第十四話 猛虎(tiger) 豹堂鳴、辰姫紅壱に助けられる
召喚儀式の失敗により、紅壱の身から飛び出した五体の霊属
紅壱は瑛らの力を借り、広大な森の中で霊属を四匹まで探し出し、契約に成功する
蜘蛛、鰐、蛇、そして、鷹を仲間に加え、紅壱は最後の一体の元へ駆ける
果たして、紅壱を待ち構える最後の一体とは?そして、鳴は無事なのか!?
豹堂鳴は生まれて以来、何度目かも判らぬ、自分の『死』の形と対峙する、そんな経験を強いられていた。
中学生の頃、五から七匹の群れで獲物を狩る魔属・獣人型・ワードックに襲われた時ですら、ここまで恐怖しなかった鳴の目の前に立ちはだかっていたのは、ファミリー用のワゴンよりも遥かに大きい、体重は400kgを超えているであろう虎。
これまで、鳴が修行や業務で遭遇してきた怪異を思い出すと、可愛さすら覚えてしまうほどだ。
(あ、ゾンビは可愛くない)
鳴は高校入学と同時に、瑛の元へ馳せ参じ、生徒会に入る許可を得るべく、その為の努力を惜しんでこなかった。
瑛にワードッグの群れから助けられたのを機に、自分の知らなかった世界の一面を知った鳴。
憧れの人の隣に立つ、その目的があった彼女に前へ踏み出す事への躊躇は微塵もなかった。だが、瑛と再会するのは確固とした実力を備えてから、と決めたので、鳴は獅子ヶ谷流ではなく、他の怪異祓いの術を教える流派の門扉を通り潜った。
探すのは、さほど難しくなかった。彼女は、そちらの世界にも詳しい探偵を雇うだけの大金を毎月、親から渡されていたから。獅子ヶ谷が大きい仕事を任され、小規模な案件しか出来なかったからだろう、その流派は資金繰りに苦労していた。フィショクションの世界では、退魔師と言えば、花形なのに現実は世知辛い、と同情しつつも、金で入門が叶ったので鳴としてはありがたかった。
十歳になる前に修行を始めて、一般人であれば、自身の身だけを守れるだけの強さを得られる。中学生になっていた鳴であれば、魔力を感じ取り、自在に操る、その基礎を会得するだけでも最低五年は要する・・・ハズだったが、瑛に対する憧憬は、そちら側に生きていたプロの常識すら凌駕した。
鳴は天才ではない。潜在能力は高い方であるが、それも普通の域から出ない。
そんな自分の限界を信念と努力で打ち破り、鳴は戦う力を得た。漫画的な例えをするのであれば、瑛は天才型のヒロインであり、鳴は努力型のヒロインだった。瑛の隣に立ってしまうと、その存在感は薄まってしまうのだが、本人がそれを望んでいるのだから、周囲がそれをとやかくは言えない。
瑛の役に立つ為には戦う力を得るだけでは駄目だ、戦った経験も積まねばならない、と鳴は考えた。道場では自然体で放てる技も、状況がその都度で異なる実戦では、100%の威力を出せない可能性もある。
応用力を鍛えるには、実地で魔属・霊属を相手取るのが一番、鳴は所属している道場に持ち込まれる怪奇事件の処理に対し、積極的に挙手した。
当然の話だが、いくら強くなっても、目に見える結果が出せていない、素人以上プロ未満である鳴に一人で現場へ行かせ、怪異の相手をさせる訳にはいかないので、ペアが組まされる。
初めての人、それは瑛と決めていた鳴は抵抗があった、どこの馬の骨とも知れぬ者に背中を預けるのは。けれど、自分が助けられた時、瑛が同級生と見事なコンビネーションでワードッグを蹴散らしてくれた事を思い出し、頭と心を切り替えた。
