第一話 接近(approach) 辰姫紅壱、生徒会に注目される
「だぁぁ、遅刻してたまるかぁ」
頬を流れ落ちた一筋の汗を乱暴に拭い、男子高校生は目的地を本気の全速力で目指していた。彼は普段、体育の授業こそ適当に流しているが、真面目にやれば、100mを十秒で走れる足を必死に前へ動かす。
「まだ一週間も経ってないのに、遅刻なんてシャレにならねぇだろ、おいっ」
痛み出した肺を新鮮な空気で膨らませ、ガードレールを跳び越えながら、そう叫んだ少年の名前は辰姫紅壱。
かつて、苛められていた頃の面持ちなど、高校生にもなれば、一切、残っていなかった。しかも、食べ物が良かったのか、それとも、毎日の「運動」に効果があったのか、身長は、そろそろ、180cmに達しそうと来れば、最早、可愛げなど微塵もない。
相手を、全力の喧嘩で打ち負かし、ガキ大将の座を堂々と手に入れた彼はその座に踏ん反り返り、驕るような真似はしなかった。
東に腰を痛めた老人がいれば農作業を率先して手伝い、西に痴漢が出たと聞けば鉄パイプを振り回して捕まえに向かった。
南に一人ぼっちの子供がいると知れば仲間に入れてやり、北に大きな喧嘩が起こったと聞けば木刀を振り上げて我先に突っ込んでいく。
そんな見た目こそ粗暴だが、素行は不良らしくない紅壱に、子分達は文句も言わずに付き従い、全力でサポートに励んだ。もっとも、前のガキ大将に勝っているだけに、彼の喧嘩のセンスは群を抜いており、逆に窮地を救われる事が多かったのだが。
突然、人が変わった、都会から来た子供に、大人らは腑に落ちぬ顔を見合わせた。が、これまでのように度の過ぎた悪戯を働くでもなく、加減を知らない子供だけに少しやりすぎてしまう事はあるにしても、村の為に汗水を垂らす紅壱らに彼等は喜んだ。
新たなガキ大将となり、今までになく誇らしげな顔で帰ってきた孫を見て、祖父は初めて彼に笑顔を見せた。熊ですら一瞬で踵を返しかねない凶悪な笑みに、紅壱は腰を抜かしかけるも、どうにか堪えて祖父が突き出してきた拳に、無言で自分の拳を軽くぶつけて力強く笑った。
祖母は泥だらけの傷だらけで帰ってきた孫を見て、「まぁまぁ、男前になって」と呆れた後、風呂に入ってくるように告げた。そうして、自分で適当な手当てを終え、居間に向かうと御馳走が用意されていたものだから、紅壱は言葉を失った。
驚いた顔にも祖母は何も言わなかったが、紅壱の父親を思い出させる柔和な笑顔を浮かべ、彼へ椅子に腰を下ろすよう優しく促した。
少し戸惑いつつ、席に着いた紅壱は目の前の祖父母とようやく、『家族』になれたような気がして、自然と顔が緩んだ。同時に、それまで自分の方が気付かない内に距離を置き、心に壁を作ってしまっていた事に気付き、恥ずかしさも込み上げてきたが、彼はそれを誤魔化すように、文庫本サイズのハンバーグを口の中いっぱいに頬張った。
焼酎をロックで飲む祖父に今日はどこで遊んできたのかと問われ、二つ目のハンバーグを半分ばかり平らげた頃合を見計らい、紅壱は正直に森に入ってしまった事を正直に告白した。家族になれた、そう感じた以上、嘘をついてはならないと思っての行動だった。
怒られるかと思い、椅子の上で身を小さくした紅壱だったが、彼の予想に反して、二人とも驚きこそしていたが、怒りはその顔に浮かべていなかった。
楽しげ、苦々しげ、対する表情が浮かんだ顔を見合わせた祖父母を訝しげに見つめつつ、紅壱が「夢だったのかな」と思い始めていた不思議な邂逅についても続いて話そうとした矢先、祖母が彼の言葉を遮るタイミングで尋ねてきた、「詳しくは話さなくて良いけど、正直に答えて。こうちゃん、森で『何か』に逢ったりしたかい?」と。
紅壱が首を縦にぎこちなく振ると、祖母は潔く諦めたように肩を大きく竦め、祖父は「そうか、そうか」と可笑しげに何度も頷き、高価そうな朱塗りの杯に焼酎を乱暴に注いだ。
二人の反応が意外なものだった彼はどうしていいのか判断に窮した。ともかく、怒られずに済むらしい、それだけは理解できたので、「約束を破ってごめんなさい」と謝っておき、紅壱は食事を再開した。
