてみよう、と思えた。
しかし、この先輩は、強いのではなく、強すぎるのではないか、と嫌な汗がじんわり滲み出てきてしまう。
思い返せば、部員らの彼女に対する対応が、やけに刺々しかった。それは、無礼な登場だけが原因ではなく、自分が知らない恨みを買っているからではないか。
もしかして、自分は井上が強くなる、ひいては、魚見の名声が高まる事を願って行動したつもりで、実際は逆の結果に繋がるキッカケを生んでしまったのではないか。
いきなり、巧の唇の色が悪くなったので、愛梨は眉を顰めたが、井上がリングの中央に来てしまっているので構っている訳にはいかない。
リングの外へ出るよう促し、愛梨も井上の前に向かう。
止めたい気持ちに駆られ、巧は二人の間に割り込もうとした。
しかし、彼のそんな勇敢な意志に反し、足はその場から全く動かない。
魚見とのトレーニングで、ボクサーになりつつある彼の体は、熱源に近づく事を拒んだのだ。
不用意に接すれば、大怪我をする、その判断を下せるだけの強さを、巧は皮肉にも得ていたらしい。
「巧、出ろ」
魚見にも、そう言われてしまっては、退き下るしかなかった。すごすごと重い足取りで、リングの外に出て、睨む井上と笑う愛梨を見て、彼に出来る事は一つ、「井上が怪我しませんように」と真剣に祈る事だけだった。
目を硬く瞑り、指が折れそうなほどに強く絡めて、何かを願う巧が、あまりにもいじらしく、魚見は抱きしめたくなる。
とは言え、ギリギリのところで、理性が肉体の制御を取り戻したようで、伸ばしかけた手を引っ込め、巧の肩ではなく、ハンマーの柄を掴んだ。
「二人とも、奮闘するように」
そう告げ、魚見はゴングを鳴らし、井上に最後のジャンケンで負けた事により、レフェリーの大役を仰せつかってしまった三年生が、試合開始の動作をした。
先手を取ったのは、井上。しかし、ワン・ツーを繰りだそうとした彼女は、愛梨に先手を譲られた、と解かった。何故、彼女がそんな事をしたのか、井上には推測する気にもならなかった。
その余裕、後悔させてやろうじゃないの、と心の火は強まった。
女子ボクシングの王者になる、オリンピックで金メダルを獲る、この目標だけを見据えて、小学生の頃から自分を高め続けてきているので、彼女は自分が負けて強くなれる事くらいは、把握している。
だから、愛梨に全力以上を出した上で負けたのなら、脱皮できる事も頭で理解していた。
だが、負ける事を目的にして戦う奴なんていない。例え、復活により強くなれるとしても、だ。
何より、井上純子と言う選手にとって、太猿愛梨と言う素人は、負けられない相手ではなく、負けたくない相手であった。
なので、井上はこの勝負に勝つつもりだった。
強くなれなくても良い、今ぶつかっている壁を乗り越えるチャンスを無駄にしてもいい。
例え、チャンスが逃げたとしても、こっちが全力で追いかけて、掴めばいいだけの話だ、と前向きに考えていた純子は、自分のそんな心の持ちように驚いていた。
(・・・・・・この女のスイッチをONにしてくれた、西尾には感謝しなきゃ)
何を言ったのかは聞こえなかったが、巧が愛梨を発奮させてくれたのは間違いない。
これまで、嫌っていた訳ではなかったが、これからは、もっと優しくしてあげよう、と決める井上。
それにより、魚見が下手な色仕掛けを止め、素直に好意を彼に伝えられるようになれれば、御の字だ。
部員全員が、二人の煮え切らなさには、そろそろ、うんざりしていた。
(ま、それはコイツに勝ってからだけど!!)
一年生らがお手本にしたくなるほどの、ワン・ツーだったが、愛梨はそれを難なく避ける。
彼女であれば、井上がツーを引き戻すタイミングで懐へ飛び込む事も出来たはずだが、どういう訳か、その場から動かずに、次の出方を窺っていた。
やる気満々の表情なだけに、愛梨の意図が読み切れず、井上は一抹の不安を覚えるが、それも一瞬にして、心の火が焼き尽くす。
(来ないなら、こっちが一方的に攻めさせてもらうだけよッ)
井上は、まだ序盤、一分すら経過していないにも関わらず、得意技を繰り出した。
「!!」
それは、部員や他校の選手から、「散弾銃」と恐れられる、目にも止まらぬほどの連打。
一発一発が軽い訳ではなく、当たれば、ダメージが芯まで響き、半分でも被弾すれば闘争心は穴だらけとなり、そこから優勢に転じる事が出来なくなってしまう選手も多い。
いきなり、井上が決着を付けに行ったので、巧だけでなく、一年生らは驚く。
いつもの試合であれば、魚見も怒りを覚えているところだ。しかし、魚見は「よしっ」と頷く。
それを見て、巧は井上が「散弾銃」をこのタイミングで繰り出したのは、魚見の指示である事を察した。
(そうか、これは1Rだけの勝負だから、体力を前半のラウンドで削って、後半に仕留めるって、井上先輩が得意にしているパターンは使えない。
だから、ここで一気に、あの先輩の体力を奪って、主導権を渡さない気なんだ)
巧は一度、防具をフル装備して、井上の「散弾銃」の練習《餌》相手《食》になった事があるので、その怖さと痛みを知っている。なので、魚見の指示が間違っていない事を理解すると同時に、そこまでせねばならないほど、愛梨が強いのだ、と慄いた。
パンチが点ではなく、面で迫ってくるような錯覚を強いられる「散弾銃」、それを愛梨はあえて、真正面から受けた。
頭部だけは、しっかりとガードしていたが、三十発のパンチが当たった愛梨の体からは、咄嗟に耳を塞いでしまいたくなるような破裂音が上がる。
スランプを脱せぬ井上の事を心配していた西尾
彼は、井上が敗戦から、成長の兆しを掴むタイプの選手だ、と気付いていたため、突然、乗り込んで来た愛梨を実力者と判断し、無礼を承知で、井上に勝ってくれ、と頼んだのだ
唐突な頼みに面食らいはしたが、西尾が本気で、ボクシング部の事を考えている事が伝わってきたので、二つ返事で了承する
そして、ゴングは鳴らされ、井上はすぐさま、容赦のない連打を愛梨へ繰り出すッッ
果たして、このスパーリングで勝つのは、愛梨と井上、どちらだ?!




