第十七話 公爵(duke) 紅壱、公爵に唾を付けられる
アルバイト先は、店主を筆頭に怪異ばかりだと知った紅壱
けれど、彼にとってはそれも小さい事でしかない
店主の多辺瑠香は自分以上に料理の腕が高く、学ぶ点が多い
客も自身の料理を「美味い」と褒め、笑顔になってくれる
それだけで十分であり、今日も頑張ろう、とやる気スイッチをONにする紅壱であった
さぁ、今宵も『うみねこ』は種族も立場の差もなく、様々な客を迎え入れる
閉店まで一時間、その頃にもなってくると、客は少し減ってきた。それでも、まだまだ賑やかだ。
注文を受け、メンチカツを揚げながら、「やっぱ、会長に頼まなくてよかった」と、再び、本音を呟いた紅壱。
もし、店内が怪異だらけと気付いたら、瑛は大混乱を起こしていただろう。気絶してくれるなら、まだ救いはあるが、手を出す可能性の方が、瑛は遥かに高い。
惚れた女は亡くすわ、バイト先も吹っ飛ぶわ、じゃ涙も出てこなかったに違いない。
衣の変わっていく色合いではなく、油から上がる音で出し時を計っている紅壱は、これ以上ないタイミングで、メンチカツを油から出す。
「メンチカツ定食、お待ちどうです!!」
揚げ立ての良い芳香を発すメンチカツを前に、カウンター席でそわそわとしていた、その妙に身なりの良い壮年の紳士は恍惚の表情を浮かべていた。
灰と言うよりは銀の髪を堅めのワックスでオールバックとしている男は、奇術師か貴族、そんな印象を受ける服装だ。気品の良さを感じる剃られ方の顎髭は髪よりも灰色の色味が強く、毛の堅さを際立てていた。
その紳士は、ひ弱なイメージは外見から抱かせないが、外で肉体労働に従事するタイプではない、と振る舞いから察せる。その反面、装飾品の類をつけていない指の節々には男らしさも滲み出ており、鈍らないように気を付けているのだろう、と想像もつく。
紅壱が、この紳士を見かけるのは、これで三度目だった。常連と呼べるほど来店している事もないのだろうが、紅壱がキッチンに入っていない日に、幾度か来店している可能性もあった。実際、多辺とは親し気に会話ている。
初回と二回目は、多辺が紳士に出す料理を作っていたのだが、今日は何故か、紅壱が任された。多辺から、その旨を告げられた際、紳士は「ほぉ」と薄い驚愕を、アクアマリンを彷彿させる瞳に宿らせた。だが、自信ありげな多辺と、戸惑いながらも自分の目を見つめ返してくる紅壱を信じてくれたのか、「では、お願いしよう」と鷹揚な態度で、紅壱が自分に出す料理を作る事にOKを出してくれた。
そんな彼が今日、注文したのはメンチカツ定食だった。初回はカレーライス、二回目は焼きそばだった、と紅壱は記憶していた。
「おぉ、美味しそうだ」
いぶし銀、そんな表現以外は浮かばないほど、紳士の口から発せられた声には落ち着きのある艶が光っていた。
「これはコロッケと同じように、ソースをかけて食すものかね?」
まるで芝居がかっていない、紳士の上品な口調に虚を突かれつつも、紅壱は「お好みでどうぞ」と前置いたうえで、「俺なら、まず、熱々の内に、一個目はそのままカブりつきます」と助言する。
では、そうしよう、と店員の言葉を躊躇いなく受け入れた紳士はメンチカツを箸で切らず、そのまま持ち上げた。顔つきこそ欧風ながらも、箸には慣れているのか、もしくは猛特訓したのか、メンチカツを皿に落とす、なんて醜態は晒さなかった。
