第百七十八話 水球(water ball) 妖精、ゴブリン小僧へ水球をぶつける
自身の魔力を使えるようになる準備が終わるまで、若手らの実力を確認していた紅壱
密かな努力を積み重ね、確かな実力を得た、名無しの妖精は紅壱へ挑戦状をたたきつける
快く、妖精の実力を視ようとした紅壱だったが、仲間を集めたゴブリン小僧が割り込んできた
ゴブリン小僧のチームへ、紅壱に挑戦する許可を出していたのは剛力恋だったのだが、実は彼女、この時、ぐでんぐでんに酔っぱらっており、許可を出してしまった事も覚えていなかった
けれど、声を録音されていたのでは、言い訳のしようがない
紅壱は剛力恋へのお仕置きを済ませると、俺にどっちが挑むか、は戦って決めろ、と告げた
やる気満々の妖精とゴブリン小僧、果たして、勝って、紅壱へ挑むのはどちらか
ゴブリン小僧の拳は、紅壱の眼から視ても、格闘者のそれに成りつつあった。
木の幹や石板を、正しい方法で握った拳で、なおかつ、紅壱が指導えた正しいフォームで、幾度も打ち続けたのだろう、己の拳の皮が破れ、肉が傷み、骨に亀裂が入っても。
言うまでもなく、怪異が生息しているこちら側には、治癒魔術が存在する。
アルシエルにも、下位とは言え、四つの種族が集まっている事で、治癒魔術が代表格である明光属性の適性が高い個体が何匹かいた。
彼らは、毎日、トレーニングに励んでいる十何匹もの住魔の傷を治す事で、熟練度も上がっている。
さすがに、粉砕骨折を一瞬で完治させる事などは、まだ出来ないようだが、拳の表面的な傷は十秒もあれば、肉も一分ほどで再生できるようになっていた。
また、アルシエルには、理屈こそサッパリだが、飲用した怪異のダメージを即座に治癒してしまう、人間界の薬局やコンビニで売っている栄養ドリンクが、いざと言う時に備えて、大量に常備されていた。
なので、一口でも飲めば、ゴブリン小僧は痛めた拳が完治っていただろう。
治ったら、すぐに、ゴブリン小僧は打撃訓練に戻り、再び、痛めるまで続けたはずだ。
一度、ダメージを負い、完治った拳は耐久度が上がり、壊れにくくなり、逆に、相手を壊す力が増すようになる。
紅壱がゴブリン小僧に教えたのは、左ジャブだけ。
だが、そのパンチだけなら、剛力恋が繰り出す一撃よりも洗練されており、急所を打てれば、彼女の表情を歪ませられるかもしれなかった。
努力をした確信がある攻撃を身に着けている、ただ、それだけでも、戦いに向かう勇気が支えられる、自によって。
「ふぅ」
ゴブリン小僧はお調子者で、スケベではあるが、それだけの努力を続けているだけあって、自分と相手の強さを正確に計る事が、ある程度は出来るようだ。
妖精の強さを察したからこそ、一瞬は怯んでしまったのだろうが、これから、挑戦みたい紅壱は、その妖精よりも遥かに強いのだから、ここで臆病風に吹かれて後退けない、と決断したらしい。
ゴブリン小僧の闘争心に、口の端を吊り上げ、紅壱は二匹のステータスを視る。
レベルは妖精の方が上で、魔力の数値や魔術スキルも多い。また、スピードも勝っていた。
若手の中で、「速」の数値が匹敵しているのは、影陰忍くらいだが、妖精の体が小さい事を鑑みると、彼女でも、何の用意もなしに捕獲まえるのは容易じゃあるまい。
一方で、ゴブリン小僧は物理的な攻撃力を示す「力」、スタミナや打たれ強さを示す「体」の数値が、妖精を上回っている。なので、素早く動く彼女の攻撃魔術が当たっても耐え、左ジャブを当てる、もしくは、掴む事が叶えば、ゴブリン小僧の勝ちは近づく。
もちろん、そう、簡単には行かないだろう。
ゴブリン小僧が勝つために重要視すべきは、パンチのスピードや握力ではない。
どれだけ、妖精の動きを先読みできるか、に懸かっていた。
「じゃあ、制限時間は30秒。
気絶させるか、降参させるか、どっちでも良いが、大怪我はさせるなよ」
