第百三十二話 辞退(decline) 紅壱、自分が一人でオーガを追い払った事を『組織』に報告しないでほしい、と瑛に望む
紅壱の猛攻によって、大ダメージを負ったオーガを燃える刀で斬った瑛
自分の限界を超えた事に、オーガと戦った緊張が重なり、疲れが噴き出してしまった彼女を、紅壱はお姫さま抱っこで、皆の元へ運ぼうとした
その時、切り傷と大火傷は命に達していたオーガが、残っている生命力を振り絞り、最期の攻撃を仕掛けようとした
だが、瑛vsカーミラ戦でも、瑛を救ったスナイパーが、オーガの頭を見事に撃ち抜いたのだった
「先輩ら、お待たせして、すんません」
「いや、そんな待って・・・・・・!?」
紅壱の声に振り返った愛梨は、歩み寄ってくる彼の姿を見て、言葉を失った。
彼女自身も、背中を躊躇いなく預けられる後輩が、ここ最近、可愛くなってきた、と明らかに感じる親友をお姫様抱っこして現れたのなら、大いに、からかえただろう。
しかし、頼りになる親友と手の焼ける後輩が、メンバーの黒一点に担がれている光景はシュールすぎて、愛梨は大笑いする事も出来ないほど、思考が停止ってしまう。
愛梨が自分達を指差して、ゲラゲラと笑ってくれたなら、瑛も、むしろ気が楽だったのだが、意外にも、親友はポカーンとしてしまったので、顔から火が出そうになってしまう。
「あら~あら~」
長時間の治療で疲労した恵夢は汗だくで、顔色が少し優れていなかったが、好きな人との距離を、思いがけない形で縮めている瑛を見て、いくらか癒されたようだ。
一方で、夏煌はショックで白目を剥いて、小柄な体をプルプルと痙攣させ、今にも倒れそうである。
「ナッちゃん、しっかりして。赤ちゃん、落としちゃうわ」
その言葉で、たちまち、後輩、しかも、好きな男に担がれている現状に対する羞恥の念など、一切、消し飛んだ瑛。
急いで、夏煌を見た彼女は、そこに赤ん坊がいるのを視認て、安堵の表情を見せた。そうして、すぐさま、紅壱に強張った表情で尋ねた。
「辰姫、助けられたのか!?」
「・・・・・・はい、どうにか」
一発、腹をぶん殴って吐かせたとは言えないので、紅壱は合理性を欠かない理由を考える。好きな女の顔が、その香りも分かるほど近い状況で、頭の回転速度を緩めなかった彼を褒めてやっていただきたい。
「あのオーガは多分、赤ん坊を後で食べるつもりで、腰袋に入れていたんだと思います。
オーガの攻撃をギリギリで避けている最中に、赤ん坊の泣き声がそこから聞こえたんで、必死で奪ったんです」
「よくやった、辰姫。
それで・・・・・・オーガはどうした?」
倒すのは無理にしても、それなりのダメージは与えられたのだろうか、と瑛が期待しているのが表情から伝わってきたので、つい、ボコボコにしてやりましたよ、と言ってしまいそうになる紅壱。しかし、辛うじて耐えた彼は、おもむろに鳴を地面へ投げるようにして下ろすと、ポケットに手を突っ込んだ。
「すんません、逃げられました」と詫び、彼が皆へ見せたのは歯、オーガをアルシエルへ送る前に引っこ抜いたものだった。
「これは、オーガの牙だな」
「・・・・・・」
「俺から赤ん坊を獲り返そうと追ってきたオーガが、途中で、地面の泥濘で滑って、手と膝が付いた時に、きさ、じゃなくて、シャイニングウィザードを上手い事、決められたもんで」
「お前、オーガにシャイニングウィザードかますなんて、度胸あるなぁ」
「つまり、オーガは歯を折られたショックで怯んで、逃げていっちゃったのね」
「追うか迷ったんですけど、この子もいたんで、諦めました」
すんません、と反省する態を取る紅壱に、優しい言葉をかけたのは恵夢だった。
「それが正解だよぉ、ヒメくん。
もし、無理に追いかけてたら、冷静になったオーガに殺されちゃって、食べられちゃってたかもよ」
「先輩、冗談でも、そのような事は言わないでください」
紅壱がオーガの胃袋に収められた様を思い浮かべた瑛の語調は、自然とキツいものになってしまった。恵夢も、瑛の心に走った痛みが想像できたので、「ごめんね」と素直に謝った。
「いえ、私こそ、すいません。いきなり怒鳴ってしまって」
「やっぱ、凄いな、コーイチ、お前。
一年生で、オーガを追っ払ったって、結構な快挙じゃないか」
「いや、逃がしちゃったんですよ」
「いや、お前は追い払ったんだ。
お前が、オーガをビビらせなかったら、私達は今頃、オーガの腸でクソになってたところだったんだからな」
「・・・・・・・・・」
「ナっちゃん、そんな汚い言葉、使っちゃダメだよぉ。
でも、エリちゃん達の言う通りだよ、ヒメくん。
本当なら、実戦経験があるアタシ達が、オーガの相手をすべきだったよ。
ヒメくんが、あの時、戦力を分断してくれたから、全員、助かった」
そう告げ、恵夢が指し示したのは、地面へ横たわっている男女、赤ん坊の親だ。
生気は感じるので、恵夢の治療は成功したようだ。
「君の勇気が、一つの家族を救ったの。
ヒメくん、誇っていいんだよぉ」
「鯱淵先輩の言う通りだ。
君は、オーガを逃した事を恥じるべきではない。
本来ならば、実力も経験も足りぬ一年生には決して出来ない事をしたのだからな」
「・・・・・・・・・」
「そうだぜ。しかも、お前はリザードマンを倒す手伝いまでしてくれたんだからな」
愛梨は嬉しそうに笑い、ここまで運んできたリザードマンの骸を指した。
「この前のリザードマンは、素材だけ取って、退帰させちまったけど、今回は丸ごと、うちが貰って良い事になってるからな」
「うむ、これでB-クラスの魔晶が二つは作れるぞ」
「ヒメくんも、きっと、一躍、有名人だね」
「ボーナスも、『組織』から出るぜ」
「・・・・・・・」
「うむ、鼻が高いな」
ありがとう、と瑛に言って貰え、胸が温かいもので満ちた紅壱。
しかし、ふと、表情を翳らせた彼は、少し躊躇ってから、自分の表情の変化に気付いて、心配そうな瑛に一つ、頼み事をした。
「あの、会長、ちっとお願いがあるんですけど」
「何でも言ってくれ」
「今回、俺がオーガを逃がしちまったってのは、やっぱり、公にしないでもらえますか?
