第十八話 葛藤(conflict) 紅壱、瑛の弱点について思い悩む
儀式で大怪我を負った紅壱。しかし、彼は今宵もアルバイトに精を出す
店内で話に花を咲かせながら食事を楽しんでいる客の中でも、特に強い力を持つ壮年の紳士に気に入られ、専属料理人にならないか、と誘われるも、彼はその好条件をあえて蹴る
店と店長の多辺に対する、紅壱の揺るがぬ忠心をより気に入った紳士は、彼に自身を「公爵」と呼ぶ事を許し、土産のメンチカツサンドを持って、店を後にするのだった
怒涛のディナータイムも終わり、店内の清掃も済ませた雨宮は迎えに来た恋人の腕に頭を預けながら帰った。その彼氏は首が異様に長かったが、紅壱はもう、気にしない。
雨宮が気付いていなくて、恋人に首ったけなのだ、それだけで十分だ。つまらない事実を言うのも野暮だし、馬にも蹴られたくはない。
紅壱と多辺の二人は賄い飯ー今日は、じゃがバタ丼であったーを食べ終え、翌日のモーニングと、ランチの仕込みに取り掛かっていた。
数十種類の野菜をブチ込んだ鍋の前に立ち、灰汁取りをしていた紅壱はチラリと背後を振り返る。多辺は特製カレーに使う香辛料を調合しており、時々、指先を舐めてバランスを確認していた。
おっとりとした風貌と物静かな口調が特徴の彼女だが、その勘の鋭さは紅壱にも匹敵、いや、凌駕している節があった。通常状態で、その強さは鰐と同クラス、なら、いざ、戦闘モードになったら、蜘蛛すら太刀打ちできないのではないか、そんな直感もある。
彼は動揺を表に一切、出していないつもりだった。だが、彼女は自分の視る力が昨日までとは違っているのに気付いている、その上で何も言ってこないのだ、と紅壱は考えていた。
開店前から、多辺の『雰囲気』に晒されていたからか、彼は彼女の思考の表層を、ほんの少しだけだが読み取れているような錯覚を感じていた。
「オーナー」
「何?」と乾燥させた赤唐辛子を乳棒で粉々に砕きながら、いつも通り、ふわっとした声色で聞き返してきた多辺。
「何っつーのか、自分が『当たり前』だと思っていた風景に、昨日までは少しも気付いてなかったし、ちっとも視えてなかった、美しいものがゴロゴロしていた、って知るのは嬉しいような、悔しいような、ゴチャゴチャした感情を抱かせますね」
自分でも「何を言っているんだ、俺は」と心の内で首を捻ってしまう紅壱だが、悶々としたそれを明確な表現にしようとしたら、これが限界だった。
そんな要領をちっとも得ない発言に、手を止めて彼の方を振り返ったものの、多辺は片眉すら寄せておらず、少しの間、真剣な考え事でいつも以上に怖さが増している紅壱の面をジッと見つめた後、「辞めたくなったなら言ってね?」と呟いた。
しかし、紅壱はこれでもかと瞼を上げきって、すぐに「まさかでしょ?! オーナー」と首を激しく左右に振り乱す。
「ちょっと驚いて、さすがに混乱はしましたけど・・・・辞めたい、なんて微塵も思いませんって」
爽やかな苦笑いを漏らし、紅壱は形のいい鼻の頭を掻く。
自分の二つの眼で視て、二言三言でも話を咲かせた。だから、彼等は自分の中にいる、五体の獣と同じく、進んで人間を襲うような存在だとは思えなかった。
そんな人外が集まるのは、この店の主である多辺瑠香の人(怪?)徳の賜物か。店から物理的な方法で追い出され、出禁にもされたくないのだろうが、彼女が怪異に慕われているのは態度から推察できる。
「その、クサい言い方になっちまうかも知れないんで聞き流して貰えるとありがたいんすけど、やっぱ、どんなに素っ頓狂な状況でも得る事は一つくらいはある訳じゃないすか。
