第四話 入会(enlist) 辰姫紅壱、生徒会に入る
夜道でリザードマンに遭遇してしまった紅壱
自分を餌としか見ていない怪物から逃げたら、男が廃る、と真正面から彼はリザードマンに戦いを挑んだ
持ち前の身体能力と、祖父仕込みの格闘体術により、紅壱は苦もなく、リザードマンを秒殺する
興奮と空腹が理性を打ち消してしまった彼は、瀕死のリザードマンを喰わんとする
我を失った彼を止め、姿を現したのは、つい数時間前に紅壱を勧誘してきた生徒会のメンバーだった
何らかの手段により、意識を奪われた紅壱だったが、彼は翌日、事の詳細を質すべく、生徒会室に向かう・・・
「うっし、いくか」
迷う時間が長くなるほどに、心の海を荒らす緊張の念を吐ききるように深呼吸を繰り返していた紅壱は腹を括り、目の前に立ちはだかる厚い扉を三度、リズムよく打った。
「はーい、誰ですかぁ・・・っつ!? 辰姫くん?!」
扉を開け、そこに立っていた彼の険しい顔を見るなり驚いて後ずさってしまう恵夢。彼女のあからさまに驚いた反応に傷付いた様子もない紅壱は、戸惑いを隠せずに視線を泳がせてしまっている彼女に「生徒会長はいますかね?」と静かに尋ねた。
「ちっと、お話があるんですけど」
「うん、いるよ」
ここで紅壱を追い返すのは簡単だが、強い決意を持ってここまで来たのが凛とした面持ちから読み取れてしまった以上、彼に初見で好い印象を持っていた恵夢は、突然の来訪者を部屋に入れる事しか出来なかった。
「失礼します」と小さく頭を下げ、紅壱は快活な足取りで室内を進む。
そうして、前に立ち、カーテンを開けてくれた恵夢に今一度、頭を下げた紅壱が部屋に入ってきたのを見た瑛は目を小さく見開く。まるで、今日、彼がここに来るのは予想外だ、と言わんばかりの反応で、紅壱は心の片隅に退けていた疑問が霧散したような気がした。
「お食事の邪魔をして申し訳ありません、獅子ヶ谷会長。
ご都合が悪いようでしたら、出直しますが」
「いい・・・何の用かな? 辰姫紅壱君」
「勿論、昨日の返事をしに来ました」
自分の決意を宿した言葉で息を呑んだ恵夢へチラリと向けた目の光を強めると、握りこぶしを作った紅壱は、ゆっくりと箸を置いた瑛の傍らに右膝を落とし、厳かに首を垂れた。
「生徒会に入らせて下さい」
「・・・・・・入会の許可をする前に一つだけ聞かせてくれないか?辰姫」
「どうぞ」と俯いたままで答えた紅壱の頭にぶつけるようにして、溜息を一つ漏らしてから瑛は尋ねた。
「昨日の、特に・・・夜の記憶があるんだな?」
彼女が美しい足を組んだのを微かに聞こえてきた音で感じつつ、紅壱は素直に答える。
「朝はぼんやりと霞んでましたが、自転車を漕いでいる内に靄が晴れてきて、ハッキリと思い出せたのは、昨日の夜、リザードマンを叩きのめした路地を通った時でした」
「なるほど・・・綻びは無いと思っていたが、辰姫、君はどうやら、精神に作用する術が効き辛い体質のようだな。
私が生徒会に誘った事も、リザードマンと戦った事、私達と出くわしてしまった事も忘れさせたと思っていたんだが」
自嘲気味な笑いで肩を揺らした瑛を、「アキちゃん」と心配そうに見つめる恵夢。彼女の、そんな念を感じ取ったのだろう、大丈夫です、と手を振った彼女は紅壱に問う。
「決意は揺るぎそうもないが、入る前に不安な事あるようなら聞いておこう」
「会長や他の皆さんは」
顔を上げたものの一瞬、言葉を澱ませた紅壱に、瑛は「言ってみたまえ」と優しく促した。彼は少し迷ってから、躊躇いがちに質問を続けた。
「その、日曜日の朝八時半台や、中高生に読まれ易い娯楽小説、漫画の中で活躍している類の女子高校生ですか?」
「そんな目立ち、民衆から応援されるような存在ではないが、近しいとは言える。
しかし、それが判っているのに、君は生徒会に入りたいのか?」
