第十九話 叱咤(punishment) 辰姫紅壱、獅子ヶ谷瑛よりお仕置きされる
パートナー契約の儀式で重傷となった紅壱
だが、彼は瑛らに無断で、バイトに向かってしまう
案の定、翌日には動けなくなってしまった紅壱。しかし、自慰がトドメとなっただけに、自己嫌悪しかないのだった
そんな効果のない反省をする紅壱の見舞いに来たのは?
案の定、召喚儀式の翌日、紅壱は欠席した。体力お化けの彼でも、休まざるを得なかった。
蜘蛛、鰐、蛇、鷹は話が分かる霊属らだったので助かったが、やはり、vs虎で負ったダメージは深刻だった。また、無理を押してバイトに行ってしまったのも良くなかったらしい。そして、弾倉を空にしてしまったのが、トドメになった。
翌朝、経験のある筋肉痛、倦怠感、貧血による気持ち悪さ、言いようのない不安が心身を蝕んでおり、紅壱はベッドから起き上がる事も儘ならなかった。自己記録を更新したのだから、当然ではあるのだろうが。
自分でも、虎との戦闘、アルバイトではなく、自慰でこうなるのは情けなかった。何故、我慢が出来なかったのか、と自己嫌悪にも陥った。しかし、頭の片隅では、これからも結局、懲りずに瑛の痴態でヌいて賢者タイムを迎え、こうやって、再び、落ち込むのだろうな、と他人事のように予見していた。
魔王の恩恵か、それとも、回復力を高める呼吸法の効果が出てくれたか、戦闘の負傷は半日も寝ていれば治り、様々な疲労もすっかりなくなったので、午後から学校に顔を出す事は叶った。けれど、紅壱は出来なかった、無断退院の事を瑛達に怒られる事が心底、おっかなくて。
「よぉっす」
見舞いに来てくれたのは、修一だけだった。もっとも、音桐荘の住所を現時点で教えているのは、彼だけなのでクラスメイトが来るはずもない。瑛らは生徒会の権限で生徒の個人情報を閲覧できるだろうが、トップの瑛が狡い手段を嫌う性質だ。見舞いに行きたい、そんな強い思いと戦い、ついに諦めたのだろう。
「あんだよ、元気そうじゃねぇか」
お互い、皆勤賞を狙うタイプでないにしろ、普通の不良らしく、学校には顔はしっかり出していた。なので、悪友が休んだ事を不審に思ったようだ。
彼が土産として持ってきたのは、近場のスーパーマーケットで買ってきたスナック菓子や果物だった。ついでに持ってきた、男子高校生の夜の必需品は、ありがたく頂いておいた。己の嗜好のそれではなく、わざわざ、紅壱の好みに合ったモノ、ヒロインが瑛にどことなく似ており、内容も段階を踏んで男女の仲になる、比較的にベタな展開、を買ってきてやるあたり、修一は気が利く男なのだろう。そうでなければ、この紅壱の右腕かつライバルは自称できず、自他共に認められてもいない。
とっくに、紅壱は包帯やガーゼを体から取っていたので、外傷もなく、血色もさほど悪くない彼を修一は訝しんだが、事情があったのだろう、と察したようで、深くは聞いてこなかった。彼なりの気遣いはありがたかったが、洲湾さんが、如何にエロいか、を滔々と語ってくるのは鬱陶しく、良くなっていた具合が悪化しそうだった。
この話題を続けると、さすがに親友を怒らせてしまうのか、と勘のいい修一は自ら、異なる話を始めた。と言っても、精々、今日の出来事を伝える程度だ。
「・・・・・・本気か?」
どうやら、修一は軽音部に所属する事を決めたようだ。
紅壱と同じく、漢気は有り余っているが、健全たる男子高校生らしく、エロも優先する修一の事だから、肩身が狭くなろうが、女子部員の露出が多い運動部を選ぶかと予想していた紅壱は、わずかながらも虚を突かれた。
「ふひっ、意外だろ」
親友の眉根を動かせ、修一は喜ぶ。醜態と呼べるものでないにしろ、隙を出してしまった事に気恥しさを覚え、紅壱は低い舌打ちを発す。そんな彼の態度で、修一はますます、ドヤ顔となる。
ムカつく野郎だ、と忌々しさを覚えながらも、自分に対して、そんな態度を取ってくれる同年代の男は修一を含め、数人だけなので、紅壱は気が楽になる。
元々、軽音楽には興味があったらしい、修一は。今日の午前、たまたま、クラスメイトの尾白真琴から、「部室に来ませんか、見学に」と誘われたようだ。どうやら、彼女は入学当初より、修一の長い指に目を付けていたらしい。
尾白真琴、その名を聞いても、紅壱は青い縁の眼鏡、三つ編み、おっぱいのサイズは平均より少し大きめな女子、その程度の映像しか思い浮かべられない。
(あんま記憶に残っちゃいない女子だが、結構、度胸があるな、尾白ちゃん)
いつも一緒にいる自分がおらず、修一が暇そうにしていたのも、クラスメイトが自分に比べれば、まだ顔の作りが柔和な修一に声をかける勇気が出た理由なのだろうな、と彼の話を聞きながら、紅壱は推測する。