この店で培った経験が、俺にとって毒になるのか糧になるのか、それが今この瞬間、判断を下せない以上、背中を向けるような真似はしません」
「・・・ほんと、クサいね」
紅壱は頬が熱くなるのを感じて顔を伏せ、「ま、辞めるなんて言ったら、飛天さんに張り倒されちゃいますしね」と誤魔化す、強引に。
戸惑い気味に顔を上げたときには、多辺はもう自分の方を向いてはおらず、作業に戻ってしまっていたが、紅壱は自分に背中を向けている彼女が、意地が悪そうに、だが、(はるかに)年上の魅力を醸すニタニタ笑いを浮かべているのが、ハッキリと判った。まるで、後頭部に両端を吊り上げている肉厚な唇が見えた、と錯覚するほどに。
(やっぱ、この霊属、おっかねぇなぁ)
ブルルッ、と震えた紅壱だったが、ふと、厳しい顔つきで多辺を見る。彼女の「ギロリ」にこそ及ばないが、彼の「ギロッ」も、中々の圧を持つ。事実、多辺の髪が一筋、動いたほどだ。
「そう言えば、オーナー」
「なぁに?」と振り返って、嬉しそうに多辺は聞き返してきた。
「公爵への態度、あれ、マズくないっすか? お客さんですよ」
紅壱の言っている事の方が正しい、その自覚はあるのだろう。だが、多辺は「うげっ」と顔を歪め、公爵への嫌悪感を露わにする。そんな表情に、紅壱は深い溜息を漏らす。
「争いになるんじゃないかって、ヒヤヒヤしましたよ」
その瞬間に、多辺は舌打ちを放った。その「チッ」は「ギロリ」と同威力ながらも、迫る速度が速く、紅壱は「芳雲」が間に合わせられず、口の中に酸っぱいものがこみ上げてきてしまう。
(な、内臓が・・・・・・)
「アイツに私が負ける、と思ったの?」
穏和、そんな印象は今の多辺には微塵もない。
「負けるって思えなかったから、肝が冷えたんですよ」
その冷えた肝は、今、破裂しそうになっていた。薄く開いた口の端から垂れたモノをタオルで拭い、紅壱は吐き気に耐えながら答え返す。
店で一番に強い多辺と、客の中で一番に強い公爵が、例え、本人らにとっては小競り合い、または、じゃれ合いの感覚にしても、そうなったら、店の中は無事じゃ済むまい。
店舗そのものには、出資者である飛天もしくは、店の経営方針を任されている多辺が何らかの措置を講じているだろうから、全壊に到らないだろう。だが、強者がぶつけた力の余波で客のほとんどは消滅していたに違いない。
自分も危なかっただろう。ただ、木端微塵に吹き飛ぶだけならいい。だが、魔王がまた、ピンチに陥った自分の為に無茶をするのは避けたかったのだ。
「どんな関係かは怖いんで聞きませんけど、公爵はお客様なんですから、店長は見合った態度で接してください。少なくとも、コレはアウトですよ」
呆れ顔で、紅壱は公爵が帰る際に、多辺が見せた手振りを真似る。
「公爵って綽名を自分で名乗るくらいなんですから、あの魔属、結構、上の立場なんですよね。
遜れ、媚びろ、退け、とは俺が言えた義理じゃないっすけど、折角、来てくれてるんですから上から目線は止めましょうよ、オーナー」
「あいつに上から見られるなんて、嫌なのよ。
たかだか、北の拠点を一つ任されて、迷宮主になったくらいで偉そうにしちゃってさ、あの褌小僧。
散々、私達に泣かされて、土下座してたくせに。しかも、隙ありゃ、私らのスカートは捲るわ、おっぱいにタッチしてくるわ、下着は盗むわ、の手に負えないエロガキだったのよ、あの野郎は。
確かに強くなっただろうけど、私らからすりゃ、まだまだよ。踏ん反りかえりたいってんなら、せめて、西か南のエリアボスの側近くらい倒して、支配域を拡大しなさいよッ」