そうして、紳士は迷いなく、湯気がまだ登るメンチカツにかぶりついた。ザクッ、と歯が噛み切った刹那に、紳士の口腔内を肉汁の奔流が襲う。熱さと美味さの二重奏に、紳士の表情は険しくなるも、彼はメンチカツからの攻撃に耐え、肉の旨味を口全体で堪能する。
一口目を「ゴクリッ」と飲み込むと、紳士は果敢に二口目へ挑む。またもや、メンチカツに頬を容赦なく叩かれるも、紳士は屈せず、「あふっ、はふっ」と息を小刻みに吐き出しながら、メンチカツを腹に収めていく。
サイズが小学生の手ほどはある、けれど、薄くはないメンチカツを半分ほど食べたところで、紳士は一旦、それを置き、皿に盛られているキャベツに箸を伸ばす。他の店なら、揚げ物には生のキャベツを千切りにして添えるのだろうが、『うみねこ』では茹でたキャベツをざく切りにしていた。
紳士はそれを口に運び、口の中でいつまでも堪能していたかったメンチカツの旨味が染み込んだ脂が、キャベツの甘味と水分により流されてしまった事に寂しさを覚えたようだった。しかし、それにより、またメンチカツの美味しさを新鮮に感じされる、と理解したのだろう、再び、メンチカツを口に運ぶ。
「ふぅむ、スープも実に好い」
『うみねこ』では、客が定食の汁物を二種類から選べられるようになっていた。今日は、豆腐とわかめの味噌汁と、コンソメスープの二つだった。紳士はここの味噌汁の美味しさを知っており、ギリギリまで迷っていたが、メンチカツが洋風寄りの和食と言う事で、コンソメスープを選択した。
自らの実年齢が映り込んでしまうので、女性は頼むのに抵抗を覚える(と言っても、一度、この味を知ってしまったら抗えないが)と言われるほどに、澄み切ったコンソメスープには野菜や牛すね肉などの素材から出る甘味が極限まで凝縮しており、一口含んだ瞬間に、つい、固形物を口に入れたと勘違いし、噛んでしまう客が大半だ。しかも、その全員が歯応えがあった、と驚くほどである。
「これほどの質を出すには、相当に丁寧な下拵えをし、なおかつ、作っている間は常に鍋の傍に立ち、味の崩壊を防ぐべく、細心の注意を払うのだろうな・・・見事だ」
味が分かってくれている客からの賛辞は、料理人にとって、何よりも価値のある報酬だ。
「ありがとうございます」
恭しく一礼した紅壱に、「うむ」と尊大ながらも、傲慢ではない動きで頷き返した紳士は白米とメンチカツの一口分を口に入れる。
染み出てきた肉汁が、最高の具合に炊かれた米に絡み、歯と舌を喜ばせる。
恍惚、それすら顔に出している時間も惜しいとばかりに、紳士は箸を躍らせ、一個目を食べ終える。
名残惜しさを胸に抱きつつ、彼は箸休めの切り干し大根で頭を切り替える。
「さて、二個目はソースをかけるべきだったな」
紳士は紅壱から、揚げ物用のソースで満ちた瓶を受け取る。しかし、いきなり、それをメンチカツにはかけず、ソースを一滴、指の上に落とす。
「―――――――・・・・・・うぅむ」
黒い雫を先の尖った舌で舐めた紳士は低い唸り声を発し、瞠目する。途端に、紳士の放つ威圧感は厳しくなり、店内の空気が固く、いや、重力が増してしまう。祖父からの気当たりを受け慣れている紅壱だからこそ、失神を免れた。霊属と契約する以前の彼であれば、踏ん張ろうにも踏ん張り切れず、膝が床に落ちていただろう。
何か不満を覚えさせてしまったか、と紅壱が緊張したのを感じたのだろう、気恥ずかしそうに苦笑した紳士は「む、すまぬ」と詫び、おしぼりで指の腹を拭う。
「不覚にも驚いてしまった・・・調味料一つで、ここまで複雑な旨味がするのか、と」
「ありがとうございます。店長が喜ぶと思います、その言葉を聞いたら」
