第九十一話 拳打(punch) 愛梨、ボクシング部のエースとスパーリングをする
校内巡回を終え、生徒会室に戻ってきた愛梨
彼女は、恵夢が紅壱に、一年生が使うには無理がある術を教えていた事に気付いて、面食らいつつも、実力が未知数である紅壱ならば、その術も使えるのではないか、と思うのであった
そんな紅壱だけでなく、夏煌と鳴も頑張っているのを見て、焦りと共に、自らも頑張らねば、と向上心が疼いた愛梨は、ボクシング部に顔を出し、スパーリングをさせて欲しい、と請う
「っしゃぁ!!」
闘争心剥き出しの二年生は、中学三年の際にミニ・フライ級で全国制覇を果たしており、高校一年の時にオリンピックの強化合宿に参加した猛者である。今年のインハイ優勝候補の一角であり、女子ボクシング部のエースと言えた。
どんな大舞台でも、自分の戦い方を貫き、勝ってきた彼女ですら、愛梨とリングの中で真剣勝負をするとなると、笑うしかないほどの緊張に苛まれるようだ。
そんな彼女を見て、愛梨は「楽しめそうだ」と感じたらしい。
「よっと」
魚見に「いいぞ」と顎をしゃくられ、愛梨は軽やかな跳躍でリングの中に飛び込んだ。
その名が全国的に売れている女子ボクシングの選手と、今から、スパーリングをすると言うのに、愛梨の表情には気負いの類は微塵もない。
一歩間違えば、保健室どころか病院送りになる可能性があるのだが、ジャージのままでリングに入った彼女は程好く、脱力していた。
そんな彼女を前にして、相手も肩から力が抜けたようだ。意図していた訳ではないだろうが、相手の無駄な力みが消えたのを感じ、愛梨はますます、期待が膨らんだ。
「えっと、名前、何だっけ」
クラスが違うからか、愛梨はこれから、自分と拳を交えてくれる相手の名前が出てこないようだ。
生徒会役員として、それでいいのか、とクレームが来そうではあるが、全生徒の顔と名前が一致し、家族構成や成績まで把握している瑛の方が異常なんだ、と愛梨は訴えたかった。
ちなみに、そんな瑛だが、紅壱の事については詳細な調査をする踏ん切りが、まだ、付いていなかった。
聡明な彼女は、一度、好きになった男の事を調べ出したら、自分がストーカーになってしまう可能性が非常に高い、と奇しくも気付いてしまったらしい。
瑛が葛藤から抜け出せないおかげで、輝美子の事が判明せずに済んでいるのだから、紅壱にとってはラッキー以外の何物でもなかった。
輝美子が、切羽詰まった人間が可愛い弟に手を出す事を防ぐために、自分との繋がりを徹底的に隠蔽させている、と言っていても、安心は出来ない。
いくら、彼女のお願いを周囲の人間が聞いて、完璧に情報を守っていても、あくまで、それは対人用のセキュリティーだ。さすがに、対魔術の用意はしていないだろう。
もっとも、この国を裏側から牛耳り、ありとあらゆる権力と財力を掌握している家だ、竜宮殿は。
輝美子は知らずとも、彼女を守るために、裏にはその手のプロがいても、何ら不思議じゃないだろう。輝美子の本性を知ってか知らずか、彼女の事を祖母が気に入っている以上、その手のセーフティが備えられている可能性は高い。
それはさておき、愛梨に名前を聞かれた選手は愕然としていた。何せ、彼女は一度、愛梨と拳を交えているのだ。いくら、中学生時代に一回の対戦だけだったとは言え、名前どころか会った事すら、さっぱり忘れられているとは思ってもいなかったのだろう。
「井上順子よ・・・・・・太猿さん、今度は、しっかりと覚えてね。ううん、忘れさせない」
覚えられていないのは、自分がたったの十秒で負けたから、忘れられても仕方がない、とゴングが鳴る前に殴りかかってしまいそうな弱い自分を何とか落ち着かせた井上は、無理に口角を上げた。