優秀なオールラウンダーとして、この業界でされる世間話に、名が出始めている瑛のサポートをするためには、自分も可も不可もなく、何でも出来るようになる必要がある。多様性を伸ばすには、得意分野が異なる者の傍で、その戦い方の利点と弱点を知るのが一番だ、と結論を出し、些細な抵抗を振り切った鳴は、その時からエースとして、時には名アシストとして活躍するようになる。
ただ、鳴はその功績を全て、その時のペアに譲った。彼女は、有名になりたくなかった。この業界で名が売れれば、瑛に自分を知ってもらえるかもしれない、そう思いもした。けれど、下手に有名となってしまえば、他の事務所にスカウトされ、天戯堂学園に進学した瑛の下で働けなくなる、と危惧したのだ。
なので、瑛は鳴を、再会するまで思い出す事はなかった。結果的に、サプライズが成功し、鳴としては願ったり叶ったりであったが。
彼女が挑んだ多くの事件の中で、良くない意味で印象に強く残ったのが、「桐谷村起き上がり事件」だった。事件の概要は割愛させていただくが、その際、鳴が戦う羽目になったのが、魔属・亜人型・ゾンビであった。
一体であれば、さほど手強くない。彼女も、退帰は容易だろう、と考えたに違いない。しかし、漫画にしろ、映画にしろ、ゾンビが大群となって進軍してくるのはお約束だ。同種のグールやアンデッドであれば、多少の理性と意識が残っているので、瑛の強さを感じとる、もしくは弱点である火や聖なる光を恐れ、戦闘を避ける選択を取っていただろう。
けれど、そのゾンビは核として、生きた人間ではなく、土葬されていた村人の骸を得てしまっていた。しかも、村人のゾンビに対するイメージ、この村には、その手の伝説があった、も実体をより強固にしていたので、隣のゾンビが切られようが、燃やされようが、浄化されようが、お構いなしに、特徴的な鈍い歩みで迫ってきた。
クサヤや臭豆腐の方がまだマシ、と思えるほどに鼻がひん曲がりそうな腐臭を纏い、歩く度に腐った肉と濁った血で地面を穢しながら歩み寄ってくるゾンビの群れは、未だに悪夢に見る。
攻撃力は無いに等しい魔属だ、ゾンビは。しかし、赤黒い唾液が垂れ流れている口、その中に並ぶ黄ばんだ歯に噛み付かれるのは御免被る話だった。
恐怖と言うより、嫌悪感が鳴の闘志と生存本能をより強いものとした。
攻撃力と同じく、ゾンビは防御力にも欠ける。壊される事を恐れない点に関しては厄介だが、冷静に考えれば、脅威でもないのだ。何故か、それは、防御も回避もしないのなら、攻撃が当て放題なのだから。
ゲームや映画で題材として多く取り扱われている分、その村に出現したゾンビはイメージにより、弱点も律儀に身に備えてしまっていた。
足を吹き飛ばされれば、前には進めない。腕で地面を押し、這ってくる事も可能だろうが、ただでさえ低い機動力が低下したその状態であれば、より一層いい的だ。火や光属性の魔術も使い放題だ。圧倒的な火力で燃やすも良し、聖なる光で遺体を動かすエネルギーを抜いてしまうのもアリだ。歩く、噛み付く、その原始的な命令を下す脳、つまり、頭部を拳打で粉砕してしまうのも良いだろう。もっとも、これは顔にゾンビの体液を浴びるリスクもあるが。
一夜で鳴はパートナーと共に五〇体以上のゾンビを倒した。さすがに、剣を振り、術を使い続けた事で疲労の先の先に達してしまった彼女たちは、さすがにゾンビの残骸を退帰させる元気までは残っておらず、応援要請を受けた術者がやってくるまで、桐谷村の集会所は、控えめに言っても地獄絵図のようだったと言う。
かくして、ゾンビは鳴の中で、ワードッグを押さえて、二度と遭遇したくない魔属の一位に相成ったのである。
(あの時のゾンビに比べれば怖く・・・・・・ダメ、やっぱ、怖い!!)
