第十五話 激烈(violent) 紅壱、虎狩りの称号を得る
召喚・契約の儀式の折、紅壱の体外へ飛び出したエネルギー体
それは、猛獣の形を得て、紅壱の前に姿を見せた
順調に契約を結び、残り一匹と勇む紅壱は口喧嘩相手である鳴を間一髪で救い、自身は大怪我を負ってしまう
どうにか立ち上がった彼は、全力で猛虎に挑むッッ
爪先と踵に鉛芯を仕込んだ靴に加えて、闘氣で足、足首から爪先までを覆う事によって踵落としの威力を何倍にも上げた紅壱。
「!!」
鳴が声を出せないほど驚いたのは、彼が瞬動法の完成形とも言える『縮地』に近い動きをした事や、踵落としの破壊力だけではない。
瑛も愛梨も教えていないはずの技術を、初心者であるはずの彼が使ったからだ。しかも、自分の技の過ぎた威力で足を壊してしまった様子も見えない。さすがに、この状況では、鳴も「壊れればよかったのに」、そんな心意が宿った舌打ちを発す余裕がないようだった。
しかし、鳴は勘違いしている。彼女は、紅壱が小声で呪文を唱えた、と思ったようだが、違う。
紅壱は物理攻撃の破壊力を爆発的に上げる魔術の呪文を、誰にも教わっていないし、その効果を齎すアイテムも装備していない。そんな術などがある事は分かっていても、魔力の使い方と効果を発揮する呪文が分からないのでは、どうしようもない。
ただ、巡回中に瑛や愛梨がやっていた事を思い出し、脳内に思い浮かべた曖昧なイメージをヒントにし、「どうしたら攻撃力が上がるか」と言う疑問の正しい答えを直勘で導き出し、自分の身体能力を微塵も疑うことなく実行し、闘気と闘氣で、魔術を使った際の結果を近づけたに過ぎない。
実の所、彼には一度でも目の前やテレビで見る、また、自分の体でその威力を味わった技を、実戦の中での微調整は必要とするものの、ほぼ完璧に体現できる稀有な才能があった。それは、あの狭間で魔王と出逢い、己の身に封印してから芽生えたものだった。そんな人間離れな才能があったからこそ、売られた喧嘩を買う度、紅壱は不良として有名になっていったのだ。
魔力や魔術で攻撃力を上げられないなら、今の自分でも使える闘氣で肉体の一部分を覆って強化すればいい、と紅壱は発想を転換していた。
彼の祖父は、筋トレや型の反復、格闘技を学ぶ事は男としての強さに不純物が生まれる、男であれば己の身一つのみで勝負し、強さは猛者との実戦で研ぐべし、そんな持論の持ち主だった。なので、孫に戦い方を伝授する際は、常に本気だった。千尋の谷に落とした子獅子へ、更に岩石や熱湯を落としてくるタイプだったのだ、彼は。
傍から見れば、ほぼ実戦と変わらない、祖父との稽古で死なないためには、闘気を煉り、闘氣を纏う事が最低ラインだった。もし、祖父が放った『闃然』ー某有名格闘漫画で言う所の、関節部の開放で威力が増す、音速正拳である―で心臓が止められ、自力で復活を果たせた際、闘気の扱いに目覚めていなかったら、紅壱は今ごろ、墓の下か、体の半分が魔力に浸食され、人の形を保っていなかっただろう。
「しゅっ」
紅壱は大虎が振り抜いてきた爪をしっかりと重心を後ろへ傾けたスウェーで避けると、実戦の中でリズムを掴んだワン・ツーを繰り出す。もちろん、両拳は闘氣を纏っており、はっきりと光っていた。闘気と違い、闘氣が目に見えると言っても、ここまで濃いなんて常軌を逸していたので、驚きが一気に頭に流れ込んで来た鳴はくらくらしてきてしまう。
