第八話 姉弟(dislike) 竜宮殿輝愛子、辰姫紅壱に会いに来る
生徒会の両業務にも慣れてきた紅壱
彼は厳しくも優しい先輩らの指導を受け、着々と役員として育っていた
しかし、仕事を覚え始めたころに、トラブルとは舞い込んでくるもの
学園に「封印」されていたモノを、紅壱は見つけてしまった
予想外の展開に動揺を隠せぬ瑛だったが、持ち前のタフさで計画を早める事を決断
紅壱は戦う力を得るべく、とある儀式に挑むことに・・・
「おい、コウ、お前、大丈夫か?」と愛梨は、瑛に課せられたノルマにより、薄くではあるが目の下にくまが浮かんでしまっている紅壱の肩を押さえ、覗き込む。
「・・・さすがに、毎日、ノート五冊分のスケッチは堪えましたね」
囁きかけてくる睡魔を噛み殺し、濃い苦笑を漏らした彼は十円玉を挟めそうな眉間の皺を揉み、瑛の指示で小冊子のイラストを出来るだけ鮮明に書き写したノートを突っ込んでいる鞄を下ろした。
「その上、アキちゃんお手製の霊符の効果で、数え切れないほどの魔属・霊属が夢の中にまで出てきたんでしょ?
寝不足になるならまだしも、強力な催眠波で朝まで起きられず、夢も覚めないんだもの。寝た気がしないのも当然だよぉ」
そう言いつつも、鳴の手を借りながら、土の上に白い粉を振りかけて複雑な図形を描いている瑛を見つめる恵夢は彼女が「いろは」も知らない紅壱へそんな厳しい手段を用いた理由も解かるだけに、彼女を止められなかったようだ。
紅壱自身も毎朝、疲れきった顔で登校しつつも、一言だって弱音を吐かなかったので、生徒会メンバーに出来る事と言ったら、放課後、生徒会室で黙々と鉛筆を走らせている紅壱にお茶を出してやったり、肩を揉んでやる事ぐらいだった。鳴は「甘やかしすぎです」と愚痴っていたが、瑛から釘を刺されていたのか、彼の邪魔をするような事はしなかった。もっとも、そんな事をすれば、瑛に次いで紅壱を気に入っている愛梨に殴り飛ばされていたに違いないだろうが。
「それに、通常業務も手伝ってくれてたんだから、疲れるのは当たり前だよ」
「・・・・・・・・」
「ナツ、ありがとな。
でも、俺は、確かに魔術の素人だけど、それ以前に、生徒会役員なんだ。
なら、そっちの仕事も、ちゃんとしねぇと、だろ?」
責任感の強さを感じさせる紅壱の言に、夏煌の口の両端が緩む。
昨日の午後は、新入生に向けての、部活紹介が大講堂であった。進行を仕切るのは、当然、生徒会だ。
庶務の紅壱の仕事は、何故か、ステージに瑛と共に立って各部と部長の名を読み上げ、なおかつ、紹介に対しての感想を述べる事であった。
力仕事をさせられると思っていただけに、これには面食らったが、瑛に逃げ道を塞がれてしまい、腹を括るしかなかった。
多くの女生徒の視線を浴びながら、司会を務めるのは心臓に悪く、ストレスで魔力の浸透が進むんじゃないか、と危惧したほどだ。
やはり、歴史ある元・女学校だけあって、部活の紹介も真面目だった。軽音部やチア部、空手部など派手なパフォーマンスは多けれど、生徒を不快にさせず、瑛の怒りを買わないのを念頭に置いているのか、基本的に前年の活動内容や成績などを発表するに留められていた。
もうちょい、アピールしないと新入生に興味を持って貰えないんじゃないか、と思いつつ、紅壱は無難なコメントを口にしていた。初っ端の華道部を軽く褒めた際、何が良くなかったのか、それは分からないが、瑛に爪先を踏まれてしまったのだ。彼女は軽く足を乗せただけなのだが、ツボを的確に押していたのか、それとも、魔術を使ったのか、とんでもない激痛が走った。悲鳴を上げず、笑顔を保った自分を、紅壱を褒めてやりたかった。
また、彼の心配は、男子生徒の進退にもあった。男女共学になって、まだ日が浅いため、当たり前だが、部員は圧倒的に女子が占めている。そんな縄張りに、男子が飛び込んでいける訳がない。もっとも、「ハーレムじゃねぇか!!」と鼻の穴を膨らませている、修一のような命知らずもいたので、杞憂に終われば上々か、と思ってもいた。
紅壱は籍を生徒会に置いてはいるが、校則では部活に入る事は禁止ではない、と恵夢が教えてくれた。ただ、表だけならまだしも、裏の業務もあるので、部活動までは手が回らないのが実状らしい。
今後も、ピンチヒッターに入る程度か、と他の部の目覚ましい活躍に終始驚かされながら、紅壱の緊張する時間は終わった。
「エラい!!役員の鑑だぜっ」と、自分のボディにショートフックを入れ、ダメージを与えた愛梨をポカポカと可愛い音を上げながら殴る同級生に癒されていたが、紅壱はふと、遠い目をしてしまう。
(まぁ、疲労の原因は、会長の詰め込みや、表側の業務だけじゃないんだが)
昨夜、自分に降りかかった出来事を不覚にも思い出してしまった紅壱は周囲の視線も気にせず、重々しい嘆息を盛大に吐き出してしまう。
儀式の前日だからか、俄然、やる気を漲らせていた瑛に「これでもか」と詰め込まれた未整頓の情報で、今にも破裂してしまいそうな頭を軽く揉み解しながら、自分の部屋へときびきびとした足取りで向かっていた紅壱。
今夜は皿洗いの当番ではないので、飯を食ったら、明日に備えて布団に潜っちまおう、と思いながら、部屋の扉の前に立った瞬間、彼の顔は「ビキィ」と音が見えそうなほど、一気に硬直した。
(・・・・・・テープが破れてる)