そうよ、あいつのセクハラのおかげで、散々だったのよ、と積年の恨みが蓋を持ち上げてきている多辺の愚痴は止まらない。
二種類の不平不満を、二つの口から溢している彼女の器用さに感心しつつ、「だめだ、こりゃ」と肩を大きく竦めた紅壱は、明日のモーニングに出すジャムを作るのに集中する。
冷蔵庫から取り出した、ボウルに入っている苺は一晩かけて、砂糖にじっくりと水分を抜き出されていた。
その苺を紅壱は鍋に移すと、強めの中火にかける。しばらくすると沸騰し、アクが出始める。
アク取りに集中しつつ、紅壱は意識の半分で、現状について思いを巡らせていた。
(———―――・・・それにしても、この店だけなのか、怪異がこうもやってくるのは)
公爵の言動や気配の唐突な消え方から推察するに、彼は『うみねこ』の扉を通って、直接に住処へ戻ったのだろう。公爵が単に労を惜しんだだけかも知れないにしろ、彼クラスの怪異は街中を自由気ままに歩けない可能性もある。
しかし、怪異の客は公爵だけではなかった。他の客、公爵よりも力が劣る者は、ごくごく普通に人間としての仕事、生活も持っているようだった。他の店や街の中にも、常駐している怪異がいるのか、確認する必要がある。
瑛は実体を得て、グループを作り、事件を起こしている良からぬ怪異もいると言っていた。だから、紅壱は人間の過激派や宗教団体と同じく、表社会ではなく、裏側でこっそり、行動のチャンスを窺っているのだ、と思っていた。もしくは、ヤクザやマフィアに身分を偽装している、とも考えていた。その線なら、自分も手繰れる、と自信があった。
それがどうだ、良からぬ事など全く考えていないのが一目瞭然の怪異らは、この『うみねこ』に食事と、他の理由で来店してきていた。失礼にならない程度に聞き耳も立てていたが、誰も人間へ危害を与える計画など練ってなどいなかった。もちろん、本物はこんなオープンな場所で堂々と悪企みはしないし、するにしても符牒を使うのは百も承知だ。
しかし、少なくとも、この店の常連は、瑛や『組織』が「悪」と決めつけている怪異とは無関係だ、そう、紅壱は結論を下す。
イチゴジャムにラムを一滴だけ垂らすと、紅壱は煮沸消毒した瓶へジャムを注ぎ入れる。
続いて、彼はミックスベリージャム作りに取り掛かる。と言っても、作り方はイチゴのそれとさほど変わらない。
冷凍していたミックスベリーと、その量の40%程度の砂糖、小さじ1のレモン汁を鍋へ全て入れる。
やはり、強めの中火にかけ、ゴムベラで混ぜ、果汁が出始めたら火力を落とす。その状態で、10分以上は煮詰めた方が良い。好みはそれぞれではあるが、基準を設けるのなら、ベリーが潰れる位だ。
しかし、ベリーは自然と潰れ、とろとろになっていくので、ゴムベラでわざと潰す必要はない。焦げては台無し、なので、常に混ぜ続けねばならない。大変ではあるが、その過程により、たったの15分で空っぽになるほど美味しい、『うみねこ』自慢のミックスベリージャムが出来上がる。
(怪異は、もう、こっちに自在に来られるのか?それとも・・・・・・)
『組織』が、この街だけ、怪異の出現率が異様に多い、もしくは、怪異が常在している、その事実を意図的に握り潰し、出現の初期情報を操作し、瑛が率いている生徒会、この街を拠点にしている専業ハンターに伝わらないように工作しているのは、まず、確定と見ていいだろう。
けれども、『組織』がそんな隠蔽をする理由、そこが思い浮かばない。
(考査に必要な情報が足りなすぎる・・・)