彼女がぎこちなく笑ったのに首を傾げながらも、「ああ、期待してるよ」と笑い返す。
本人は煽ったつもりではなかったのだが、井上は愛梨に見下されている、と感じたようで、更に表情が引き攣ってしまった。
「ウミさん、グローブさせてくれるか」
「当たり前だ。拳のままではさせない」
呆れつつも、魚見は愛梨がグローブをしっかりとするつもりがあった事に安堵していた。
魚見は、校内でも数少ない、愛梨に裸拳で殴られた事がある者だった。
何故、そんな経験があるのか、それは魚見の黒歴史に関わる事なので、彼女の沽券の為にも伏せるが、女子ボクシング部のバトンを今、持っていて、次に託す義務がある魚見としては、大切なエースを壊される訳にはいかなかった。
「うちは練習中なんだ、1Rで満足して帰ってくれよ」
「ま、しょうがないか」
渋々と条件を呑みながらも、愛梨はこのボクシング部の次は、三つある柔道部、もしくはムエタイ同好会へ行くつもりだったので、ここにあまり時間を費やすつもりはなかった。
魚見は愛梨にグローブをつけさせる役目を、この春、マネージャーとして採用した一年生の男子に任せる。
「巧、コイツにグローブはめてやってくれ」
「はい!!」と、憧れの三竿部長から仕事を任された、一年の西尾巧は、張りのある声で返事をすると、汗が染み込んだタオルを入れた籠を床に置くや、ロッカーへ急ぐ。
「・・・・・・ここは、男子イジメがないようで、何よりっす」
「なんだ、抜き打ちチェックも兼ねていたのか?」
「いや、そんな事は、アキ、会長から言われてきてないっすよ。
ただ、今年も色々と聞こえてきているんで」
苦虫を噛み潰した表情の愛梨に、同様の噂話を小耳に挟んでいるのだろう、魚見も肩を竦めた。
「村上の所か」
「近々、女子バスケ部に話を聞くつもりっすね、会長は。
あ、これは言わないで下さいよ、女子バスケ部に」
機密事項をつい、口外してしまって焦る後輩に、魚見は呆れる。しかし、「あぁ、言わない」と苦笑の形を作っている唇の前に、バンテージを巻いている人差し指を立てる。
「ハッキリ言って、村上とは、あまり仲が良い訳ではないし、アイツらの男子マネージャーに対する可愛がりは、さすがに目に余るからな。
本人らは上手く隠しているつもりのようだが、人の口に戸は立てられないし、彼の体には痣が多く出来ているらしいからな」
「・・・・・・悪い方向に加速する前に、警告した方がいいっすね。
会長にも戻ったら、言っておきます」
そうしてくれ、と頷く魚見は、他の部で行われている男子への冷遇に、苛立ちを覚えているようだった。
もちろん、彼女だって、男子生徒が女生徒へ不埒な真似などしたら、鉄拳制裁するつもりだ。
しかし、全ての男子が、そんな下心を抱いている訳じゃない。
純粋に、そのスポーツが好きだから、全国大会で活躍している部に入り、そのプレーに触れる事で、自分の実力を上げようとしているのだ。今は、女子が多い部活に入るしかないが、これから、男子生徒が増えていけば、新たな部を立ち上げ、大会にエントリーする事も可能になるだろう。
ボクシングを愛している一人として、魚見は性別に拘らず、自分と同じように、ボクシングに青春を懸ける熱意があるのなら、男子の入部も大歓迎だった。
ただ、どうにも、その情熱は度が過ぎていたらしく、仮入部してきた男子は彼女の作ったメニューについていけず、半分が一日で逃げ出し、残りも翌日のマススパーリングで彼女の猛打でもんどりうって、来なくなった。
そうして、残ったのはマネージャー兼選手見習いの西尾巧だったのだ。