ワンの左ストレートは届かなかったものの、それは牽制の役目をしっかり果たし、ツーの右ストレートは大虎の額に当たり、小気味いい音を上げた。
ダメージにこそならなかったものの、相手が怯んだ瞬間を見逃さなかった彼は、両腕を大虎の頭へ素早く伸ばす。右にも左にも動く余裕すら与えずに頭部をしっかりと固定した紅壱は体重差を考え、腕を引かずに自分から大虎の方に飛び込んでいき、右ストレートを当てた位置へと膝蹴りを容赦なく叩き込んだ。
「おっ」
並の相手なら、このコンビネーションで沈められる。しかし、思った通り、この大虎は並以上だった。頭蓋骨を砕くまで止めないつもりで、何発も膝蹴りを叩き込んでいく。
骨と肉がぶつかり合う痛々しい音が響き、血飛沫が額と膝の間から飛び散る。
苛立ちを爆発させるように吼えた大虎は、向かってくる膝へ自分の頭をぶつけ、攻撃の最中だった紅壱の体勢を乱暴に崩させ、ショルダータックルをかます。爪に裂かれた傷への衝撃で痛みが走り、意識が混濁しかけた紅壱は無意識にホールドを緩めてしまい、大虎に距離を置かれてしまう。
大虎の額からは、ダラダラと夥しい血が流れ落ちている。目に入りそうになった血を、頭を左右に振って飛ばした大虎は、口の端から垂れた一筋の赤を手首で乱暴に拭った紅壱を、殺意が燃え上がっている瞳で睨む。一般人なら気当たりだけで殺せそうな大虎の眼に、この戦いを見ているしかない鳴の方が恐怖を感じてしまう。
咄嗟に、股間へ力を入れなかったら、元から汚れている地面を更に汚してしまうところだっただろう。
背後の彼女がおもらしを回避して安堵している事など露も知らない紅壱は、首を噛み千切るべく一直線に突っ込んでこようとした大虎を、牽制の右前蹴りで強引に止める。彼は右足を引いてから、脇を締め切った首と胸をしっかりと守っている固いブロックの構えに入るまでが速く、攻めあぐねてしまった大虎。
しかし、攻め辛い、と感じていたのは紅壱も同じだった。
大虎は顎を地面スレスレまで落として四肢に力を溜め、低い体勢のまま、ほぼ一瞬で間合いの中に飛び込んでくるものだから、上段系の打撃や蹴りが出せない。打ち下ろし気味のパンチやローキックでも倒せる自信ならあるが、あまり長引くと、傷が開きかねない。
相手は猛獣だ、弱さを見せたら、その瞬間が命取り、命を獲られてしまう。
(さっさとケリつけねぇと)
左ストレートから右ミドル、そこから右ストレートに繋げてみるか、と紅壱が考え出した刹那に、頭の中に声が響いた。それは既に契約済みのキングコブラのように甘ったるい声ではなく、鼓膜を直に引っ掻いてくるような軋んだ声で、紅壱は思わず唸ってしまう。
『その定石破りな戦い方・・・神威の血筋か』
思いも寄らぬタイミング、予想外の相手の口から祖父の旧姓が出たものだから、紅壱の眉間に深い皺が刻まれる。ただでさえ、子供に恐れられる紅壱の容貌は兇悪度を増す。
『答えろっっ』
大虎が轟かせた怒号には、二種類の感情の色が混ざっていた。祖父に恨みがあるのかなら、憤怒は納得できたが、どういう事か、焦燥も薄くだが滲んでいる。訝しんでいる彼の無言の姿勢を肯定と受け取ったようだ。その巨躯から立ち昇っていた殺気が、唐突に不自然なほどに霧散する。その反応で、肩の力を抜くほど、紅壱も素人ではない。
何だか知らんが逆鱗に触れてしまったか、紅壱が表情と構えを引き締め直したのとほぼ同時に、大虎が前肢で地面を勢い良く踏みつける。ズンッ、その効果音が目に見えたほど、この表現で、どれだけ大虎がキレているか、理解していただけるだろう。