この店に来る客は、人間の客も襲わず、また、他の怪異とも争わず、自身の注文した料理に舌鼓を打ってくれる、良い奴らばかりだ。もちろん、多辺を諍いで怒らせたくない、そこも本心だろう。客の私闘は御法度、それが自分もまだ知らない、暗黙の了解なのかもしれない。だが、いずれにしても、人間に理由もなく害なす存在ではない、と紅壱は信頼していた。
しかし、そんな人間に対して友好的な存在だけじゃないはずだ、怪異は。
自分の身を守るつもりにしろ、怪異のスペックは人間以上。パニック状態になった怪異に軽く小突かれただけでも、一般人は病院送りだ。下手すれば、病院も寺もすっ飛ばし、胃の中なんて結末すら有り得る。
疑わしきを全て罰す気は皆無にしろ、紅壱はそんな危険な状況を放置している、『組織』に対しての不信感が募るのを感じる。
(おっと、耐えろ)
紅壱は唇を一文字に引き結び、憂いの溜息は吐かない。内心で、モヤモヤしてしまうのは仕方ないにしても、それを調理中に言葉や息にして、外へ出すと旨味が損なわれる、そう、紅壱は信じていた。
「さて、味見、味・・・・・・ぬ」
ジャムから抜いた匙を一舐めした紅壱は瞠目する。
彼のプライドを慮ってフォローを入れる訳ではないが、決して、ジャム作りに失敗したわけではない。万が一にも、失敗したのなら、紅壱は顔色一つ変えずに一から作り直している。
では、何故、匙を口に突っ込んだまま、紅壱の首は今、傾いているのか。それは、ジャムがいつもよりも美味く感じたからだ。
材料も工程も変えていない。いつも通りに作ったはずだ。けれど、いつもより、彼の舌はジャムの甘さと酸味のバランスの良さを感じ取っていた。
どうしてだ、と五秒ばかり真剣に考えた紅壱だったが、すんなり頭を切り替える。
不味くしてしまったなら問題が大ありだが、いつもより美味しくなったなら、何も問題はない。スルーしても構わない、そう判断する。
そんな紅壱が、どうして、ジャムが美味しく感じたのか、その理由を知るのは、もう少し日が経過ってからであった。
ジャムを作り終えた紅壱は赤と緑、二種類のディップも作り進めていく。
赤のディップは、湯剥きしたトマトは半分に切り、種を除ける。それは細かく刻み、微塵切りにした玉葱もボウルへ投入。塩少々を振ってから揉み、水気を絞って、オリーブオイル、タバスコ、レモン汁、パセリのみじん切り、クミン、コリアンダーを適量入れて、さっくり混ぜ合わせる。
(この街で、何かの実験をしようとしてるのか、している真っ最中なのか)
やはり、『組織』は瑛の言う通り、内部が相当に腐っているのかも知れない。
ただ、紅壱の中では、瑛を『組織』のトップにしていいものか、そんな迷いも芽生え始めていた。
まだ付き合いは短いにしろ、瑛がピュアなのは、よく分かった。当の本人は清濁併せて飲んでいるつもりだが、恐らく、チャンポン飲みが向いてないタイプだ。しかも、悪酔いする自覚が出来ず、大規模な自爆を起こす、最も危ない、と言うより、厄介極まりない人種だ。
自分の持っている常識程度が打ち砕かれる程度なら、難なく順応できるだろう。けれど、正義を根元から折られたら、二度と立ち上がれなくなるタイプでもある。
何が起きても諦めない人間は、自分が頑なに貫いていた信念が、外の世界では通じない、そんな当たり前の真実と真理に思い知らされると、総じて廃人になってしまう。普通の人間なら、心が折れた時点で、時間はかかるにしろ、他の道を択び、新たな世界に「えいやっ」と飛び込んでいける。
だけれども、瑛の目は外に向いていても、眼は「自分の正義」しか映していない。故に、彼女にとっては、世界が一つしかない。『組織』のトップになる、その夢しか持ってこなかった瑛は、その正義を保てなくなった時、間違いなく、自分の世界を鎖すだろう。