軽音部は吹奏楽部と比べれば、さほど活動のペースが厳しくない。それは、部活紹介会でも部長の吉岡久美香が言っていた。しかし、修一の決め手となったのは、部員も美少女揃いである点だろう。特に、吉岡は彼の好きな、背が高くて巨乳、そして、眼鏡美人だ。修一が尾白の誘いに乗り、なおかつ、入部届けに即断即決でサインを入れたのも納得だ。
「尾白ちゃん、授業じゃ答える時、小声だってのに、ギター持つと性格変わるみてぇでよ、凄ぇシャウトで歌うんだよ」
ここが痺れちまったぜ、と修一の逞しい胸板は、親指で打たれるごとに「ドン、ドン」と音を上げた。
「文化祭ん時は、ステージの都合、頼むぜ、紅壱ちゃん」
「んな職権乱用できる訳ねぇだろ、庶務の俺に。
せいぜい、オーディションで落選しないよう、演奏の腕、磨いとけ」
「痺れ煙幕、使うぞ」
「OK。うっし、このまま水辺に追い込め」
「尾っぽ、来るぞ。しゃがめ!!」
「うっし、外鱗剥げた。火炎弾、撃ち込めッッ」
「やべっ、毒針、喰らった。毒消しとポーションくれっ」
「接近づけねぇ。弓か呪符で牽制してくれ!!」
「よし、反射バリアの準備できた。ブレス、誘え」
「飛ばれると厄介ぃな。先に翼、ダメージ与えるぞ」
「やばっ、盾、壊れちまった。さすがに、雷撃、受け過ぎたか」
「ちょっ、おい、誰だ、ここに炸裂樽、配置したの!?」
「三十三回目の正直、来い、来い・・・・・・よっしゃ、ついに緋火色の竜王鱗、剥ぎ取りに成功したぜ!!」
「やっと、これで火山地帯の攻略が進むなぁ」
「他の素材も上々だし、武器と防具も修理どころか、改良できそうだな」
「氷結系のスキルと魔弾も買い込んでおきたいよなぁ」
「そろそろ、上級職になるか?」
「転職屋の水晶に出る結果次第だな・・・できりゃ、魔弓師か、上位魔道具制作師になりてぇんだよなぁ」
「火山地帯行く前に、砂漠を通るから、騎獣も欲しいよなぁ。
買うと高いし、騎獣使い、スカウトするか、いっそ」
ドラゴンに似たモンスターを狩る協力関係が物を言うゲームに興じながら、それとなく、紅壱は、今日の校内の雰囲気はどうだったか、を尋ねてみた。修一が瀕死のボスにトドメを刺し損なった点、彼の顔色が分かりやすく青になった点で、聞かずとも想像できた紅壱は胃が痛くなった。
「じゃあな、明日はちゃんと来いよ。
でねぇと、クラスどころか、クラスどころか一年全員の胃に穴が開いちまうよ、あんなピリピリしまくってる会長さんが来るたび。
お前、会長に何して、あんな怒らせたんだよ。乳でも揉んだのか?いや、揉めるほどの大きさじゃねぇか、あの会長。なら、スカートでも偶々、捲っちまったか?何か、色気ねぇ無地のパンツ履いてそうだような、あの会長さん」
惚れた女に対して失礼な発言をした修一に十六連射のデコピンを打ち込みつつ、明日も休んでしまおうか、と逃げ腰になる紅壱。
だけれども、翌朝、いつまでもビクついていたって仕方ない、と起床した彼は弱虫な自分を説き伏せ、制服に袖を通し、愛車に跨った。ペダルはいつもより重く、空気抵抗も強烈だったが、それは気のせいに過ぎなかった。
「はよっす」
登校した紅壱は、すぐに教室へ入ってしまう。廊下は走ると注意されるものだが、瞬動法で常人に見られないほどの速度で動けば、それが咎められる事は無い。
彼が目に見えないほど速く動いた事で、廊下の空気は大きく動く。その波は風となり、廊下を各々のペースで歩いていた女生徒らのスカートをふわりと舞い上げた。
「キャッ」と叫び、慌ててスカートを押さえた女子らは二種類の赤に染まった顔を動かし、自分達のスカートを捲り、下着を露わにしてくれた不届き者の男子に制裁を与えんとした。
しかし、自分達の付近に、そんな不貞を働けそうな男子がいなかったものだから、彼女らは怒りが高まった分だけ、目に見えぬモノへの恐怖を強め、悲鳴すら発せなくなってしまう。
ちなみに、彼女らのスカートの中をしっかりと、網膜に焼き付けた男子生徒らは、自分達に朝から良い物を見せてくれた風に感謝するのだった。
心の平穏は一日限りだったか、と紅壱を理由なく怖がっている生徒のほとんどは、残念そうに肩を落とした。その様子は目に入っていたが、紅壱は何ら気にも留めず、ある程度はガードが緩くなってくれているクラスメイトに声をかけながら、席に向かう。
昼食を教室で食べ終えたのと同時に、突然、胸ポケットの中で鳴り出した携帯電話に嫌な予感を覚えた紅壱。初期設定のままの味気ない着信音が、警鐘のようにも聞こえてきてしまう。
電話に出ようとしない自分を訝しげに見つめる修一に「悪い」と一つ断ってから、彼はサブ画面に出ている名前を見て肩を大きく落とした後、深呼吸を一つしてから通話ボタンを押した。
「もしもし、辰姫っすけど」