この音桐荘の住人に盗人などいない、そんな事は百も承知だ。しかし、外から入り込めない訳じゃない。五体満足で出る事ができないだけで。だから、念の為に、紅壱は自室の扉を誰かが勝手に開けた時に備え、紙テープを出る際に貼っておくように心がけていた。某有名コメディ洋画のように、トラップを仕掛けてもいいのだが、それをやると友人が呼べなくなるので止めておいた。
(誰かが入ったのか・・・・・・おい、まさか)
侵入者が誰かに思い当たってしまい、紅壱は込み上げた吐き気を押さえるように口元へ手を持って行く。
ありえない、ではなく、あってほしくない、その念に駆られながら、扉をそっと開け、中を窺った紅壱。
「・・・・・・・・・」
そうして、一度、扉をゆっくりと閉め、紅壱は「夢、夢だ・・・夢であってくれ、頼むから」と自分に言い聞かせ、神ではなく魔王に縋るように懇願ながら深呼吸を五分近くも繰り返す。ようやく、動揺も収まったか、彼は先程よりも勢いをつけて、半ば壊すつもりで扉を開けた。
だが、状況がまるで変わっていない事を思い知らされた彼は、生徒会メンバーが見たら驚きそうなほど、今にも泣き出しそうな表情を浮かべてしまっていた。
傍目から見たら不安になるほど、蒼白を通り越して土気色になりだしている顔を両手で覆ってしまった彼は、その場にへなへなと膝を着いてしまう。
「大丈夫?」
紅壱に声をかけてくるのは、鉄パイプを組んだだけの、無骨なベッドに腰を下ろしていた、息が止まってしまうほどの美貌を誇る美女。
彼女は紅壱が一度目に扉を開けた際は朝、ベッドの上に彼が脱ぎ捨てたままでいたトランクスの股間部分に顔を埋めて、激しすぎる深呼吸で残り香を堪能していた。だが、今、開けた時には、既に恍惚を顔から拭い取り、鮮やかすぎる真紅のルージュを引いた肉厚の唇を、ゆったりと動かすようにして聞いてくる。視線をずらすと、彼女の胸の谷間からは、見慣れたものの端が覗いており、それに気づくと、美女は紅壱から無断拝借するつもりの未洗濯の下着を押し込んだ、柔らかい肉丘の隙間に。
「・・・・・・まだ約束の日じゃないでしょうが!! 輝愛子さんっっ」
経験値の低い不良なら、自分の敗北を覚る前に、泡を勢い良く噴いて失神しかねないレベルの覇気を含んだ紅壱の怒号。しかし、組んでいた、モデルかと思うほどに磨かれた足を優雅な動作でほどいた美女は、「やだ、怖い」と口許に手を持っていき、瞳を潤ませる。しかし、その動作は実に嘘くさかった。その証拠に、彼女の瞳はしっかりと笑っていた。
今程度のもので、彼女を戦かせられない、と知っている紅壱は痛いほどに後頭部を乱暴に掻き、まだ力が入りきらない足で扉に体を半ば預けながら立ち上がった。
重々しい溜息とともに扉を乱暴に閉めた紅壱は鞄を机の上へ乗せると、ベッドから降り、熊の顔を模したクッションに座りなおした美女に向き直る。
この生徒会メンバーに勝る美貌とスタイルを誇る美女の名前は、竜宮殿輝愛子・・・紅壱の種違い腹違い、四つ上の姉である。
もっとも、紅壱は彼女の事を姉どころか、家族の一員などとは、微塵も思っていないし、認めてもいなかった。その意思を示すように、彼は輝愛子から何度、「ねぇさん、アネキ、とか呼んでみてよ」と懇願されても、頑なに他人行儀な呼び方をしていた。
紅壱は輝愛子を姉とは思っていなかったが一応、血の繋がりはあった、あくまで「一応」だが。
試験管の中での人工授精によって造られた彼女は、両親の顔を知らない。
父親は二十段階の厳しい審査から選りすぐられた優秀な男だが、精子を採取された後に命もデータも抹消されたので、写真一枚すら残っていなかった。
母親もまた、優秀な人物だったようだが、あくまで産むための『器』に使う為だけに雇われ、産声を上げた輝愛子と自分とを繋いでいたへその緒を切られた直後、他の病院へ移された。命までは奪われなかったようだが、顔は変えられ、戸籍も他人の物に代えられたようだ。今では、生きているのか死んでいるのかもハッキリしていない・・・らしい。詳細は怖いので、さすがに紅壱も聞けちゃいない。
そして、卵子は辰姫紅壱の実母・輝美子のものだった。なので、輝愛子にはどこか、輝美子に似ているパーツがある。それが、余計に紅壱に嫌悪感を抱かせるのだが、当の輝愛子は気付いていない。
これほどまでに複雑な血の繋がり方をしている、他人よりかは親族に近い女性を姉として見るのは難しい。かと言って、成年漫画のように、恋愛対象となる一人の女性としても、紅壱には見る事は出来なかった。
基本、喧嘩っ早い気性の紅壱だが、人懐っこい一面もあり、助け合える友人の数も多い。
自分や友人に手を出してきた相手に対し、殴りあう前は何よりも憎い、と思っていても、本気で戦っている間に、ドロドロとした感情も昇華してしまい、最終的には仲間とまではいかなくても、自分の中の『嫌いじゃない奴』のカテゴリーに組み込んでしまう。
そんな懐の広い少年である紅壱が、世界で唯一無二と言っても過言じゃないほど毛嫌いしている人間が、この竜宮殿輝愛子だった。憎んでいるなら対応もそれなりになるのだが、本能に訴えかけてくる嫌悪感を抱かされるものだから、ついつい腰が引けてしまう。
できるなら赤の他人でい続けたかった彼女に出会ってしまったその日の夜、紅壱は布団の中で歯軋りしながら、信じてもいない神様を心の底から恨み、愚痴ったものだ。
輝愛子は逆に、紅壱に対して絶対的な好意を持っていたが、弟のポジションにいる紅壱へ注ぐ愛情は、実弟へ向けるべき当然のそれではなかった。
彼女は、竜宮殿輝愛子は辰姫紅壱を、一人の男として愛していたのだ。