緑のディップに使う材料、それはほうれん草。茹でたほうれん草を水で冷やしてから搾り、パセリと一緒にみじん切りにする。刻み終えたそれへ、プレーンヨーグルト、レモン汁、粉チーズ、オリーブオイルを入れて混ぜながら、塩コショウで味を整えていく。
(俺も人の事を言えた義理じゃないにしろ、会長は怪異を目の前にすると、少し熱くなっちまうな)
瑛は、やけに怪異を敵対視している節があった。もちろん、人間の悪意に曝され、傷つけられた魔属、霊属に対しては同情している。
虐げられている者への優しさが全くない訳ではないのだろうが、人に仇を為す怪異には、一切の容赦が無い。その無慈悲さは、『組織』に籍を置いている一員としては、「正しい」かも知れない。けど、瑛の場合は、無理に「正しさ」に拘っているようにも見える。
怪異は全て悪、悪は全て滅さねばならない、そう思い込んでいる、思い込み続ける生活を無理に己へ強いているようだ、と仕事中の雰囲気から、紅壱は感じていた。きっと、瑛はもう、多くの怪異を敵と認識せねば、自分の正義が維持できない所まで追い込まれてしまっているようだ。
改革、そんな大言を口にして、『組織』のトップを目指すのも、自分の「正義」の崩壊を防ぎたいからか。自分がトップ、つまり、絶対的なルールを決められる立場になれば、自分が間違ってない事に自信が持てる、そんな必死さがチラつく。
『組織』が「絶対にない」と言っていた異界の存在を何らかの理由から隠していた上に、既に多くの魔属、霊属が自身の暮らし、守ろうとしているこの街、人の輪の中で、人間に危害を加える事もせずに暮らしていると知り、そして、それを『組織』が黙殺している、また、罪のない怪異を口封じさせている可能性もある、と分かったら・・・・・・『組織』が自分の事を裏切っていると知ったのなら・・・・・・
(会長は、もうダメだろうな)
腐敗っている、と言いながらも、瑛は『組織』が完全な正義の象徴、と信じたがっている。だから、脱退、その選択肢が頭に浮かばない。本気で、人を守りたいなら、『組織』に属さずとも、フリーランスで正義の味方をすればいい。支援が受けられなくなるのは痛手にしても、制限がなくなれば、守る人間を取捨選択せずに済む。もっとも、それは実力があってこそ、ではあるが。
そんな彼女は、裏切りを許さないだろう。彼女に国士無双、そう評せる実力があるなら、止める必要もない。全滅、全壊させたいなら、好きにさせるし、手も喜んで貸そう。
しかし、彼女の天才性はあくまでも、学生レベル。いくら、『組織』が腐っていても、いや、腐っているからこそ、その人員には彼女以上の猛者がウジャウジャしているだろう。裏切りに憤る瑛などでは、一矢報いるのが精一杯だろう。その一矢が急所に当たれば儲けものだが、そう上手い事などない、特に学校の外では。
(止めても聞く人じゃねぇにしろ、このまま、破滅させたくもねぇしな)
惚れちまった弱味かねぇ、と肩を竦めつつ、紅壱はどうしたものか、と考える。
豹堂鳴、彼女の存在が、瑛に視野を狭めさせ、自分以外の世界を見るチャンスを手から溢してしまっている原因にもなっていた。
(けど、豹堂が全部、悪いって訳じゃねぇからな)
彼女からの尊敬に値する、正しき自分でいなければ、と瑛が自分を余計に追い込んでしまっているのも事実。ただし、鳴のそれには悪意がない。
鳴が、瑛を破滅させるつもりで傍にいるなら、躊躇いなく排除すればいい。けれど、鳴の瑛に対するリスペクトには、不純物がない。ガチの恋心はあるにしろ、それは濁らせるものとはなるまい。