そうして、相手は自らの素性を名乗りもせずに、怒りが滲んでいないせいで逆に背中に寒いものを感じさせる声で淡々と用件だけ告げて、すぐに電話を自分の方から静かに切ってしまった。
「16時45分、生徒会室に来るんだ、辰姫庶務見習い。
もう一度繰り返す、辰姫紅壱、本日、16時45分に、生徒会室へ来るように」
紅壱には「了解しました」と返す暇もなかった。
「――――――・・・よし」
覚悟を決めた男の面で、紅壱は窓の外を見た。
(逃げよう)
女から尻尾を巻いてトンズラこいたチキン、そんな謗りを受けても構わない。死ぬよりマシだ、と決断した紅壱は荷物を纏め、教室を出ようとした。
けれど、瑛は愛しい部下の行動など、ズバッとマルっとビシッとお見通しだったらしい。
緊急の旨を告げる鐘が鳴った直後、スピーカーから流れてきた瑛の声、そして、生徒への指示。
「諸君、辰姫紅壱を逃がすな」
瑛に憧れる女子らが、そのコトバに従わない訳がない。
まさかの展開に紅壱の動きが鈍った隙に機先を制し、女子たちは前後の入り口を塞いでしまう。苦虫を噛み潰したかのような表情で、ならば窓から、と振り向くも、既に窓の前にも女子が立っている。
魔力も闘気も使えぬ人間、しかも、女子となれば、紅壱の敵ではない。障害物にすらなれない。けれど、一般人だからこそ、紅壱は傷つけられない。力づくで排除できない。
男卑女尊の気が強い女性からは初対面でレイプ魔扱いされがちな紅壱だが、それなりにはフェミニストなのだ。
武器を持ってくれている、または格闘技の心得が相応にあってくれる、それなら、躊躇いも薄められる。しかし、やけっぱちな勇気と根性しか持ち合わせていない女子は、不良より手に負えない。
通してくれないだろうか、一分の期待を籠めて、対不良のメンチを切ってみる紅壱。粋がっている不良に道を譲らせる眼光だったが、女子は「ひぅ」と怯えこそすれど、扉の前から退いてくれない。ガクガクと震えているのに、足の裏は床に貼りついてしまっているようだ。
瑛は彼の性分を、この短期間で随分と理解してしまったようだ。惚れた強み、と言う奴だろう。
「ここまでやるか・・・」
紅壱は、もう呆れるしかない。
弱味を突いてくる、それは卑怯じゃない。褒めるべきことでもないにしろ、蔑まれるような行為ではない、こと戦闘においては。ただ、瑛の性格的には向いていない手段だ。紅壱もまた、瑛の性格を把握していたからこそ、彼女の自傷行為に溜息が出てきてしまう。
非戦闘員な女子に手を出せない、そんな甘い後輩の行動を封じるために、何も知らず、己に憧れてくれている女子を壁かつ枷として用いる。
今ごろ、瑛は放送室、または生徒会室で自責の念に押し潰されそうになっているに違いない。
呆れを通り越し、自分を傷つけるような真似をした瑛に対して、純粋な怒りが湧いてくる紅壱。その感情が体外に出た途端、慣れている修一ですら、「ぅお」と声を溢してしまう。クラスの女子らが腰を抜かしてし、挙句、床を刺激臭のする体液で汚してしまっても、それは恥ずべきことではない。
彼女らの羞恥心が混じった啜り泣きが耳に入り、自分が怒気を制御できてない事に気付いた紅壱は罰が悪そうに、椅子へ乱暴な腰の落とし方をする。
(くそぉぉぉ)
そうして、いくらか冷静になれた事で、恐怖もとんぼ返りしてきてしまい、紅壱は顔を覆う。彼が胸の内で発していた慟哭が聞こえた訳でもないだろうが、修一は生温かい眼で、親友の震える肩へ手を乗せた。
「お前がいなくなって悲しむ洲湾さんを慰め、頼りがいのある男として意識してもらう、そんで、そのまま、ベッドイン!!」
(安心しろ、お前の骨はちゃんと拾ってやるぜ、ダチ公。俺は、いつだってお前の味方だからな)
「本音と建前が逆にも程があるだろ、お前・・・・・」
そんな親友のバカさ加減に、少しは紅壱も救われるのだった。
だけど、ムカついたのも事実だったので、自然とアッパーカットを顎へと決めていた。まるで、漫画か格闘ゲームのように虚空を錐揉み状に舞った修一の体躯。常人であれば、病院送りは確実な一撃だった。
しかし、腰から床に落ちはしたものの、修一は自身の足で立ち上がる。殴った方も、殴られた方も、普通の不良ではない。
その日の五時限目、古典担当の小寺は、クラスの女子のほとんどがスカートからジャージのズボンに履き替えていたので、鶴のように細い首を捻った。しかし、事なかれ主義の彼は自分の授業は服装が違うくらいで支障は出ないな、そう判断したらしく、気にせずに授業を始めた。
五時限目の古典、六時限目の現代社会、七時限目の数学Ⅰの授業はまるで、紅壱の頭に入ってこなかった。「左から右へ抜ける」などではなく、逆に、瑛にどう謝罪るか、反省をどう示すか、それを考えることに集中しすぎ、音としてまず聞こえていなかった。