瑛に問われた際に渋面で返答えていたが、紅壱は非童貞である。自分の『初めて』を捧げると同時に、彼の筆下ろしを乱暴の二文字では説明しきれぬ手段で行ったのが、誰でもない、輝愛子だ。これは紅壱が彼女に近づきたくない理由の一つでもある。
常人なら死んでいる量の薬で昏倒させての強姦に及んで以来、輝愛子が荒っぽい行動に出た事はないが、隙さえあれば性交渉に及ぶ気が満々なのは、顔を合わせる度に膨らんでいる欲求不満の気配で読み取れていた。
だが、どんなに憂鬱な時間が待ち受けていると分かっていても、紅壱は隔週で輝愛子と顔を合わさねばならなかった。
第二週と第四週の土曜日、彼女の部屋に泊まる、その約束を交わした上で、紅壱は学費の全額を彼女に出して貰っていたのだ。
名門とは言え、天戯堂学園の学費は目玉が飛び出てしまうほど高額なわけではない。しかし、両親のいない紅壱では、毎日、アルバイトを入れても到底、払えなかった。祖父母も「そんな金はこの家には無い」と言い切り、他の高校の受験日も全て過ぎてしまっていたので、紅壱は浪人しかないか、と進学を半ば諦めていた。
そんな彼へ、現実的な交渉を持ちかけてきたのが、輝愛子だった。彼女自身は可愛い弟を自分のボディガードにして、いつでも手元で愛でたい、と考えていたようだが、執事から中卒の彼を近くに置くのは危険な隙を見せるのと同義です、と忠告されたらしい。
そう言う意味では、紅壱は輝愛子の執事である山田一郎(偽名)には、どれほど感謝しても足りなかった。彼が止めてくれていなければ、自分は今頃、愛玩人形にされていた、と背筋が寒くなる日がある。
輝愛子が背負う姓『竜宮殿』、その厳しさに背かぬ、由緒正しい家柄であった。もっとも、積み重ねてきた、300年近い歴史は他人の血と涙、苦しみや絶望に色も判らなくなるほどに塗れていた。
日本と言う国を裏側から操ってきた各界の名前を表に出さない権力者たちが、絶対的な忠誠を誓い、その畏怖の念の大きさを示すかのように莫大な金銭が一瞬たりとも止まらずに流れているパイプの終着点にしているのが、この『竜宮殿』家なのだ。
この一族は指一つすら動かすことなく、一般人が何度、労働者の層に生まれ落ちようが、決して届かぬ金額を懐に入れさせる。
トップ陣の弱みを握って脅したり、世界経済にも介入したりしない。純粋な恐怖や、凄まじいカリスマ性で縛ってもいない。何をしようが、何もしなくても、小国を買い取れるだけの金銭が集まってくる事が決められているのだ、単純に。
裏社会の首領、そんな肩書きでは力不足すら感じさせる竜宮殿の現在の家長は、誰でもない、輝愛子だった。
先代は母方の祖母と言う事になる、竜宮殿輝磨子だった。だが、輝愛子は彼女が自分の孫に当たる紅壱を『出来損ない』の烙印を押して闇に葬り去ろうと算段を組んでいるのを知るなり、先手を打って、自分に竜宮殿の掟を叩き込んだ形式上の祖母を躊躇うことなく殺害し、死体は屋敷の中庭の大きな池で飼う肉食種の猛魚にくれるエサの肉団子にしてしまった。
電話一本であらゆる犯罪を依頼し、同時に自分のそれも完全にもみ消せるだけの、凄まじい権力を持っているにも関わらず、屋敷の中で事を進ませたのは、単に電話をかけることすら、輝愛子には面倒だったからだ。
血生臭い伝統、一般人を自分達と同等と見ぬ歪んだ思考、竜宮殿の『姓』と『誇り』のみを受け継がせるためだけの教育は、それまでの当主など比較にならないほどの怪物を作り上げてしまったのだ。
人を人と思わぬ、大富豪特有の傲慢さを彼女が持ち合わせていたのなら、まだ良かった。
しかし、中学二年生になった彼と初めて逢った瞬間に、それまで自分に欠落していた『生きる目的』を得てしまった輝愛子。
山田(偽名)によれば、その頃から、年齢の割に希薄すぎた感情や表情もしっかりとしだしたらしい。涙ぐむ彼に感謝されてしまうと、「余計な事をしてしまった」とも思えず、紅壱は悪魔が土下座しそうな半笑いで誤魔化すしかなかった。
紅壱に「えらいですね」と褒められたいがためだけに、半ニート生活のリズムを徹底的に改善した輝愛子は、最低限の健康を維持できるだけの栄養しか含んでいなかった食事の量も倍まで増やした。
また、元から優れていた容姿を、それまで『有る』だけだった財産を注ぎこんで磨きに磨き尽した。今の彼女の美貌は、とんでもない桁の金額と凄まじい努力によって作られ、今も尚、最高のレベルを維持し続けていた。
そんなベストセラーを出せそうな頑張りを知っていても、紅壱の中の評価はまるで変わらないのだが、輝愛子は微塵も気にしていなかった。彼が自分をどんな風に思っているのか、その点は彼女にとって大した事ではなく、自分が紅壱を愛している事だけが全てだった。
辛うじて芽生えた人間らしい『愛』、それの全てを注ぐ相手は紅壱ただ一人。
彼女は、紅壱が同級生から贈り物をされたり、本邸で働いている若いメイドと仲良くしていても、柳眉を逆立てたりしない。彼が異性に人気があるのを喜んでいる節があるようだが、単に『嫉妬』の感情が欠けているだけなのでは、と紅壱や執事の山田(偽名)は薄ら寒さと同時に考えていた。
とは言え、有史以来の禁忌の一つである『近親相姦』をネタに自分を強請ろうとする金持ちや、紅壱を色仕掛けで誘惑する女性には容赦がなかった。
どんなに優れた能力を持つ作家や画家ですら、文や色で表現しきれぬほどのドス黒い感情に突き動かされた輝愛子は、自分と紅壱の絆を断ち切ろうとする輩から、竜宮殿の持つ全ての『チカラ』を使い、全て、財産も名誉も、彼らに向けられていた愛も奪い尽くした。