(正義を失わせず、プライドを根元から折っちまうには・・・一番に確実なのは、俺に惚れさせる事か)
正義ではなく、自分が瑛の世界の中心になれば、ある程度は行動に制約をかけられ、彼女を自傷行為から守る事も叶うだろう。
(けど、会長が俺なんぞに惚れる訳ねぇよなー)
意外にも、弱気な態度の紅壱。しかし、強気になれないのも理由がある。
今のご時世、立場の違い程度で「好き」を諦める必要はない、と紅壱自身は思っている。恋愛漫画で、不良とお嬢様のラブコメは王道の一本だ。
しかし、瑛の性格を考えると、万が一にも自分を恋の対象として見たのなら、自分の地位も躊躇いなく捨て去りそうだ。話で聞いただけだが、獅子ヶ谷はそちらの世界では、そこそこ有名らしい、実力のある術士を育てる名門として。逆玉の輿なんて、興味もないが、瑛に実家や家族を捨てさせるのは、いくら、不良の彼でも気が咎める。
何より、一番の問題は、竜宮殿輝愛子だ。
義弟に悪い虫が付くとなったら、輝愛子は容赦しないだろう。ありとあらゆる手段で、瑛に絶望を与えようとするのは、目に見えている。しかも、瑛を絶望させられるのが、自分の正義の崩壊だけとなれば、他の絶望には屈さず、恋の炎を燃やすだろう。
ドラキュラも避けるほどの女傑同士が繰り広げる殺し愛、思い浮かべただけで血の気が引いてきてしまいそうになる紅壱。
(会長が俺に惚れるのはマズい事だらけじゃねぇか・・・・・・)
俺に惚れる訳がない、と自己否定しながらも、いざ、障害を自覚すると落胆してしまうのが、男と言う生き物であろう。
実は、とっくに両想い、百歩譲っても両片思いになっているとは露も知らず、紅壱はモヤモヤを振り払うように、頭を激しく振り乱す。
(この解決策は、一旦、保留だ)
何にせよ、瑛の野望への軌道修正は今後、必要だろうが、まずは、異界が本当にあるのか、確かめねばならない。あくまで、自分の瑛の暴走に対する不安は、異界を『組織』が隠蔽している、その仮定が前提と基盤になっている。『組織』の説が、間違っていない、そう証明できれば、それに越した事はないのだ。
(まぁ、あるんだろうけどなぁ)
少なくとも、狭間が実在しているのは、偶然ではあるが、そこに行ったことのある自分が一番に分かっている。
異界が人間界の裏、もしくは空の上、または地下深くにあるにしろ、どうやったら、あちら側へ行けるのか、その手段も講じねばならない。しかも、リスクが高すぎるのは論外で、なるべく、安全な手段が望ましい。
(未来から来た青いロボットが腹の袋から出す、〇〇でもドアみたいな移動手段が、手に入れば手っ取り早くていいな)
ただ、あちらの世界で、魔属、霊属が確固とした実体化を持って、人間と同じように暮らしているとしたら、その日常を目の当りにしても、やはり、瑛は「正義」を見失ってしまいかねない。
まだ、その姿こそ見ていないが、瑛がナラシンハをパートナーにし、密接な関係が築けているのは、彼女がナラシンハを己の想像力の産物、と疑っていないからに過ぎない。もし、ナラシンハがエネルギー体なのではなく、あちら側で生きている、と知りでもしたら、殺してしまうだろう。
戦いを経たからこそ、信頼し合ったパートナーが殺し合う様、これも見たくない。
魔王を身に宿している、そんな境遇が、紅壱の精神を図太くした。何せ、魔王と言えば、普通の感覚からすれば、討伐の対象、悪の中の悪だ。バレたら、世界中にいる正義の味方が殺しに来る、それは子供の紅壱でも予想が出来た。