自身の授業を生徒が聞いていなければ、当然、教師は注意をする。昨今は、そんな当たり前の事にも過剰反応し、怒鳴り込んでくる親は多い。しかし、この天戯学園に子供を進学させた者は、出来た人格者ばかりだ。そもそも、授業中に呆けている生徒もいない。
この学園に転任してきてから、どころか、教職に就いてから、そんな事態に遭遇した事がなかった数Ⅰの担当、比嘉弘子は、不謹慎ながらも淡い歓喜に胸を躍らせてしまう。生徒に「メッ」をするのは、彼女にとって憧れだった。そんな厳しさの中に愛を籠めた市道で、生徒との関係性を強められる、と夢を見ていた、そう言い換えても良い。
しかし、比嘉は大願を成就させる事が出来なかった。
新人教師とは言え、比嘉自身は共学の高校に通っていたので、ここの生徒より男子高校生の習性に馴染みがある。ただ、今回ばかりは相手が悪かった。
普段の紅壱であれば、比嘉も度胸を振り絞れただろう。だが、今、彼は瑛からの呼び出しに対して、尋常じゃなく緊張を強いられている。その感情は人間の表情を強張らせ、紅壱も例に漏れない。ただでさえ、子供を泣かせる彼の顔の筋肉が固くなれば、どれほどのものになるのか、それは想像に難くないだろう。
注意の言葉を飲み込んだ比嘉は、そのまま、黒板の方に向き直ってしまう。
けれど、誰も比嘉を臆病者、と心中で責めなかった。すぐにでも泣きたいだろうに、声を震わせながら授業をしっかりと続ける彼女は、教師の鑑だったからだ。
自分が比嘉の好感度を高めるのに役立ったとも知らず、紅壱は、瑛にどう土下座をするか、に脳の処理能力を回す。一つの案が消えるごとに、彼が教室中に響く重々しい溜息を吐くものだから、クラスの誰もが生きた心地がしなかった、終業の鐘が鳴るまで。
その日最後の授業で、生徒のある考えが重なることは珍しくないにしても、ここまで一致団結するのも稀であろう。
約束の15分前、階段を重々しい足取りで上っていき、赤絨毯の上を憂鬱な気持ちで、紅壱は進む。
瑛を始めとして、先日の儀式に参加していたメンバーは全て揃っているであろう生徒会室に向かって歩いていく紅壱。右肩からかけている鞄が、出来の悪い十字架のようにも思えてきてしまう。
これから落とされる雷の凄まじさ、ぶつけられる怒号と罵詈雑言の痛みを想像すれば、溜息の一発や二発も出てしまうのは当然だった。
(逃げるのは恥じゃないにしろ、この状況じゃ、愚策も愚策、下の下の更に下だよな)
実際に、紅壱は今朝から、出来るだけ彼女達に遭遇してしまわないように気を払っていた。皮肉な事に、瑛たちの生命エネルギーは、己の中にある魔力、気力の存在すら知らない一般人の女生徒らより格段に大きく、強い。魔力は未熟だが、闘気の扱いにはこの年齢で大いに長けた紅壱には、ハッキリと感じ取れる。
心身の健康状態に左右されるとは言え、感知範囲が100m前後まで広がった『網』の中に、彼女らが足を一歩でも踏み入れれば、彼はすぐに気配を察知して姿を隠す事ができた。
紅壱の危機察知能力は知らずとも、自分達が避けられ、簡単には顔を合わせられない事は昼休みになるまでに察したのだろう。故に、この呼び出しらしい。
役職名で呼ばれてしまったとなると、無視を決め込む訳にもいかなかった。
ついに生徒会室まで来てしまった紅壱はあえて、その扉を軽く打った。
十数秒ほど待っていると、恵夢が扉を開けてくれたものの、紅壱に中へ入るよう促す視線と声にはいつもの柔和さと温厚さなど、まるで感じられなかった。
今すぐにでも逃げたくなった紅壱だが、簡単に追いつかれて組み伏せられてしまうのも簡単に想像できたから、素直に室内へ足を踏み入れ、奥へと進む、怯えを隠せぬ足取りで。今の彼には、最強の不良、魔王の依代、そんな強い者の風格など皆無であった。
「辰姫、今、君はどうして、正座させられているか、その『理由』がちゃんと自分で理解できているな」
しかし、冷たい声で問う瑛の前で正座し、腿の上へ拳を乗せて項垂れている紅壱は「はい」と返事をするどころか、首を縦に振ることすら出来ない状態だった。
もちろん、目の前の椅子に鎮座する瑛からのプレッシャーが凄まじいのも、身動き一つ出来ない理由の一つだったが、紅壱の体の自由を奪っていたのは精神的な理由ではなく、肉体そのものにかかる負担だった。
奥歯を痛いほどに噛み締め、全身の普段、その動きや緩みを意識すらしていない筋肉からも力を抜けば、その一瞬で床に這い蹲った無様すぎる姿で意識を断たれてしまうだろう。
彼の周囲に当然のごとく存在する、空気に『重さ』が与えられていたのだ、しかも、半端じゃない重さが。
(重力そのものを操っているって言うより、空気を自分の魔力で何らかの形に凝縮めて、俺の体に乗せてるのか?!)