そして、最後には、散弾銃の引き金を引いたり、電気椅子のスイッチを入れたり、象も殺せる毒薬をたっぷりと塗った針を首筋に刺したり、ほの暗く鈍い光を放つギロチンを落とす紐を鋏で切るのだ。
紅壱が輝愛子を本当に怖いと感じるのは、他人へ酷い事をする際、「呼吸をするように」とか「瞬きよりも簡単に」、「えもいわれぬ昂奮を感じながら」ではなく、自分が抱くものにも劣らない『生きる目的』を持つ相手を殺すしかない事に対し、心の底から罪悪感から本当の涙をこぼしながらも、自分に一切のブレーキをかけない所だった。
ある時、「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と謝りながら、デッキブラシで石畳に染み込んだ赤を落としている輝愛子を見た瞬間には、紅壱は腰が抜けた。
とてもじゃないが、彼には輝愛子が人間には見えなかった。魔属・霊属の詳細を瑛に教わってから、その印象はより強まったが、彼女が魔属・霊属に近しく見えるのか、と自問すれば躊躇いもせずに首を横に振れた。
人間だけが抱け、膨らませられる「心の闇」が何の間違いか、偶喚すら発生させずに、人間の肉体にそのまま詰め込まれているような存在が、紅壱にとっては輝愛子だった。
「それで、ホント、何の用ですか? ってか、俺、鍵を閉めておきませんでしたかね」
扉を背中越しに親指で指した紅壱へ、輝愛子は「洲湾さんに開けて貰ったんだよ」と笑い返す。
やっぱりか、今一度、溜息を吐き出してしまう紅壱は心の中で手を合わせて頭をしきりに下げてくる管理人の洲湾に文句を言いたくなるが、彼女がこのアパートの維持費を出している輝愛子に頭を上げられないのは知っているので、同情も感じてしまう。
入学金が勝手に払い込まれてしまった時点で天戯堂への進学を決め、同時に祖父母の家を出た紅壱は自分の脚で数々の不動産屋を歩き回って、この音桐荘を見つけて入居を決めた。
だが、彼がこんな幽霊が出ても不思議じゃないほどの外観の古アパートに住む事を善しとしなかった輝愛子は傘下のリフォーム会社へ、超特急でも改築を命じた。
そして、築七十年を超えていた音桐荘は三月の半ばには元からのシックな雰囲気を残しつつも、女子大学生に人気が出そうなアパートへ外も内も変えられてしまった。
住んでいた者には迷惑な話だっただろうが、改築の間の借家は保証され、家賃も今までと変わらないと来れば、文句を言う筋も無い。打って変わって住みやすくなったネオ音桐荘へ、それまでここに住んでいた唯一の住人、球磨素歌は嬉々と舞い戻った。
もっとも、改築後、ここに戻ってきたのは人間だけではなかったようだった。
暗闇に潜んでいた『何か』は壁を剥がされ、床に穴を開けられた事で消え去ってしまったかと思われていたが、紅壱が部屋に荷物を運び終えた頃には、ちゃっかり復活していた。
小気味いいリズムで歯を鳴らして飛びまわる下駄、蝶のように舞う古本、細い手足で台所を甲高い声で笑いながら駆け回る鍋や茶碗。
蛍光灯が切れた廊下の隅でジッと三角座りをしている身の丈が5cm弱の単眼少女、自分の頭蓋骨を唐傘の上で回す無頭の大道芸人、住む人間たちを屋根より高い位置から煙管を蒸かしながら見下ろしている禿頭の三つ目巨人。
とっくり片手に千鳥足で庭を歩く赤ら顔の三毛猫、足にじゃれついてくる頭が二つある子犬、早口言葉を熱心に練習する銀色の鶏。
紅壱が内見に来た時は、気配を殺していたようだったが、引っ越してくると、すぐにそれらは様々な形を取って、彼の前に姿を見せた。いるだろう、とは予想していたので、さほど驚かなかったが、よもや、こうも大胆な接触を図ってきたのは驚きだった。
時には、ハッキリとした姿を取らず、窓を乱暴に叩く『音』だけだったり、障子の裏側をペタペタと歩いていく『影』だけだったり、雨漏りにしていないのに廊下に出来ている『水溜り』として現れた。
祖父母の家にも似たような気配はあったので、今更、おねしょ癖のある子供のように怯えもせず、目には見えぬが確かにいる存在との共同生活を、それなりに楽しんでいる。
恐らくは、その家に人間がいて、ふとした瞬間の怯えを発端に誕生する、魔属・霊属とも呼べぬ、『魑魅魍魎』と呼ぶに相応しい矮小な存在であり、小さな悪戯をするのがせいぜいで、人間に危害を加えよう、とは露にも思っていなさそうだった。
紅壱と同じタイミングで、ここの新しい住人となった絹川桃実と、瓶持葵は、彼らがぼんやりとしか見えず、却って、それが恐怖を煽ったようだが、逃げ出したりした日には、雇い主ではあるが他人の出す結果にあまり興味を示さない輝愛子はともかくとして、直属の上司である山田(偽名)にネチネチとお説教されるのは火を見るより明らか。いよいよ、進退窮まった二人は「いるものはいる」と半ば諦め気味に割り切ったようで、今ではあまり怯えなくなってしまい、彼らはつまらないようだった。
酒飲みの球磨は単なる幻覚だと思っているようで、出ると手を叩いてはしゃぎ、彼らのやる気を更に加速させていた。
管理人の洲湾は元から『見える側』であったのか、さほど気にしていないようで、逆にお菓子などをくれて、庭の草むしりや皿拭きなどの雑用を手伝わせている事も多いようだ。
人間と人じゃない「何か」の共存が成っている、音桐荘は非常に心地が良かった、魔王を宿している紅壱にとっては。
