第十六話 察知(know) 辰姫紅壱、店長の正体を受け入れる
紅壱の祖父・玄壱に敗れていた大虎
自由を求め、己を殺しに来る猛獣にも、紅壱はいくらも臆さず、果敢に挑み、そして、勝利を掴んだ
しかし、勝利の代償は大きかった
大虎の爪牙により致命傷を負った紅壱を、彼への恋心が成長していた胸で受け止めた瑛
果たして、彼女は惚れた男を救う事が出来るのか?
「いつつつ」
決して小さくはない傷こそ負わされたものの、無事に五体の霊属と契約を済ませられた紅壱。
そんな彼は、いつも通りにバイト先へ愛車で向かっている。今日は、夜七時から閉店までの遅番シフトだった。
当然、紅壱は退院してきた身だった。無断ではない、ちゃんと許可は取った。一見、不良な彼だが、その辺りの常識はしっかり持っている。
白衣ではなく、黒衣に袖を通し、顔の下半分に包帯を巻いていた女医・杉作恋は、心配する瑛たちの前で自分に「絶対安静だ」と重々しい口調で告げてきたが、既にその時点で傷自体は完全に塞がっていて、その時にしていた点滴の針さえ抜けてしまえば、自分の足で家に帰れるほどに回復していた。
だから、瑛たちが名残惜しそうな顔で帰ってから三十分後、彼は医療器具の煮沸消毒を行っていた杉作に、「帰ります」と一言かけた。
医者としては、そう易々とは看過できぬ紅壱の言葉に、彼女は顔の左半分を覆っていたクリーム色の前髪をそっとかき上げ、廊下にしっかりと立っていた紅壱を手招きした。
そうして、杉作は紅壱を自分の前へ立たせたままで、彼の胸板に聴診器を当てたり、縫い傷だらけの指で瞼を引っ繰り返したり、など簡単な検査をした後、「今日は初回だから無料にしておくわね・・・また、怪我をしたら来なさい。まぁ、必要ないだろうけど」と無機質な声で紅壱をドキッとさせる事を告げると、作業に戻ってしまった。
少し拍子抜け感を覚えつつも、すんなり帰れる事になり、紅壱は丁寧に「お世話になりました」と頭を下げ、病院を後にした。だが、ここに運び込まれた時、意識が無かったので現在地の住所を把握し、アパートに帰るまでに、かなり苦労させられた。
「・・・・・・あっちゃぁ」
瑛たちの目もあり、その場ですぐに再生させなかったからだろう、虎の爪に裂かれた胸には、やはり傷が痛々しく残ってしまった。
大浴場の鏡に映った自分の鍛え、分厚くなっている胸板に加わった、厳しい戦いに勝った事を証明する新たな印に、「銭湯に行き辛くなったな」といくらか表情を翳らせたものの、確かに契約を結んだ証だ、と自分に言い聞かせた紅壱。
そもそも、彼は自分の見た目に執着していない。男は背中に、恥となる逃げ傷さえなければいい、そう思っている彼は確実に、多くの「普通な男、略して、フツ男」に嫉妬まれるイケメンの資格を存分に満たしていた。
信号待ちの最中・・・
「会長、怒るかもな・・・いや、確実に激怒だな」
魔力を全開にし、日本刀を抜いて怒髪天と化した瑛の姿を想像してしまった彼は、思わず、その長躯をブルンと大きく震わせてしまった。
もしかすると、恵夢も彼女を止めてくれないかもしれない。絶対安静を命じられている、重傷者が一日も入院しないで(勝手にではなくとも)ベッドの上からいなくて帰ってしまったと知れば、驚きより怒りが先に来そうだ。
しかし、代わりに出てくれる者を用意できなかった以上、今日のバイトを休むわけに行かなかったのも事実だった。
事情を説明したのなら、瑛は代役を喜んで買って出てくれただろう。優秀な彼女の事だ、仕事の飲み込みも早いに違いない。けれど、それに紅壱は抵抗があった。
先輩に面倒を押しつけるのは気が咎める、それも己の身を本気で案じてくれている瑛に断らず、退院した理由の一つだが、それよりも大きなものはあった。
普通の人間なら死んでいた重傷を負った者とは思えぬ速度でペースを狂わせることなく、愛車のGIANT ESCAPE RX3のペダルを回し、バイト開始の二十分前に「うみねこ」に着いた紅壱。
裏口から入り、更衣室で制服に着替えた紅壱は、念入りに手を洗ってから、厨房に立っていた多辺にハキハキとした声で挨拶をする。
「辰姫、入ります、オーナー」
「ん、よろしくね、辰姫くん」
朗らかな笑みを浮かべながら彼に挨拶を返してきた多辺瑠香はただ、ジャガ芋の皮を愛用のナイフで丁寧に剥いているだけだった。
しかし、今日、髪の毛を落とさないためのタオルを頭に巻こうとした刹那、紅壱は彼女が『人間ではない存在』だ、と自分を落ち着かせる為に細く息を吐き出している数秒間に理解した。
彼自身の魔属・霊属を見抜く力がまだ足りないのか、もしくは、人間の姿に見えるように施されている『幻術』のレベルがずば抜けて高いからなのか、人外と直感できても、彼女の見かけは人間以外には見えなかった。
あえて言うなら、ふっくらとした体躯から滲み出ている雰囲気が黒に近い。ヤクザや政治家から出ているモノとは質の違う『黒』だった。
(上位の霊属かな?・・・レベル的には、鰐くらいか?)