ゾンビに噛まれれば、口腔内で繁殖した未知の毒で感染症になるだろう。しかし、光系の魔術で解毒するなり、体力を回復してもらう事も出来る。けれど、今、自分を追走けてくる大虎に噛まれたら、即死だ。痛い、と感じる暇もない。もっとも、激痛の中で、血が体外に出ていく特有の苦しみを長々と味わう羽目になるパターンを考えると、その方が良いかも知れない。
(って、ダメ、ダメ。ゲームと違って、復活呪文なんて存在しないんだから!!)
アンデッド化する魔術もある事にはあるが、それは闇系の魔術に長けた術者でなければ、発動できない。なので、火を得意とする瑛は自分のマスターになってくれない。
弱気の虫を背中から払い落とすように、鳴は呪文を詠唱え、加速する。土や風の壁を作りだす事も鳴には出来たが、その為には一度、足を止めて、大虎と対峙せねばならない。そんな余裕と能力は、今の鳴にはなかった。
漫画やアニメであれば、こんなピンチであれば、眠れる才能が覚醒めるのがセオリーながらも、現実はそう上手くない。
動物園で飼育されている虎が可愛い小猫に思えてくるほどの、殺気をその筋肉質な巨躯から惜しまずに放ち、それを細身の体に叩きつけられている鳴は既に生きた心地がしていない。突然、暴威を揮っている野獣に、この森に住んでいる動物や、それ以外の存在もパニックを起こしていた。
周囲の木々には、引っ掻き傷が多く刻まれている。飢えた大虎の爪は、一流のナイフ職人が精魂込めて作った実用的な代物にも劣らない切れ味を有しているようだ。中には、爪そのものではなく、振り抜かれた際の衝撃に耐え切れず、無残にもヘシ折られてしまっている木もあった。
木の一本一本に宿る妖精であり、この森全体に闇系の魔術を協力して発動させている、魔属・亜人型・ドリアードらの甲高い悲鳴や、重々しい泣き声が周囲にこだまし、暗鬱な空気を更に重くする。
これ以上、ドリアードに被害が出ると、女王種の怒りに触れる。そうなれば、クイーンドリアードは、大虎も自分も蔓で絞め殺すだろう。ドリアードの養分にされるのは御免被る鳴は、大虎が爪牙を木々に向けないようにせねばならなくなる。
今は辛うじて、補助魔術で反射神経を強化しているから、爪による攻撃を避け続ける事が出来ているが、この緊張だ、いつ術が崩れてしまうか判らない。
一瞬でも気が緩んだら、その隙を見逃しては貰えず、鳴の柔肌など半紙よりも容易に引き裂かれてしまう。そうして、彼女は傷口から嫌な音を上げて溢れ出てきてしまった、息が詰まるほどの熱気が白く立ち昇る自身の臓物に顔を埋めるようにして倒れこむしかない。最初の一撃でショック死できていれば、まだ救われるだろうが、下手に意識など残っていたらキツいだろう。
空腹すぎて肉なら何でも良い、味は二の次だ、と大虎が思っているのは、抑えきれていない唾液の量から容易に察せられた。
しかし、彼女には「コマンド 逃げる」を選択する事ができなかった。全魔力を足に回せば、この大虎の爪も牙も届かない位置まで一気に逃げ切れるにも関わらず。
紅壱が召喚した、この猛虎が現在、彼の支配下に置かれていないのは明らかだ。今、鳴が幸運に逃げる事が出来たのなら、この虎が次に襲おうとするのは自分を呼び出した紅壱であるのは絶対だ。
鳴は彼がこの虎に爪で引き裂かれようが、牙で噛み砕かれようが、骨の一本まで胃にブチ込まれようが知った事ではなかった。むしろ、そうなって欲しいぐらいだった。