だから、隠す努力を懸命にしたし、万が一の時に備えて、牙を研いでいた。
こんな秘密だらけで、大罪を抱えて生きる自分の考える「強さ」を、瑛に押しつけるのは横暴だと言う事は、紅壱にも頭では理解っている。だからこそ、簡単に割り切れず、諦めもつかない心が苦しい。
(俺は一体、どうすりゃいいんだ・・・・・・)
瑛が奈落に落ちるのを防ぐ手立てを、真剣かつ真摯に考える紅壱。
ともかく、現時点で、瑛の心は無事だ。その安定は、鍛え甲斐のある俺が生徒会に入ったからだろう、と紅壱は嘯きながら、外れてもない可能性を思い浮かべる。
(とりあえず、今日まで、会長の心がギリギリに均衡を保つ事が叶っているのは、ひとえに恩人の存在があるからだ)
彼女は自身の「正義」の正しさを証明したいがために、『組織』から離れないでいる。
その瑛の「正義」の根幹、強さに対する憧れの対象は、恐らく、自分をアラクネから救ってくれた青年なのだろう。
正体の知れぬ彼に再会したい、その為には強くあり続けられるように己を鍛え、「正義」を証明する必要がある。そして、自分の「正義」が悪を駆逐できた時、彼はきっと、自分に会ってくれる、と己に言い聞かせている節があった、瑛には。
顔も名も知らぬ、瑛の恩人に対し、紅壱は感慨深さを抱く。
(俺にとっちゃ、恩人は魔王だけど、会長にとっても同じなんだろうな、会いたいのに会えないんだから)
改めて、瑛を救ってくれた事に感謝しつつも、彼の心の片隅では、嫉妬が黒い炎となって揺らめいていた。瑛にとって、その恩人は特別な存在、そう思うと、胸がチクチクと、胃がムカムカと痛む。
その小さな痛みが、嫉妬、その二文字で表現できる感情である事が判らないほど、紅壱もお子様ではない。知らぬ子供であれば、いくらか楽だったろうに、と自嘲で唇が吊り上がってしまうくらいには経験を重ねてしまった。
そんな瑛への恋心と、恋敵に対する敵意が心の中で渦巻く彼の頭は、同時に多辺のハシゴ酒から逃げる方法、今日の英語の授業で出た英訳の課題、瓶持に頼まれていた椅子の修理にかかる費用、毎週、楽しみにしている少年漫画で、今週こそツンデレな主人公と心が広すぎなヒロインはくっつくのか、獣タイプの霊属と契約した事で変化を求められる己の戦い方、バイト中に何で、お前は何で、そんなヘビーな事で悩んでるんだ、と正座させた自身へのガチ説教、それらを並列思考で同時展開していた。
(どうせ、会長の事を考えるなら、今夜のおかずについて考えろ!!)
精神世界で、もう一人の自分が発した言葉に、紅壱は罰が悪そうな表情になる。
魔王を宿していても、彼は年頃の男子だ。学校と下宿先で、あれだけの美人に囲まれていれば、ムラムラしてきてしまう。
修一から羨望されている彼の、ここ最近のおかず《・・・》は、もっぱら、瑛であった。
輝愛子は論外。女どころか、人間としてすら見られないのだ。
基本的に五歳以上の年上はストライクゾーンから外れているので、絹川、瓶持、球磨、洲湾も除外される。言ったら、折檻は必至だろうが。
夏煌は同級生ではあるが、容姿が女子小学生と大差がないので、背徳感よりも罪悪感が生じてしまう。実際、校内で夏煌は危険さを含んだ視線を向けられている。そんな粘着的な視線の主が男子なら容赦もしないが、女生徒もいるので紅壱は唖然とするしかない。
鳴の見た目は女子高校生ではあるけれど、性格の反りが致命的に合わない以上、妄想の中でも喧嘩に発展してしまう。ツンデレ、この属性は嫌いでないにしろ、鳴にはツンだけで、しかも、そのツンには毒がある。そんな女には挿れるどころか抱く気すら起きない。