目で見えてしまうほど凄まじい魔力の波動が、一帯の空気を痛いほどに震わせ、宙を舞っていた木の葉を木っ端微塵にした。
「ひぃぅ」
さすがに、張りつめていた緊張の糸が切れてしまったのか、垂れた鼻血が上唇にかかったと同時に、鳴はそのまま倒れこんでしまった。
砕け散った葉、突っ伏した鳴を視界の端に捉えつつ、紅壱は今回の儀式が、最初から失敗していた事を冷静に覚っていた。
(なるほど、バァさんが俺に詰め込んだのは、イメージじゃなくて、ジジィが仕留めたノラ霊属そのものだった訳だな・・・消滅させない代わりに、自分の孫の力になれ、とでも脅したか)
一体、どうやったのか、その点も気になるにしろ、魔王を封印していられる身とは言え、そこまでギュウギュウ詰めにされて、よく体調や精神に異変が出なかったものだ、と今更ながらブルってしまう紅壱の頭に、ふと一つの疑問が生まれた。
自分の内側にいた筈の猛獣たちが、瑛の魔力を引き金にして外に出たとなると、今回の儀式で自分が本来、召喚して契約にこぎつけようと思っていたアマゾネスはどうなってしまったのだろうか。
一瞬だけ答えを出そうとしたものの、嫌な予想が頭に浮かび、考えるのを止めた紅壱。
『そうか、お前が神威玄壱の孫か。よく見れば、あの野郎の面影がありやがる。
くそがッ、怖いもの知らずな目つきがそっくりじゃねぇか!!』
悪態を突いていた大虎だったが、不意に気の昂りが抑えられないのか、口角を釣り上げる。笑う虎、笑えない冗談がそこにあった。
『つまり、お前をブチ殺せば、俺らは自由だ。
やっと、俺は狭っくるしい牢獄から解放されるんだッッ
あのブスの番もしないで済む!!』
思わず、天を仰ぎたくなった紅壱。どうやら、祖父母はそんな物騒な条件まで出していたようだ。孫の命や人権を何だと思っているのか。
「一応、確認しておくか・・・俺をブチ殺した後は、どうするつもりだ?」
『そうだな。とりあえず、そこの小娘でも食って小腹を埋めるかな。こっちに来てる、上等な魔力を持ってる人間も食えば、玄壱との再戦には十分、間に合う』
やはり、先ほどの魔力に気付いて、瑛たちが近づいてきているようだ。
「話し合いで契約するのは無理か・・・
もったいねぇから、退帰させるつもりはねぇが、消滅しちまっても恨むなよ」
年季の入った本職は難しいにしろ、中途半端な不良なら確実にズボンを汚しそうな、ドスの効きまくった声で大虎に脅しをかけた紅壱は、左手を眼鏡へ伸ばすも、半瞬ばかり迷って、外すのを止める。
眼鏡を外さなくても勝てる、と大虎を見縊っている訳ではない。むしろ、逆だ。このダメージを負った状態で戦いに集中し、更に大怪我をすると、魔王の魔力が外に出かねない。なので、魔力の抑制と感知阻害効果が祖母によって組み込まれている、この魔眼鏡は外せなかった。
(まぁ、こんだけ、濃密な魔力なんだ、俺のは気付かれないだろ)
念には念を入れ、紅壱は左目だけを深紅に変える。途端に、紅壱からのプレッシャーが数倍に増し、大虎は「グルルルル」と威嚇の唸りを発す。
そうして、紅壱は静かな瞬動法で無造作に虎へと迫り、眼球を抉り出すべく右の貫手を放ったものの、寸前で大虎に避けられてしまう。
大虎は紅壱の脇腹に牙を根元まで埋め込むつもりで、後ろ肢へ力を込める。
(長押)