『うみねこ』で使っているケチャップ、ポン酢、そして、揚げ物用のソースの三つは多辺が一から作ったものであった。彼女が自信と矜持を持っている、このソースに入っている香辛料を全て言い当てたからこそ、紅壱は普通に食事をしに来ただけなのに、多辺に採用されたのだ。
元々、こちらの街でアルバイトをする気だったので、探す手間が省けたと紅壱は喜んだのだが、まさか、店主も客も人じゃないなんて、あの頃は予想もしていなかった。魔王を宿しているから、類友の法則で引き寄せるのだろうか、と紅壱は独り言ちる。
「では、ソースをかけて・・・」
もう一舐めし、たっぷりとかけてしまったら、メンチカツとソース、どちらの美味しさも損なってしまうと察したのだろう、紳士はソースの瓶を慎重にかける。そうして、縦に一本、メンチカツに黒い線を引いたメンチカツに、彼は齧りついた。
瞬間に、ソースをかけていないメンチカツを凌駕する味の衝撃が、紳士をノックダウンさせる。もちろん、ソースがかかっていないメンチカツの方が美味い、そう断言する客もいる。どうやら、この紳士はソースをかけた方がお好みに合うらしい。
「いかがですか?」
「――――――・・・すまん」
「へ?」
額を押さえ、目を堅く閉じている紳士が肩を小刻みに揺らしながら謝罪を口にしたものだから、紅壱はまたもや、緊張してしまう。その強張りが、周囲の客に冷や汗を流させていると、彼は気付けない。
「この感動を正確に表現できる賞賛が・・・・・・出ない」
肉汁の奔流は、ソースと言う一味が足し加えられたことにより、美味の嵐と変じた。
豚肉、玉葱、油、そして、ソースが混ざり合った嵐には、さしもの紳士も歯が立たず、呆気なく、至福の彼方へ吹き飛ばされてしまう。その際、紳士は己の身体に纏わりついていた、一つのルールに頑なに拘る、そんな意地は旨みの容赦ない波状攻撃によって剥ぎ取られ、彼は嬉しい悲鳴を発しながら裸一貫とされる、そんなイメージ映像を視た。
人の作った食べ物に魅了され、悔しそうに、「ダンッ」とテーブルに拳を落とす紳士に、紅壱は肩の力が抜けてしまう。
乾いた笑いが出てきそうな呆れの次に込み上げてきたのは、紳士同様に言葉にはしづらい歓喜交じりの感動だった。言葉が出ないほど、美味しさを感じて貰える、それは一介のバイトとは言え、キッチンに立って鍋を揮う者としては、これ以上ない嬉しさだ。
「ぬぅ、ここまで登ってくるのだが、いざ、褒めようとすると薄っぺらいような気がして、飲み下すしかない」
心底、悔しいのだろう、紳士は唸る。それでも、メンチカツを食べるのを止められないらしい。笑ったり、落ち込んだり、と忙しい人だな、そう思いつつも、これはこれで料理人冥利に尽きる反応なので、紅壱としては満足だ。
そんな紳士は、二個目のメンチカツを残り一口と達したところで、不意に表情を翳らせた。この一口で幸福に終止符が打たれてしまう、それを惜しんでいるのが丸分かりで、紅壱は奥歯に力を入れた。
最後の一口を口へ入れる事を躊躇していた紳士は、何か名案を思い付いたのか、急に紅壱の顔をジッと見つめてきたではないか。理解はある程度は持っていても、その気がない紅壱でも、この紳士ほどの色男に穴が開きそうだ、と錯覚するほど見つめられると、ドキドキしてきてしまう。
「なぁ、君」
「はい」
「私の専属料理人になる気はないか?」
「お誘いはありがたいですが、この店に愛着がありますので」