相手の命を奪うような攻撃はするな、と暗に念押しされた二匹は、引き攣った表情で頷く。
「準備はいいか?」
3mほど離れた二匹は、審判を任された完二の試合開始の確認に、首を縦に振った。
「よし、始めッ」
完二が右手を振り上げ、紅壱の挑戦権を巡る、妖精とゴブリン小僧の一騎打ちが開戦まった。
「リーダー、頑張れブー」
「ファイトボル!!」
「負けたら許さないホネェ」
チームメイトからの応援に、ゴブリン小僧も気合が入り、彼はグルングルンと左肩を回した。
どうやら、その動作が、彼にとっての攻撃強化の効果がある魔術を成功させるルーティーンだったようだ。
呪文を小声で唱えるや、ゴブリン小僧の戦闘力が増した。
魔術が成功した事に安堵し、隙を見せるような醜態を、ゴブリン小僧は晒さない。
すぐさま、妖精を捕まえようと、飛びかかった。
当然、的は小さい上に、動きも俊敏なので、一回目で捕まえられるはずはない。
余裕を持って、妖精はゴブリン小僧の手を回避した。
しかし、ゴブリン小僧は諦めない。
すぐさま、体勢を立て直し、再び、妖精に飛びかかる。
妖精の攻撃魔術を警戒し、ともかく、距離を詰めておきたいようだ。そして、妖精が攻撃魔術を放ってきたところに、カウンターで合わせる作戦か。
とは言え、左ジャブを直撃させたら、妖精を殺してしまう可能性が小さくないので、平手打ちで済ませたいらしい、ゴブリン小僧は。
甘いな、と紅壱が苦笑すると、そこがリーダーの好い所です、とオークが呟く。
「慕われているな」
「意外ね」
完二と彗慧骨の言葉に、「良い仲間に恵まれているでござる」と、影陰忍が感心したタイミングで、ゴブリン小僧は掌を振り下ろした。
当たる、と思ったのは、紅壱以外の、その場にいる全員だった。
ゴブリン小僧の掌は、何かを地面へ叩き落す。それは、固い土にぶつかった瞬間に、パシャンッ、そんな音を発して弾け飛んでしまった。
「!?」
この時、ゴブリン小僧の心には、二種類の驚きが生じていた。
一つは、妖精を力余って殺してしまったのでは、そんな恐れが混じった驚き。
続く驚きは、弾け飛んだのは妖精の小柄な体ではなく、水の玉であった、と気付けた事実に対してだった。
「水で作った分身でござるか」
ゴブリン小僧は動揺を一瞬で捻じ伏せ、すぐに、本体を探そうとした。
彼の精神力は、以前よりも遥かに強くなっていたんだろうが、現時点で、その一瞬ですら、ゴブリン小僧にとっては致命的だ。
気付いた時、妖精はゴブリン小僧の目と鼻の先におり、既に攻撃の準備が完了していた。
小躯を活かした超スピードか、もしくは、魔術で気配を完全に遮断できるのか、ゴブリン小僧へと囮で稼いだ一瞬で、ゴブリン小僧へ迫っていた妖精の右手は、自分の体よりも大きい水の玉を作り出していた。
魔力そのものを水に変えたのか、空気中の水分を魔術で集めたのか、それは断定できないが、紅壱は自然と微笑みを浮かべた。
彼女は、ゴブリン小僧への顔面へ、それを投げつける。
「うわっ」
驚きながらも、反射神経は元から低くないゴブリン小僧は、水の玉を辛うじて避けた。
速度そのものは、さほど大した事がなかったとは言え、あの距離で回避できた事は褒めるべきだ。
けれど、ゴブリン小僧はミスを犯してしまっていた。
一つは、避けた事で安堵し、勝利を確信してしまった事。
この時点で、気を引き締め直していれば、勝ちも有り得た。
もう一つは、妖精が投げた水の玉を操作できる、その可能性に思い到らなかった、読みの浅さだ。
妖精は、ゴブリン小僧が避けられるかも知れない、と投げた時点で想定したのだろう。外れても焦らず、水の玉へ籠めた自分の魔力を操作し、その軌道を変えた。
完全に避けたはずの水の玉が、ブーメランよろしく戻ってきたのだから、ゴブリン小僧でなくとも驚き、思考と動作が止まってしまうに違いない。
水の玉は当たった、ゴブリン小僧の頬へと。
ギョッとはしたが、ゴブリン小僧の体は自然と、回避動作を取る事が出来たようだ。