「こうちゃん」
もう寝ようと思い、居間から自室に戻ろうとした紅壱を仕事着に身を包んだ祖母が呼び止めた。
「どうしたの、おばあちゃん」と驚いた孫に、彼女は懐から取り出した細長い桐の箱を手渡す。「開けていいの?」と聞くと頷かれたので、紅壱が開けてみると、中に入っていたのは細い黒縁の眼鏡だった。
しかし、視力が人並みだと自覚のある紅壱は、異様に真剣な面持ちの祖母が自分に眼鏡を渡した理由に思い当たらない。
「オレ、目は悪くないよ」と告げると、「レンズに度は入れていないわ・・・お守りみたいなものだから」と、柔和な微笑を漏らす。
どう言う類のお守りなのか、疑問を抱いたが、今はまだ、これ以上の質問には答えられない、祖母の微笑がそう言っているような気がした彼は素直に「ありがとう」と頭を下げた。
他人の気持ちを十分に汲む事の出来る孫の頭を優しく撫で、「それじゃあ、おやすみなさい。良い夢をね」と祖母は踵を返し、自分の部屋がある方向にゆったりとした足取りで行ってしまった。廊下にポツンと残された紅壱も、戸惑い気味の表情で自室へ向かう。
翌朝、洗面台の鏡の前で眼鏡をかけてみた紅壱。
「・・・・・・うん」
自分で思っていたより眼鏡が似合う、と知った彼は意気揚々と登校した。
ガキ大将に勝った事は既に知れ渡っていたようで、クラスメイトらは掌を返したように、紅壱に対して昔からの友人のように接し出す。
白々しい奴等だなぁ、と思わなかった訳でもなかったが、事を荒立てるのも馬鹿らしいと考えた紅壱は心の中で彼等との間に一線を引きつつ、親しげに付き合うようにした。
おべっかなのか、本心からなのか、いずれにしても、眼鏡をかけている自分への評価は決して低くなかったので、この日から紅壱は入浴中、就寝中、そして、喧嘩の最中以外は伊達メガネをかける生活になる。不思議なもので、祖母がくれた眼鏡をかけていれば、どんな窮地に陥っても心の一部は冷静さを保ち続けられた。
それなりの成績で地元の中学校を、何とか無事に卒業させてもらえ、華の高校生生活も一週間ほど経った。
この日も紅壱は入学と同時に一人暮らしを始めたアパートを、かなりの余裕をもって出た。周囲から、札付きの問題児と勘違いされても文句は言えない、喧嘩ばかりの三年間を送って来てしまった所為で尖った感のある雰囲気を立派な体格から醸す紅壱。
だが、そんな彼は意外にも生真面目な所があり、中学時代、始業の時刻ギリギリに教室に飛び込んできても、遅刻をした事など一回としてなかった。
話を元に戻すが、紅壱は始業のチャイムが鳴る十五分前に到着できるよう、中学生時代からの愛車であるGIANT TCR1のペダルを無理せず漕いでいた。
(周りから聞いた話じゃ、生徒会長さんは相当、時間に厳しいらしいからな。
でも、さすがに三日目から、遅刻しそうになったもんだから強引に門を突破しようとした男子生徒にハイキックをお見舞いしたって噂はガセだよなぁ)
何せ、紅壱は生徒会長の顔を知らない。
入学式で、生徒会長は壇上に立ち、新入生の心をがっちり掴む挨拶をしたのだが、その時は引っ越しの作業で疲れていた彼は居眠りをしてしまっていた。
その後の集会でも、生徒会のメンバーは全員、壇上に並んでいる。しかし、紅壱だけでなく、男子生徒は生徒会シンパの女生徒らによって朝礼場の隅に追いやられてしまっているので、とてもじゃないが、200m先にいる女生徒の顔を見るなど不可能だった。その気になれば、紅壱は見る事が叶ったが、特に興味も湧かなかった。
途中、隣の部屋に住む女性から郵便を出してくれ、と出る間際に頼まれた事を思い出した彼は切手を買うべくコンビニに立ち寄った。
紅壱は駐輪場にしっかりと愛車を置いたのだが、アクシデントはそんな正しい行為など構いもせずに降りかかるのである。
「ぅく!?」
買い物を終え、焼き鳥(モモ・タレ・¥98)を口元に咥えながら、店から出た瞬間、紅壱の精悍な造りの顔はキツく引き攣り、変な所から引っ繰り返った声が出してしまった。人目もあり、その場に腰を抜かしてしまう事だけは免れたが、まさかの事態で真っ白になってしまった頭では、口から洩れ出ていく言葉も音にならなかった。