即答で紳士の気を害してしまう、その不安はあった。それでも、紅壱は真顔で断る。
「うむ、では、仕方ないな。
だが、残念だ。君が専属料理人になってくれれば、いつでも揚げたてのメンチカツを食せるんだが」
目に見えて気落ちしている紳士に、紅壱は優しい微笑―と言っても、修一などの腐れ縁や瑛ら生徒会メンバー以外の生徒からすれば、子兎を前にした狼のそれ、と感じるだろうがーを浮かべ、首を右へ左へ動かす。
「お客さん、お言葉ですが、メンチカツは冷めても美味しいです」
「それは信じがたいな。
いくら、今、美味しくとも、冷めてしまえば油がギトギトとし、一口目でギブアップだろう」
「・・・訂正します。うちのメンチカツは冷めても美味しいです。
冷めて不味くなるメンチカツ、いえ、揚げ物は油が悪いんです」
「ほぉ、油が」
舌が肥えているだけあってか、紳士は紅壱の言葉に理解が及ぶらしく、「なるほど」としきりに頷いている。
多辺には負けるだろうが、紅壱も厨房を彼女から任されているので、客が相手でも自店の味には譲り合いの精神は見せない。
「うちのメンチカツで作ったサンドイッチは、本当に美味しいですからね」
途端に、紳士は身を乗り出してきた。
「何だね、それは!?」
紳士が全身から発してきた、目に見えるほどの圧迫感に紅壱の腰は抜けそうになってしまう。先程、多辺からプレッシャーを浴びせられていなかったら、醜態を晒してしまっていたに違いない。妙な感謝を多辺にしつつ、紅壱は説明の言葉を絞り出す。
「まぁ、そんな大層なものじゃありません。
パンに、揚げたてのメンチカツを挟んだ食べ物ですよ。
作ったばかりのものに、そのまま齧り付いても最高なんですけど、俺としちゃ、一晩くらい置いて、朝に食べるのが一番と思ってます」
朝からメンチカツサンド、若い証拠であろう。
「メンチカツが冷めていく間に、パンへソースや肉汁、油に溶けた旨みが染み込んでいって、朝になると最高の状態になってるんですよ」
紅壱の説明は決して上手いと言えるものでなかったが、自身の言葉で率直に感じる事を語っているからだろう、紳士は一層に想像力を掻き立てられたらしく、ギュッと閉じている唇から唾液が氾濫しそうになっている。
危うく垂れそうになった一筋を、紳士は焦りながらハンカチで拭うと、気持ちを落ち着かせるべく、席に腰を下ろし直す。だが、一度、火が点けられた食欲が簡単に鎮まる道理もない。
立場もあるからか、冷静沈着な男を装いながらも、紳士は完全にスイッチが入ってしまっていた。彼の双肩から立ち上がる気迫に後ずさりしつつ、紅壱は注文を待つ。答えが分かり切っていても、そこに誘導するのは野暮であり、マナー違反だ。
「・・・・・・ちなみに、そのメンチカツのサンドイッチはすぐに出来るのかね?」
「材料は・・・揃っていますので、揚げるのを待っていただければ」
「では、一、いや、二人前、頼む。お持ち帰りしたい」
「畏まりました。
どうですか、サンドイッチが出来上がる間、もう一枚、お食べになりますか、メンチカツ。
キンキンに冷えたビールと一緒に食べると、より美味しい・・・そうですよ」
すると、紳士は悲しそうな顔になった。
「ビールか・・・・・・正直、あれはこちらに来て、口にした物の中で、最も衝撃的だったよ。
あれほどの衝撃が脳天から爪先まで突き抜けたのは、友人の雷撃を帯びた大槌で頭を殴られた時以来なんだ。
冷やされたビールが揚げ物に合う事は、ここでコロッケを食した際に知った。もちろん、メンチカツとの相性が最高である事も予想できる。しかし・・・・・・」