最早、誤魔化す気もないのだろう、瑛は呆れた面持ちをハッキリ浮かべる。
「異形の存在と戦った際の恐怖も、鮮明に思い出したのだろう。ならば、忘れているフリをする事だって出来た筈だろうに・・・勇気があるとも言えるが」
「一般人からすりゃ、物語の中にしかいないと思われてる、あんな化け物が毎晩、この町まで我が物顔で闊歩していると知った以上、知らんぷりは出来ないでしょう、詳しい事情はサッパリにしても、一人の男として」
年下とは思えない、精悍な面持ちで言い切った紅壱に瑛は頬を赤らめて、感嘆の声を漏らし、恵夢は「ヒメくん、カッコいいじゃん」と立てた親指を突き出す。
「・・・イイだろう、辰姫。キミの生徒会入りを認めよう。
改めて、皆に紹介し、事情を説明したいから、放課後に今一度、ここに来てくれるか?」
「分かりました」と大きく頷き、恵夢に見送られて部屋を出た途端、圧迫感から解放された彼は衝動的に息を大きく吐き出してしまう。
昨夜、リザードマンと対峙した時ですら、ここまで肩に力が入らなかった。十分にも満たない会話であったにも関わらず、やけに疲れてしまった紅壱は気合を入れなおすように、己の頬を両手で挟み打つ。
そんな彼は知らない、室内で瑛も同じように、異性と一分以上も会話を続けた緊張から解放された瑛がへなへなと椅子に座り込んでしまっていたコトに。
放課後になり、紅壱は再び、生徒会室に足を踏み入れる。既に、瑛によりメンバーは集められていた。用件も周知済みのようだったが、紅壱はフッと息を吐いてから、胸を張って口上を述べた。
「今日から、生徒会の一員に加えさせて頂いた、一年い組所属、辰姫紅壱です。
未だ足りない部分の方が多い自分ですが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
爽やかさを押し出すようにハキハキと喋り、深々と頭を下げた紅壱に、集まった生徒会メンバーは拍手を贈る。ただ独り、不機嫌さを隠そうともしない鳴だけは、照れ臭そうにしている彼を見ようともしない。
「よろしくねぇ、ヒメくん」
「よろしくっす、鯱淵副会長」
「副会長か、メグちゃんでいいよぉ」
気さくな態度で接してくれる恵夢へ頷き返し、「よろしくっす、メグ副会長」と折衷案の呼び方に留めた紅壱は、胸と同じほど柔らかい笑顔の恵夢の握手に応じようとする。だが、いつの間にか、彼女の右手は紅壱の奥襟、左手は袖を掴んでいた。点になった紅壱の目に映る、恵夢の悪戯っぽく釣り上がった口の両端。だが
「ありゃ、ダメだねぇ」
「そう、ポンポン投げられはしませんって」
ニッと笑い返す紅壱に、恵夢は自分の流派では「逸熊宥め」、柔道技で言う所の「腰車」を仕掛けるも、成功には至らなかった。彼女にとって初めての経験だった、掴んだ瞬間に相手を巨大な岩と錯覚したのは。
(兄やより強い男の子は初めてだなぁ)
技のイロハを手解きしてくれた兄と組んだ時ですら覚えない錯覚だった、それは。もちろん、本気以上を振り絞るべき実戦でなかったのもある。けれど、それなりに本気で、生徒会に入る、当より、瑛を任せるに相応しい実力を備えているかを再確認したつもりだった恵夢。
「残念。完全に、ヒメくんの虚を突けたと思ったんだけどなぁ」
言葉とは裏腹に、全く、落胆した様子もなく、両手を離した恵夢は乱してしまった紅壱の服を正す。
「で、どうっすか、試験は合格っすか?」
「文句なしの満点だよぉ。花丸あげちゃう~」と、満面の笑みで恵夢は頭上に両腕で大きく丸を作る。そこで、ふと何かを思い出したのか、彼女はじんわりと顎の下に滲んだ汗を拭っていた紅壱に礼を告げた。
「そう言えば、ありがとうね、ヒメくん」
「え、何がっすか?」
「校門で投げちゃった時さ、ヒメくんなら反撃できたよね?