魔術のイロハも知らないにしろ、場慣れしている紅壱の勘は概ね、正しい。
瑛は集めた風を巨大な手の形にして、紅壱を上から押している。彼を中心に1m内の空気が持つ力のベクトルは等しく、下に向いていた。
生徒会長・獅子ヶ谷瑛は優れた術者ではあったが、残念ながら、この術は呪文短縮や無詠唱ではなかった。
正方形に固めた風の塊で敵を押し潰す、この風属性の攻撃魔術、『風精ノ平手』を、瑛は無詠唱で使いこなす。このクラスの術を呪文短縮で使えるのは、十代のハンターの中でも瑛だけだ。しかし、彼女でも、トラックくらいなら簡単に押し砕ける威力を、呪文を短縮してしまうと緩和できない。また、有効範囲が、紅壱へのお仕置きとして使うには広すぎた。
紅壱を圧殺する訳にはいかないので、彼を生徒会室に呼び出す事を決め、放送室から支持を女生徒らに出すと、すぐに瑛は生徒会室へ戻った。
そうして、必要な呪文を五分かけて唱え、『空気』を支配すると、彼に正座させる場所に透明なインクで複雑な図形と、難読な文字列を書き綴った。その図式は、放出するエネルギーを逃さず、同時に空気を手の形に固めやすいよう、そして、押し潰す力を半減させる効果を発動させるものだった。
だがしかし、闘気を練り、闘氣を纏える紅壱なら、攻撃力を落とさずとも耐えられた可能性は大きかった。何せ、闘氣を纏った彼は金属バットで頭部を殴られようが、木刀で滅多打ちにされようが、ライトバンに撥ね飛ばされても、戦闘不能にならないのだから。そういう意味では、そこまでの耐久性を得た彼をワンパンで悶絶させる祖父の戦闘力が凄い。
ただ、自分のこれが魔力を用いた攻撃に通じるのか、そんな一抹の不安が紅壱にはあった。自然的な火や、スタンガンなどのダメージも抑えてくれる闘氣ではあるが、魔力によって生み出された炎や電撃は喰らった試しがない。
彼に圧し掛かっているモノも、瑛が魔力で生み出した風ではなく、魔力で支配下に置いている空気そのものだ。闘氣が攻撃魔術も防げるのか、その証明は出来そうもない。
だが、紅壱はそれを残念がっている余裕がない。
(やべぇ、闘気が練れねぇ)
瑛はその事実、紅壱が闘気を練り、闘氣を纏える事を知らない。
鳴は紅壱が自身の力を魔術を用いず、闘気で向上させられる事をその目で見ている。けれど、彼と虎の戦いで気絶した彼女は、そのショックで忘れてしまった。なので、それを瑛に報告できなかったのだ。
戦闘にしても仕置きにしても、事前の綿密な準備が物を言う、が持論の彼女には、先も言ったが、彼を圧殺するつもりは微塵もなかった。しかし、他のメンバーの手前、仏心を出し、すぐに許す訳にもいかなかった。何より、彼女自身も、今回はさすがにオツムに来ていたのだから。
闘気を練る基本にして奥義は、呼吸にある。
普段から、紅壱は有事に備え、基礎能力を向上させる息遣いを行っている。祖父に鍛えられている間に、意識せずとも、その基礎の呼吸は身に付いてくれた。そうでなければ、紅壱は今ごろ、獣の餌か、森の養分になっていたに違いない。
呼吸のみで闘氣を纏える、怪物と評しても過言じゃない、紅壱の才能を遥かに凌駕する祖父・玄壱は呼吸どころか瞬き一つで、己の身に闘氣を攻撃的な鎧として纏う。
闘氣は格闘技の覚えがある常人の目にも、白く淡い光として見えるのだが、玄壱のそれは肌を艶のある黒に染め上げる。
腕に纏った黒い闘氣は、孫の攻撃など全く受けつけず、逆に闘氣の防御を難なく突き破ってみせる。
常人の腹ならぽっかり、穴が開いている、そんな祖父の必殺すぎる単純な一撃を受けても紅壱は膝こそ落とすが、絶命どころか失神すらしない。
一体、祖父と孫、どちらの方が人間を止めているんだろうか。
「理解しているのか?」
紅壱が自分の質問に答えられない、そう知っている上で瑛は質問を重ねた。
自分でもわざとらしいのではないか、と気恥ずかしくなるほどに声を冷ややかにし、低く呻きながら物理的な重圧に耐えている、汗だくの後輩の顔を見た彼女は心がキリキリと痛む。その一方で、片隅では胸が「キュン」とトキめいてしまう。
後輩の苦しみの表情を見て、「もっとキツい責めを与えたい」、「泣かせ、許しを乞わせたい」、そんな暗い情念を振り払い、瑛は今回の紅壱の勝手な行動を戒めるため、彼に生徒会の一員である事を再認識させるために、ドキドキしている心を鬼にして、手の上に手を重ねた。