しかし、それでも逃げられないのは、彼女がどのメンバーよりも尊敬し、「好き」の意味合いがLikeよりはLoveに偏っている瑛が紅壱の傍らにいるからだ。ずっと観察してきたから、瑛が大虎に襲われそうになった紅壱を、腕の一本も捨てる覚悟で護ろうとする光景が、『予知』の魔術を教わってなくても容易に目の前に視えた。
他の誰もない、瑛を守るのは私だ。その為にも、鳴はこの場から大虎を逃すわけにはいかなかった。少なくとも、瑛以外のメンバーがここに来てくれるまでは、足止め役に徹するより他なかった。
喰われてたまるもんですか、と本能に訴えかけてくる恐れがリズムにハッキリと出てしまっているバックステップで避けた爪が、空気だけでなく、必死に逃げ惑っていた、この森に住まう魔属・妖精型・ピクシーごと引き裂いたのを見てしまい、一気に青ざめる鳴。
粉々に散り、退帰される事もなく、森に漂う魔力の中にいくらもしない内に溶け込んでしまう、ピクシーの憐れな姿に自分を思わず重ねてしまったのが良くなかった。彼女は足下に散乱していた木切れを避けようとしたが、それで却って、足がもつれる。
「やばっ」と咄嗟に、バレエ仕込みのバランス感覚で体勢を立て直そうとした時には、もう手遅れだった。
爪が睫毛に触れそうになるまで迫り、思わず、目を瞑ってしまった鳴。彼女が、瞼が完全に降りきる前に視界の端に捉えたのは、自分の右側から伸びてきている逞しい腕だった。
大虎の爪よりも速く迫った腕に右側から凄まじい力で腕を押され、乱暴に突き飛ばされた鳴の瞼が開ききったと同時に、彼女の視界いっぱいに鮮やかな赤が飛び散る・・・・・・
自分を押した相手が爪に引き裂かれた衝撃で、自分とは反対方向に吹き飛んでいくのを、ぼんやりとした気持ちで見つめていた彼女は半身を地面に打ち付けてしまった痛みで我に返り、慌てて体を起こし、自分を助けてくれた相手を見る。
そうして、駆け寄るべく、第一歩として上げかけた右足が不自然に止まる。
乱暴な手段を用いたとは言え、鳴を身を挺して守ったのは、彼女がつい最近、この世で一番憎い男として、自分の妻を小金目当てで死に追いやった義兄に代えて認定した辰姫紅壱だった。
余談ではあるが、二位に転落した義兄は、とっくに故人だ。その死因は、多臓器不全となっているが、実際は五臓六腑が強酸でも浴びせられたかのように腐食していた。外部に傷はなく、毒を投与された痕跡もないのに、だ。自然死でないのは明らかだが、殺害方法が懸命の捜査でも判明しなかったため、この事件は迷宮入りにされてしまった。
もちろん、見る者が見れば、この義兄が呪い殺された、と見抜いただろう。ちなみに、義兄に呪いをかけたのは、鳴・・・・・・ではない。
根性が腐っている男の命など、人生の重荷にしたくない、そんな本音もあったが、それ以前に鳴は人を呪い殺す能力、闇系の魔術の才能がなかった。性格はアレ寄りなのにか、と紅壱であれば驚くだろうが。
先にも述べた通り、鳴は努力型の天才なので、ある程度までは闇系の魔術も会得できた。だが、光系を得意とする彼女が闇系の魔術を同レベルまで極めるのは、不可能に等しい。
これ以上は無理ね、と見切りを鳴は潔く付けた。それは、英断と言えた。もし、無理に闇系の魔術の才能を開花させようとしていたら、鳴の魂は深く傷ついてしまっただろう。魂に傷が付いていたら、天賦の才がある光系の才能も成長が止まっていた。
とは言え、自分に呪殺の才能がなかったくらいで、義兄を罰する事を諦める鳴ではない。
