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とある生徒会長の本音は日誌だけが知っている  作者: 『黒狗』の優樹
生徒会への入会
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第三話 見敵(enemy) 辰姫紅壱、リザードマンに出くわす

学園の女子全てが憧れる、生徒会長・獅子ヶ谷瑛より、入会の勧誘を受けた紅壱

返事を保留とした彼はバイト先からの帰り道、異形の怪物に襲われる!!

自分を食べようとするモンスターにも、一切の物おじせぬ蛮勇誇る紅壱は、いざ尋常に、リザードマンへ挑むッッ

 (ちっと、今日は忙しかったな。まぁ、残業手当は付いたから、ありがてぇ)


 午後十時ごろ、街灯がまばらな裏路地は、夜の闇が濃い。

 アパートまでの近道をピッカピッカに磨いた新車のペダルを軽快に漕いで急ぐ紅壱の表情は、やや翳っていた。ただでさえ、無意識に周りを緊張させる顔つきが、より厳しくなっている。もちろん、バイトで疲れた訳じゃない。この程度でバテるほど、やわな鍛え方はしていない。ただ、無理に営業スマイルを顔に貼りつけていたので、終わった途端、それを維持できなくなったらしい。

 新たな相棒、GIANT ESCAPE RX3との相性は抜群なので、明日の通学で困る事はなくなった。今まで以上に、疾風かぜになれそうだ。慣れたら、小規模なレースに出てもいいだろう、と頭の片隅では思っていた。

 しかし、こんな50万円近くはする最良い物を自分にプレゼントしてくれた人間に、次、会った時、どう礼を言うべきか、それに悩む紅壱は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべずにはいられなかった。相手は、この程度の事を恩に着せないタイプだから、余計に紅壱は頭を抱えたくなる。


 (まさか、帰ってすぐに、アパートへ新しい自転車が届いてるとは・・・)



 (生徒会に入るべきか、断るべきか・・・正直、今後の事、内申点を考えると、入っておいた方が得だ。

 けど、女子ばっかりってのはなぁ、いらん妬みを買いそうで面倒くせぇなあ。女子のやっかみってのは、おっかねぇしな。

 それに、あの豹堂ってやつと、馬が合いそうもねぇ)


 最寄りのバス停から徒歩でアパートに帰ってきて、向かい合う二匹の有翼怪物ガーゴイルが鎮座する門柱の間を潜ったのと同時に、紅壱の頭の中からは道中、ずっと廻っていた悩みが一気に吹っ飛んだ。

 共同玄関の目の前で、彼を待ち構えていたのは真っ白なリボンが巻かれた巨大な箱と、喧嘩慣れしている紅壱でも一分の隙すら見出せない、値段を聞いたら目玉が飛び出すであろう高級スーツに袖を通している美女。この一つと一人を見ただけで、彼は箱の中身と、贈り主に思い当たってしまう。

 歩いてきた疲れとは違う理由で、あからさまに疲労状態としてしまった紅壱に対して眉根も寄せずに美女は「どうぞ」と、彼に手ずからリボンを解くよう促す。

 渋々、彼がリボンを解き、蓋を開けてみれば、思っていた通り、中身は新品のクロスバイクだった。

 ドロップハンドルに止められていたカードを開き、文面を読んだ彼は溜息を漏らす。


 「最愛のコーちゃんへ 貴方の事が誰よりも大々々々好きなお姉ちゃんから、愛の溢れまくるプレゼントを贈ります。使ってください・・・か。

 絹河きぬがわさん、あの人に『ありがたく乗らせてもらいます』って伝えて下さい。ついでに、『学費と家賃を払ってもらえるだけで十分なので、これ以上の小遣いはいらいない。必要な分は、しっかりバイトで稼ぐから』と」


 「承りました」


 彼と贈り主の一言で済ませられるが、簡単には説明できない関係を知っている美女は、同情混じりの苦笑いを漏らした。もし、部下が今の彼女を見たら、仰天しただろう。何せ、彼女の目元や頬周り、口元の筋肉は社内にいる際、ピクリとも動かないからだ、何が起きようとも、

 気まずそうにカードを返してきた紅壱に一礼をし、心のガードを具現化させたような眼鏡をわざわざ音が上がるように押し上げると、教本通りの「回れ右」を見せて足早に去っていった。