突然、強まった重みに、バランスを崩してしまった紅壱は思わず、腿の上で握っていた拳を開いて床についてしまう。彼は空気に押さえつけられて悲鳴を上げる掌を腿の上へと戻そうとするが、1mmも上げる事ができず、逆に力を入れすぎて手の甲の血管が切れてしまい、珠のような汗が噴き出ている顔を汚す。
「ッぐぅ」
「!!」
彼のくぐもった声に、我慢が限界を迎えた瑛は反射的に術を解除してしまった。
いきなり、自分の体が軽くなり、限界まで力を込めていた体が支えを失い、紅壱は横に倒れていく。咄嗟に手を出そうとしたが、亀裂が入った床に埋まってしまっている手は両方とも命令を聞いてくれない。
やばい、ぶつかる、と思わず、目を固く閉じてしまった紅壱だったが、頬がぶつかったのは固い床ではなく、妙な弾力があるクッション。恐る恐ると目を開けると、そこには何も見えなかったが、頬が押し返される感覚で「何か」がある事は理解できた。
咄嗟に、支配していた空気を手から球の形へ変えて紅壱を受け止めさせた瑛は、自分へ愛梨が向けている呆れた視線に気付き、慌てて、空気を解放する。その時には、既に紅壱のダメージを受けていた両手も回復していたので、彼は空気の塊が霧散しても転ばず、姿勢を正しなおす事が出来た。
「・・・・・・俺が勝手に帰ったっつーか、退院しちゃったからですよね」
「んっ、そうだ」
結局、甘くしてしまった自分に対し、罰が悪そうに、その反面で暗黒面に落ちずに済んだ安堵を誤魔化すそうな、咳払いを一つしてから、瑛は大きく頷き、右の人差し指を紅壱へと向けた。指が放つ圧迫感に、また空気に押し潰される、と力を身へ入れかけた紅壱だったが、瑛は何もしてこなかった。
「忌み血の体質だ、傷の治りが速いのも分かる。
しかし、その日のうちに病院を勝手に抜け出したのは感心しないな。
君がベッドの中にいなかったものだから、私達は肝を随分と冷やしたんだぞ」
無断退院ではない、と言い返しそうになった紅壱だったが、それよりも気になった単語が出てきたので、瑛の話の腰を折ってしまうのを承知でおずおずと手を挙げた。案の定、「黙って聞いてなさいよ」と言わんばかりの目で鳴は彼を睨んできたものの、瑛は落ち着き払った様子で「何だ?」と質問を許した。
「忌み血ってのは何ですか?」
魔王の封印がバレたのか、と一瞬ほどヒヤリとさせられたが、気を悪くした様子も見受けられない瑛の答えで杞憂だった、と知る紅壱。
「忌み血とは、術者の家系に生まれた者に流れる、異質な血だ。
ちなみに、生まれは非術者の家系だが、特べ・・・いや、特殊な才能が発現している者も、この忌み血が流れている事もある。
君を病院に運び込んだ際、勝手に調べさせてもらった。
だが、この業務に関わっている者には珍しい事ではないからな、気に負う事はないぞ」
(特別じゃなく、特殊な才能、つまりは人助けには向かないタイプの血生臭い『才』か)
となりゃ、自分に流れている忌み血は前者を指すのだろうか、そんな事を彼が考えていると、瑛は説明を続けた。
「忌み血は、祖先が魔属・霊属である者にも流れている。
こちらの発現は、後者であると確率が高まるようだ。隔世遺伝と言っても良いな」
「え?! 魔属・霊属って人との間に子供を作れるんですか?」
紅壱よりは、そちらの情報について詳しい鳴もそれは初耳だったのだろう、濃い驚愕の色をその顔にハッキリと浮かび上がらせていた。
「受胎する可能性は限りなく低いけど、絶対に0じゃないんだって。
伝説級、それに準ずるレベルの怪異なら可能だって、上層部の研究者さんたちが、ちゃんとしたデータを集めた上で確かめたらしいから、信憑性は結構、高いみたいよ」
そう言えば、祖母方の祖先には、住んでいた一帯を治めていた竜族の皇子に見初められて嫁入りした娘がいた、と蔵の古い巻物に古語で書き残されていたな、と思い出す紅壱。
『辰姫』の姓も、この伝承が所以なのだ、と祖父は素手で仕留めてきた400kgを超える大物の熊の肉を使った、祖母特製の熊汁を堪能している時、自慢気に紅壱へ教えた。その際、祖母は微笑んでいるだけで、肯定も否定もしなかった。
今、聞くまでは単なる御伽噺なのだろう、と考えていたのだが、瑛と恵夢の言葉が紛れもない真実なら、虚構ではないなのかもしれない。多辺や公爵たちの存在も、確固とした根拠と成り得る。
俺が魔王や、あれだけ強力な獣たちを封印できる体なのも、祖先に高位の霊属がいたからか、と改めて納得をした紅壱。