フェンス際に停めていたGIANT TCR1は車に突っ込まれた、彼の目の前で。
少し離れた所まで転がってしまっていたタイヤのホイールは、修復不可能なレベルだ、と一目瞭然なほど、楕円に曲がっている。また、白い煙が上がり出している車の下から、わずかに覗いているフレームも、原形など留めておらず、引っ張りだせても、それを自転車と判断するのは難しそうだ。
唇をわなわなと小さく震わせ、真っ青になっていく紅壱に気付き、車から飛び出してくるなり、慌てて駆け寄ってきたのは、今風なファッションの女子大生。
しきりに自分へ頭を下げてくる彼女が履いている厚底サンダルを見やり、ブレーキを踏み損ねたかねぇ、と他人事のように推測してしまう紅壱の耳には、女子大生の「すいません、徹夜で課題を片付けてて、居眠り運転をしちゃったみたいで」と言い訳めいた弁解は入っていなかった。
ともかく、紅壱は「弁償します」、そう必死に繰り返す女子大生と連絡先を交換し合った。
(さて、どうするかな)
車の下から出てきたそれは、想像していたよりも酷い状態だった。愛車の成れの果てを前に、途方に暮れるしかない紅壱。しかし、いつまでもショックに浸ってはいられない。
腕時計の針が指している数字を確認した彼は、強力な精神力で頭を切り替える。スクラップ確定の愛車に手を合わせ、これまでの感謝を胸の内で告げた紅壱は近場の自転車店の主人に事情を説明し、処分を頼むと全力で走り出した、学校に向かって。
(大体、あのコンビニから学校までは10km弱か)
相当、ギリギリになってしまうだろうが、信号に二回以上、足止めを食わなければ遅刻の罰は免れるはずだろう、と走りながら時間の計算を素早く巡らせた紅壱。
先述したが、煙草を嗜まない紅壱の肺は丈夫で、足も現役陸上部の選手と互角の勝負を繰り広げられるほど速い。また、朝に見た占い番組では八位―ちなみに、ラッキーカラーは臙脂色、ラッキーフードは塩唐揚げ、ラッキーアイテムはハンドクリームだったーと微妙な順位ではあったが、それなりにはツイていたようで信号には一度しか止められなかった。
(うっし、残り一分!!)
既に、周囲に自分と同じ制服を着て歩いている人間はいないので、紅壱はかなり焦ったものの、自棄にはならず、更に腿を高く上げ、ラストスパートをかける。
「!!」
半ば転びそうになるほど急角度で最後の曲がり角をクリアした紅壱は、門を閉める準備を始めている女生徒らに気付く。
彼女達も、必死な表情でこちらへ走ってくる紅壱に気が付いたようだが、こんな状況は慣れっ子なのだろう、冷淡にも門を閉め始めてしまう。門を押す手、顔にはまるで躊躇いがない。
(32cmってとこか・・・・・・行ける、いや、行く!!)
一瞬で正確な目測をした紅壱は隙間に体を捻じ込むべく、速度を上げる。
「よしっ、セーフ!!」と、紅壱は自分の背を押すようにして衝動的に叫んでしまう。
「いいや、アウツだ」と遅刻回避を確信した紅壱の行く手を阻むかのように、また、門を守る騎士の如く立ちはだかった女生徒。
擦れ違った異性が全員、思わず振り返って声をかけてしまうであろう美貌、凛とした清廉な雰囲気、一切の曇りも驕りも滲ませていない焦げ茶色の愛らしい瞳、そして、右の袖に止められた『会長』と記されているバッジ。
すぐさま、彼女が自分の通っている天戯堂学園高等部の生徒会長、獅子ヶ谷瑛だと悟った紅壱。彼女が遅刻を初めとした校則違反を犯した男子生徒に対して、一切の容赦が無い事を思い出した彼の顔色が一気に変わった。
しかし、既に全速力に乗ってしまっている為に、ブレーキをかけることは難しく、紅壱はそのまま、彼女の間合いに自分から突っ込むような形で走り続けてしまう。姿勢から、何らかの格闘技を修めているようだが、如何せん、体重差がある。ぶつかったら、瑛はただでは済むまい。自分のタックルに吹っ飛ばされた勢いのままで、背後の門にまで激突すれば、病院ではなく、葬儀場送りにしてしまいそうだ。