 彼女を見送った紅壱は「やれやれ」と後頭部を掻いて背負っていた鞄を軽く揺すると、自転車の微調整をすべく、道具を取りに自分の部屋に向かう。


 「まったく、いつも、こっちの都合を無視してよぉ」


 彼は愚痴をこぼしつつも、嬉しそうな笑みを抑えきれずにいた。その愉悦の顔は、実に悪魔、いや、魔王的で、もし、アパート外であれば、子供に泣き叫ばれ、通報されていただろう。



 (けど、こんな早く、自転車を持ってきたとなると、確実に、俺の通学風景を瓶持さんか、SP隊の人間に撮らせているんだな。まさかとは思うが、この瞬間も・・・・・・人の気配はねぇから、そこらの監視カメラをジャックしてるのかね。

 あの女子大生、今ごろ、連絡が取れなくなってるとかないだろうな)


 最悪の事態を想像し、思わず、背筋に寒いものを覚えながら周囲を見回してしまった紅壱。

 特に異常がないと分かり、ホッとして顔を前に戻した瞬間、路地から飛び出してきた影に驚いて、急いでハンドルを傾けた。タイヤが横滑りし、咄嗟に出した左足の靴裏がアスファルトを削り、耳障りな音を放ちながら砂埃を高々と舞い上げていく。

 民家のブロック塀に激突する寸前で止まれた紅壱は安堵の息を大きく吐き出した後、一体、何が目の前に飛び出してきたのか、憤りと共に疑問に思って視線をそちらへ向けた。


 「ッッっ・・・・・・マジかよ」


 彼は自分の目を疑った。

 一瞬、端に捉えた影の形で猫や犬の類ではなく、ウォーキング中の老人かと推測していたのだが、彼の視線の先で進路を阻むように立っていたのは、異形の存在であった。

 伸びた鋭い爪は、乾き出した血で赤黒く汚れている。

 だが、絶句した彼が思わず、注視してしまったのは屈強な体の首から上。

 その顔は蜥蜴であった。似ていると言うレベルではなく、紛れもない蜥蜴頭であった。どちらかと言えば、イグアナに近いだろうか、しかも、肉食の。

 大きく割れた口の端までビッシリと並ぶ尖った歯、憎悪で歪んだ陰惨な光でギラついている尖った目、痛みを堪えているのか荒い息を出す度に膨らむゴルフボール大の鼻腔。

 上半身を覆う、刺々しい苔色の鱗。タックルをされたら、骨が砕け、内臓が破裂するだけでなく、肉を削がれてしまいそうだ。リズム良く地面を叩く尾は、木製バットなら容易く折れそうだ。金属バットでも、勢いよく振り抜かれた尾を防げるか、微妙な所だった。

 腕も逞しく、ただのパンチで人間の頭部など、簡単に変形させられるだろう。


 (怪人・イグアナ男? いや、リザードマンって奴か・・・初めて見たぜ。

やっぱ、都会ともなると、そこそこ有名なモンスターが出るんだな)


 相手を刺激しないようにゆっくりとサドルから降り、ブロック塀に自転車を立てかけた紅壱は自分でも笑ってしまいたいくらい冷静だった。いや、むしろ、待ちに待った状況を前に、興奮を抑えるのに必死だった。



 あの狭間で不可思議な体験をして以来、彼は心霊現象に巻き込まれる事が多くなった。

 霊瘴による悪寒、金縛りは序の口で、昼寝から目覚めれば、目の前の柱を必死の形相で揺らしている小人の集団を見た。倒壊を恐れ、慌てて飛び出ると、家そのものは全く揺れていなかった。

 山道を歩いていれば、変化の術に長じた尾が三本の性悪狐が、美少女に化けて自分を騙そうとしてきた。眉に唾を付けていたから、スカートから出ている尾に気付けたが、もし、好い気になっていたら何を食わされていたか、分からない。

 そこらの川へ釣りに行けば、友人が河童に尻子玉を引っこ抜かれてしまった。相撲勝負で、河童の横綱に勝てたから、どうにか友達は救えたが。

 失恋でヤケ酒をした末に事故死したものの、自分をフッた男への恨みの念が足りずに、事故現場から離れられなくなってしまった女幽霊の愚痴に三日も付き合わされた事だってあった。結局、彼女は成仏も出来ず、そこでまだ、地縛霊をやっており、今や、それなりの名物になってしまっている。交通事故を誘発するような悪さこそ働いていないから、プロにお目溢しされているようだ。