けど、しなかった。だから、そのお礼」
「いやいや、あんなキツい投げ、受け身を取るので精一杯でしたって、技を返すなんてとても無理っすよ」
半分は嘘だった。投げの衝撃を地面に流すと同時に、恵夢へ三角絞めないしは腕十字固めをかける事は、散々、祖父に投げられ、そこからの反撃を実地で叩き込まれていた紅壱には可能だった。だが、彼は男だ、敵意や殺意があれば容赦はないが、女相手にサブミッションをかけられる訳がない。戦いに性別は関係ない、その信念を持つ祖父は躊躇う事なく技をかけられるだろうが、紅壱は祖母から「女性は大切に」の姿勢を叩き込まれているので、残る怪我を負わせるような技はかけられなくなってしまったのだ。
あまりにも恵夢の技が鮮やかだったので、咄嗟に体は動きそうになった。それでも、敵でもなく、女だったからこそ、紅壱は留まった。体に染みついている反射と、脳からの命令が矛盾し、彼は無様に投げられてしまっていた。
「ふふ~ん、優しいねぇ、ヒメくんは」
嬉しくなった恵夢は、紅壱に真正面から抱き付く。そうすれば、自然と彼女の毬餅は紅壱の堅く暑い胸板で潰される。胸部に感じる柔らかくて、温かく、甘ったるいその触感に紅壱の頬は名に入っている色と同じとなり、鼻の下はだらしなく伸びる。
「ンッッンンゥ」
もし、瑛が咳払いをし、ライオンですらチビって「降参」かつ「命乞い」の意志を腹を見せる事で示すであろう、どギツい睨みを効かせてこなかったら、紅壱の大砲は発射体制に入ってしまっていただろう。
名残惜しそうな恵夢から解放され、ホッとした紅壱の前に立つ愛梨。
「歓迎するぜ、紅壱」
歴史ある生徒会に異性が加入する事に対して、あまり抵抗がないのだろうか、愛梨は嬉しそうに笑い、紅壱の手を力強く握り締めながら、彼の腕を何度も叩いた。外見以上の力に痛みすら覚えた紅壱は愛想笑いを浮かべながら、「これからよろしくお願いします、太猿先輩」と頭を下げる。
「いやー、くすぐったいな」と、紅壱に「先輩」と呼ばれた愛梨は、彼の腕を叩く手に力を更に込めてしまう。
「あ、そう言えば、先輩、すんませんでした」
「あ、何がだ。男が謝っちゃダメだぞ、悪い事もしてねぇのに」
「いや、俺、しちまったんで」
険しい面持ちの先輩に紅壱は深々と頭を下げ、「すんませんでした」と謝罪の気持ちを口にする。
「掌、大丈夫でしたか?」
「あ、あぁ、その事か。
気にすんなって、お前の裏拳一発で、アタシの掌はびくともしねぇよ」
紅壱の罪悪感を一蹴する様に、快活な笑みを浮かべる愛梨だが、大嘘である。ただの強がりである事を知っている恵夢は笑いを噛み殺すのに必死だが、紅壱は当然、それに気付き、怪訝な顔をする。慌てて、愛梨は「しぃー」と唇の前に指を立て、余計な事を喋らないでくれ、と先輩に対し、威圧を放つ。
紅壱への怒りが収まらぬ鳴を寮のベッドに縛りつけ、強引に寝かせた愛梨。自身もベッドへ飛び込んだまでは良かったのだが、今朝、彼女は耐えがたい激痛に起こされた。一体、何だ、と全身に響いてくる痛みの大元にやった愛梨の目は、これでもかと見開かれる。
昨夜、紅壱の裏拳を受け止めた愛梨の掌は、キャッチャーミットでもはめているのか、と思うほど腫れ上がり、不気味な暗褐色に変色してしまっていた。手根骨が粉砕けているのは明らかで、痛すぎて逆に声すら出せなかった。
十数分の間、ベッドの上で、シーツを噛み、芋虫のような体勢を取り続けていた愛梨は自前の脳内麻薬で痛みを鎮めると、汗だくのまま、部屋を後にした。
何とか、動けるようにはなったが、歩くどころか這って進むごとに痛みが脳に刺さってくる手に氷嚢を押しつけ、歯を食い縛って登校するなり、彼女は恵夢に泣きついていた、治癒魔術をかけてくれ、と。
我を失っている紅壱の裏拳を受け止める際に、ヤバさを感じ取って、手に防御力を集中して高める術をかけていた事も功を奏し、恵夢の術で愛梨の手の骨は綺麗に完治した。
紅壱の気をうずうずとしている恵夢から逸らすように、愛梨は拳を掌に叩き付ける。