愛梨は胸のボリュームこそ欠けるが、スタイルはいい。ただ、元気が良すぎるのが難点だ。反応が淡泊すぎても萎えるのだが、逆に「バッチコーイ」と構えられてしまっても、男は衝動をぶつけ辛くなってしまう。何より、抱き締められたら背骨が折れかねない。
恵夢の巨乳は、男のロマンであり、紅壱自身もそこに顔を埋めて昇天させられたい、と思ってはいる。ただ、母性が溢れまくっている点に、紅壱の性癖は最高潮とならない。始終リードされるのが嫌なタイプであった、彼は。
消去法、残り物と言っては、プライドに大きく障るであろうが、紅壱の棍棒が最も逞しさを増すのは、瑛だけであった。
凛としながらも、押しに強くない。出る所は出ており、業務の関係上、スタミナも十分だろうから、男子高校生の底無しの激流を浴びても、一度や二度では戦闘不能とはなるまい。
誰からも慕われている生徒会長、瑛のそんな立場も良い。多くの生徒に不良として嫌悪されている己だけの前では、瑛が生徒会長ではなく、獅子ヶ谷瑛でもなく、一匹の牝の顔となり、自身の全てを曝け出し、自分の全てを受け入れてくれる。
素行不良の俺に惚れる筈が無い、そんな思い込みがあるから、余計に紅壱は瑛を妄想の中で汚したかった。彼は案外、身分の差で燃えるタイプであったのだ。
妄想の中でも、最初、瑛は強気でいるが、女としての快感を全身で味わい、脳味噌を絶頂で蕩かせるたび、従順となっていき、ついには自分から紅壱の熱いものを欲する様になり、蓋が閉じなくなった蜜の壺から甘露を溢れさせながら、その火照った体を芯まで、鋼の槍で貫いてくれるよう、行為の最中に教えられた淫らな語彙を駆使し、甘いおネダリをするのだ。
何らかの拍子に、瑛に自身の邪念がバレでもしたら、半殺しじゃ済まない、そんな緊張感も、限界まで圧縮させた欲望が炸裂る瞬間の開放感を、言葉に出来ぬ域まで持ちあげてくれていた。
ちなみに、魔王で自慰に至った事は一度もない紅壱。瑛に(心の中で)思いつく限りのコスチュームを着させ、思い切り真っ白に汚し、九つある女の穴を蹂躙し尽くしている紅壱にだって、恩人は裏切れない、その程度の良識はあるのだ。
気の昂りが下半身に集まりそうになり、紅壱は焦りながらも、自制心で己の大業物が鞘から抜けるのを制した。精神状態の揺らぎを顔に全く出さず、紅壱は滑らかな手つきで木へらを、桃がトロトロになっている鍋の中で回す。ジャムに焦げは禁物、じっくりねっとり、甘酸っぱさを引き出さねばならない。
(あー、でも、今夜はヌかない方がいいか。ただでさえ、血も少なくなってるしな)
こうしてアルバイトに精を出せてはいるが、世間一般的には重傷者なのだ。一日くらい、夜の日課をサボったら、錆びる訳でも、鈍ってしまう訳でもない。
(よし、今夜はさっさと寝よう。命は大事にしねぇとな)
拳を堅く握り込んだ紅壱は出来上がったピーチジャムを一舐めし、予想以上の仕上がりに満面の笑みを浮かべるのであった。そんな彼の笑みは(以下略)
然れども、そんな決意も翻してしまうのが、健全な男子高校生。
メイド服に袖を通した瑛に、玄関で迎えられた紅壱は自身の体調不良も数光年先へジャイアントスイングで投げ飛ばし、食べ頃の果実を余さずに貪る一匹の野獣と化すのであった。
店の客に怪異が多い、その現実を受け入れた上で、紅壱はこれからも、この店で働き続ける決意を堅くする
翌日の仕込みをしながら、紅壱が思い悩むのは瑛について
正義感の強すぎる彼女の、壊れそうな心をどうしたら、自分は守れるのだろう
惚れた女の為に、紅壱が出来る事とは、一体、何なのだろうか・・・