(俺が帰ってきても、やけにシーンと静まってると思ったら、この人がいるからか)
陰鬱な感情を吸収して成長する有象無象らも、人のそれとは思えぬ闇を抱える輝愛子には近づきたくないようで、その気配を気取られないように必死になって、してもいない息を殺しているようだった。輝愛子は目の前に現れようが、紅壱に危害を加えようとしない限り、気にも留めないだろうが、こればかりは、人外側の受け取り方なので、紅壱は懸命だな、と評価していた。
「それで? 何の用ですか?」
露骨に眉を顰めている紅壱は欠伸を噛み殺し、滲み出てきた涙を指先で拭う。
「約束の日の前に来ているってコトは、それなりの理由があるんでしょう、輝愛子さん」
しかし、輝愛子は「ううん、無いよ。コーちゃんに単に会いたくなったから来ただけ」と、無邪気に微笑む。実際の所、彼女に自分との約束を守るつもりが無いのは判りきっていた紅壱だが、それでも溜息は漏らしてしまう。
「じゃ、今夜、こうやって面を合わせている訳ですから、約束の日は家に行かなくてもいいですよね」
すぐさま、頭を振った輝愛子。「駄目、ちゃんと来て! 約束は守る為にあるんだよ。学費、払ってあげないよ!」と脅してきた彼女に対し、苛立ちをぶつけたくなる紅壱。
(どの口で約束を守れ、って言ってんだ、この女)
それでも、彼は怒りをグッと堪え、引き攣った笑いを浮かべる。瑛たちと出逢い、生徒会に入る前の彼なら、天戯堂学園に対して未練を感じなかっただろうが、今は自分が『やるべき事』を知っている。このタイミングで、学園を去る訳にはいかなかった。
「・・・・・・・・・なら、美味い飯、楽しみにしてますんで」
「うん、凄腕の料理人を集めさせるから楽しみにしててね」
(それくれぇの楽しみがなけりゃ、あんな大豪邸《伏魔殿》、行けるかよ)
苦虫を噛み潰す顔を見事に隠しきっていた紅壱は不意に、輝愛子が自分をジッと見つめ出しているのに気がつき、危うく動揺の色を表に出しそうになってしまう。
「何ですか? 俺の面におかしな所でも?」
小首を傾げた紅壱の顔へ手を伸ばした輝愛子は彼の頬をそっと撫でる。途端、撫でられた箇所から腐臭を放つ汚泥が染み込んで来るような嫌な感覚に襲われ、手を打ち払いたい衝動に駆られるが、腕は上がってくれず、紅壱は奥歯を噛み締めて耐えるしかない。
「ううん、今日も色男だよ・・・でも、前と違うね・・・どこが、とは断言できないけど、変わっている所が確かにあるよ。
学校で何かあった? 生徒会に入ったようです、って絹川は報告してくれてるけど」
まさか、人外を相手にしている、とは口を割かれても言えない彼は「色々と慣れない仕事で忙しいんですよ」と言葉を濁す。
彼との付き合いこそ、時間的に見れば圧倒的に短い輝愛子だが、嘘の匂いには凄まじく敏感だ。紅壱が自分に対して、大きな隠し事をしているのを勘付いたようだが、追求しすぎて彼に嫌われたくない、と言う思いが強まったのだろう、「そうなんだ」と返し、口をそっと閉じた。
「私に出来そうな事があったら、いつでも相談してね。
お姉ちゃん、何でもやっちゃうよ」
遜色抜きで日本のトップに立つアンタに出来ない事って逆に何だよ、と心の中で思わずツッコミを入れてしまう紅壱。
「ところで、コーちゃん?」
「はい、何ですか、輝愛子さん」
名前も呼ばれたくもないし、呼びたくもないが、無視をすると機嫌を悪くされてしまうので、喉に濡れ雑巾を突っ込まれているような不快感を覚えながら対応する紅壱。
嫌悪の念を押さえすぎて、いつも以上に兇悪になっている弟の面にうっとりしていた姉は、「何ですか?」と尋ね直され、我に返ると、おもむろに桃饅を下から揺らす。
「取らないの、これ?」
そうして、輝愛子は左右から力を加えて、谷間を強調する。心底から苦手な女性でも、肉体言語と視覚トラップで誘導されたら、つい、目線が固定されちゃうのが男の悲しい性。
自己嫌悪に浸った紅壱は、輝愛子の白いマグマを搾り尽くす魔の谷に、自分の下着が挟まったままである事に気付く。
一瞬だけ、「しまった」と思ったが、厳しい目つきになった紅壱は「あげますよ、下着の一枚くらい」と諦め混じりに告げた。
輝愛子が自分の下着、しかも、洗濯をしていない、を何に使うのか、想像するだけで気が萎えてしまうが、一度、彼女の胸に圧をかけられ、熱と体臭が沁み込んでしまったモノを履く方が、よほど、彼にとっては精神的なダメージが大きかったようだ。
わざとではなく、割と本気のぞんざいな態度で汚物を押しつけたつもりだった紅壱だが、輝愛子の反応が予想と少し違っていたので、反射的に眉が跳ねてしまう。
彼女は、生まれて初めて驚いた自分に驚いたのか、筋肉が妙な動きをした顔をペタペタと触っていた、不安そうに。
ようやく落ち着いたかと思ったら、愛しい弟からの予期せぬプレゼントに、近所の子供には見せられない顔で、喜びを表現した。
けれど、輝愛子は突如、自分の胸の間に手を突っ込んで、紅壱の下着を引き摺り出すと、いきなり、それを突き出してきた。ほかほか、そんな表現がしっくり来る、軟らかそうな白煙が下着から上がっているように見えたのは、紅壱の気の所為だろうか。
「返すね!!」
「は?」
巨人に半身を引き裂かれているような表情で、そんな事を言われても、紅壱としては戸惑いを露わにするしかない。
「いや、あげますよ」
「ううん、これは返す・・・・・・だからね、今、履いている下着を私に頂戴!!」