「うっし、アタシもメグ先輩に倣って、お前を試してやるぜ」
「え?!」
音と言葉に驚く間もなく、愛梨は紅壱へ右アッパーカット→左フック→右エルボーのコンビネーションを繰りだしてきた。
「おぉ、さすが」
右アッパーカットの軌道を手で押して逸らし、左フックはあえて固めた脇腹に当てさせ、最後の右エルボーは掌で受け止めた紅壱。
「おい、エリ!!」
血相を変えた親友に、愛梨は悪びれもせず、「歓迎だよ、歓迎」と歯茎を見せる。
「ちゃんと手加減はしてるって」
芯まで痺れた掌を揉みながら、本当かよ、と内心で突っ込みつつ、苦笑いに紅壱は留める。しかし、骨に亀裂が入っていない事を考えると、あながち、力はちゃんとセーブしていたのではないか。
「右クロスと見せかけるフェンイントを、視線で入れておいて、何が手加減をしただ、まったく」
呆れるように重々しい溜息を吐いた瑛の厳しい気当ても何のその、愛梨は再び、笑い声を上げて、紅壱の腕を叩き、歓迎の意を示す。
「よろしく頼むぜ、コーイチ。
あ、そうそう、アタシの事は親しみと敬いを籠めて、エリ先輩と呼べよ、これから」
「お手柔らかにお願いします、エリ先輩」
「応っ」と笑い、紅壱の前から退いた愛梨と入れ替わりに、今度は夏煌が立つ。
「・・・・・・」
「あぁ、なるべく足を引っ張らないようにするよ、大神」
「・・・・・・」
「ん? じゃあ、そう呼ぶわ、ナツ」
愛梨に叩かれていた箇所を、眉を寄せながら擦っていた紅壱に名前を親しげに呼ばれた夏煌は口の両端を注視してないと気付けないほど少し上げた、嬉しそうに。
彼女の目前にいた紅壱はその些細な変化に気付き、自らは尖った犬歯を剥きだすように笑い返し、大きな手を頭の上に乗せ、優しく撫でる。傍目からは、同級生よりも年の離れた兄妹にしか見えないだろう。
「そんで、ナツ、お前も俺を試すのか、何か?」
からかってきた紅壱をジロリと睨み上げつつも、少し考えた夏煌は唐突に両腕を突き出す。
「・・・・・・」
「私を持ち上げられるか、チェック?」
楽勝だろ、と返しつつも、紅壱はにべもなく断る理由もないので、彼女の脇に手を入れる。その際、夏煌の紅水晶を思わせる唇より「ンぅ」と甘い声が零れた。聞こえなかったフリをし、紅壱は見た目より筋肉質だった夏煌の幼い体を高々と持ち上げ、ついでとばかりに肩上へ乗せてやる。いわゆる、肩車である。
「・・・・・・」
生まれて初めて、同年代の女子を見下ろし、夏煌の瞳は正に煌めく。彼女のテンションが上がっているのを肩より感じている紅壱は気付いていなかった、瑛が羨ましそうな顔をしている事に。
数分ほどして満足したらしい夏煌を、床へそっと下ろした紅壱は、未だ憮然としている同級生に対峙する。
「私は、アンタを歓迎しない、とだけ言っておくわ、バカイチ」
鳴の暴言に、瑛の眉は鋭利く吊り上がるも、紅壱は彼女が鳴を窘めようとキツい言葉を発すのを手で制した。不和を好まない恵夢ではなく、紅壱が己に「待った」をかけた事に驚き、瑛は口を半開きにした状態で固まってしまうが、彼に横目で「大丈夫っす」と言われてしまい、仕方なさそうに唇を真一文字に結んだ。
瑛が腕組みをし、一先ず、自分に預けてくれた事に、目で感謝を示し、紅壱はあえて挑発するような顔で鳴と向き合った。
「豹堂、俺の何が気に入らないか知らないが、俺は俺が出来る事をやる、それだけだ。
お前に何を言われようが、どんな仕打ちを受けようが、会長に『クビだ』と言われるまでは、生徒会を辞める気はねぇ。それだけは言っておく」
堂々と宣戦布告を果たした彼に豹堂は怒りを露わにし、勢いのままに彼に平手打ちを喰らわせようとした。だが、鳴の手首を愛梨が掴んで止める。あまりにも迅速かった愛梨の手の動きは、紅壱の目にすら捕捉できていなかった。
(ほんと、さっきは手加減してたのか)
このスピードで打撃を繰り出されていたら、攻撃を捌くどころか、躱すのも困難しかっただろう、と再び、粘りつく嫌な汗が顔から滲み出てきてしまう紅壱。