 また、祖父母の家には家業ゆえか、妖怪画や、悪魔の祓い方、逆に召喚する手段を克明に綴った書物が妙に多かった。外で活発に遊びながらも、彼は家に帰ると、これらを納めた蔵で祖母に呼ばれるまで過ごし、想像力の強すぎる子供が読むには相応しくない本を手元に積み重ねて読み耽った。

 自分の『内』で眠る美女について詳しく知りたかったのだろう、と未だにその手の怪しい本が好きな紅壱は、幼かった頃の行動をそんな風に顧みている。



 (深呼吸を三回、ゆったり吸って、刻むように吐く)


 装う必要もないくらい、平常心はブレていない。

 平静な表情のままで、彼はリザードマンを上から下まで観察する。

 故郷では、河童や猿の経立に襲われた事は幾度かあったが、リザードマンとの対戦はない。噂も聞いた事がないので、恐らく、日本、少なくとも、自分の住んでいる村には出ないモンスターなんだろう、と紅壱は考えていた。ある程度の基本的な情報を持っていても、この目で見るのは初めて、その驚きはあったが、それ以上の波は心に起きなかった。


 (リザードマンと言えば、沼地付近に出没するモンスターだったな)


 紅壱は引っ越してきてすぐに、頭の中に叩き込んでおいた近隣の地図を思い出す。3km南に、二級河川があるので、もしかすると、そこをねぐらにしているのか、と考えつつ、爬虫類をベースにしているのなら、陸地でもある程度は自由に活動できそうだ、とも頷く。


 (――――――・・・武器は持ってねぇな)


 祖母が持っていた書籍の挿絵で、リザードマンは左手に片手剣を持ち、右腕に小さい円盾を装備していたが、目前の個体は手ぶらだ。だが、例え、剣は持っておらずとも、爪は十分に脅威的だ。ヤクザの匕首くらいの切れ味はありそうだな、と紅壱は爪の攻撃力を冷静に計る。

 ここに来る以前、何かと戦っていたのか、大きくはない傷を体に何箇所か負ったままで逃げ、ここで自分と出くわしたようだ。もしかすると、戦闘時に武器を失った可能性もあった。となると、そいつには感謝しなくちゃな、と口元を紅壱は歪めた。

 彼には今、リザードマンがどんな事を小さそうな脳味噌で考えているのかも、その血走った両目から容易に読み取れた。


 (俺を食って、体力なり魔力なりを回復させたい訳か)


 淡々と下した判断は当たっていたのか、同じように観察して、目の前の少年を「無力な餌」と断定したリザードマンは空気を小刻みに震わせるようにして叫び、逞しい腕を振り上げて迫ってきた。

 しかし、リザードマンの動きに対し、驚きこそしたが、生理的な嫌悪の念を一抹しか抱いていなかった紅壱の動きは機敏だった。

 あえて退かずに前へ踏み込んだ彼は、右足の先から腰までが一直線になるようにリザードマンの腹部を蹴り飛ばす。

 インパクトの瞬間に、彼は爪先を靴の甲に向けて反らせたものだから、威力は更に上がり、予想もしなかった攻撃を無防備に受けてしまったリザードマンは、青味がかった唾液を吐き散らしながら吹き飛ばされていった。

 止まろうと力を入れた足の爪はコンクリートを不快な音を上げながら裂いていくのだが、リザードマンはなかなか、蹴りの威力を殺せず、10mに届く寸前で、やっと止まる事が叶う。

 大体、この手の怪物は軟い腹が弱点のハズだが、思ってたよりも硬いな、かと言って、タイヤみてぇな弾力があるって訳じゃないか、膝をつく事だけは耐えているリザードマンを淡々と分析しながら蹴った右足を下ろした紅壱は両足を腰の幅に開く。

 そうして、左足を軽く前に一歩だけ踏み出すと、やや内側に向けて、次の行動に移りやすいようバランスを取ると、踵ではなく、親指の付け根あたりに体重をかけ、拳は作らないように軽く緩めた両手を顎まで持ち上げ、顔から楽な距離に構えた。

 内側に入った両肘、きっちり締められた脇、横向きにならない程度で自分に向かって開かれた肩。素人目から見ても強さを肌に感じられる彼の無駄がない構えに、思わず気圧され、「ヒュルルル」と、威嚇の息を吐いてしまうリザードマン。

 リザードマンが攻めるのを躊躇っているのに勘付いた紅壱は、今度は自ら前へ出る。

 プロすら唸らせる左のストレートは危なげなく避けるも、牽制にまんまと引っ掛かってしまったリザードマンに紅壱のクロスボディパンチがきれいに入る。


 (煙草の火を揉み消すイメージ!!)