「厳罰っっ!!」
一発KO狙いの、側頭部ではなく後頭部に引っ掛けるような、思わず見惚れてしまうような美しい軌道で繰り出された瑛のハイキックは薙ぎ払った、紅壱の足下の空気を。
「なっ!?」と驚愕で、モデルばりに整っている顔を激しく歪ませてしまった彼女は、自分の頭上をゆっくりと過ぎ去っていく紅壱を目で追う。
瑛の軸足の踏み込み、それだけを見た瞬間に、「食らったらヤバい」と濃厚かつ重厚な経験値から直感した紅壱だったが、止まってすぐの防御は無理だ、と言う結論も一瞬で出す。
かと言って、こうしている間にも門が閉まっていく以上、方向修正をすれば、今度は鉄製の門に正面衝突してしまう。そうなれば、瑛のハイキックと同じ、もしくは、それ以上の大ダメージを受けてしまうだろう。この場で怪我をしてしまうのは、非常にマズかった。打撲、擦り傷程度なら、まだいいが、骨折は誤魔化せないだろう。
彼の元より危機回避の手段を弾き出す事だけは長けている頭脳と、百を超える実戦の中で強制的に鍛え上げられてきた肉体が選択した行動は見事に一致した。
瑛のハイキックを受けず、横にも躱さず、上に跳んで避ける、と。
そして、彼は勢いもそのままに門すら跳び越えていく。
速度を全く緩めず、強引に全身の筋肉をバネにするようにして踏み切ったからだろう、紅壱はさすがに宙でバランスを崩してしまう。だが、着地の瞬間に体を丸めて衝撃を逃すように転がった紅壱はノーダメージである事を示すかのように素早く立ち上がると、すぐさま昇降口に向かって駆け出した。
途中、彼は恐るべき生徒会長の方を振り返る。
「会長、すんません。見逃してくださいっっ」
半ば詫びるように叫び、前に向き直った彼は何者かが視界と意識の死角を突くようにして、自分の懐へと入り込んできたのに気づく。
密着された、と判断するよりも先に、紅壱の視界は上下が逆転する。
投げ技を仕掛けられたことを頭が理解すると同時に、彼は背中から石畳へ強かに叩き付けられていた。
背中を強打した彼は肺の中に残っていた空気を一気に吐き出してしまう。痛みよりも熱を伴った痺れが全身に広がり、混濁する視界の中で七色の光が鮮やかに点滅を繰り返す。
彼に見事な背負い投げを決めた女生徒はゆっくりと体を起こし、スカートに飛んだ砂埃を払いながら、にこやかに話しかけてきた。
「大丈夫ぅ?
けど、駄目よぉ、アキちゃんのお仕置きを避けちゃあ」
「大丈夫です」と答えようとした紅壱だったが、声を出そうとした瞬間、息苦しさに襲われ、咳き込んでしまう。
「あらあら」と女生徒は彼の背中を撫で、砂埃も払ってやる。
ようやく、視界がクリアになってきた彼は、自分を軽々と投げた女生徒をマジマジと見つめられる。生徒会長に優らずとも劣らない整った容姿、柔和な微笑み、「フジヤマ」と声を大にして表したくなるほど立派な胸。
思わず、生唾を飲んでしまいつつも、釘付けになってしまった視線を外せないでいる彼を柔かく嗜めるように、彼女は額を指先で押す。
「鯱淵先輩、何をしているんですか?」
無意識であろうか、彼女にまるで及ばない謙虚な胸を隠すように、高圧的な腕組みをしながら近づいてきた生徒会長、獅子ヶ谷瑛。
「・・・・・・遅刻ですかね?」
『副会長』のバッジを左腕に止めた手を指し伸ばしてきた彼女の手を丁重に断り、立ち上がった紅壱が恐る恐る尋ねると、瑛は左手首に巻いている腕時計に視線を落とす。
「残念だがアウツだ」
親指の先を下に向けた瑛から冷淡に告げられ、紅壱は「あちゃー」と額に手をやり、肩を落とす。
「だが、必死に走ってきた姿勢は見事である。
よって、先生方には報告しないでおこう」
「!! ほ、本当ですか!」
「私は嘘をつかん。約束は守る、相手が男でもな。
ただし、遅刻をした理由を詳細に記した反省文を提出するように」
懐の広さと、正しい厳しさを同時に見せ付けた瑛は、傍らに控えていた女生徒に頷きかけた。小さく頭を下げた、会計の職に就いていると思わしき、焦げ茶の髪を一つ縛りにした女生徒が肩から下げている鞄の中から、二枚の四百字詰めの原稿用紙を取り出し、紅壱へと渡す。