ボーナスとかが出るなら、それも辞退するんで」
「――――――・・・何度も言うが、恥ずかしい事ではないんだぞ。
一年生で、オーガと戦闘って、連れ去られた赤ん坊を見事に救い出し、しかも、傷を与えて退散させた。
君は凄い事をしたんだ。その働きに見合った、賞賛と報酬は受け入れるべきじゃないか」
瑛からの真摯な説得は、紅壱の心にも届く。それでも、彼は頑なに、首を横に振る。
「何故なんだ、辰姫。
そこまで、頑なに辞退と報告を拒む理由を聞かせてくれ。
もし、それに納得できるようなら、君の願いを叶える」
「単純に言えば、目立ちたくないんです、まだ」
「め、目立ちたくない?」
紅壱が、自己顕示欲が強い男、と思っている訳ではなかったが、思いもしない理由が、紅壱の口から述べられたので、瑛の目は丸くなってしまう。
「さっき、エリ先輩は言いましたよね、一年生でオーガを追い払うのは快挙だって」
あぁ、とハッキリ頷いた愛梨に、紅壱は「それですよ」と眉を顰めた。
「追い払うしか出来なかったのに、俺は注目されて、ちやほやなんかされたくないんです。
実力が足りないのに、よくも知らない奴らから褒められても、俺は不快なだけです」
「つまり、自分一人の力だけで、オーガを倒せる実力を培うまで、表舞台に立つ気はない、と」
他の者が、そんな事を言ったのなら、調子に乗るな、と一喝していただろう、オーガの強さと怖さを知っている瑛は。
だが、瑛は紅壱に怒りを覚えなかった。呆れてしまった訳でもなければ、惚れた弱みが発動した訳でもない。
ただ、この男なら、本当に一人でもオーガを倒せるようになる、と確信できてしまった。
ありえない、とは微塵も思わなかった。この男が、出来ない事を口にしない、と理解できていたからだ。
そして、紅壱は、そんな確信すら上回る発言を、何の躊躇いもなく出来る男だ、と瑛は改めて知る事になる。
「いや、オーガを倒せるようになったくらいで満足してたら、ダメでしょう。
そうですね、カガリに劣らない実力がある怪異を倒せたら、自信もつくと思うんで、その時は、堂々と『組織』からの褒賞を受け取ります」
「お、大きく出たな」
愛梨を始め、一同は唖然とする。けれど、紅壱の決意が宿る言葉に、瑛だけが無表情のままだった。
それが呆れ、苛立ちゆえの反応ではなく、自分が惚れた男が、それほどまでに大きい野望を持ってくれている事が嬉しい、その感情をむやみやたら、人前では見せられない、そんな強い自制心によって、顔の筋肉が必要以上に引き締められているから。
必死に、心の海に波が起こらないようにしても、瑛だって年頃の少女だ、完全には制御できないようで、眉や唇の端が小刻みに震え、鼻の穴も軽く膨らんでいた。何より、瞳の中にハートが浮かんでしまっているのだ。ますます、瑛が紅壱に惚れ、骨抜きにされたのは確実だ。
「納得はした。
しかし、君に嫌がらせをしたい訳じゃないが、大鬼を単独で追い払った一年生など、天戯堂学園が誇る百三十五年の歴史でも、恐らく、初だ。
会長としてだけではなく、一術師としては、君には働きに見合った、正しい質と量の褒賞を受け取って欲しいんだが」
気遣いはありがたく感じながらも、本当に『組織』から特別視はされたくない、と紅壱が考えているのが、変わらない故に分かる顔で察した瑛は、ますます、途方に暮れる。
紅壱が瑛と鳴を、己の双肩に担いで戻ってきたのを見て、メンバーは異なった反応を見せる
恥ずかしさに悶えながらも、瑛はオーガに食べられてしまっていた、と思っていた赤ん坊が無傷であった事に安堵の表情を浮かべ、喜んだ
赤ん坊を救い、オーガを一年生で追い払ったのは、恐らく、紅壱が初だ、と瑛らはテンションが高まる
だが、紅壱は、今はまだ、『組織』に注目されたくはなかったので、オーガを自分が追い払った事実は報告しないでほしい、と頼み込んだ
まさか、紅壱が、そんな事を言い出すとは思ってもいなかった瑛は戸惑ってしまう