 喧嘩慣れしている彼の体には、相手の心身に響くパンチの打ち方が自然と染み付いていた。両足の力を余さずに使うように、肘はなるべく下向きを保つ。右の拳を突き出すのに合わせ、肩と腰を回し、後ろの踵を返してパワーを加える。

 その上、紅壱が拳を45度ほど回転させたものだから、威力は反対側まで一直線に突き抜けていき、リザードマンは一瞬だが意識が遠のき、拳の跡がくっきりと刻まれた箇所を手で押さえると二歩三歩と後ずさってしまう。

 素早く拳を戻した紅壱は、リザードマンの行動を待つ。この一発で自分に敵わないと判断し、潔く逃げるなら追いかけるつもりはなかったが、このまま自分を食う意志を曲げないなら、容赦する気はなかった。


 (ジジィに比べたら、そんなプレッシャー、大したことねぇよ)


 自分に向けられる、鈍い熱を伴う殺意が篭もった瞳を見て、残念ながら後者のようだ、と判断する紅壱。

 怯えを押し殺すように、甲高い威嚇音を放ったリザードマンが地面を強く一蹴りして、紅壱へ迫ってきた。思っていた以上のダッシュを警戒し、彼はあえて無理には迎撃せず、後ろに跳んで振り抜かれた爪を危なげなく躱す。

 すぐに間合いを詰めなおすと、リザードマンの直線的なパンチを、掌の中央で軽く押すようにして軌道を逸らした。体勢の崩れはわずかだったが紅壱にはそれで十分で、ガラ空きになった横っ面に水平肘打ちを腰を回転させながら叩き込んだ。

 そうして、痛みで体をくの字に折り曲げてしまったリザードマンの右腕と右肩を鱗が剥がれるほどの握力でしっかり掴んだ紅壱。リザードマンの反撃を阻むように、肘を下げたままで右前腕部を首に密着させた彼は腰をぶつけるようにして、右膝をリザードマンの顔面に叩き込んだ。

 紅壱はリザードマンの顔の中央部が陥没し、衝撃が後頭部まで抜けたのが膝の皿にじんわりと広がった感触で判った。

 人間相手なら、この膝蹴りで勝負ありだが、やはり、モンスター。鼻骨が完全に陥没しているにも関わらず、まだ、戦闘意欲を失っていないようで、目をギラつかせたまま、紅壱に噛みついてこようとした。

 だが、勝てる膝蹴りをピンポイントで顔に叩き込んでも、紅壱には一切の油断もない。二歩半ばかり下がって、次の攻撃に必要な間隔を取っていた彼はリザードマンが飛びかかってくるタイミングに合わせて跳躍した。トゥン、その程度の音しか聞こえぬほど、紅壱は地面を踏み込んだだけだったが、彼はリザードマンの頭上を簡単に取っていた。

 自慢の歯を肉に埋め込み、一気に食いちぎってやろうとした相手が突然、目前から前触れも、大きな予備動作もなく消え失せれば、野生動物だろうが、モンスターだろうが慌ててしまう。実戦で、その一瞬は致命的となる。

 宙で半回転した紅壱の踵が、無防備となっていたリザードマンの頭上に落とされる。

 ぶしっ、と音を上げて頭から噴き出す青い体液。爪先と踵に鉄塊を仕込んである靴ごしに、リザードマンの頭蓋骨に亀裂を入れ、脳にダメージを届かせたのを把握していた紅壱。けれど、祖父に技以前に喧嘩の気構えを叩き込まれている彼の凶器たる躰は、まだ攻撃の手、いや、足を休めなかった。


 「っし」

 