呆れ貌の愛梨はさほど力を込めていないようだったが、骨には相当な負荷がかかっているのか、鳴の顔はわずかに歪んでいる。
一抓みの同情を覚えた紅壱が、鳴の手を見れば、ぼんやりと翡翠色に光っている。もし、愛梨が止めず、自分に当たっていたら「痛い」じゃ済まなかったかもな、と薄ら寒いものが、彼の背筋に走った。
「豹堂、疾風属性の攻撃魔術を、魔力防壁も張れぬ素人の辰姫に使うのであれば、さすがに看過できないぞ」
(なるほど、風を纏って、ビンタの威力を高める気だったのか。いや、もしかすると、触れた瞬間に肉を螺旋状の風で抉るつもりだったのか、コイツ)
万が一、平手打ちをスウェーバックで回避されても、高速で振り抜く事により、手から風の刃を飛ばし、頸動脈を切る事も出来るのだろう。近遠、どちらも対応できる、よく考えた攻撃手段だ、と命を狙われた事実も忘れ、紅壱は感心する。
瑛の目に「怒」の色合いが強まりそうなのを気配で感じ取ったのだろう、鳴の顔は今にも泣き出しそうな幼子のように、くしゃくしゃと歪む。だが、紅壱の前で醜態は去らせない、と泣くのを思い止まったのだろう、ギュッと下唇を噛み締めた。
「エリ先輩」
いいのかよ、そう驚き混じりに問われた紅壱は無言で頷く。肩を竦め、愛梨は後輩の手首から指を外す。指加減はしていたのだろう、鳴の手首についていた拘束痕は薄かった。
自分に情けをかけた彼の方に、唇を尖らせている鳴は目をやろうとは決してしなかった。つまらない意地を貫こうとする彼女に、瑛もさすがに叱咤しようとしたのだが、紅壱は諫める。紅壱に止められては、瑛も感情の向け所を失ってしまったらしく、「今後は仲良くするように」と釘を刺すに留めた。
「ちなみに、この生徒会にはもう一人、仲間がいるんだが、今は所用で席を外している。
折を見て、君に紹介しよう」
自己紹介が一段落すると、不意に、今の今まで堂々としていた瑛の頬に赤みが走った。
「で、では、一つだけ、確認させてくれ」
まさか、瑛がそんな質問をしてくるとは思っていなかった彼は軽い気持ちで、「どうぞ」と頷いてしまった。
「辰姫、キミは・・・・・・・・・童貞か?」
首筋まで真っ赤になっている瑛は意を決したように、その質問を口から撃ち出した。恵夢は瑛と同じく恥ずかしそうに目を伏せ、愛梨は興味津々の態で彼の答えを待っている。夏輝は相も変わらず無表情を崩さず、鳴は「さっさと答えなさいよ」と苛立ちながら急かしてきた。
今にも羞恥心に負けて、大粒の涙を零してしまいそうな瑛を見て諦めたのだろう、紅壱は乱暴な手つきで後頭部を掻き、無愛想な口調で答える。
「不本意ながら、筆卸しはもう済ませてます・・・相手も言ったほうがイイっすかね?」
紅壱が半ば自棄になりだしたものだから、瑛は慌てたように、「いや、大丈夫だ。そこまでプライバシーを侵す気はない」と突き出した両手を左右に振り乱す。
「すまない、無礼な質問だとは判っているんだが、統計的に見ると、性交経験のない男子は襲われ易いんだ。
当然、素人であるキミを守るつもりではいるが、手が届かない時もあるかも知れない。
だが、まぁ、非童貞なら安心だ・・・あ、いや、すまない」
「気にしないっすよ、そんな小さいコト」と失言を詫びる瑛に、いつまでも不機嫌でいるのは気が咎めたのだろう、紅壱は柔かい苦笑いを漏らす。
「さて、辰姫、キミには豹堂と同じ役職をやってもらう」
落ち着きを取り戻すように一つ咳払いをした瑛の言葉に、彼はそっぽを向いたままの鳴の胸元で光るバッジを見やる。それには『庶務』と記されている。
「・・・これを渡す前に質問をさせて欲しい」
懐から「庶務(見習い)」と刻まれているバッジを取り出した瑛は、それを紅壱へ渡しかけた手を唐突に宙で静止させた。思わず、受け取る手を出しかけた紅壱は「何ですか?」と、戸惑いと不安を覚えながら聞き返す。
「私が、この学園に蔓延る『男卑女尊』の空気を払拭したいが為に、キミを誘ったのは既に言ったな。
それを踏まえて聞きたい。素直な意見で構わない・・・キミはどちらの味方だ? 辰姫紅壱」
今度はすぐ答えた紅壱。