だが、紅壱は伸ばしきったままの右腕を引かないままで、右のミドルキックを繰り出した。自分の目の前から微動だにしていなかった右腕が邪魔になって、迫っていた蹴り足に気付けなかった虎は、まともに横っ面へ喰らってしまい、砂埃を派手に巻上げながら滑っていく。
さすがに、体重を乗せきれず、意識を飛ばせなかったのか、頭を何度か振って紅壱を睨んできた大虎の目の焦点はしっかりと合っていた。
(ありゃ、長押、実戦じゃ一回も使ってなかったからな)
細かい修正が実戦の中でしか行えないのが、彼の才能の唯一の『弱点』とも言えた。
『玄壱に教わったな、今の技』
「・・・なるほど、これで負けたのか」
意地の悪い笑みを浮かべた紅壱の言葉に、大虎の怒気が膨らんだ。
殺意も露わに飛びかかってきた大虎の鋭い爪をステップバックしながら、傍目から見たら紙一重で、本人的には危なげなく躱していく紅壱。
胸の傷こそ、鳴を咄嗟に庇ったから無様に受けてしまったが、冷静に回避に徹していれば避けられない攻撃ではない。しかも、大虎は頭に血が昇りきって、直線的な攻撃しか出してこない、カウンターも容易だった。
あえて、後ろには退かないで前へと詰めると、彼は柔軟な下半身の回転に上半身の動きをしっかりと乗せ、右の肘を振り抜く。
山翡翠により、鼻の頭をザックリと切られ、濁った悲鳴を上げた大虎の横側へ素早く回り込んだ紅壱は三連発で中段の逆突き、莎鶏を叩き込んだ。
拳が縦にメリ込んだ、三つの箇所が嫌な音を上げて5cm以上も陥没した。激痛を撒き散らしながら一直線に突き抜けた衝撃が、黄金と漆黒の毛を派手に飛ばす。
大きく開けた口から赤く濁った体液を撒き散らしながら吹っ飛んでいった大虎は、大木に激突してしまう寸前に爪を地面へ突きたてて強引にブレーキをかける。
相手のタフネスさに、紅壱は拍手すら送りたくなる。「非合法の賭博場で、動物の相手を何度もさせられていたもんだ」と酒が入る度、滔々と語っていた祖父と違い、普通のサイズの虎とすら死合ったことなど一度として無い紅壱だが、今の連撃で虎は無理でも猪ていどなら倒せる自信はあった。
(・・・・・・まだ、俺はジジィに遠く及ばないって事か)
この大虎を、どちらかと言えば、大技への繋ぎの役割が強い、長押、この一撃で倒した事実に尊敬の念も感じはしたが、それ以上に、無邪気に勝ち誇って、自身を楽し気に罵倒してくる祖父の顔が脳裏に浮かび、苛立ちを覚えてしまう紅壱。
ともかく、瑛たちがここに来るまでには片を付けないとならないので、紅壱は一秒でも速く、この大虎を屈服させないとならなかった。
とは言え、火の玉も飛ばせないし、雷も落とせないので、結局は己の拳に頼るしかない。
(魔王の依代だってのに、魔術の一つも使えないってカッコ悪ぃのなぁ)
気が急く自分を宥めるように、息を深く吐き出した紅壱は闘氣を纏い直し、大虎を真っ紅な瞳で射殺すように睨むと、返した掌をチョイチョイと振った。
自分が食い殺してやりたいほどの相手に、ここまで痛めつけられていた事で大虎の堪忍袋は既に破裂寸前だったのだろう、あからさまな挑発だったにも関わらず、完全にキレた大虎は咆哮を轟かせながら紅壱へと牙を剥き出しにして飛びかかった。
大虎は後ろ足で立ち上がると、彼の頚動脈を切り裂くべく、陰惨な殺気を放つ左の爪を振り下ろしてきた。
紅壱は、その凶器を左腕の上段上げ受けで防ぐ。鋭い爪が根元まで突き刺さり、鮮血がド派手に噴き出す。しかし、これは油断ではない。
このレベルの野獣が相手に決定打を食らわすには、無傷ではいられなかった。
(痛みを覚悟してれば耐えられる!!)