「職員室前のポストに、放課後までな」
「分かりました・・・すんません」
深々と頭を下げて詫びの言葉を口にした紅壱に、瑛は「うむ、なかなか素直でよろしい」と鷹揚に首を縦に振った。
彼女が浮かべた華のある笑顔を見て、紅壱は彼女が生徒会長に選ばれた理由の一つを知る。
(なるほど、女子から人気がある訳だ。
この笑顔見たさに、頑張っちまうんだろうな)
「では、急ぐといい。そろそろ、朝のHRが始まってしまうぞ」
鋭さを秘めた指先で校舎を指した瑛に今一度、頭を下げた紅壱は鞄を拾い上げると、昇降口に小走りで向かう。
「辰姫紅壱、か。良いバネだ」
手持ちの資料を捲りながら紅壱の個人情報を確認し、賞賛の言葉を漏らした瑛を、副会長を務める鯱淵恵夢は物珍しそうな面持ちで彼女の顔を覗き込んだ。
「あれー、アキちゃんも気に入ったのぉ? 珍しいねぇ」
「・・・・・・身体能力に関しては、目を見張るものがあるのは確かです。
あんな避け方をされたのは、空手を始めて以来・・・いえ、生まれて初めてですね。
印象こそ粗野ですが、乱暴者ではないでしょう。礼儀も正しそうです」
少し罰が悪そうにファイルを閉じた瑛に、恵夢は可笑しげな笑みを浮かべる。「何ですか、その意味深な笑い方は」と焦燥が滲む声をぶつけられ、彼女は「もう怖いわぁ」とわざとらしく肩を竦めた。
「私の投げも、自分から跳んで、威力を殺したみたい。
頭から落とすつもりだったのに、背中でちゃんと受け身を取ってたよ、彼」
ゆったりとした口調でかまされた、先輩からの衝撃発言で、瑛は絶句する。
「素人相手に、『昇鯉阻み《のぼりこいはばみ》』は使っちゃまずいでしょ、先輩
でも、アタシは歓迎だよ、奴を入会れるのは。
実戦で即戦力になるかどうかは別として、使い走りとしてなら役には立ちそうだしな」
モットーは「元気が一番」である、生徒会書記の太猿愛梨は、昇降口で中靴に履き替えている紅壱の姿を見ながら、八重歯を剥き出しにする
「では、昼休みに改めて決を採ろう・・・辰姫紅壱を生徒会の一員に迎えるかどうかを」
堂々と告げた瑛に、恵夢と愛梨は「OKだよぉ」、「了解」と頷く。
「では、我々も各々のクラスに戻ろう。大神!!」
動く事が叶わぬ石像を思わせる硬く真面目な顔で、少女が眉すら寄せずに見つめていた箇所にはくっきりと残されていた、27cm強の、しかし、靴どころか、人の足の形をしていない跡が。そして、そこからは、一般人の目には見えぬ、一般人でない者が見れば、身体能力強化の術を使ったと察す痕跡となる、細い煙が立ち昇っていた・・・・・・
彼女は、おもむろに異形の足跡に手を乗せると、意識を集中させる。すると、地面が波打ち、5cm大の土人形が出現した。創造主からの「お願い」に、それは自らの体を削って、数秒と経たぬうちに足跡を埋め隠す。
「大神!!」
瑛からの再びの呼びかけに、道路に蹲っていた小柄な少女は足跡が消えたのを確認し、満足げに頷いてから立ち上がると、門の格子の間を擦り抜け、三人の下へ軽やかな足取りで向かう。瑛らは、仲間がやけに楽しそうな表情をしているので、揃って首を捻ってしまう。
「よぉ、見てたぜ」
廊下を歩いていたクラス担任を追い越し、朝礼が始まる時間ギリギリで教室に飛び込み、机に突っ伏して息を整える紅壱に、前の席の男子生徒がしゃがれた声をかけてきた。
「ヒメ、お前、会長と何、話してたんだよ?」
「あ~、まぁ、大したことじゃねぇよ」
体重をかけるようにして後頭部に押し付けてきた体を押し返した紅壱は、鞄に突っ込んでいたスポーツドリンクを引っ張り出し、一気に半分まで飲み干す。
何とか、体の渇きが和らいだ彼は口元の雫を乱暴に拭い、「なぁなぁ」と執拗に聞きだそうとして来る男子生徒の額を指で弾く。
「だから、そんな大した事は話してねぇって。
単に遅刻の反省文を提出するように、言われただけだよ」
すると、彼は驚いたのか、身を大袈裟に仰け反らせた。
「ヒメ、お前、遅刻したのに、よく無傷でここに来られたな!?