 頭頂部への衝撃により、自然と開いてしまった口が、強制的に閉じられる、紅壱が下顎を容赦なく蹴り上げた事で。

 それは、いわゆる、サマーソルトキック。単発でも、実戦で敵にクリティカルヒットさせる事が困難である、この現実よりもとある格闘ゲームで蹴り技を踵落としから繋いで、直撃させる。紅壱の喧嘩師としての才能がズバ抜けており、なおかつ、彼が己の肉体に発狂しかねないほどの量と質を課して鍛えているか、が容易に察せられる。

 もし、この戦いを見ていた者がいたのなら、踵落としからサマーソルトキックへの繋ぎが早く、ほぼ同時に叩き込んだように錯覚しただろう。それこそ、リザードマンの頭が顎の力が強力な生物、例えるならば、鰐に噛みつかれたように見えたかもしれない。中には、ドラゴンの噛みつき攻撃を想像した者もいただろうか。

 強引に顎が閉じられ、上からの衝撃と下からの衝撃が口の中で衝突した事により、リザードマンが自慢としていた己の歯は、その頑丈さが仇となって、粉々に砕け散かれ、口腔外に飛び出ていった。歯の破片と知らなければ、それなりに美しかっただろう。

 とっくに、リザードマンの強固な肉体はダメージを耐えられず、途切れそうな意識は言葉にしがたい恐怖に食い潰されていた。

 ひぃぃぃぃぃ、とリザードマンは戦士の誇りも棄て、体力回復もそっちのけで逃亡を図らんとする。敵わない相手からは恥も承知で逃げる、生物の本能としては当然の行動であり、この状況では正解だった。実際、このリザードマンは先の戦いで逃走し、それに成功していたのだから。だが、今、戦っている相手は辰姫紅壱であり、彼はそれを良しとする男ではない。

 逃げるべく、リザードマンは口の中に溜まっていた血を紅壱に向かって吐く。

 着地のタイミングを狙われ、紅壱はそれを回避できなかった。リザードマンの毒には、ごくごく弱い毒性があり、皮膚に浴びると爛れてしまう。目に入れば、激痛で数時間は開けられなくなる。それを紅壱は知らない、けれど、危険だ、と勘づいていた彼は首にかけていたタオルで、毒血から顔を守った。

 ほんの0.1秒だけでも時間を稼げれば、紅壱には十分。青く染まり、悪臭を放つ煙が上がったタオルを背後に捨て、彼は爪先に力を入れ、大地を掴む。

 情けない悲鳴を顎が砕けた口からリザードマンが踵を返し、己に背を向けた刹那、紅壱は勝機を見出し、口元を釣り上げた。歪む視界の端で、その魔王的な笑みを見てしまったリザードマンは、ただでさえ、頭部へのダメージで足元がおぼつかなかったのに、死の恐怖で足を滑らされる。

 リザードマンは、紅壱を一瞬だけとは言え、驚かせたダッシュ力で彼からある程度の安全な距離を確保していた。けれど、彼相手に闘争を成功させるのであれば、最低でも100mは瞬間移動できなければならなかった。もちろん、リザードマンに、そんな固有能力はないし、この個体もスキルを得ていなかった。

 池や川が近ければ飛び込んで、数分は命を長らえさせる事も叶った。けれど、このリザードマンは、とことん、運に見放されていた。もしかすると、彼の敗北は、紅壱の前に現れてしまった、あの時から決定していたのかもしれなかった。

 大地を割れるほど力強く掴んでいた足指を開くと同時に、紅壱はリザードマンの背中に肉薄していた、まるで瞬間移動でも使ったかのように。

 背骨が折れたのでは、と思うほど凄まじい音が上がるタックルをし、紅壱はリザードマンの腰へ腕を回して拘束すると、急ブレーキをかけた事で行き場を失い、膨れ上がった運動エネルギーをリザードマンを投げる勢いに上乗せした。

 落雷、もしくは、ミサイルの着弾、そんなイメージが浮かぶほどの爆音が、リザードマンの後頭部がアスファルトに叩き付けられた瞬間に。

 紅壱が自分の倍は体重があろうかと言う、リザードマン相手に繰り出した投げ技、それはプロレスファンでなくとも耳にしたことがあり、おぼろげながらも技の完成図が思い浮かべられるほど有名な、バックドロップだ。

 しかも、彼はリザードマンをクラッチしたまま1m近くもジャンプし、その高さから頭を地面に叩き付けたのだ。ただでさえ、「へそで投げる」事により殺人技に達しているバックドロップに、高さと独りと一匹分の体重、空気を蹴った事で増した落下速度も掛け合わされたら、とうに瀕死のリザードマンにはオーバーキルだった。