自分に出来ない事は、人にやって貰えばいい、そんな歪んだ前向きな発想で、鳴は呪殺を得意とする術士に白羽の矢を立てた。だが、彼女はその者に依頼しない。義兄が、こちらの世界に関わっていないのは調べ済みだったが、鳴は念には念を入れる主義だった、特に後ろめたい事をする時は。
外面の良さを武器にしている義兄だけあり、彼に財産を奪われた、罪を着せられた、大切な者を傷つけられた、と言った理由で、憎悪を溜め込み、なおかつ、法律や人気を盾にする義兄へそれをぶつける術がなく、余計に苦しんでいる者を見つけるのは容易かった。
義兄を殺してやりたい、と思い詰めて、妙に上手い尾行をしていた、元はアイドルだったとは思えぬほど落ちぶれている女浮浪者に近づいた鳴は、舌先三寸で彼女を唆した。一度、どん底まで叩き落とされただけあり、女浮浪者の警戒心と猜疑心は強かったが、瑛ほどじゃないにしろ、十分なカリスマ性を持ち、瑛とは違って他者を魔力で洗脳する事に躊躇がない鳴にとって、彼女を身代わりに仕立て上げる事は、そう難しい事ではなかった。
鳴に後押しされ、女浮浪者は術士に呪殺を依頼した。その料金は、鳴が負担した。呪い返しを受けるかもしれない女浮浪者への謝罪の意味があれば、まだ可愛げもあるが、その100万円は女浮浪者が自分を裏切れないようにするための枷であった。
幸か不幸か、人を呪わば穴二つとはならず、無事に義兄は呪い殺された。義兄が死んだ事で、胸がスカッとするかと鳴は思っていたのだが、爽快感はさほどでもなかった。それは、狂喜乱舞している女浮浪者の様を間近で見てしまったからか、それとも、姉を殺された恨みが大したものではなかったのか・・・
とにかく、人生の汚点と成り得た対象を早々に片付けられたことで、鳴はより、瑛に胸を張って逢いに行く、その野望が膨張し、ますます、自己鍛錬は厳しくなっていった。
今でも、闇系の術は苦手だったが、瑛はそんな自分でも側にいていい、と言ってくれるので、もう、コンプレックスは感じない。皮肉なもので、瑛の態度により、気持ちが軽くなった事で、鳴はほんの少しだけだが、闇系の魔術の攻撃力が上がったそうだ。
腕も足も投げ出して動かない紅壱の背中の下に、ジワジワと広がっていく血溜まりから広がってきた鉄臭さが、鳴の身を鋭く打った。
虎が飢餓感でギラつく瞳を自分から紅壱に移したのを見て、チャンスだ、と直感する鳴。
今の一撃で、既に紅壱は瀕死状態だ。あのまま放っておけば、彼は勝手に失血死するだろうし、虎が骨まで残さずに平らげてくれる。私はその間に会長を呼びに行けばいい、あのドブ男がいなくなれば、前の凛々しい会長に戻ってくれる、と胸を弾ませた。
しかし、虎が前に逞しい前肢を出したのと同時に、地面を蹴った彼女は、まるで紅壱を庇うように両腕を広げて彼の前に立ってしまう。
紅壱がいなくなったら、瑛は元に戻る・・・だけど、彼が死んだと知ったら、どれだけ悲しい顔をするのだろうか、させてしまうのだろうか、それを想像してしまったら、鳴の体は勝手に動いてしまっていた。
彼女が紅壱の前で大きく腕を広げたのを見て、進みを止めた虎の喉が雷鳴を思わせる音を放つ。周囲にいた妖精らの気配が霞むほど、濃密な霊気が放電現象を起こす。
言葉でこそ語っていないのだが、虎が自分に「そこをどけ」と言っているのが判った鳴。
しかし、彼女は動かなかった。確かに、足は股間から爪先まで情けなるくらいに震えていたが、鳴は自分の意思で紅壱の前から退かなかった。