それは、彼が積み重ねている日々の、地道な努力が結実の兆しを見せ始めている事を意味していた。
もっとも、今回の勝負は、この水球が当たってしまった時点で、彼の負けは確定したのだが。
「ハハハ、こんな水で顔が濡れたくらいじゃ、降参はしないゴブッ」
濡れた頬を拭ったゴブリン小僧は、「おかげで頭が冷えたゴブよ」と笑みを浮かべる余裕も取り戻していた。
顔色が優れない妖精がその場にホバリングし、距離を取ろうとしないのも、ゴブリン小僧が落ち着けた理由か。
目くらましに水を自分の姿に似せ、なおかつ、外した水の玉を操作した、これらで妖精は魔力を多く消費したようだ。
「もう、当たらな・・・・・・ぃ?」
真剣な表情となった彼は、再び、妖精へ平手打ちを当てるべく、攻撃に移ろうとする。
だが、ゴブリン小僧は一歩目を踏み出す事が出来なかった。
ゴブリン小僧の仲間である、オーク、コボルド、スケルトンはリーダーが動かないので、応援が戸惑いで止まってしまう。
「決まったな」
「え?」
自分達も、どうして、ゴブリン小僧が、この好機に攻めないのか、不思議に思いながら、事態を見守っていたので、紅壱の言葉に眉を寄せた。
そうして、ゴブリン小僧の失態に乾いた笑みを浮かべている紅壱が伸ばした指の先、ゴブリン小僧の顔を見て、全員が「あっ」と驚く。
「!!」
ゴブリン小僧は、必死の形相で、自分と鼻と口を覆っている水の膜を引き剥がそうとする。だが、水は触れる事は出来るが、掴めるものではない。その上、妖精が魔力を操作し、水をぴったりと貼り付け続けているのだ。
足掻くゴブリン小僧は立っていられず、倒れ込み、その場で転がり回る。
「完二ッ」
嘆息を溢した紅壱が胸の前に、左右の人差し指で×を作ったのを見て、大きく頷き返した完二。
「それまで!! 勝負ありっ。
勝ったのは、妖精だ」
その言葉に、妖精は肩の力を抜いた。
既に、残り少なかった魔力を搾るようにして、水を操作していたのか、途端に、ゴブリン小僧の呼吸を封じていたマスクは弾け、地面に黒い染みを作った。
息は出来るようになったが、完二が試合終了を告げた時点で、とっくに意識は暗転しかけていたのか、ゴブリン小僧は四肢をだらしなく広げたままで、立ち上がる事が出来ない。
陸で溺れるとはレアな体験をしたもんだ、と苦笑いを噛み殺し、紅壱は痙攣しているゴブリン小僧の胸を軽く、掌で押した。
どうやら、息苦しさで朦朧としていたゴブリン小僧は、水の膜が手で剥がせないと、遠のく意識で、逆に水を飲んでしまえ、と判断したようだ。
とは言え、それで助かるはずがなく、ゴブリン小僧は気絶したようである。
幸い、水は多く飲んでいなかったようで、ゴブリン小僧の口が噴いた量は、せいぜい、コップ二杯分ほどだった。
「良い戦いと勝ち方だったな」
ゴブリン小僧の介抱は、彼のチームメイトに一任せ、紅壱は勝者の妖精に労いの言葉をかけた。
紅壱が指示する前に、妖精へ、影陰忍は栄養ドリンクを飲ませていたようだ。
すっかり回復していた妖精は、紅壱の賛辞で、明るい表情となり、一帯を飛び回りだした。
「できそうか?」
もちろんっ、と妖精は笑顔のまま、平たい胸の前で両の拳を握り締めた。
下位魔属の代表格と言ってもいいゴブリンだが、妖精種と比較すれば、その体格は大きい
体格と力に差があり、一発でも当てられてしまえば、それで終わりである、と理解している妖精
唐突に、ゴブリン小僧とタイマンを張る事になったが、無策で立ち向かうほど、妖精は愚かではない
スピードで、ゴブリン小僧を翻弄するだけでなく、妖精は水で分身を作り、勝機を己へ引き寄せる
ゴブリン小僧の顔へ当てた水球を、妖精は操作し、彼の呼吸を封じ、気絶へと追い込んだのだった
見事、タイマンを制し、妖精は紅壱へ立ち向かうチャンスを獲得する
果たして、彼女は紅壱へ己の強さを示す事が出来るのだろうか