「やるかぁ!!」と、痴女の頭を手近にあったノートを丸め、ハリセンよろしく全力でブッ叩いてしまった彼を、誰が責められようか。
「ふふーん、コーちゃんの手料理、楽しみだなぁ」
紅壱に愛の鞭を貰った輝愛子は、平謝りしてくる弟にお詫びとして、夕飯をご馳走する事を提案した。
好意を抱けない相手に心を籠めた料理を作る事は拒みたかったが、言外に学費の事をチラつかされてしまっては、首を縦に振り返すしかない。
浮かれた鼻歌を口ずさむ輝愛子の後を行く紅壱の足取りは、実に重い。普段、廊下で喧しくしている「何か」が、輝愛子を怖がって息を殺して、静寂を生んでいるのも、彼の溜息に苦い色を混じらせる。
(そう言えば、ここも生徒会に目を付けられてる心霊スポットになってるのかね)
輝愛子から意識を逸らすべく、紅壱は他の事に思考力を割く。
明確な姿形を持たず、名前も付けられず、大した悪さも出来ないにしろ、このアパートに溢れている魔属ないしは霊属は、量が量だ。
危険性は0だ、そう、現時点で住んでいる自分は確信できるが、周りはそう思うまい。
リストに載っているまでは、仕方ない。けれど、もし、生徒会はともかく、『組織』に属する他の専門機関が乗り込んできて、自分たちを追い出そうとしたなら、住人や先住人よりも怒りを露わにするのは、誰でもない輝愛子だろう。
彼女は、紅壱が住んでいる、だけでなく、単純にこの「音桐荘」が気に入っており、第二の家と思っているようだ。基本的に、紅壱以外に興味がなさそうに見える輝愛子だが、少なくとも、球磨らに愛着が湧いているようだった。
可愛い弟が迷惑を被り、居心地のいい場所に他人が土足で踏み込んで来た、となったら、あらゆる力で学園に圧力をかけ、瑛らの未来を絶望の漆黒で塗り潰す事を躊躇わないだろう。もっとも、紅壱が「止めてくれ」と頼めば、すんなり怒りは冷め、誰も傷つけないだろう、輝愛子は。
(その素直さと単純さが怖いんだよなぁ)
結局、思考の行き付く先が輝愛子になってしまい、紅壱は渋い顔で溜息を吐いてしまう。
弟の憂い、目に見えぬ住人たちの怖れなど露知らず、輝愛子はスキップまで始める始末だ。
「さて、作るか」
だが、一帯の重力を倍にしそうなほど気落ちしていても、いざ、料理を始めるとなると、いつもの調子に戻れるのだから、俺もつくづく、シンプルな脳味噌だ、自前のエプロンに袖を通しながら自分に呆れる紅壱。
「何か、リクエストあります?」
「コーちゃんが作ってくれるモノ」
対応に窮する答えを輝愛子に頂き、げんなりしそうになった紅壱は萎えた心を立て直すように、両頬をピシャリと打つ。輝愛子のため、それでは楽しく料理は出来ない。しかし、嫌々、作った料理を褒められたら、それはそれで苛立つ。
悪友の修一あたりに聞かれれば、「面倒な性格」と一刀両断されるであろう紅壱は、とりあえず、冷蔵庫の中身を確かめる。
(うーん、俺らの分しかねぇな・・・しょうがねぇ、俺の分を減らすか)
そう考えて扉を閉めた矢先だった、球磨が帰宅したのは。
仕事で疲れた肉体にパワーを補給するのにもってこいな、キンキンに冷やした燃料目当てで台所に荒々しい足取りで向かってくる球磨。
「おう、ただいまぁ」
「おかえりなさい」
「お久しぶりです、球磨さん」
「おっ、姉ちゃん、来てたのか。
んな久しぶりって挨拶をするほど、間隔も開けてないだろ」
球磨の言葉に、紅壱が「ん?」と思う前に、輝愛子は「しぃー」と気まずそうに、唇の前に指を立てる。そうして、彼女は飲み物をグラス、いや、お猪口に注ぐような仕草をした。
「おっと、そりゃ、あたしの気の所為だったか」
(買収しようとしてるのか、とっくに買収したか)
浪費家の素歌さんじゃ、およそ手が届かない日本酒だろうな、もしかしなくても、この前、豚肉と白菜の重ね蒸しを晩飯に出した時、呑んでた『鼬の宴』だろうな、と当たりを紅壱が付け、失望の視線を向けてきた事で居たたまれなくなったのだろう、燃料補給を諦めて台所から退散しようとする球磨。
しかし、彼女はふと、何かを思い出したかのように立ち止まると戻ってきて、手にしていたビニール袋を眉間に皺を寄せている紅壱へ渡す。それを持った彼は、ずっしりとした重みに「?」を飛ばす。
「秀屋の良子オバさんが安くしてくれたんだ」
そうして、球磨は輝愛子に目配せをしてから、いそいそと台所を後にした、ちゃっかり、冷蔵庫から缶を二、三本ばかり取り出して。
「何を貰ったの?」
球磨を買収した事を悪びれもしていない輝愛子は、憮然としながらも気持ちを既に立て直していた紅壱の脇から、袋の中身を確かめる。
「――――――・・・・・・牛肉のバラか」
中に入っていたのは、牛肉のコマ切れだった。ふむ、と顎を撫でる紅壱は再び、冷蔵庫の中身を確認する。
今夜は酢豚ならぬ、鶏の唐揚げを使った酢鶏を作るつもりだったが、この牛肉のバラの細切れは今日中に料理してしまった方が良さそうだ。
(玉ねぎとニンニク、ショウガはあるから)
「決まった?」
「ハンバーグを作ります」
「やった、大好物だもんね!!」
いけ好かない相手でも、食べ物の事で子供のようにはしゃぐ様を目の当りにすると、いくらかは抵抗感も薄まるな、と紅壱は他人事のように思う。
「よーし、頑張って」
撮影っちゃうぞ、と張り切った輝愛子が高価そうなビデオカメラを取り出したので、紅壱は目を丸くする。輝愛子はそんな顔にもレンズを向けつつ、弟の反応を逆に不思議に思ったのだろう、小首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、俺と一緒に料理したがると思ってたんで、ちょい、虚を突かれたというか」