一層、彼が悲痛な色を端正な作りの顔に浮かべ、ビールを注文できない現実に絶望しているのが伝わってくるものだから、メンチカツを揚げ始めた紅壱はオロオロしてしまう。
「嫁に止められているんだ」
「えっと、良くない方向に酔っちゃうからですか?」
これほどの圧を放つ男が、酒乱なんて最悪すぎではないか、と胃が痛くなる紅壱。そんな彼の不安を気取ったか、紳士は顎髭を優雅に撫で、彼の予想を否定してやる。
「いや、こちらのビールは美味く、あちらのものより酒精は強いが、あの程度で私は酔ったりせん。
嫁は、私一人だけが、こちらでビールを飲むのが気に入らないようだ。なまじ、私の記憶を視て、味に同調してしまったからだろうな。ある意味、八つ当たりに近い。
しかし、その気持ちも理解できるのだ。こちらでビールを飲んで以来、私も部下が貢物として持ってくる酒が今イチに感じる」
トホホ、と肩を落としながらも、こっそり飲まないのは奥さんを愛しているからだろう。
愛妻家なんだな、ほっこりさせてもらいつつ、紅壱は尋ねた。
「持ち返ればいいじゃないですか、ビールも」
「しかしな、コップのまま持ち帰っては溢してしまいそうだ。
もちろん、冷えた状態を保つ、それ自体は私にとって造作もない事ではあるが、紙で出来た軟弱な杯では握り潰してしまう。私は、どうにも、転移した際の臓腑が浮かび上げられるような感覚が苦手でね、つい、力が拳に入ってしまうんだ。
ここのようにガラスで作られていれば、その心配はないが、持てる数も限られてしまうからな。
次元移動には、それなりに魔力を費やすし、集中もいるから、ガラスの杯を10も20も浮かべたままではいられん」
「・・・・・・・・・」
最高の揚げ上がり、タイミングを聞き逃さないようにしつつも、持ち帰りに挑戦して失敗したことがあるらしい紳士の言も聞き溢していなかった紅壱。彼はどこに突っ込むべきか、迷いながらも、一つの指摘をする。
「缶ビールか、瓶ビールを買えばいいのでは?」
「・・・・・・何?」
「缶か瓶なら、よっぽどの握力でなければ、潰しちゃう心配もないですし、袋に入れてもらうか、箱買いすれば、奥さんと一緒に飲めるだけの量を持ち返れますよ」
その瞬間、紳士の目はカッと見開かれ、白目を剥いてしまう、まるで古き少女漫画の名作のように。紳士の周囲に青い稲妻が見えたのも、紅壱の錯覚ではあるまい。
「持ち帰り用のビールが、こちらにはあるのか?」
「も、持ち帰り用と言っていいかは微妙ですが、紙コップのように途中で溢さないよう、適温を損なわないよう、工夫した入れ物に入ってますね、ビールに限らず、お酒は」
『うみねこ』では、ビールを瓶からグラスに注いでから、客に出している。なので、紳士が缶ビールや瓶ビールを見たことがなくとも仕方ないか、と紅壱はメンチカツの油を切りながら推測する。
「その缶ビール、瓶ビールはこちらで買えるのかね?」
「あ、いや、お酒は専門店で買って貰った方がいいかな、と」
またもや、紳士は落ち込む。あまりの落胆っぷりに、店内の重力は先ほどより全員に圧し掛かり、しかも、毒の瘴気まで漂い出したのか、眩暈が起こりそうになる紅壱。
助けを求めるように、紅壱が視線を向けると、他の者と異なり、顔色一つ変えていない多辺は「仕方ない」と言わんばかりの渋面で親指の先を冷蔵庫へ向ける。
「店長の許可も出たので、お店の瓶ビールをお売りします。お値段の方は、メニュー表に載っているものになりますが、よろしいですか?