 どうにか無傷で勝てたらしい、と安堵を覚えた瞬間、今になって、油断していたら死んでいたかもしれない、そんな恐怖が襲ってきたようで、全身から冷たい汗が一気に噴き出した紅壱。勝った嬉しさより、死ななかった喜びの方が圧倒的に大きかったようで、顔を青ざめている彼は無意識に笑ってしまう。その笑みには、先ほどまでの邪悪さなど、一欠けらもない。

 地面から下半身を生やし、ピクピクと小刻みに痙攣しているリザードマンを軽く突き飛ばした彼はフラつく足取りで、自転車に向かう。


 (ああ、くそ、汗が気持ち悪ぃ・・・今夜の浅野さんが作ったまかないの唐揚げ、油キツかったもんな)


 「ジジィにどやされちまうな、この程度のトカゲ人間、一分で倒せないとは軟弱者め、ってよ」


 三日に一回の間隔でこなしていた祖父との模擬組み手を、この町へ引っ越してきた事でやらなくなった事で、自分の喧嘩の勘に錆が浮き出しているのを自覚し、紅壱は上唇を悔しそうに噛んだ。

 胃の腑を捻り上げてくる不快感に、形の良い眉を顰めた彼は、おもむろに背後を振り返って、リザードマンが復活していないか、を確認する。

 次の瞬間だった、紅壱が心臓に痛みを覚えたのは。耳から飛び出てくるのは、と危惧するほど、心臓の鼓動は早く、体の末端にまで波が届く。しかも、吐き気は消し飛んだが、今度は胃を空腹感が苦しめ、彼は耐え切れず、その場に這い蹲りそうになる。


 (な、何で、こんな腹が減って・・・・・・まさか、またか!?)


 なまじ、同じ轍は踏みたくない、という後悔から意識を遮断できなかったのが仇になった。経験のない飢えに狼狽える紅壱の目は、動かないリザードマンに釘付けとなっていた。そのリザードマンの体液が放つ、蒸かしたジャガイモを思わせる匂いに鼻腔がくすぐられるなり、彼の口から唾液が滝のように流れ出す。

 (・・・・・・そうだ、勝ったなら、仕留めたなら、食わないと)


 紅壱の意識は、自分のモノではない飢えに支配され、彼はリザードマンへ緩慢な足取りで近づいていってしまう。肉食であるリザードマンの肉が果たして美味いのか、口にして体に害がないのか、そんな事を考えている余裕すら、今の彼にはない。ただ、胃が潰されるような激しい痛みが紛れれば、何の肉でも良かった。リザードマンの肉でもいいから口にしなければ、まるで蝗の群れのように、生きている者も、命ない物も、何の区別もせずに貪り尽くしてしまいそうだった、今の紅壱は。

 掴んで上げたリザードマンの腕は弛緩こそしていたが、鱗は固い。けれど、強引に剥がす事は出来たし、バリバリとした鱗の良い食感のアクセントになりそうだ、と彼は感じた。

 そして、腕に噛みつこうとした矢先、焦りが濃く滲む足音が近づいてきているのに気付いた。

 普段であれば、新手か、と警戒しただろうが、今の紅壱は自分の食事を邪魔させるか、その独占欲が萎ませかけていた闘争心へ即座に火を点け直し、相手が自分の間合いに立ち、手を伸ばしてくるのを察知した瞬間に、彼は裏拳を繰り出してしまう。直撃すれば、最低でも首の骨が折れるだろうが、そんな事を構っている余裕、今の彼にはなかった。

 だが、彼のバックハンドを相手は難なく受け止め、鼓膜が割れかねないほどの破裂音が一体の緊張感を鞭打つ。

 まさか、自分の裏拳を祖父や数人の手練れ以外に止められるとは露も思っていなかった紅壱。これまで、多くの不良やヤクザに地べたを舐めさせてきた実績があるだけに、その驚きは、リザードマンを見た時よりも吃驚してしまった。その感情へのショックが、紅壱を我に返らせ、彼は握り潰していたリザードマンの腕を離す。