強引な精神論で、骨まで達している可能性もある爪を引き抜かれないように腕へ限界まで力を入れて引き締める。
野生の勘で危険を察知したらしく、大虎が力任せに後退すべきか、逆に、チャンスを逃さすに噛み付くべきかを迷って反応が鈍った間に、無防備になった懐へと半ば前へと倒れこむような動作で潜り込んだ紅壱は右の肘を叩き込まず、胸へと密着させ、一瞬だけ集中力を最高点へ到達させる為に瞼を落とす。
そして、自分の肩に牙が食い込んだのと同時に、「カッ」とばかりに目を見開いた紅壱は足の裏から足首、膝、腿、股関節、腰、背中、肩、腕を通過させ、その間の螺旋運動で高まりきったエネルギーをピッタリとくっつけていた肘から、虎の内部に送り込んだ。
皮が石を投げ込まれた水面のように波打ち、全体へ静かに浸透していく、破壊のエネルギー。
それは、中国武術の奥義の一つ、『浸透頸』である。才ある武人ですら、習得に十年は要する難技であるも、祖父は使えたし、何より、実際に身に喰らっているので、紅壱はこの技をさほど苦労せず、実戦で使えるレベルまで高めていた。そもそも、紅壱はこの技が中国拳法の奥義をベースにしているとは、全く知らなかった。彼らにとって大事なのは、敵に対する必殺技として十分か否か、だけだ。
数秒後、内部破壊により逃げ場を失った血液が皮を突き破り、無数の細かい傷となって外側に飛び散った。紅壱の顔も派手に汚されてしまう。
「――――――・・・・・・五百重波」
霊属と言えども、実体がある以上、物理攻撃は有効である。体内をボロボロにされた虎は、紅壱が呻き声を食い縛った歯の間から漏らしながら爪を乱暴に抜くと支えを失い、そのまま重力に逆らうことなく倒れこんだ。その際の音は、鳴が倒れた時とは比べ物にならないほど重々しかった。
横たわったままで動けない虎を冷酷に見下ろしていた紅壱は、痛々しく開いた穴から膿むような熱を伴って腕全体に広がる痛みを堪えながら、指を内側へとゆっくり曲げていき、拳を作っていく。そうして、追い打ちとばかりに虎の頭を目がけて、喝に満ちた声を放ちながら打ち下ろす。
だが、寸前で石を砕き、鉄を割る硬い拳を止めた紅壱。
『何のつもりだ・・・絶好のチャンスだぞ』
手負いの虎は森に漂う、高純度の魔力を吸収して回復を図っているようだ。その証拠に、傷が徐々にだが塞がり出している。それを見ても、紅壱は拳をそこから下げようとはせず、逆に腕を引ききってしまった。
(ちっと、やりすぎちまったな・・・波座でも十分に倒せたってのに、つい、二つ上の五百重波、出しちまった)
自分でも思っていたより、大恩ある魔王を大虎に「ブス」と言われ、頭に血が上っていたのか、と自省の笑みを浮かべる口元をもみほぐしながら、紅壱は前髪をグッと撫で付け上げる。その動作が、勝者の余裕と、大虎の目には映ったのだろう、喋るだけでもボロボロの体は痛いはずなのに喚き散らしてくる。
『貴様、玄壱と同じように俺に情けをかけるつもりか!? ふざけるな! 消せ!』
「言っただろうが、退帰させるつもりはねぇ」と、紅壱は穴が塞がった腕を染めている血を長い舌で舐めながら、唸る大虎を見下ろす。
「今日まで俺の中にいたお前らを今更、消す気もねぇ。
あの魔王を、俺の中で見守ってくれていた恩もあるからな。
ジジィとお前の間に何があったかは知らないし、わざわざ、お前の心の傷を開くつもりもねぇ。
俺と仲良くしたくない気持ちも理解はする。完膚なきまでに負けりゃ、晴れ晴れしい気持ちになるなんて、ありゃ、フィクションだ。腸煮えくり返るくらい、悔しいよな。
俺も、ジジィに負けっぱなしだから、お前の気持ちが凄ぇわかるぜ。
だがな、俺に負かされた以上は、俺の命令は聞いてもらう・・・俺の中に戻ってこい」
まさか、この世で最も憎い男の血を引く少年が発した、自分を理解してくれる言葉に、呼吸が詰まった大虎は、ぎこちない動作で体を起こした。無理をすれば、まだ戦える。だが、もう紅壱と戦り合う気分ではなくなったのか、その表情からは刺々しさが抜け落ちていた。あれほど、空気を震わせていた雰囲気も穏やかになってしまっている。
『顔だけじゃなく、妙な甘さまでそっくりだ・・・ムカつくぜ』
「俺もジジィに似てるって言われるのは、気分がイイ話じゃないな」
苦虫を噛み潰した顔の紅壱の前にお座りした大虎はそっぽを向きながら、『負けは負けだ。お前と契約はしてやる』とふてぶてしく告げた。そんな態度にカチーンとしかけたものの、紅壱もこれ以上の戦闘は避けたかったから、「なら、報酬は何がいい? 肉か?」と穏やかに尋ねてやる。