正直、外のお店の方が同じ値段で、量が買えますけど」
「ぬぅ、それを言われると困るが、私は制約でこの店にしか入れないんだよ。
だから、この店の値段で瓶ビールを購入させてくれ、頼む」
紳士に頭を深々と下げられてしまい、慌てるのは紅壱だ。
「あ、じゃあ、今度、いらっしゃる時は俺が近くの酒屋に使いで行って、ビールを買ってきますよ」
店が儲けるチャンスをフイにするな、と多辺が睨みを利かしてきた。それは物理的な威力を含んでおり、紅壱は回転して壁に吹き飛んでいきそうになるが、その衝撃を、「芳雲」で受け流す。
彼の体を抜け、床、壁を経て流れていった「ギロリ」は隣接しているカメラ店の商品を二つ三つ、半壊させてしまう。もちろん、翌日に店へ出てきた店主が悲鳴を上げる事など、まだ知らない紅壱は特製のソースをメンチカツの表面へ塗る。
「いいのかね?」
「お客様に喜んでもらえるのが、一番ですから」
紅壱の奉仕精神に、紳士はいたく感動したようで、「惜しい」と呟く。まだ、彼をこの店から引き抜く事を諦めきれないらしい。
「だが、少年、君がこの店からいなくなったら、女性客はガッカリするだろう。
女性を落ち込ませるのは、私としても本意ではないからね、これは諦めよう。
それに、何より、彼女がおっかない。古い知り合いなんだが、未だに頭が上がらんのだ」
嫁さんと同じくらいね、とウィンクした紳士は声を限界まで押さえて、ナポリタンを一つの体から、蛙、猫、少女の頭部が生えている常連に作っている多辺を示す。
(あのお客さん、どの口でナポリタン、食べるんだろう?)
苦笑で頷き返し、紅壱はマーガリンとマスタードを薄く塗ったパンの間に、メンチカツと千切りのキャベツを挟み込む。そうして、四角い食パンを切り、二つの三角形にする。
その断面を見た紳士の口からは、恍惚の息が漏れる。それにも、何らかの毒性があるのか、箱に詰めていた紅壱は足元がぬかるんだような錯覚に囚われてしまう。ただ、これ以上、足に力を入れると、床に亀裂が入ってしまいそうだったので、何とか我慢する。
「お待たせしました。お土産用のメンチカツサンドです」
「すまんね、無理を言ってしまって」
「いえいえ」と朗らかに笑いながらーけれど、やっぱり、度胸のレベルが一般人な者からすれば、ナマハゲかブラックサンタだー、紅壱は箱とビール瓶を入れた紙袋を丁寧な動作で手渡す。
「合計で・・・・・・1800円になります」
「釣りは取っておいてくれたまえ」と、紅壱の出した受け皿に五千円札を乗せた公爵。さすがに、この額は釣銭を返さない訳にはいかない。だが、見るからに意志の堅そうな公爵がお釣りを素直に受け取るとも思えない。弾指の間に、紅壱は「この3200円、ビール代に当てよう」と結論を出す。
「少年、君、名前は何と言うのかね?」
「辰姫紅壱と申します」
「タツヒメコウイチか。うん、覚えたぞ。
おっと、そうだ、君に名乗らせておいたのに、私は名を教えていないのはフェアではないな。
しかし、こちらの言語では、私達の氏名は正確に発音できんからな・・・いや、君になら、そのまま伝えても聞こえるか・・・・・・いや、ダメか、今の君では精神が壊れかねんな・・・君を狂わせたら、彼女にどんな折檻をされるか、想像も出来ん」
腕組みし、悩んでいた紳士は何かに気付いたのか、「おぉ、そうだ」と諸手を打つ。
「あちらの立場をこちらの階位に合わせると、公爵になるらしい。
なので、これからは遠慮なく、公爵と呼んでくれ」
紳士から公爵にランクアップした男性客に、紅壱は目を瞬かせたが、思っていたよりしっくりと来たので、「分かりました、公爵様」と首を垂れる。
「いやいや、様はいらん。公爵で十分だ、タツヒメ少年」
妙なイントネーションで、名を呼ばれてくすぐったさを覚える紅壱。目の前の紳士、いや、公爵の日本語はほぼ完璧なのだが、人間の名前だけは上手く、発音できないようだ。