「・・・・・・ひぅ!?」
わずかに下げてしまった踵に、鳴が血の濡れた感触をわずかに感じた刹那、背後で衣擦れや血の滴が垂れる音と共に動いた気配。引き攣った声を漏らした彼女は危うく、失禁するところであった。
恐る恐る、背後を振り返った鳴は予想通りの事が起こっていたものだから、目を激しく引ん剥いてしまう。あまりに驚きすぎて、気を失いそうになったものの、今ココで倒れたりしたら、真っ赤な地面に顔を埋めてしまう、と気が付いて、寸前で持ち直す。
それでも、フラフラと左へ右へ長身を不安定に揺らしつつも、しっかりと立ち上がった男に注いでしまう視線に滲ませる恐怖の色は、目前の虎へと向けたものよりも濃くなってしまうのは阻みようがなかった。
あんな爪で抉られたのだ、胸の傷は「痛々しい」なんて言葉では表現しきれないほどに深く、酷く、惨たらしい。胸をしっかりと押さえている左手の指の間からは、今も熱い血が止まる気配をまるで見せずに流れ続けているし、イヤらしい桃色の肉が剥き出しになっている傷口の奥には、象牙色に近しい色合いの物がわずかにだが見えてしまっている。
あまりの凄惨さに、逆に注視してしまっていた鳴の心は、精神的なダメージを緩和できるレベルを突破してしまったか、激しい吐き気を催してしまったようだ。それでも、異性、しかも、この世で最も弱みを握られたくない相手の前で醜態は晒せないのか、酸っぱい臭いを漂わせながら食道を焼いてせり上がって来たブツを、強引に飲み下してしまう。
眉と目を怪訝そうに動かした紅壱の顔色は、意外にも悪くなかった。
(どうなってるのよ!? コイツ)
包帯や針糸を使う一般的な応急処置はともかくとして、治療系の術がまだ十分に使えない鳴にだって、紅壱の傷が凄まじい深手、と分かる。
流した血の量も普通の人間なら起き上がるどころか、既に意識が暗転していても不思議じゃない、いや、意識を手離しているべきなのだ。
紅壱がこうやって立ち上がれているのは勿論、彼の中で眠っている美女がもたらす魔力の恩恵だった。本来なら、ものの数秒で完治させられた致命傷だ。しかし、まさか、鳴が自分を庇うとは予想もしていなかったので、彼は彼女に気取られないように、流れ出ていく血の量を最低限にまで抑えるしか出来なかった。
超高速再生で化け物扱いされない為に、中学生時代に身につけた小細工だった。
(咄嗟に、数cmだけでも下がれたから、心臓までは届いてなかったか。
とは言え、このままだとヤバい、本当に意識がトんじまう)
ただでさえ、自分を憎んでいる鳴に警戒される可能性もあったが、命の危機だ、背に腹は変えられないか、と肚を括った紅壱は胸を押さえている左手に力を入れ、裂けている箇所を力任せに寄せ、傷口を強引にくっつけ合わせる。
周囲の皮がひどく引き攣り、痛々しい引っ掻き傷が残ってしまうであろう、歪なくっつき方になってしまったが、これで血は一滴も出なくなった。
肩を回してみて、戦闘に痛みや貧血などの支障が出ていないのをしっかりと確かめた紅壱は「サンキュな」と呆然としている鳴に礼を言い、警戒を帯びた殺気を膨らませている大虎と対峙するべく、彼女の横を通り過ぎようとした。
擦れ違い様に感謝の意味も込めて肩を軽く叩こうと思ったのだが、ふと見れば、両手も自分の血で赤黒く汚れてしまっている。こんな手で触った日にはグーで殴られそうだな、と咄嗟に気付いた紅壱は空中で止めた手を、さりげなく下ろす。