今まで、ほとんどの野郎が保健室か、病院に運ばれてるってのに・・・・・・」
どうやら、彼が見ていたのは自分が瑛と会話をし始めた辺りのようで、彼女の蹴りを危なげなく避けたものの、その後すぐに、無様にも投げられた所は見られていないようだ、と判った紅壱は安堵の息をそっと漏らす。
彼がしきりに感心している男子生徒、矢車修一が顔を合わせたのは中学二年の時で、『親友』と言うよりは『悪友』と言った方がしっくり来る関係だった。
何せ、今でこそ、どこにでもいるような少しお気楽な風貌の男子高校生ではあるが、出会った当時はヤマアラシかと思うほど、長髪を尖らせていた。しかも、性格まで髪のように刺々しく、目が合っただけの紅壱に無謀にも喧嘩を吹っ掛けてきたのだ。
結果といえば、修一は紅壱のクロスボディパンチ一発で秒殺された(もっとも、修一の腕っ節が弱い訳ではない。その証拠に、彼は金属バットや手製のブラックジャックを持った他校の三年生に囲まれた際、紅壱が助っ人に来る前に、右腕こそありえない方向に曲がってはいたが全員を倒していた)のだが、それ以来、彼とつるむようになり、この天戯堂学院高等部へ共に進学した。
実を言うと、紅壱はこの天戯堂学院高等部に進学するつもりなど、1mgとして持ち合わせていなかった。
別段、他にどうしても行きたい学校があった訳でもなく、自分の良くも悪くもない学力で楽に入れて、さほど苦労せずに卒業できるであろう、出来れば就職に強い高校に行くつもりで、修一の『記念受験』に付き合っただけの紅壱。
だが、何が悪かったのか、あるいは良かったのか、彼の手元に届いた「合格通知」は天戯堂学院高等部のみ。試験の成績はまぁまぁ、適当ではあるが落ち度はない面接態度、と思っていた二つの公立高校からは「不合格通知」だけが送られてきた。
天戯堂学園高等部、約二〇〇年も前に地元の名士が資金を出し合って設立した名門校である、とパンフレットにはあった。
総敷地面積は東京ドーム約14個分、世界的に有名な建築士による近代的なデザインの校舎・生徒用の寮を始めとして、大抵の屋外スポーツが出来る広い運動場、1500人を収容できる体育館、県大会でも使用される事の多いプール、テニスコート、武道場がある。また、緑が非常に多く、生徒らの心に良い影響を与えるという名目で、小型の動物園まであるほどだ。
教育理念は『仁義礼智忠信孝悌』、これは生徒が覚えやすく、かつ実行しやすいからなのか、それとも、個性の滲む文句を考えるのが面倒だったのか、と紅壱は首を捻ってしまう。
教育の特色はと言えば、早期から進路と適性把握を見据えた学習を行っており、普通科、特別進学科、国際学科、特殊進路学科に分かれている。もちろん、ズバ抜けて頭がいい訳ではない紅壱と修一が受験したのは普通科だ。
ここまで聞けば、入るのを躊躇う理由はない。
紅壱が天戯堂学園高等部に進学する事に対して渋い顔をせざるを得なかったのは、この学校が元・女子校だからだ。
禍福が重なる時代の波には逆らえなかったのか、理事会は昨年、共学化に踏み切った。
半ば鎖国扱いだった女子高が門を自ら開いたのだ、近隣だけでなく他県の生徒までが受験会場に集まった。それでも、やはり、由緒ある高校だからだろう、試験内容や面接は生半可ではなく、書類審査の時点で相当、振るい落とされたようだ。
しかし、過酷な道のりを超え、半ばで倒れた友の屍を踏み越え、ようやくの思いで入学を果たせた男子らは、すぐに厳しく辛い現実を思い知らされる羽目となった。
厳格な女子校としての歴史が長すぎたからか、悪い虫が寄り付くのを善しとしなかった親の幼い頃からの教育の賜物なのか、女子生徒たちが入学してきた男子に向ける視線は害虫を見る物に近かった、と聞く。実際、中には共学化に烈しく反対し、最後まで抗っていた女子生徒もいたらしい。
血反吐を吐くような思い、いや、本当に吐ききって入学したのだ、親密にならねばと彼等は張り切った。だが、彼等の努力は徒労に終わるどころか、逆に女生徒らの怒りを買う原因になった。
無視や言葉攻めはジャブ代わり。醗酵の進んだパイを教室に足を踏み入れようとした瞬間に投げつけられる、教科書も鞄も制服もカッターで修復不可能なレベルまで切り裂かれる。よく、女子のそれは陰湿で粘着質と言われるが、彼女達の望んでいなかった異分子に対する仕打ちは度を越えていた。
最終的には、肉体へ物理的な暴力を働くようになったのだ。当然だが、何もしていない男子生徒を殴ったりすれば、自分達が停学処分を受けてしまうのは判りきっていたので、彼女達はわざと隙を見せた。