真実に対しての驚きはあったが、騙されていた事に対するショックはなかった。
自分の中の常識を破るようなサイズの獣型の霊属に遭遇したのだ、割と人に近い亜人型に対して抵抗感を強く覚える道理もない。
むしろ、意外と取り乱していない自分に軽く驚き、続けて呆れ果てつつ、紅壱はいつも通り、タオルをキツく巻き直し、多辺の隣に置いたビールケースに腰掛けて、ニンジンの皮を黙々とナイフで剥き出す。その動きに、躊躇いは無い。
(やっぱ、会長にヘルプ頼まなくて正解だったな・・・・・・)
自分より経験値が豊富い瑛であれば、多辺が怪異である事に気付いてしまっただろう。ただでさえ、自分に怪我をさせてしまった事で自己嫌悪に陥っている瑛が、多辺を怪異と見抜いたら、名誉挽回とばかりに退帰させるべく、無謀な戦いに挑んでしまっていただろう。
正体は分からずとも、相手の強さを計る眼力には誰よりも自信がある。瑛じゃ、多辺には勝てない。瑛の強さも相当なので、瞬殺とまでは行かないにしろ、三分、いや、一分、命を保てれば大健闘だろう。
当然、自分も本気にならなければ命はないだろう。ただ、多辺相手には本気を出したくなかったし、自身の中で休んでいる魔王にも、もう負担をかけたくなかったので、紅壱は多辺を敵に回すまい、と誓いを新たにするのだった。
そんな事を考えながら包丁を動かしても、やはり、紅壱の皮剥きは滑らかで、女子がやったならまだしも、男子がやったら罵倒の連射を喰らう羽目になる失敗は犯さない。
多辺についての問題は自分の中で解決したので、紅壱は無料サービスで出す味噌汁を作り始める、今度はこれからの自分の戦闘スタイルについて思案に耽ながら。いつもよりキビキビと動く右腕の背を、多部はジッと見つめる。
「!?」
妙な寒気を、「じゅるりっ」、そんな音が耳に飛び込んできたと同時に覚えた紅壱は思わず、その身を固く竦めてしまう。けれど、振り向く事は出来なかった。彼の野生の勘は訴えていた、見てはならないモノが背後にある、と。カタカタと奥歯が鳴り、大粒の汗が止めどなく、滝のように震えている背を流れ落ちていく。
(リザードマンや虎の比じゃねぇぞ、この圧迫感!?)
魂を握り締められるような恐怖は、天使と出遭った時に匹敵する、と直感したほどだ。
攻撃を繰り出したい衝動を必死に押さえ、紅壱はコロッケの種作りに専念し続けた。
開店してから一時間後、店の中は常連や新規客で賑わっていた。店はあまり広くないので、十人も入ると満員になってしまう。
「うみねこ」の、雇われ料理長である多辺は、紅壱を含めて調理のアルバイトを三人しか雇っていない。店の規模や財政事情もあったが、それ以上に、多辺は面接で料理を食べさせ、なおかつ、料理を作らせる。その試験のレベルは厳しく、落とされる者が大半だったのだ。
今日は、彼女と紅壱が厨房に入り、接客担当として雇用ったばかりの雨宮香苗が見せに出ていた。雨宮が休憩室に来た際、多辺のプレッシャーから解放され、一服していた紅壱は「もしや」と思ったのだが、良いか悪いかは別として勘は外れた。雨宮は人間であった。
多辺、もしくは店の出資者の趣味なのか、ややスカートが短い制服をさほど抵抗もなく受け入れた彼女は、リスのように忙しく壁際のテーブル席とカウンターの間を行き来し、キッチンに入っている紅壱らに注文を伝える。
「ナポリタン2、ホットケーキ1、ジャスミンティー2、入りました」
「雨宮さん、日替わり定食、五番さん」
「はーい」
店内が明るくなるような、いい返事で雨宮は多辺が突き出したトレイを受け取り、窓際の席へ急ぐ。
「しょうが焼き定食、お願いします」
一人で入ってきて、カウンターに座った女子大生らしい客から注文を受け、紅壱は慣れた手つきでフライパンを振るう。
しょうが焼き定食を彼女へ出した彼は無意識の内に、多辺が気分で選んでいる音楽―今日はアップテンポなロックにアレンジされたピアノ組曲だったーを口ずさみながら、程好く賑わっている店内を失礼にならないように見回した。
奥でアジフライを作っている多辺よりレベルが低いのか、現時点での紅壱にも実の姿が見られる客がいた、かなり多く。
何となく高価そうな、四匹の黒い鯉が体の周りを「泳いでいる」、医者もしくは僧侶と思わしき物静かな雰囲気が漂わしながら、濃い目のコーヒーを味わう青年。年の頃は30代前半に見えるが、もしかすると、もう少し上なのかもしれない。