『報酬か・・・・・・他の奴等は何を要求したんだ』
紅壱は腕の痣を見せ、飲んだ条件を一つずつ、指折りながら教える。
『そうか』と小さく頷いてから急に押し黙ってしまった大虎。
『よし、決めたぞ』
口を開いたのはきっかり一分後、『死んだら俺に骨の一本まで喰われろ』と、紅壱の黒に戻った目と目をしっかり合わせ、大虎は自分の要求を告げた。
途端、蛇の形の痣が熱を持ったが、「いいんだ」と紅壱が撫でると、痛みは緩慢に引いていく。納得していないようだが、主である紅壱の決定に反対はしないようだ。
『契約したからと言って、俺が簡単に力を貸すと思うなよ』
「多少、気性の荒い奴の方が飼い甲斐があるってもんだ」
お互いに負けん気の強さを晒しあい、視線を空中でぶつけ合う。
『腕を出せ』と促してきた、大虎の前に右腕を出す紅壱。
大きく顎を開けた大虎だが、牙の尖端が皮に触った所で、唐突な質問をぶつけてきた。
『その前に一つ聞かせろ、玄壱の孫』
「玄壱の孫、じゃない、紅壱だ。何だ?」
『玄壱はまだ強いか?』
「バリバリ現役だよ、あのジジィは。
まぁ、俺がこっちに来る一週間前に、何回目も知らない武者修行に出ちまったから、今、どこの国にいるかまでは知らないけどな。
弟子のトコを転々としてるだろうから、その内、誰かがSOSをバアさんに送ってくるんじゃないか?」
『そうか・・・玄壱に俺が会うまで、誰にも殺されるなよ、玄壱の孫』
紅壱だ、と彼が言い返す前に、大虎は腕へと牙を突きたて、今まで以上の痛みに目を細めてしまった隙に中へ〝戻って〟しまった。
浮かび上がり出した檸檬色の痣を抓りながら悔しげに舌打ちを漏らそうとした時、紅壱は複数の足音が迫っているのに気付いた。
(ギリギリで間に合ったな)
眼鏡の位置を修正し、彼の頭を掻こうとした手が不自然に止まる。
「ん?」
妙に力が入らない、と自覚した途端、紅壱の体は頭のてっぺんから爪先まで一気に重くなってしまう。
(あ、これはガチでヤバいパターンだな)
その場に立っている事も出来なくなってしまった紅壱は、膝を落とすのを耐えられなかった。
地面を見れば、自分の血で随分と汚れてしまっている。魔王の尽きる事のない魔力の恩恵により、超高速回復できる紅壱だが、外に流れ出てしまった血までは一瞬で作れない。体力と気力に余裕があれば、地面の血を操作して体内に戻れるが、それも難しそうだ。
極度の貧血により、紅壱は咽るほどの血臭に真っ青な顔の恵夢を視界の端に捉えたのと同時に、体力の回復を優先させるべく自分から意識を暗転させた。
そして、引き攣った声で叫んだ、惚れた男の名を置き去りにするほどの高速移動で迫ってきた、瑛の乙女のシンボルに、紅壱は真っ白となった顔を突っ込んでしまうが、大きさに反した豊かな弾力性を味わう余裕も無かった。
四月十九日〈金〉 天候 晴れ
今日の儀式は・・・成功とは、決して言い難い結果となってしまった。契約が出来たから、成功、そんなはずがない。
イレギュラーな召喚が起こったとは言え、それに対応できなかったが為に、辰姫にあんな大怪我を負わせてしまった。彼に助けられる際に突き飛ばされた豹堂以外の、私を含むメンバーは擦り傷すら負っていないというのに・・・
時間跳躍の術を会得していたなら、「守ってやる」と偉そうな大口を叩いた、恥知らずな私に延髄蹴りをくれてやりたい。しかし、過去に戻るのは禁止されているし、そもそも、その術は禁忌の一つで、今や、誰も使えない。それは、魔術でなく、魔法の領域、御伽噺の中だけの伝説だ。
仮に、奇跡が起きて、儀式を始める前に戻る事が叶っても、今の私が過去の私を傷つければ、そのダメージは未来の私も負うのだろうか・・・・・・マズイな、かなり混乱しているらしい、私は。
――――・・・明らかに、獣のそれと判る大怪我の辰姫を一般の病院に運び込めるわけはなかったので、普段から私達が世話になっている、保健室に運び込んだ。
もしも、大神自作の薬と、『組織』が、この学園の森に縛りつけているドリアードらがくれた薬草がなかったら、先生に診てもらう前に辰姫は死んでしまっていたかもしれない。
大神は当然だが、ドリアードらにも礼を後で言おう。大神への感謝は、「STAY GOLD」のジャンポパフェで示すにしても、ドリアードらへはどう表現したものか。高級肥料でいいのだろうか?