元々、運動がさほど得意ではなく、殴り合うのも好きではない彼だが、頑張っている人をサポートする事に遣り甲斐を覚えられる性質だったので、マネージャーとして、この女子ボクシング部の門を叩いた。
まさか、選手らに混じって、ウォーミングアップさせられるとは思ってもいなかったが、魚見の熱意に、彼自身も気付いていなかった男らしさ、「強くなりたい」、そんなシンプルな願望が起きたらしく、毎度、ゲロは吐きながらも、弱音は吐かず、どうにか、部員ですらキツいメニューをこなしていた。
そんな彼のやる気に触れ、他の女子らも意識が変わったようで、西尾に雑用は押しつけつつも、手を貸してやり、強くなるためのアドバイスも送っていた。
才能があるとはお世辞にも言えない西尾だが、早朝と放課後、部室の掃除が終わってから、一人で行っているトレーニングが芽を出し始めているのか、五月も近づいてきた今、少しずつ、ジャブの打ち方が様になってきている、こっそりと彼の努力を見守っていた魚見は感じていた。
「アイツは頑張ってくれているよ」
「・・・・・・惚れたんすか?」
「!? そ、そんなはずがないだろう。
いや、アイツに魅力がない訳じゃない。
しかし、部長がマネージャーと付き合ってしまったら、他の部員に示しがつかない」
「この部って、恋愛禁止ってルールあんの?」
近場にいてしまった一年の女子は、いきなり聞かれてビックリしてしまったが、「いえ、そんなルールは聞いた事ないです」と、緊張で震える声で答えた。
「なら、あの男子と付き合っても、何ら問題はないでしょう、ウミさん」
「しかし、校則には、不純異性交遊の禁止、と」
「不純な行為、要するに行き過ぎたイチャイチャを校内でしなきゃいいんですよ。
大体、そんなガチガチに、生徒を縛る校則なんか作っちまったら、うちの会長やアタシらは意中の相手に、何も出来なくなっちまいますよ」
またもや、口を滑らせてしまい、「あ、やべ」と愛梨は口元を手で覆う。しかし、反撃のチャンスを逃す魚見ではない。「ホワイト・シャーク」の異名は伊達じゃないのだ。
「ほぉ、お前達も恋をしているのか」
「・・・・・・うっす」
必死に否定するかと思いきや、愛梨が頬は赤らめながらも、自分から目を逸らさないままで、しっかりと頷いたので、魚見は虚を突かれながらも、「そうか」と嬉しそうに笑う。
(会長の事を詮索した、と知れたら、あの乳お化けに部費を削られそうだな。
気になるが、ここは、太猿を軽くイジるだけにしておくか)
「お前ほどの女が惚れるとなると、今年、入った一年の中でも、特に活きが良さそうな二人のどちらかだな。
確か、髪が少し赤い方、辰姫が生徒会に入って、EXILEのメンバーっぽい、矢車は何故か、軽音部を選んだ、と聞いたが」
紅壱と修一を一目見て、二人の強さを感じた魚見はあわよくば、どちらもスカウトするつもりだった。
だが、彼女同様に、紅壱達に注目した他の格闘技系の部の部長と、どこが最初に声をかけにいくか、揉めてしまった。
その間に、紅壱は生徒会に籍を置いてしまった。
紅壱の方は瑛の目に適ってしまったので、泣く泣く諦めるしかないとしても、修一の方は何故か、軽音部に入ってしまったのだ。
いきなりにやってきて、相手をしてくれ、と言ってきた愛梨に呆れながらも、ボクシング部の部長・三竿は、その願いを快諾する
熾烈なジャンケンにより、愛梨とスパーリングを出来る権利を獲得したのは、二年のエースである井上だった
一度、愛梨に秒殺され、雪辱を晴らす機会を待っていた井上は勝つ気満々であった
そんな井上に期待が膨らんでいたからか、愛梨は、つい、自分がとある男子に片想いをしている事を口から溢してしまう