(俺らの『先輩』か・・・・・・)
治療系の魔術を得意としていそうな風貌だ。偶喚された魔属・霊属に襲われた人間、逆に人間に傷つけられた魔属・霊属の体と心の傷を癒すのを生業にしている一門が多く存在している、と紅壱は瑛から聞かされていた。恐らく、彼がそうなのだろう。
ただ、その青年が纏う雰囲気は、どちらかと言えば、悪寄りのような気が、紅壱にはした。病に苦しむ弱者からなけなしの金を搾り取るタイプではなく、富んでいる者に難病の全治をチラつかせて高額な報酬を毟り取る、そんな信念のある悪なのだろう。
「大丈夫だって。今は押すべきだよ、ガンガンさ」
スマートフォンの画面とにらめっこしている友人に、真摯な恋愛アドバイスをしている女子高校生の額からは二対の鹿を思わせる立派な角が生え、励ます度に青白い火花を発していた。
告白を迷っているのか、物怖じしている友人の手を力強く握っている手、激しい炎が揺らめいている瞳から察するに、その言葉に嘘やおべっかなどは微塵も含まれていないようだ。本心の発言をすると、放電してしまうのが癖らしい、彼女の。
(鬼? いや、雷獣かもな。メグ副会長の話じゃ、姿形は一定しないらしいし)
今、自分の目の前でワカメの味噌汁を「ずずっ」と音を上げながら飲んでいる女子大生も人間ではなかった。
(・・・・・・メデューサ、だったっけ? 確か)
RPGの序盤の難敵、もしくは、中盤での経験値を稼ぎ易い敵として登場する事の少なくない悪魔が、彼の前でタレの絡んだ豚肉を頬張っていた。蛇系の魔属だからと言って、全てが卵料理ばかり食すのではないのだろう。
一体、何匹いるのか、数えるのを途中で放棄したくなるほどに、彼女の頭部を髪の代わりに保護している毒蛇の数は多い。よほど、空腹だったのだろう、中でも大きい何匹かが身を伸ばして、ウィンナーを奪い合っていた。
「あつっ」
味噌汁を冷まそうと、息を吹き掛けるたびに、赤紫色の先が二又に割れた舌を出し入れしている。
(太猿先輩だったら、間違いなく卒倒しちまってるなぁ)
彼の視線に気付いたのだろう、女子大生は照れた様子でウィンクしてきた、サングラスを外さずに。
見た限り、市販品のようだが、恐らくはコントロールがしきれない目で犠牲者を出したくはなく、彼女なりに立てた予防策なのだろう。
一瞬、右手が「ピキッ」と音を上げて硬直しかけた紅壱は、会釈を返すに留めておく。
(こうして見ると、うちの常連はほとんど人じゃないな)
開店当初からのお得意さんであるらしい、近くの大学で最年少の助教授として教鞭を振るって、多くの生徒らから畏怖されながらも、一部の生徒には人気がかなり高いらしいアラサーの女性は、どこからどう見ても雪女だ。彼女は、唐辛子のベーコン巻を肴に、チリワインを堪能している。
ここ最近、よく顔を見るようになったサラリーマンは、フルーツサンドイッチを齧りながらノートパソコンに向かっているが、赤黒いローブを目深に被った骸骨だ。しかも、脇に置いているのは鞄ではなく、大きな鎌で刀身の所々に赤い飛沫が残っていた。一仕事を終えた後なのだろうか。
ガマガエル頭の客もいれば、喜怒哀楽がそれぞれ浮かんだ四つの顔が東西南北を向いている客もいる。
少し、眩暈を覚えそうになった紅壱は客らから視線を外すと、皿洗いに集中し出す。このまま、ジッと見続けていたら、自分が彼らの正体に気づいてしまっている事を勘付かれる、と思ったのだ。
もちろん、何度か話している仲なので、彼らが自分を襲うとは思っていなかった。いや、思いたくなかったからこそ、目をつい伏せてしまった。
客への疑心を払拭すべく、紅壱は他の事を考える。真っ先に浮かんだのは、自身の決断が正しかった事に対する安堵だった。。
持ち前の桁違いな回復力により、瞬く間に復活した紅壱
自主退院した彼は瑛に叱られる事に怯えながらも、バイト先へ向かう
自身の雇い主である多辺瑠香が人でなく、しかも、店を訪れる客らの中にも魔属、霊属が多くいる事を紅壱は知る
だが、素性が何であろうと、例え、人でなくとも、『うみねこ』の扉を通って中に入ってきたのであれば、歓迎すべき客
素直に事実を受け入れた紅壱は、今夜もお腹を空かせたお客様のため、厨房に立つのであった