ただ、何故、人嫌いのドリアードらは、辰姫を救ってくれたのだろう。やはり、彼の魅力は人間だけでなく、魔属・霊属にも通用すると言う事か。さすが、辰姫だ。
うむ、話が脱線した事で、少し気持ちが落ち着いてきたようだ。
応急処置の効果もあったが、生命活動が停止してないのが異常なくらいに出血量が凄まじく、すぐに輸血の準備が整えられた。
しかし、予想通り、彼もまた『忌み血』だったらしく、私達の血を分け与える事は叶わなかった。ここでも役に立てなかった自分が歯痒くて仕方ない・・・・・・もしや、ドリアードらが辰姫を救おうとしたのは、彼の『忌み血」が理由か?地面に染み込んだ彼の血を、根から吸収していたのならありえない話じゃないが、さすがに、これは試す訳にもいくまい
私達が帰るように促され、部屋を渋々ながら後にしようとした間際に、辰姫の意識が戻ってくれたのは嬉しかった。
まだ血が足りない所為で、ぼんやりとした様子だったが、それでも日常生活に影響を及ぼすような後遺症は残らない、と恋先生は太鼓判を押してくれた。
もし、仮に彼の学生生活および今後の人生に悪影響を与えるような障害を発してしまっていたら、私は彼の家族に合わせる顔がなかった。それでも、その場で自分の命を絶つような真似はしなかったに違いない、私は。きっと、彼の生活を支えよう、と決意していた。
しばらくは絶対安静らしいので、毎日、見舞いに行って、彼の手足となろう。
―――・・・彼がゆっくりと倒れていくのを見て、胸の中に彼の頭を受け止め、温かさを失っていく血が服に染み込んで行くのを感じた瞬間、ようやっと自覚した、他の異性には感じようもない、彼だけへの特別な気持ちを。
獅子ヶ谷瑛は、辰姫紅壱が大好きだ。
しかし、私はこのキモチを伝える術を知らない・・・・・・けど、伝えたい。伝えねばならないのだ。とてもじゃないが、この「大好き」は自分の中に押さえ込んでおけない。
自分が、こうも堪え性のない女とは思ってもいなかったなァ
明日は事後処理で忙しいだろうけど、何とか、時間を無理に作って、お見舞いに行こう。
告白には、最適なタイミングではないかもしれないから、明日は我慢して、辰姫の寝顔を見るだけで我慢しよう・・・・・・写真の数枚くらいはセーフだろうか?
祖父に恨みを持つ虎に悪戦苦闘しながらも、辛勝を得た紅壱
トドメを刺さなかった彼に悪態を叩きながらも、敗者の掟に従い、大虎は紅壱のパートナーとなった
しかし、ダメージは大きく、紅壱は瑛の声を聞くと同時に、安心から意識を手放してしまう
だが、辰姫紅壱はここで終わるような男ではない
強力なパートナーを得て、術士の端くれして、この道を歩き出した紅壱を待ち構える災難とは!?