「では、公爵、またのご来店をお待ちしております」
「うむ、また来るよ。
何か困った事が起こったら、いつでも頼ってくれ。
嫁の大きく張りのある尻に敷かれているオッサンではあるが、君に手を貸せるだけの力は持っているつもりだ」
「その時は、よろしくお願いします」
力を借りる、その予感があった紅壱は真摯に頭を下げておく。
「じゃあ、瑠香、一週間後にまた」
公爵に帰りの挨拶をされた多辺。だが、リザードマン、いや、竜人が返杯してくれた赤ワインを飲むのに忙しいらしく、彼女は朗らかな笑顔で近づいてくるどころか、顔すら向けなかった。しかも、じゃれつきかたがうざったい犬でも追い払うかのような手振りをする。
「ちょっ」
紅壱は全身の血管に凍る寸前まで冷やした炭酸飲料を流し込まれるような感覚に襲われるも、多辺と付き合いが長いらしい公爵は、後ろ髪を引いてくれない彼女の態度に「まいったね」と口の端を小さく上げるだけだった。
「では、ごちそうさま」
去り際、美味しい食事と腕のいい料理人への感謝の挨拶をした公爵の気配は、『うみねこ』の扉を閉めたと同時に、まるで感じられなくなる。
往来を行く人々の雑多な気配に、ごく自然に溶け込んでしまったのではない。不気味さすら覚えるほど、フッと消えてしまったのだ。一回目、二回目は公爵が魔属とは知ってなかったから気付かなかった。しかし、その実力が肌に感じられるようになると、あれだけ大きな気配が突然に消え去る違和感で、背筋が寒くなってしまう。
店内では二番、客の中では一番に強大な実力者が帰った事で、自然と残っていた客らは張っていた体から脱力し、やっと、料理の美味しさを堪能できたようだ。
(店長の正体と強さが分かった時点で、俺は最強《TUEEE》ってプライド、木端微塵かれたと思ってたが、まさか、そっから粉塵にされるとはなぁ)
風どころか、少女の吐息にすら吹き飛ばされてしまいそうなほど、細かく磨り潰されてしまった己の強さに対する自信。
予測していなかった訳ではなかったにしろ、まさか、公爵があんな強い魔属なんて思ってもいなかった紅壱は皿を片付けながら、嘆息してしまう。
だが、縋りついていた柱が根元からポッキリ、呆気なく、抵抗すら出来ずに折られた事で、紅壱は二つの確信を得ていた。
一つは、やはり、自分と瑛ら、『組織』の認識に大きな差があり、どうやら、正解に近いのは自分である、という事。もう一つは、己の成長についてだった。
(感謝しますよ、公爵。俺はまだまだ、強くなれそうです)
ニコッ、ニヤッ、そんな表現では、紅壱が堪えきれず、唇で形作ってしまった愉悦は伝わるまい。そんな彼の笑みを見た客らは、「ディ〇ニーの悪役の方が、よほど善人に見えるな」と胸中に思ったほどだ。人ではない彼らに、そこまで感じさせる、最早、それは魔王の依代など関係ないだろう。
客らに怯懦を覚えさせている自覚がない紅壱は、注文を受けた豚キムチをフライパンで作りながら、公爵と強いコネを作らねば、と下心ありきの決意をしていた。
(顔の広そうな公爵なら、他の魔王についての情報も持ってるはずだ)
紅壱がどこまで強くなれるか、酒の肴にしている客の中で、どれほどの数が予想していたのだろう、このアルバイトの少年が後に、伝説級の魔王を全て仲間とし、停戦条約を無視して動いた天界へ真正面から喧嘩を高値で売る事に。
とてつもない強さを持つ、人型の魔属、通称・公爵に気に入られた紅壱
『そして、世界は齧り尽くされた』を一日でも早く復活させ、同時に他の魔王についての情報も得たい彼は、この繋がりは切らさないようにしよう、と強く決意するのであった
浮かれる彼だったが、新たな悩みの種は背後まで迫ってきており、紅壱は懊悩を余儀なくされる