「少数派である男子の味方をします。ただ・・・」
「ただ?」言いよどんだ紅壱に、恵夢と愛梨は小首を傾げる。
「野郎どもが間違った牙の剥き方をしたら、俺は迷わずに先輩らを護ります」
キザな台詞だ、と自分でも思ったのか、はにかんだ紅壱だったが、視線は逸らさなかった。「グッドな答えだ」と瑛は、そんな彼の胸へ押し付けるようにして腕章を預ける。
「アタシ等は、アンタに守られなければならないほど弱くはないよ」
「知ってます」と紅壱に苦笑いを向けられた恵夢は「ホント、昨日はごめんねぇ」と両手を合わせた。
「これから、私の力になってくれ、辰姫。
しかし、まぁ、異性に守られる、その手のシチュエーションに対する憧れを微塵も持ち合わせていない訳ではないからな、期待しているよ」
「尽力します」と力強く頷いた紅壱にしゃがむよう顎で指示した瑛は、屈んだ彼の制服の右胸ポケットにバッジを自らの手で付けてやる。しきりに恐縮する紅壱に、瑛は「気にするな」と笑いかけ、ついでとばかりに制服の乱れを正してやる。
「キミの方から、何か聞いておきたい事はあるか?」
「・・・じゃあ、一応、一つだけ」と紅壱は左の人差し指を立てる。
「バケモノらとの戦闘時、決まったコスチュームなんか着なきゃいけないんですか?」
恐る恐る、不安げな表情を見せた彼の突飛な質問に、恵夢は目を丸くし、愛梨は腹を抱えて笑い出し、夏輝も口許を微かに揺らし、鳴などはあからさまに蔑みの瞳を向けてきた。
「他の所では、戦闘意欲を高める為にやっているが、少なくとも、私達はやらない。
キミにそういう願望があるならば、用意はできるが・・・・・・」
紅壱は慌てて、首と手を激しく左右に振り乱した。
「いや、さすがに、皆さんがヒラヒラした派手なコスチュームで闘ってるのに、俺だけ学生服やだせぇジャージだったら浮いちまうかな、と思っただけなんで・・・何すか、会長、その『キミだけでも首を縦に振ってくれれば、可愛いコスチュームを大手を振って用意できるのに!!』と言わんばかりの、キラキラした期待に満ちてる表情は。でも、まぁ、顔までしっかり隠れる仮面を被って、スーツも特撮ヒーローみたいなタイプなら考えない事もないですけど・・・・・・って、冗談です、冗談?! 嬉々としながら、段取りを始めないで下さい、獅子ヶ谷会長!! カタログは出さないでいいっすから!!ジャージで戦いますから!!」
四月十日〈火〉 天候 薄曇り
辰姫紅壱が入会してくれた。
忘却術の効果が現れなかったのは予想していなかったが、彼は全てを覚えている上で「入りたい」と言ってくれた。
何と、素晴らしい男だろうか。
彼のような『芯』がしっかりしている人間が加わったとなれば、表の活動も裏の活動も、これまで以上にスムーズになるだろう・・・前々から練っていたプランを実行に移せないのは悔しいが、まだ始まったばかりだ、何もかも。焦らずに行こう、と自分に言い聞かせる。
しかし、あくまでも、彼は素人だ。生徒会長として、要らぬ怪我をしないよう、細心の注意を払わなければならない。
これから、辰姫を鍛える日々の事を思うと、期待に胸が膨らんでしまう。
・・・・・・けど、一体、何だったんだろう、辰姫が先輩に胸を押しつけられているのを見て、湧き上がった怒りは。あの程度の事で、感情が乱れるなんて、私もまだまだと言う事か。
だが、また、辰姫が他の女生徒にベタベタされたら、いや、それを想像するだけで心臓が痛い。
来月、『組織』の一斉健康診断もあるし、光正先生に相談してみよう。彼の顔を見る度に、心臓がドキドキしてしまっていたら、付き合い方に支障が出てしまう。何か悪い病気でなければいいのだが・・・・・・
魔王・アバドンをその身に宿していたからか、瑛による記憶消去の術を無効化できた紅壱
引っ越してきてから、まだ数日とは言え、学生でいる間は世話になる街を守るため、何より、アバドン復活を目論んでいる紅壱は生徒会への入会を決める
ただ一人を除いて、メンバーから入会を歓迎された紅壱を待ち構えているものとは一体?