祖先である竜族の皇子は、大和征服を目論む百鬼の主の進軍を七日七夜も他の三人の兄弟と共に阻み、八日目の朝、ついには敵の首魁の首を、天より授けられた七星が刀身に彫られている霊剣で切り飛ばした、そんな伝承も残されていた。
もしかしなくとも、自分が戦闘に長けているのは、祖父譲りの才だけでなく、その血の恩恵もあり得る。
(ダブルブリッドってやつか・・・)
「忌、この文字は入っているが、そんな悪い意味ではない」
鷹揚に頷いた瑛は自分、恵夢、続けて、夏煌を指す。
「このメンバーの内で『忌み血』体質なのは、私、鯱淵先輩、大神、そして、辰姫、君になる。
この体質の持ち主は大抵、一般人より身体能力が高く、魔力を扱う才能にも長けている。また、傷の治りもいくらか早い。
だが、『忌み血』と言っても、血液型があるので、私達の血を君に輸血できなかった。すまない・・・せめて、私と君が同じ型であれば、一滴残らず、君にくれてやりたかったんだが」
物騒な事を申し訳なさそうに発言した親友を押し退け、愛梨は戸惑っている後輩に指を突きつける。
「コーイチ、私ら『忌み血』じゃないタイプの奴等の名誉の為に言っておくが、血筋ってのはあくまで強さを形作るピースの一つだ。
実戦となれば、そんなのは関係なくなるんだからな」
以前、その手のいざこざがあったのだろう、小さな事は気にしなそうな性格の愛梨は苛立ちを隠しきれてはいなかった。
「エリの言う通りだ、他人より生まれが勝っている、そんな考えは敗北を手招きする意地汚い驕りでしかない。
万の努力を重ねた凡人が、驕る天才を打ち負かすのはフィクションの中だけではない。兎と亀、あれは御伽噺だと思ったら大間違いだ。
己の才覚を心底から信じ、心折らす事無く、鍛錬を重ねられた一握りの者だけが勝利を掴む、青臭い理想論だが、私は魔属・霊属との甘くない戦いの中で、それを学んだ」
多くの戦いを手を取り合って突破してきたからだろう、友情の枠を越えた絆で結ばれている瑛と愛梨は目配せを交し合い、見た者の心を洗い流すような澄んだ笑みを漏らす。
(百合趣味はねぇが、互いの強さを認め、高め合う美少女2人ってのは目の保養になるな)
「さて、少し脱線したな、話が」と、咳払いで誤魔化す瑛。そんな彼女を、説教中なのも忘れ、可愛いな、と紅壱は思ってしまう。熱い視線を送られ、瑛はポッと頬が赤らんでしまう。
「先程も言ったが、忌み血を継いでいる人間は、確かに傷の治りが速い。
それでも、君が負った傷は決して軽くない。見た目だけでも完治しても、君は熟慮して、少なくとも、昨日は病院で大人しくしているべきだったんだ。
一体、私達に連絡の一つもしないで、黙って、いなくなった理由は何だ? 辰姫」
ここで、素直にアルバイト、と白状したら烈しく怒られるのは、火を見るより明らか。黙秘を貫こうとしても怒られよう。もしかすると、物騒な道具や術を用いて、口を割らされるかもしれない、強制的に。
強い感情は冷静さを揺らがす、が信条の瑛が悲しみ寄りの怒りを、あえて紅壱に晒し出しているのは、それだけ彼を心配していたからだろう、生徒会長としてだけでなく、年相応の少女として。
それを見抜いていた恵夢はあえて、紅壱が動揺を隠せない目で送ってきていた救援信号を無視した。若い男の子がベッドの上で一秒でもジッとしていられないのは彼女にも理解は出来たが、今回ばかりは瑛に全面的に味方するつもりだった。
「バイトです、どうしてもシフトの都合を付けられなかったもんで」
半ば開き直った紅壱が素直に理由を述べたからだろう、「なるほど」と大きく頷いた瑛はおもむろに椅子から腰を上げると、速い足取りで彼へと近づく。そうして、一歩ごとに肌を刺す痛みが増す威圧感に、長躯を強張らせてしまった紅壱の首へ、彼女は腕を回し、彼の顔を自分の胸へ強く押し付けるようにして抱きしめた瑛。
突然、何の前触れもなく、紅壱を抱きしめた瑛に、恵夢を除く生徒会メンバーは驚きを隠せない。
瑛LOVEな鳴など驚きが顔に浮かび上がる前に、殺意を露わにして、自分でも拝んだ事のない真っ白な小丘に汚らしい息を吐きつける男を引き剥がすべく、陰惨な光を放つ魔力で両手を覆って飛びかかろうとしたほどだ(もっとも、それを瞬時に予測した愛梨が体を張って止めたが)。
「よく正直に言ったな、辰姫・・・・・・
その素直さに免じて、今回の一件を私は許そう、と思う。