制服から体操服に着替える際、わざと窓を少しだけ開けておいたり、下着を無防備にベンチの上に放り投げておいたり、ロッカーの鍵も閉めずに更衣室を後にする。
表面こそ紳士に取り繕っていても、頭の中には何とかして女子に痛い目を見せたいという汚れた願望しかない、男子生徒らはそれがアリ地獄にも等しい罠だとも気付かず、不逞な行動に出てしまった。
そんな彼らを制裁できる『正しい』名目を手に入れた彼女達は容赦なかった。動かぬ証拠を突きつけられて反論も叶わない男子への包囲を、金属バットや竹刀を持つ彼女達は、泣き喚いて許しを請うまで解かなかった。
こうして、心身ともに手酷く傷つけられた男子生徒は退学に追い込まれる。一年後、学園に残れ、進級できたのはわずか五人だけだった。
それでも、今年、受験した男子の数は倍に達したというのだから、この天戯堂学園の女子のレベルの高さが窺える。 人の口に戸は立てられないのだから、ここが『女尊男卑』を地で行く場所であると知っている筈なのに、大半の受験者が「俺なら大丈夫だ」と思っていたのだろう。
極端な女ギライと言う訳ではないが、不可思議な体験によって『生まれ変わる』前、キツいイジメを受けていた紅壱としては、自身の古傷をわざわざ開かれるような魔窟には飛び込みたくはなかった。
だから、彼は本気で入りたいと思っている修一の足を引っ張らない程度に、面接で投げ遣りな受け答えをした、確実に落とされるように。
なのに、『合格通知』が届いてしまったものだから、紅壱は無表情が崩れるほど、激しく狼狽した。その上、それなりの手応えを感じていた第一志望と第二志望の高校から届いたのが「不合格通知」だったものだから、彼はしばらく椅子から腰を上げられないほど、放心してしまった。
紅壱の祖母である辰姫朱音は見た目が三十代後半、わずかに足こそ悪いが現役バリバリで働いていた。紅壱が名門校に合格したと彼の友人から聞かされた彼女は狂喜乱舞し、いっそ、賃金の低さを気にしないで就職すべきだろうか、と机の上に並べた計三通の文字の色が異なる郵便を前にして唸っていた孫の葛藤など微塵も気にせず、多額の入学金を早々に納めてしまった。
今更、女の権力が遥かに強い、前時代的な学校になど行きたくない、と男が腐るような泣き言など吐けない、紅壱は潔く諦め、天戯堂学園高等部に進む事をようやく決意した。
おかげで、それまで暮らしてきた家からでは通学に支障が出るため、一人暮らしを始める事になってしまったが、これも紅壱は人生の計画が前倒しになっただけだ、と自分を慰めるしかない。
ちなみに、その入学金を用意したのは、祖父母ではなく、他の人間なのだが、それは後で語る機会もあるだろう。紅壱は語らないでほしい、と言うだろうが。
「ようやく終わったかぁ」
修一は開けたままの数学の教科書の上に突っ伏し、苦悶が滲む息を勢い良く吐いた。
「やっぱ、レベルが高いよなぁ、ここ」
修一ほどではないが、少し苦い面持ちの紅壱は教科書を鞄の中に突っ込んだ。机の中へ全教科の教科書を置いて帰りたい所なのだが、毎日、課題が出される上に、中学生時代のように翌朝、友人に写させて貰う手も使えないので持ち帰るしかなかった。
「シュー、お前、今日、昼飯、どうすんだ?」
「・・・・・・どうせ、学食には席がねぇだろうが」
ぎこちなく体を起こした彼は、鞄の中から惣菜パンが詰められた紙袋を引っ張り出す。
「じゃ」と紅壱が軽く握った拳を上げると、修一もまた拳を軽く握る。そうして、一瞬おいてから、二人はそれぞれの手の形を変える。
「よろしく、俺、いつも通り、ウーロン茶な」
伸ばしていた人差し指と中指の二本を曲げ、ニヤリと笑った紅壱は渋い表情を浮かべる修一の大きく開かれている掌に硬貨を乗せた。
「ヒメ、お前、ホント、じゃんけん強いよなぁ」
「お前が弱すぎるんだろ、シュー」
「いや、それにしたって、覚えてる限り、お前にジャンケンで勝てた事、一回も無いぜ」
「喧嘩とテストもだろ」と肩を竦める紅壱。彼が「じゃんけん」に強い理由、それは単純に運が良いからではない。単に、相手が手を出してきたのと同時に、自分の手の形を『勝てる手』に素早く変化させているだけなのだ。ズバ抜けた動体視力と反射神経を有効活用した、バレる可能性が限りなく低い、祖父仕込みのテクニックであった。
「テストはあるぜ。保健体育は勝ってただろうが」
「勝ちじゃねぇだろ、その教科に関しちゃ。
おら、さっさと買ってきてくれよ」
「へいへい」
唇を尖らせた修一は男子が唯一、使う事を許されている校舎の端に置かれた自動販売機に向かうべく、預かった硬貨を掌の中で遊ばせながら教室を出ようとした。