もし、輝愛子が暗殺者だったら、致命的な隙を見せてしまい、アウトだった、と馬鹿な事を考えながら、その戸惑いを口に出した彼に、輝愛子は「えへへ」と笑う。
「正直、それも胸トキメクけど、ハンバーグとなれば、私は余計な手出しをしないの。
だって、私はコーちゃんの手料理が食べたいんだもん!!」
力強く言い切った輝愛子にたじろぎつつ、紅壱は背中に冷たいモノが伝っていくのを覚えた。
輝愛子は、自分の立場に見合った美食家だが、基本的に「食べる」専門で、料理を作った事がない、と紅壱は思っていた。実際、それは事実だろう。しかし、作らないからと言って、作り方を知らないか、と言ったら別なのだろう。
さほど難しくない、ハンバーグの作り方を輝愛子は知っているんだ、その結論に至り、紅壱は己の決定を呪いたくなる。しかし、男が一度、口に出してしまった以上は、鉄塊が効かない。やけに粘つく熱視線を、自分の両手に注がれ、「でゅふふふ」と身の毛のよだつ笑い声をあげられても、だ。
「大丈夫、コーちゃんの動線は塞がないようにするから」
お願いしますね、と力弱く頼みつつ、「やるか」と消え入りそうな声を絞り出した紅壱は、念入りに手を洗っておく。「ああ、なんてことをぉぉぉ」と、膝から崩れ落ちる音、絶望より色が濃い落胆の声を聞き、彼は熱心に泡を立たせ、爪の間もブラシで綺麗にする。
(この量だと、まぁ、小判型で20個強は作れそうだな)
まず、紅壱は玉ねぎをみじん切りにする。多部から包丁を握る事を許されている、たった二人のメンバーだけあって、その手付きは大胆ながらも、美麗さすら宿る。
大量の玉ねぎのみじん切りを、紅壱はマーガリンでしんなりするまで炒めていく。フライパンを使う事を許されているアルバイトは、店で紅壱だけなので、やはり、手付きに淀みはない。
炒め終わったそれらを冷ますべく皿に盛ると、続けて、紅壱は牛のバラ肉を、まず、半分ばかりまな板に乗せる。それを、彼は更に小さく切っていった。残りも同サイズにすると、また半分に分け、今度は包丁をもう一本追加し、縦・横、くまなく叩いていく。
小気味いいリズムを、まないたと二本の包丁が奏でていき、牛肉のバラ肉は瞬きをしている間に、細かくなった。その過程を、腰かけていた椅子の上で燃え尽きていたが、どうにか復活していた輝愛子は撮っており、紅一の包丁捌きに、濡れた息を漏らす。
「ベートーベンやモーツファルトだって、こんな素晴らしいモノは作曲できないわ」
演技ではなく、本気で感動しているのか、輝愛子はあろうことか、スマートフォンで紅壱が包丁で牛肉をミンチにしていく音を録音し始めた。一体、どうするんです、そんなもの、と弟に尋ねられた彼女は、キョトンとした後に、真顔で「着信音にするの」と答えた。
「着信音っすか」
肉を包丁で叩く音が着信音だったら、周りが驚くから止めろ、と止めるのが普通の弟の対応だ。しかし、紅壱は普通ではない。ただ、「誰も電話なんかしてこないんだから、設定しても無意味じゃないっすか?」とツッコむほど鬼でもないので、頷くに留めておいた。
肉を叩き終えると、そこへ冷めた玉ねぎのみじん切り、磨り下ろしたニンニクとショウガを入れる。
塩、ナツメグ、オールスパイスを振り、それに続けて、紅壱が垂らしたのが醤油だったので、輝愛子は「え?」と声を発した。
「隠し味に入れると、旨味がぼやけないんですよ」
「へえ、物知りだね」
「店で教わったんすよ」
紅壱は調味料を加えた肉をボウルに移すと、粘りが出るまで混ぜ出す。
ニチャ、クチャ、グチュ、ネッチャと肉から音が上がるごとに、輝愛子の瞳には潤みが増していく。
妙な色合いのオーラを彼女が発し始めた事に気付きつつも、紅壱は気にせず、肉を混ぜ続ける。
「うっし、こんなもんか」
しっかりと粘り気が出たのを機に、紅壱は手にサラダ油を塗る。肉から空気を抜くべく、掌の間で叩き付ける際に、こうすると纏まりやすくなるからだ。
力を入れ過ぎず、丁寧に肉から空気を抜いていく紅壱をジッと見つめていた輝愛子が、そわそわとし始めたのは、ハンバーグが五個ばかり出来始めたあたりだった。
六個目を「パンッ、パンッ」と勢いよく掌に叩き合わせた頃、もじもじと両腿を擦り合わせていた彼女は、いよいよ、理性が限界を迎えたのだろう、唐突に椅子から腰を上げた。あまりの勢いに、椅子は床にぶつかり、派手な音が響くも、下腹部の牝の本能が疼いてしまっているらしい輝愛子には聞こえなかったらしい。
「コーちゃん、ちょっとお手洗いに行ってくるね!!」
「・・・・・・どうぞ」
いちいち、許可を俺に取る必要はない、食事の準備してるんだぞ、と胸の内で思いつつ、嘆息を溢した紅壱は振り返らず、聞き耳も立てなかったので気付かなかった、輝愛子の焦った、それでいて、気分の弾みようがハッキリと表れている足音が、トイレではなく、違う場所に向かっている事に。
叩き終えた肉を、紅壱は少し考えてから、俵型と小判型に形を整えていく。
そこで一度、リビングに向かった紅壱。そこには、既に輝愛子の秘書にして、この『音桐荘』の住人でもある絹河桃実、輝愛子のSP隊の隊長―と役職は立派だが、実際の仕事は紅壱の日常の隠し撮りだ。何せ、守るべき主はまともに外出などせず、半ひきこもりで、屋敷内の自室で毎日、愛弟のベストショットを堪能しているのみ、指弄りをしながら。そもそも、竜宮殿の人間に危害を加えようと思う人間など、表にも裏にもいないので、護衛なんて必要なかった―であると同時に住人でもある瓶持葵、球磨素歌、管理人である洲湾麗子が揃っていた。