皆も彼を許してやってくれ」
鼻孔の奥をくすぐる甘いバニラの香りに目を白黒させている紅壱を更に強く抱きしめる瑛は、他のメンバーの方に真剣さが滲む顔を向けた。獅子ヶ谷瑛、と言うほぼ完璧超人の女性でなければ、嫌な暑苦しさと捉えられているところだ。
「許してやってくれ、って言われても、私、元々、そんなに怒ってなかったんだけど」
「アタシも。アキが勝手にピリピリしてただけなんだぜ、実際は」と鳴の口を手で塞ぎ、羽交い絞めにしていた愛梨は、困ったように首を傾げて笑う恵夢と顔を合わせ、「ねぇ、先輩」と頷きあう。
「な、何!?」と狼狽えた瑛は、夏煌までもが非難の色がわずかに滲んでいる瞳で自分を見つめてきたので、一気に顔が汗だくになる。
今更、自分の怒りが空回りしていた、と知らされては、当然の反応だよな、と鼻を押し付けられているせいで息が辛くなってきた紅壱は、彼女の柔らかな胸に隠すように苦笑いを漏らす。
しかし、次の瞬間、彼は自分から罰が悪そうに胸を離そうとしていた瑛を半ば突き飛ばすようにして立ち上がると、密林の狩人を連想させる鋭い目つきで素早く周囲を見回し始めた。そうして、東向きで顔を止めると、大股で窓の方に歩いていく。
「ど、どうした? コウ」
「何かは判りませんけど、ガチでヤバい気配がします」
烈しい運動をしたわけでもないのに、汗をうっすらと滲ませる紅壱が愛梨に固い口調で答え返したこの時点で、瑛も学園周辺に異変が迫っている事に気づいたのだろう、紅壱の脇の間に顔を突っ込むようにして、外を窺う。
見えているのは、紅壱が瑛たちと初めて会話を交わした正門だ。しかし、異変はその周辺に見受けられない。
「確かに妙なザワつきはあるな・・・しかし、何もいないぞ」
紅壱は制服の内ポケットに入れておいた、小型の望遠鏡を取り出すと、倍率を的確に調整しながら窓外を見回す。ものの一秒で、彼は異変を見つけた。何せ、そいつは一言で言い表せるほど異様で、目立っていたのだから。
(肩から立ち上っている黒い靄、ありゃ、魔力か?)
「500m先、学園を見ている男がいますね」
(けど、会長たちの纏う魔力とは違う・・・・・・あの魔王とも違う)
「エリ、双眼鏡を」
(アレにゃ、敵意も悪意も感じないぞ)
それだけに、意図が読めず、不気味さが浮き彫りになっている。
背後で愛梨が棚を引っ繰り返すような勢いで双眼鏡を探している音を聞きながら、紅壱は男の観察に努める。
(随分とくたびれたカッコをしてるが、サラリーマンか?)
学園を真っ直ぐに見つめている目に生気は一切、感じられない。まるで俎板の上で息絶えている青魚のようだ。事実、まともな意識があるのかも怪しく、前方から自転車が近づいてきているのに、脇に避ける素振りすら見せず、けたたましいベルと一緒に罵声を浴びせられている。しかし、それでも反応がない。
三流の人形造型者に作られた、気の抜けきっている人形のような面持ちで、ただ学園を見つめているだけだ。
一見しただけでは、無害のように思えるが、その無反応ぶりと無気力さが逆に、不穏な印象を抱かせる。
紅壱は一旦、その男から視線を逸らすと、他に不審者や危険物がないか、首を動かしてみるが目に入るだけの範囲を歩いているのは魔術には縁が無さそうな一般人ばかりだし、あからさまに危ない雰囲気を醸し出しているダンボール箱も電柱の陰や、違反車両の下には置かれていないようだ。
「辰姫、その男は何処にいるんだ?」
ようやく、双眼鏡を手にした瑛に尋ねられた紅壱は外を指差しながら、距離を口にしようとしたのだが、不意に口を噤む。
「何か動きがあったか?」
「いや、微動だにもしてないんですが・・・さっきまでは、顔にあんな刺青、入ってなかったような」
「刺青?」と恵夢に聞かれた紅壱は、振り返らないまま、自分の額の真ん中から顎まで直線を引くようにして指を下ろし、「こんな感じのラインが」と答えた。それを聞いた途端、瑛も顔色を変え、慌てて男達の姿を探し、紅壱が言った通りの『線』が彼らの顔に走っているのを見た途端、甲高い声で叫んだ。
「敵襲だ!!」
腹を括って登校した紅壱
そんな彼を生徒会室に呼び出した瑛は、容赦のない仕置きを彼に与える
己の知らなかった影に怯えつつ、紅壱を許し、ますます、好感が高まった瑛
このままイイ雰囲気になるかと思ったのも束の間、予期せぬトラブルが彼女達を襲った
果たして、瑛たちの運命や如何に!!