だが、鳴はいきなり、紅壱の腕を小さな痛みを感じるほどに強く掴んで、「待ちなさいよ」と声を震わせながら引き止めた。
「何だ、豹堂・・・庇ってくれた礼なら言ったろうが」
「そうじゃないわよ。どうして、私を守ったのよ!?」
いつもの小生意気さが嘘であるかのように弱々しさが滲む、「私がアンタを追い出してやりたいのは知ってるでしょ」と蚊の鳴くような声を、懸命に絞り出す鳴。
「なのに、どうして、私をあの時、突き飛ばしたりなんかしたのよ?」
自分たちを餌として狙っている野獣の前で、こんな押し問答をするのは命取りであるのは、頭じゃ解っていた。だが、鳴はその疑問の答えを渇望してしまう。
大虎がいつ飛びかかってきても、彼女を小脇に抱えて間合いから出られるよう、視線を動かさないまま、紅壱は淡々とシンプルな答えを彼女へと投げ返す。
「———————・・・・・・例えばの話だけどよ、お前さぁ、仮に自分にまるで懐かないけど、凄ぇ可愛い猫が、車道に飛び出して大型トラックに轢かれそうな場面に出くわしちまったら・・・・・・どうする?」
「そりゃ、助けるに決まってるじゃ・・・!!」
目尻が裂けてしまうんじゃないか、と潤む瞳に映された方が不安になるほど、大きく目を見開いた鳴の手を、少し乱暴に振りほどいた紅壱。
「答えが一つしかない事を聞くなよ、豹堂ちゃんよぉ。
ま、ちょっとばかし乱暴な補足をするなら、お前が死んだら会長も皆も悲しむ」
「アンタは悲しまないんでしょうね、どうせ」
「だろうな、清々したって叫ぶぜ・・・でも、少し、寂しくなるかな、口煩ぇ喧嘩相手がいなくなっちまうと」
「っつ!? アンタ、馬鹿なの? いや、馬鹿よね、筋金入りの・・・・・・ゥ」
最後、消え入りそうな声での「ありがとう」をちゃっかり聞き逃さなかった紅壱は意地の悪い笑みで振り返り、「お礼はもっとデカい声で言えよ」とからかう。
カァァァァ、と音を上げそうになるほど一瞬で頬が紅潮した鳴は彼に礼を言ったことを軽く後悔しつつ、罵詈雑言をぶつけようとしたのだが、顔を前に戻したのと同時に彼が大虎の殺気を押し返すほどに密度の高い殺気を躊躇うことなく発揮したものだから、尻が赤い土で汚れてしまうのも気付かず、その場にヘナヘナと腰を抜かしてしまう。
「おい、ドラ猫」
殺気が黒い瘴気となって包み込んでいる指を突きつけた紅壱の瞳は本気を出す心構えを始めているのか、縁から次第に赤くなりだしていた。
「分かってるかもしれねぇが、お前が最後の一匹だ・・・だが、大人しく、俺と契約しろとは言わない」
唸り声を上げる大虎から視線を外さないままで、自分の胸を染めた血を拭った手を口許へと近づけた彼は指先を舐める。
「この傷の痛みをしっかり三倍にして返してからだ、その話は」
先に動いた、いや、姿が見えなくなったのは紅壱だった。いきなり目の前から消えた彼の姿を咄嗟に探そうとした鳴は、後ろに下がった大虎の動きを思わず目で追ってしまう。その一瞬後、大虎が一瞬前までいた地点に紅壱の踵が落ち、陥没した地面に亀裂が広がる。
獰猛な巨大虎から、身を挺して鳴を守った紅壱
重傷こそ負ったものの、持ち前の再生能力により、戦える状態は保てた
これまでは穏便に事を済ませていた紅壱だが、仲間を怯えさせ、しかも、自分に軽くはない傷を負わせた相手を笑って許せるほど、人間が出来ていない
地下闘技場の戦士よろしく、今、紅壱は猛虎へ挑む!!