その時、唐突に後方のドアが開かれ、丁度、ドアの前に立った修一は入ってきた女生徒の豊満な胸に突き飛ばされてしまう。よく磨かれた床の上を無様に転がっていく友人には目もくれず、紅壱は慌てて右手を伸ばし、宙を舞った硬貨を見事にキャッチする。
「鯱淵先輩っっ?!」
「副会長!!」
規格外の巨乳か、それとも、雰囲気なのか、〝学園の聖母〟の異名を冠す憧れの女性の予期せぬ登場に、クラスの女子が黄色い悲鳴を上げる。
「あらぁ、ごめんなさぁい」
周囲で上がっている潤んだ声も気にしない彼女は、起き上がって後頭部を擦っている修一へ手を伸ばすと、彼の手を掴むなり、大して力も入れずに腕を引いて立ち上がらせてしまう。修一はいきなり腕を引かれたものだから、咄嗟の反応が遅れ、そのまま彼女の胸に顔から突っ込んでしまう。途端、先程とは違う色合いの甲高い声が上がった。
長身には見合っているが、おっとりとした表情や口調からは想像していなかった彼女の膂力に、紅壱は言葉を失う。 朝はこれ以上ないタイミングで投げられた為、テクニックに特化したタイプなのかと思っていたが、純粋な腕力だけでも投げ飛ばされてしまうかも知れない。
そんな考えが頭をよぎり、体が震えた紅壱に、幸せそうな表情で鼻血を流し、意識を手放した修一をその場に寝かせ、彼女はゆったりとした足取りで近づく。
紅壱は彼女が自分の前に立つと、何となく椅子から腰を上げた。相手も女子にしては高身長の方なのだろうが、身長差が30cm近くあるからだろう、どうしても見下ろす形になってしまう。けれど、周囲から刺々しい視線を送って来るクラスメイトとは違い、さほど気にしていないのか、彼女は穏やかな微笑を崩していない。
「・・・朝はどうもでした、えっと、鯱淵先輩でいいんすよね?」
紅壱は彼女の胸元のリボンの色が緑色である事を確認する。
「うん、鯱淵恵夢、三年生よぉ」
柔らかな微笑を浮かべた恵夢が紅壱へ握手を求めたので、視線は更に尖り、彼の剥き出しになっている肌を容赦なく刺してくる。紅壱はむず痒さを感じつつ、彼女の手をそっと握る。
「時間がないからぁ、本題だけ伝えるねぇ」
間延びした喋り方だったが、紅壱は恵夢のそれを不快には感じなかった。恐らくは、彼女の柔かそうな体から滲み出る、同様に柔らかな雰囲気が苛立ちを緩和させるのだろう。
「反省文はねぇ、ポストにじゃなくてぇ、生徒会室に直接、持ってきて欲しいんだって、アキちゃん」
「生徒会に直接、持っていけばいいんすか?」
「うん、そぉ」と恵夢はゆったりと首を縦に動かす。
「すんません、今日の放課後、裏庭の掃除をしなきゃならないもんで、少し遅くなっちまうと思うんですけど・・・・・・大丈夫っすかね?」
苦い顔で紅壱が申し訳無さそうに頭を掻くと、恵夢は「大丈夫だよぉ」と頷き返した。
「何時頃になるぅ?」と聞かれ、紅壱は「多分、五時前には行けると思います」と自信なさげに答える。
「じゃあ、アキちゃんにはそう伝えとくねぇ。
でも、大変だねぇ。一人でのお掃除でしょ? 手伝おうかぁ?」
恵夢は紅壱の顔でなく、頭部に視線を注ぎながら、可愛らしい憂い顔を見せる。そんな彼女の申し出を紅壱は丁重だが、キッパリと断る。
「いや、大丈夫です・・・これも、承知でやってますから。
それに、肩身の狭い思いをするのは慣れてますしね、おかげさんで」
妙に清々しい微笑で返してきた紅壱に、恵夢は嬉しそうに頬を緩めると「じゃ、お掃除、頑張って。待ってるからね」と、彼の厚い胸板を掌で幾度か叩いてから、教室を後にした。
恵夢が去っていったのと同時に、復活した修一は紅壱に掴みかかる。
「ヒメ、お前、いつのまに鯱淵先輩と仲良くなったんだよ?!」
「別に仲良くなっちゃいねぇよ。朝、見てたんだろ、俺が会長とあの先輩に止められたトコ。
ってか、修一、お前、さっさとお茶、買いに行けよ。昼休み、終わっちまうだろ」
不機嫌な色も露わにした彼は、息巻いている悪友の額を指で弾く。実に乾いた音が、未だにざわつく教室の喧騒を打ち据え、数秒だったが静寂を広げた。
「おら、早くしろ」と修一の尻を蹴飛ばし、自分に注がれる尊敬と敵意が半々の視線にも、まるで紅壱は動じる様子を見せなかった。
しかし、心中は「何故、呼び出しを喰らったのだろうか」と、不安でざわついてしまう。かと言って、「にげる」の選択は選べないので、紅壱は諦めるように、窓の外に目をやり、嘆息を溢すのみだ。その様は絵になっており、クラスの何人かの女子も思わず、うっとりし、友人に肘で小突かれ、我に返る。