 冷静さを取り戻した事で、自分の攻撃を止めた者は敵だ、と判断してしまい、掌から拳を剥がし、振り向きざまに左ストレートを繰りだそうとした紅壱。けれど、目前の曲がり角から飛び出してきた人物に名を叫ばれ、思わず、強引に攻撃を止める。無理な負荷がかかり、関節に痛みが走った彼の食い縛った口から低い呻きが漏れ出る。

 どうにか、筋肉が焼かれるような痛みに耐えきった紅壱は息を吐き出し、汗が新たに滲み出てきた顔を、その場から動けぬ知り合いに向ける。しかし、すぐに、何故、彼女らがここに来るのだろう、と言う疑問が頭の中に浮かんだ。


 「獅子ヶ谷会長? それに、他の皆さんまで」


 問うてから、この状況はマズい、と気付いて、地面に倒れ伏したままのリザードマンから、蒼白な顔で息を荒げている瑛に目を戻し、誤魔化そうとした刹那に、額に鋭い痛みを覚えた紅壱。


 「痛ぇっ」


 思わず、二歩三歩と後ろに、額に手をやって下がってしまう彼を見て、驚いたのは生徒会の一同。特に、紅壱の額を、人差し指で打った瑛の驚きは顕著であった。


 「マジか、気絶しねぇよ」


 「スタンガン並みの電撃なのよ、会長の忘却術は」


 「・・・・・・すまん!!」


 瑛が謝ってきた事で、余計に事態が飲み込めなくなってしまった紅壱の額に、再び、痛みが与えられる。あまりの衝撃に、またもや、紅壱は二歩三歩とよろめき、どうにか踏ん張ろうとしたが、今度こそ、意識に黒い帳が落とされた。

 視界に靄が広がっていき、膝から落ちた紅壱の頭部を、胸をクッション代わりにして受け止めたのは一体、誰であったのだろうか。



 「魔属・亜人型・リザードマンの処理、完了です」


 「しかし、リザードマンが、こんなボコボコにされてるの、初めて見たぞ、あたし。

 堅ぇ皮膚のリザードマンは、棍棒か斧みてぇな武器で打つか、遠距離系の攻撃魔術で倒すのがセオリーだってのに」


 「けど、会長はリザードマンの皮膚を斬りましたよ。

 私の斬撃なんて、簡単に弾かれちゃったのに」


 「アキは違う意味で規格外だからな。常識は通用しねぇよ」


 「おい、聞こえてるぞ、エリ」


 「悪ぃ悪ぃ。でも、褒めてるんだぜ」


 「リザードマンをビビらせて、一目散に逃げさせた会長は凄いです!!」

 「――――――・・・ありがとう、豹堂。

 さて、付近の住民の記憶操作も完了した、結界を解除し、この場を去ろう。

 辰姫は私たちが、住んでいるアパートまで送っていくから、エリ達は直帰してくれて構わない。

 今夜は、私の不手際で苦労を掛けてしまい、すまなかった。ゆっくり体を休めてくれ」


 愛梨は瑛に文句を言う、と言うより、気を失っている紅壱を穏やかじゃない手段で叩き起こそうとした鳴の口を押さえ、黙らせる。そうして、「じゃ、コーイチのこと、頼むな」と意味深な笑みを親友に向けて浮かべ、顔色が変わりだしながらも、この場に留まろうと足掻いている後輩を見た目以上のパワーで引き摺りながら、その場を去っていった。



 「ナッちゃん、ほら、行こう」


 恵夢に手招きと共に呼ばれ、夏煌は地面に残っていた、紅壱が付けた足跡を消してくれた地土属性の精霊に飴を礼として与えてから、彼女の元へ小走りで急いだ。

 夏煌が口元へ浮かべていた微かな笑みは、まるで手違いから遠方に置き去りにされてしまった猟犬が、百里を駆け、多くのトラブルを突破し、ついに主の元に戻ってきた際のそれに似ていた。だが、彼女は恵夢の差し出した手を握る前に、無口少女の仮面をかぶり直してしまったので、誰もそれに気付かなかった

紅壱とリザードマンのそれは「戦い」と表現するには、あまりにも一方的だった

リザードマンを再起不能に追いやった彼は、勝者の特権とばかりに、その肉を喰らわんとする

狂う事が出来れば、どんなに楽か、と思うほどの飢餓感に意識を支配されつつある紅壱の前に現れた瑛は、問答無用で彼の意識を不思議な技で断つ

果たして、彼女ら生徒会は何者なのか!?

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