瓶持葵は、手足がすらりと長く、競泳水着が似合いそうなプロポーションの持ち主だ。球磨や愛梨と同じく、頭より先に体が動くタイプだが、球磨より無慈悲で、戦いを楽しむと言う事は、まずしない。「倒す」より「仕留める」に特化している、と言えた。
洲湾麗子は、ふくよかな体型で、母性が滲み出ている、特に、女性陣の中で最も大きな山から。常に笑顔を絶やさず、ゆったりとした口調が特徴だ。しかし、趣味に没頭しすぎた絹河や、居間で酔い潰れている球磨に灸を据える際も、微笑んだままなので怖い。
「さっきから凄いイイ薫りがしてきますね」
「そろそろ、限界だぞ、辰姫くん」
「辰、ゴマ塩キャベツ、おかわり~」
「私もビールくださいなぁ」
後ろめたさを誤魔化すようにピッチを上げたのか、既に酔いが回りつつある後者に一瞥もくれず、紅壱は絹河と瓶持にハンバーグの焼き方を尋ねる。
「私はミディアムでお願いします」
「右に同じだ」
「あたしはレア~」
「私はウェルダンでお願いしま~す。ビールもお願いしま~す」
肩を竦め、紅壱は持ってきていた缶ビールとツマミを酔っ払いの前に置くと、台所へ戻る。輝愛子は用足しから戻ってきていなかったが、彼は気にせず、ハンバーグを焼き始める。
「お待たせしました」
紅壱がハンバーグを山盛りにした皿を両手に持って、リビングに入ると、五人の女性は歓声を上げる。
どうやら、輝愛子はスッキリした後、キッチンには戻らず、住人が集まっていたリビングに足を向け、ハンバーグが出来上がるのをボードゲームに興じながら待っていたようだ。付き合わされていた絹河と瓶持は、主に大差をつけて勝つわけにはいかず、かと言って、下手な手加減も出来ないので、かなり、神経を削られたようだった。ぐったりしている二人に「お疲れさんです」と心中で合掌する紅壱。
どうせなら、ハンバーグが焼ける、あの最高の音も録音よ、と妙な点で不機嫌になる紅壱だが、彼は知らない、瓶持はキッチンにもカメラを設置している、と。
「わぁ、目玉焼きが乗ってる!!」
「輝愛子さん、半熟が好みでしたよね」
「・・・・・・コーちゃん、大好き!!」
そのコトバはアンタと豹堂以外に言われたいよ、と胸の内で毒づきつつ、紅壱は付け合わせの野菜のソテー、海藻サラダ、自家製のピクルス、オイスターソーススープをテーブルに並べる。
「あぁ、匂いだけで丼一杯はいけそうですね」
スタイルはいいが、食欲は球磨に匹敵する絹河はうっとりとハンバーグを見つめている。
「辰姫くん、何をかければいいんでしょう?」
お好みでどうぞ、と紅壱が並べた小皿には、自家製のケチャップ、デミグラスソース、白と赤の二色の大根おろし、醤油ガーリックソース、きのこの餡かけが付けられていた。
紅壱も炊き立てのご飯をお茶碗に盛って、椅子に腰を降ろしたら、音桐荘の夕ご飯は始まる。
「いただきます!!」
皆で手と声を合わせた直後、箸が躍り出す。
「肉汁がジューシーだな、おい!!」
「わぁ、これ、中にチーズが入ってますよ!!」
「皆さん、そんなガッつかなくても、まだあるんですから・・・って聞いちゃいねぇ」
大人の女性でも、肉の前じゃ獣だな、と呆れる紅壱はピクルスをぽりっと齧るのだった。それは少し漬かりすぎてしまったのか、しょっぱかった。
「また来るね、コーちゃん。あと、ちゃんと来てね、私の家に」
輝愛子は紅壱への「あーん」と、紅壱からの「あーん」を堪能して腹と心が膨れると、すぐに帰っていった。
しかし、その日の晩に食卓に出した、そのハンバーグを他の者は誉めちぎったが、彼女との神経を使う会話ですっかり疲れきってしまっていた紅壱は砂を塗した粘土を噛まされているような気分だった。
球磨が貰ってきた牛肉が良い物だっただけに、その味を楽しめないのが辛く、紅壱は泣きそうになった。だが、涙を溢せば、これ幸いと輝姫子はお姉ちゃんぶってくるだろう。それだけは嫌だったから、紅壱は口の中の不快感を堪え、歯を動かし続けた。
部屋に戻った紅壱は、不意にシャツが一枚、籠の中から消えている事に気付く。また、ベッドのシーツも新しいのに換えられている。
持ち去った犯人は誰であるか、シーツを何かで汚してしまったのは誰なのか、推理する必要もない。
またもや、自分の身に付けたモノが輝愛子によって、どう使用されるのか、を想像してしまいそうになり、紅壱は必死に頭を振った、それを追い出すように。
熱めの風呂に浸かって、ようやく毒気が抜けていくような感覚を覚えた彼は部屋に戻ると、布団に半ば倒れこむと、髪がまだ湿っているにも関わらず、そのまま大きな鼾を上げ出してしまった。
そんな彼は知らない、姉が弟の鼾や寝言を録音するために、この部屋に盗聴器を仕掛けている事を。そして、それを夜のオカズにしている事も。
瑛は紅壱に万が一の事が起こる事を恐れ、必要以上に指導に力を入れた
キツくはあったが、紅壱は泣き言一つ溢さずについていく
そんな最中、彼を襲ったトラブル、それは前触れもなくやってきた姉だった
魔王を宿す紅壱ですら、本能的に恐れる姉・輝愛子は弟を世界で最も愛していた
業の深い姉に振り回され、すっかり疲弊してしまった紅壱
果たして、彼は無事に儀式に挑むことが出来るのか!?